歴史時代小説を読む/第8回
雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第8回
書名『海王 上・下』
著者 宮本昌孝
発売 徳間書店
発行年月日 二〇〇九年一月三十一日
定価 各¥2200E
ページを開いたが最後、読みきらずにはおれない傑作である。しかも読み終えた後も主人公たちのイメージが心にこびりついてはなれない。
この『海王』という歴史・時代小説の魅力をどうしたら他人に伝えることができるだろうか。一体、何がそれほど魅力なのか。無論第一に、その小説の内容である。『海王』は青春の結実のような一個の男の行動を描いている。これがいちばん単純にして明瞭な魅力である。
歴史には〈原風景〉がある。作者はいかなる意味においても、その〈原風景〉から逃れることはできない。本能寺の変に関して言えば、明智光秀が1万3千の兵で包み込み、信長は森蘭丸以下百人足らずで応戦するが、所詮、衆寡敵せず、信長は本能寺で横死するのでなければならない。それが〈原風景〉であり、信長が生 きのびるのは歴史小説の〈原風景〉とは言えず、かぎりなく時代小説に近いものと言うほかない。
〈原風景〉とは万人が既知とする、いわば万人共通の常識といいかえることができようが、〈原風景〉を仔細に眺めると、そこには常識の一言で片付けることのできない〈別の風景〉が浮かび上がってくることがある。〈別の風景〉とは、観るものの視角によって見えてくる景色である。信長はあえなく本能寺で横死するが 、なぜ横死しなければならなかったのか、光秀はなぜ謀反に及んだか、光秀の謀反は復讐であったのか、それとも大いなる野望の出発であったのかの謎は〈原風景〉をただ眺めるばかりでは見えてこない。この謎を照らし出し、歴史の真実に近づこうとするのが歴史小説であり、かくして本能寺の変をめぐって、さまざるなる風景が描かれることになる。
歴史と人物を描くことが共通であるが、歴史小説と時代小説の区分はやはりある、といわねばならない。
歴史小説に歴史上の人物以外に架空の人物が登場することがあり、時代小説に歴史上の人物が登場することもあるが、歴史上の実在の人物のみで構成される歴史小説もあれば、架空の人物だけが登場する時代小説もある。大まかに言えば、歴史小説とは歴史小説の人物を主人公とし、時代小説とは架空の人物を主人公とし たものである。
区分があるといったが、ではその境はどこかと問うと、それは大変に難しい。明白な境などつけようもない小説がある。そこで、私は歴史・時代小説という用語を使うことにしている。
なぜ、冒頭にくどくどと、文学評論家風に、このような評論めいた文章をかかねばならないか。それは宮本昌孝の『海王』に魅せられ、気の昂りを抑えることができなかったからである。本書を純然たる歴史小説とみなすことに抵抗を感じる読者が多いのではないか。足利義輝の遺児・ハイワン(海王)が主人公である。ハイワンは義輝の最も愛した側室小侍従を母とし、ある宿命をもって生まれた。生きている以上は、おのれ一個の力をたよりにして生きていかねばならぬと覚悟し、この世の中にただ一人で立っている人間、武門の尊貴の血筋と天与の傑れた容貌を具える若者として造形されている。いうまでもなく架空の人物である。したがって、私の分類法によれば、まさに時代小説である。
明智光秀はハイワンを擁して、足利幕府再興の大義名分の下に、信長を斃したことを正当化しようと画策する。また秀吉と対立した家康も、義輝のもう一人の遺児・上杉兵庫(ハイワンの異母兄という造形)を信長後継、ひいては徳川政権樹立のために利用とするものとして描く。これは歴史の〈原風景〉とはいえず、作者 が想像をたくましくした独自の時代小説的な歴史的風景に過ぎないのであるが、読者は作者のつくり出す未知の出来事、ならびに、この未知を、既知の出来事と組み合わせ、その途次で出遭う意外な人物の生きざま、行動に魅せられ、のめりこみ、最後まで先の読めない物語についつい付き合ってしまうのである。読者の歴史的知識を巧妙にくすぐる、作者の恐るべき構想力に嫉妬してしまったことを告白しないわけに はいかない。
秀吉は中国大返し以来、旭日の勢いというべき連戦連勝であっという間に大版図を手に入れる。一方、家康は、秀吉が柴田勝家と駆け引きをしている間に、武田氏の版図であった甲斐.信濃を切り取り、本領である三河・遠江.駿河と併せて5カ国の太守にのし上がっていく。
私たち読者は歴史の帰結を知っているから、小牧・長久手の戦いの勝者が誰であるか、それは既知の事ではある。が、歴史の現在進行の真っ只中にいる秀吉をして「わが生涯の不覚である」と大いに嘆かせ、かつ秀吉や家康とかかわっていく歴史的存在としてのハイワンを描き出す作家の造形力に、なるほどさもありなんと感 服してしまう。まさに、作家の驚愕すべき造形力による奇想天外な時代小説的展開そのものであるにもかかわらず、折り目正しい正統的な歴史小説を読んでいるようなリアリティを感じてしまうのである。
作者は、信長から秀吉へと権力が移っていく時代を描くのに、足利義輝の忘れ形見を何故必要とし、そこにどんな意味を見出しているのか。この歴史・時代小説を創作する作者の意図は何処にあるのか。
天正10年(1582)6月2日、本能寺。信長は自ら弓を取り、槍をふるって奮戦する。その清々しいまでの武人としての最期の姿を間近に見たハイワンは、信長に、亡き父・足利義輝の最後の姿をだぶらせている。17年前の永禄8年(1565年)5月19日、剣豪将軍として名高き足利第13代将軍・義輝は松永弾正の姦計により斃れるが、清爽の人で剛毅の人でもあった義輝には将軍御所を襲ってきた三好・松永の軍兵に、たった一人で立ち向かい、あまたの名刀を取り替え取り替えては、数百人を切り倒したという伝説があるが、作者は当然ながら、このエピソ ードを踏まえてストリーを造形している。
「わが大業を継ぐか、海王」
滅びゆく信長が、「自分が目指した天下一統の大業と世の安寧は、もともと、そなたの父君・足利義輝公の夢であった」とハイワンに明かす本能寺の変のくだりは、まさに本書の主題が凝縮した圧巻中の圧巻であり、歴史・時代小説の名シーンのひとつにかぞえられるであろう。
神をもって自任し、天魔とまで畏怖された信長は、「百年の永きにわたって乱れつづける天下をひとつにするのは、神でなければ成しえぬ大業であった」と、自らの所業を自負して悔やむことなく、海王も信長の言葉を素直に信じるのである。
青春小説のヒーローのような清冽さ、そしてこれほど痛快な信長像を造形した歴史・時代小説は思い当たらない。
作者は信長の本性を善良な情感をもつものとしているが、そうした 信長は勿論のこと、老境に入ってからは信長以上に残酷なことを平然となす秀吉も慎重居士の仮面をかぶった家康も、「若き日は清々しい男たちであった」との表現はひとり粛然として義輝の遺志を継いだ信長をはじめとした戦国の三大英雄が皆、「義輝に魅せられた人間」であるとの造形があり、ストーリーを一筋に貫いている。
信長の口調を真似て言うのなら、「これは青春小説であるか」。
作者にとって、清々しく涼やかなまでの足利義輝はこのうえもなく、理想の武人なのであった。
志半ばで斃れた信長はもちろん、やがて天下人となる秀吉と家康の今後を見据えて、作者は独語している。
「人は権力を得れば得るほど、更なる権力を欲しがり際限がない」と。
本書は、天正5年(1577)10月、大和信貴山城に拠って信長に背いて抗した松永久秀の死にはじまり、小牧長久手の戦いが終わったところで、筆がおかれている。この時、歴史の〈原風景〉は秀吉は天下人に手が届くまでのところにきているし、家康にしてみれば、天下は遥かに遠のいてしまったと見える。
その後の秀吉と家康の戦いを、ハイワンがどうかかわって生きていくのか。
本書の続編を読みたいと思うのはひとり私のみではあるまい。
(平成21年5月23日 雨宮由希夫 記)
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雨宮由希夫
2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。














