歴史時代小説を読む/第10回
雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第10回
書名『闇の華たち』
著者名 乙川優三郎
発売 文藝春秋
発行年月日 2009年4月15日
定価 ¥1400E
幕末の桜田門外の変と昭和の二・二六事件には共通するものがある。 桜田門外の変から戊辰戦争までわずかに7年、二・二六事件から第二次世界大戦の勃発までもほぼ同様の歳月である。また、雪の日の凶行という点も似ているが、そもそも、この二つの事件は、その後の日本のあゆみに大きな転機をもたらした大事件であった。 本書『闇の華たち』に収められた短編「面影」は桜田門外の変前後と戊辰戦争前夜を交錯させた歴史小説で、あの時代の当事者である立見と半蔵という二人の佐倉藩士が登場する。
「昨日の焼討ちで、薩摩は兵を出した幕府や庄内を潰す理由をもらったようなものだ、もともと紛争の火種を作って挑発したのは薩摩の方だし、今度は本気で出てくるだろう。戦いにも大義名分がいるが、あれほど幕府を困らせた攘夷はどうなったのかな」
政権を返上した幕府が薩摩藩の挑発に痺れを切らし、遂に三田の薩摩藩邸を焼き討ちした翌日に、立見と半蔵は再会する。立見の言う「薩摩が今度は本気で出てくるだろう」の「今度」は7年前の桜田門外の変を踏まえている。
半蔵は立見とともに駆け抜けた怱劇の歳月を――桜田門外の変からはじまった混乱がとうとう幕府を倒し、多難な国事を無視して暴れてきた尊攘派が未来への舵を握ろうとしている――をふりかえる。
当時、40代の半ばで体も気も強かった二人は老中首座の重責にある主君の堀田正睦によく仕えた。
堀田正睦は安政3年(1856)7月、老中首座兼外国事務専任老中として日米修好通商条約の締結に奔走し、日本の開国に道を開いた政治家である。
徳川御三家の一翼を担う水戸藩の前藩主斉昭は攘夷派の旗頭で、国策としての開国に動いた井伊大老に立ちはだかる。一方、「蘭癖」のあだ名をもち幕府きっての西洋通と自負していた正睦は斉昭の詭弁というべき暴論に猛反論した。
過激な水戸尊攘派の動きを警戒していた佐倉藩主の堀田正睦は水戸街道に隠密を放って情報収集に努めたが、半蔵と立見の二人も君命で諜報にあたり水戸の動きを探索していた。
安政6年(1859)、斉昭は水戸城に永蟄居するよう命ぜられる。これに抗議して水戸の尊攘派の藩士と農民数千人が陸続として水戸街道を江戸に向かい気勢をあげる。幕府の予期しない行動に出たのである。
安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変は、勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断交し安政の大獄を起こすなどした大老井伊直弼の専断に対して、その直弼を除くべく、水戸・薩摩の尊攘派の志士が引き起こした事件である。
そもそも、この事件の発端は水戸藩士高橋多一郎、金子孫二郎らが薩摩藩有志と盟約し、東西呼応し幕政改革を断行しようとするものであった。井伊大老襲撃と同時に、薩摩藩は三千の兵を東上させ、大坂を経て京に入り、朝廷を守護する手筈であった。
江戸在勤の薩摩藩の尊攘派は国許の同志の意向を背景に、水戸藩急進派の高橋らに井伊大老暗殺計画の即時決行を迫っていた。たきつけたのはむしろ薩摩藩であったのだ。一説には、薩摩藩には、早くから井伊大老暗殺を企てる具体的な動きがあり、その中心人物は西郷隆盛であったとされる。
立見の語りは続く。
「たしかに大獄はまずかったが、井伊はあの情況ではよくやったよ、生きていれば今でも働ける男だった、水戸の高橋や金子にしても薩摩が裏切らなければ別の人生があったろう」
半蔵は反問する、「終わったことだ」と。
佐幕でも勤王でもなく、異国と共に栄えることのできる自由な国を理想とし、楽を捨てて国の行く手を見つめている剛直な男である立見が、
「いや、あれからはじまったのよ、だからどう終わるのか見届けたい」
と振り絞るのをみて、半蔵は7年前の事変に執着する立見の思いに気づく。
「あの頃」、井伊暗殺の準備をすすめている水戸の激派が水戸街道沿いに屯集を続けていた頃、半蔵らは佐倉藩士がよく通る宿駅・行徳で諜報活動をしていた。行徳の長閑な浜に舟東海(ふなとみ)という板茅葺きの釣宿があって、そこに美しい娘がいた。
半蔵が己の息子ほどに歳の離れた「あの青年」酒泉に再び会ったのは、事変の半年前のことだった。「見るからに上品で穏やかな青年で、身なりも骨柄もよく、とても攘夷を叫ぶ男には見えなかった」。青年を攘夷に染めぬいた教育や時代の波を恐ろしく感じる半蔵は青年に、薩摩藩の策謀に躍らされるな、目を覚ませなどと言うべきことは言ったが、分りあったとは思っていない。
桜田門外の変。たった17人の水戸浪士と1人の薩摩浪士に大老は殺されてしまった。水戸の激派はすべて変名を使った。酒泉好吉こと大関和七郎(おおぜきわしちろう)は井伊大老襲撃に加わり負傷し、翌年の7月、生き残った同志とともに斬首に処せられた歴史上の人物である。わずかに25年の生涯であった。
立見と別れた翌日、半蔵はかつての日々を思い出すかのように行徳を訪れ、「どこかで見たような顔」をした7,8歳ほどの少年に巡り会う。少年は酒泉と釣宿・舟東海の娘の間にできた子にちがいなかった。
「少年が海へ出てゆくのを見送りつつ、半蔵は、ふと女は男の最期を知っているだろうかと考え、知らずにいるほうが幸せかもしれないと思った。酒泉も少年の誕生を知らずに逝ったはずだし、大老暗殺にはじまった混乱が水戸の家族ばかりか子の未来をも脅かしていると知ったら、やはり浮かばれないだろう。それとも今でも義挙であったと胸を張るだろうか」
本編「面影」は“薩長側”ではなく“幕府側”の視点から、桜田門外の変から戊辰戦争前夜に至る激動の時期を、その渦中にあった“当事者”を歴史の中に据え、時勢時局と主人公の生身とを重ねるようにつむぎ描いた出色の歴史小説である。
作者が、今を生きる“当事者”たる主人公に託して吐露する幕末維新についての歴史観は味わい深い。
「これからよい時代がくるとも思えなかった。建前と工作、挑発と掃討を繰り返して残るは焦土と怨みだけだろう。そのうち王政とやらがはじまり、江戸も変わり果て、そこから何が生まれるのか。
変えようのない過去を悔やんでも始まらないと半蔵は思った。今の流れは止めようがないし、何を信じればよいのかわからなかった。
薩長が実現性のない空論で幕府を翻弄し、国を滅ぼしかねない暴挙を繰り返した挙句、武力で実権を手に入れようとしている。この10年の幕府の努力を批判して失政というなら、新政府は王政復古とともに本願の攘夷を実行して滅ぶしかない」
幕末維新の日本は凄まじい時代の変転のただ中にあり、その変化のスピードに日本全体が振りまわされ、ナショナリズムの畸形ともいえる“攘夷思想”を培養した。「新政府は本願の攘夷を実行して滅ぶしかない」との表現からは、“国粋主義”というナショナリズムの畸形を国是として滅んでいった“新政府の後裔”をみる思いがする。
(平成21年6月21日 雨宮由希夫 記)
雨宮由希夫
2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。














