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集広舍コラム

歴史時代小説を読む/第7回

雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第7回

書名『空白の桶狭間』
著者 加藤 廣
発売 新潮社
発行年月日  2009年3月25日
定価  ¥1600E

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日、織田信長が今川軍を尾張国桶狭間村(現・名古屋市緑区有松町)の丘稜地帯で破り、総大将今川義元の首まで取った戦いである。奇襲戦の代名詞であり、日本戦史に特筆される桶狭間の戦いであるが、この戦いには謎が多い。
通説では、足利氏の支族である今川氏の棟梁義元が、すでに権威は地に墜ちていた足利将軍家を補佐して四海統一を朝廷に奉せんがため上洛の途についたとされる。足利氏にとって代わろうとしたとする説もある。
信長など眼中にない義元は威風堂々、西上して来る。過大に見積もっても動員兵力わずか5千の信長が、過少に見ても3万にほど近い今川の大軍をなぜ打ち破ることができたのか。
信長は、迂回奇襲作戦で義元を倒したとされるが、今川軍には偵察部隊はいなかったのか。また、信長は義元が桶狭間で昼食すると、どうして知ったのか。
桶狭間の戦いは信長にとっては勿論のこと、秀吉にとっても大きな意味を持つ戦いであった。この戦いは一介の百姓の小倅が信長の尻馬に乗って天下人へと成り上がるきっかけとなった秀吉生涯の大転機なのである。
しかし、ではあのときの秀吉(24歳の藤吉郎)は桶狭間の戦いにどのような働きをしたのかというと、これまた不明なのである。
“太閤戦記”のデビュー戦として語られるのは「墨俣一夜城」であって、桶狭間の戦いではない。永禄9年(1566)8月、秀吉は信長の命を受け、敵地の墨俣に不可能といわれた城を築き、美濃の斎藤龍興の居城である稲葉山城攻略に武勲をたてる。桶狭間の戦いの6年後のことである。 
謎に満ちた桶狭間の戦いほど、さまざまな角度から議論される合戦はないが、戦国の謎といえば、彗星のように登場した秀吉の出自の問題も、その最たるものである。
物語は桶狭間の戦いの前年、永禄2年(1559)にはじまる。秀吉は、「新進の足軽頭・木下藤吉郎」である。
「尾張のウツケ」といわれていた信長が、海道一の弓取り今川義元を討って武名を上げることになるが、加藤廣の描く世界では、「ウツケなど、信長のマイナス部分を承知の上で仕えた。信長に仕える気になった理由は何よりも信長の若さにあった」とされる。
『武功夜話』によると、秀吉は20歳の時、尾張丹羽郡郡村の生駒屋敷によく滞留していた。この屋敷の娘がのちの信長の側室・吉乃である。
『武功夜話』は、愛知県江南市の旧家吉田家に伝わる家伝史料で、昭和34年(1959)の伊勢湾台風の際に見つかったとされている。研究家によってはこの文書の史料性について疑問を呈しているが、作者は『武功夜話』のエピソードを巧みに取り入れ、「秀吉は信長の側室吉乃と親しい。生駒屋敷は針売りの得意先のひとつであった」と造形している。
秀吉の出自が〈山の民〉と関わりがあることは三角寛(1903~71)の民俗学的論考があり、作者の独創ではない。
〈山の民〉は奈良平安時代の時の権力争いに敗れた一族が集団で山中に逃れ、そのまま山中に隠れ住むか、追討を恐れて山中を漂泊し続けた民びとであり、かつ、独特の情報網を持つ、一種の政治的秘密結社であった、とする従来からあった説に物語的創造性を加え、秀吉の出自の秘密に迫る筆運びは魅力的である。
永禄3年(1560)、今川軍の西上を前にして、今川氏の本拠・駿府に潜入した藤吉郎は、質量いずれにおいても、まともに戦っては織田に勝ち目は無い、と自らの目で、はっきりと彼我の実力の差を知る。
 一方、〈山の民〉の後裔である藤吉郎は信長には内密で、当時、〈山の民〉が密かに集合する場所であった尾張・駿河国境の三国山に入山し、〈山の民〉の長老たちに、尾張・駿河有事の際の信長支援を懇願する――。
人物の造形も冴えわたっている。
義元敗死の因として、織田軍が兵農分離の兵であったのに対し、今川軍は兵農分離していない雇い兵であったとする説があるが、信長像について、作者は、
「信長はいち早く《兵農分離政策をとった近代的武将》という後世の評価は、この意味でもやや割り引いて考えねばならない。尾張領内の産業が繊維に傾斜していたことは、女子労働への依存度が大きく、逆に男は比較的自由であった。よって信長は男を兵士として通年雇うことができた。尾張では、政策以前に〈兵(男)は農=米作〉から分離していた」とする。 今川義元の人物評も納得のいくものである。「義元は、表面は〈京雅び好み〉の柔和な男だが、謀略好みの武将である。為政者としての基礎的学問をしていない信長などは比べ物にもならない戦国一流の人物であるが、惜しむらくは武士としての基礎体力と体型に欠陥があった。極端な短足で太りすぎであった」としている。かくして、作者は藤吉郎に語らせる。

駿河に弱点があるとすれば、たった一つ。
今川義元自身よ。

藤吉郎は信長に、「一の谷の戦いこそ、今川の戦の参考にすべきもの」と進言する。一の谷の戦いは源氏が平家に仕掛けた見事な謀略であることは〈山の民〉の中にいた平家の落人から藤吉郎の父が聞き、伝えられた秘話であった。鵯越は馬をおろすにさして困難なところではなく、義経が戦い以前の謀略ですでに勝利していたことは〈山の民〉の自明のことであった。
籠城が駄目、野戦が駄目、間道の抜け駆けがだめ、となると何が残るのかと苦悶した信長は、藤吉郎という小男の策謀に託すしかないと諦め決断する。
信長の「降伏文書」が松平元康(のちの徳川家康)にもたらされる。織田方は、会見場所を桶狭間山としたいが如何であろうかと今川方に打診する。
戦いのその日、義元は突如、寄り道をする。いく先は桶狭間山。なんのための迂回か。今川軍の幕僚は何も知らされていなかった。全く作戦外の場所なのである。
義元が誰かと会うために出向いたのは明らかであり、その相手とは誰あろう信長と見て間違いない。
 雨中の桶狭間に、惨劇が起こる。合戦ではなかった。
〈山の民〉の集団と犬の群れが突如あらわれ、事を為すやかき消すように消えていく。首のない義元の無惨な遺体が残った――。

このストーリーを史料的な裏づけのない、小説家の勝手な創作に過ぎないと一笑に付すことは容易であろうが、それだけになおさら、読者は、「桶狭間の戦いに関しては今川方の記録らしい記録は今日まで一切無い。後に駿河を領有した家康の手ですべての真実が闇から闇へと葬られた疑惑が濃厚である」との作者の独白に耳を傾けるべきであろう。

本書は、秀吉を主人公として、謎の桶狭間の戦いとこれまた謎に満ちた秀吉の出自をふたつながら、組み合わせ、その歴史の真実に迫った歴史小説である。加藤廣には、「戦国3部作」と称せられる労作があるが、その第二弾『秀吉の枷』にて、秀吉と桶狭間の戦いについての“概略、エッセンス”というべきものをすでに書きあらわしている。本書は『秀吉の枷』での“概略”に、巧妙な策略の全貌と情報収集の細密を加味したものである。それにしても「空白の」という表現がすでにして刺戟的ではないか。
(平成21年5月10日 雨宮由希夫 記)

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Profile

雨宮由希夫

2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。
三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。

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