Information

集広舍コラム

歴史時代小説を読む/第15回

雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第15回

書名『道誉と正成』
著者 安部龍太郎
発売 集英社
発行年月日  2009年8月10日
定価   ¥1700E

大塔宮護良親王(「おおとうのみやもりよししんのう」。「だいとうのみやもりながしんのう」とも)は類希な動乱の世、南北朝の抗争の中で謀殺された悲劇の皇子である。元弘の乱による後醍醐天皇の隠岐配流中、倒幕運動の旗頭として大きく貢献しながら、皇位簒奪を企てたとして、謀反の疑いで逮捕され、中先代の乱の際、敗走する足利直義の命令により鎌倉で殺された。
大塔宮の身柄がなぜ足利方に引き渡されたのかは南北朝史の謎であり、古来、諸説がある。作者がどのような謎解きをするのか興味を持って本書に臨んだ。
本書の主人公は書名に著すごとく、楠木正成と佐々木道誉のふたりである。方や「悪党」、方や「バサラ」の典型として、ともに時代が生んだ強烈な個性を持つ人物であった。
 早速、安部龍太郎の描く南北朝の世界をたずねたい。
大塔宮は楠木正成に、佐々木道誉を見方にせよと命じる。道誉は誇り高い男。利にも地位にもなびくまい。道誉を見方にするためには理を説くか、夢を語るか。正成はこの先も道誉と深く関わることになりそうな気がした。
大塔宮は琵琶湖と淀川の水運の利権を恩賞として道誉に与えるという令旨を発する。道誉は正成に説得されて天皇方に参じる決意を下す。
しかし、後醍醐天皇があまりにも性急な王政復古の政策を推進する建武の新政は道誉ら武士の期待を大きく裏切るものだった。天皇親政の世を築きたいという後醍醐天皇の理想は道誉も承知している。その強い信念があったからこそ、鎌倉幕府を倒すことができた。だが、「主上(後醍醐天皇)が権力をほしいままにし、天下万民の平安よりご自身の理想を実現することを優先させたこの3年間の新政は、眼を覆いたくなるほどひどいものだった」と道誉。
「大塔宮さまを征夷大将軍のままにおかれるべきだった。大塔宮さまが商業的武士団の統率を成し遂げ、天皇が朝廷の事を司ったなら、もう少し円滑な政権運営ができたはずである」正成はそう信じていたが、このままでは新政権は崩壊するという危機感は日増しにつのっている。
「もはや主上のもとでは自分の夢は実現できないと。この上は大塔宮を追い落とし、新政府の混乱をあおって今上の御世を終わらせるしかない」と思う道誉は大塔宮を陰謀の餌食にせんと画策する。足利直義が天皇にも見抜けないほど巧妙な大塔宮の令旨を偽造して、父子の離間を図り、宮を排除しようとしたのも、道誉の計略に従ってのことであった。
大塔宮と正成とは建武の新政以前から、山野にともに甘苦を嘗めた主従であり、その関係は尋常ではなかった。このことを熟知している道誉は、自分で仕組んでおきながら、正成への同情を捨てきれない自らに腹立たしさを覚える。
 道誉の敵役に尊氏の弟・直義を設定するとともに、正成と道誉の仲を「好敵手」「懐かしい友人」としている。このあたりの作者による人物造形は喰うか喰われるかの時代状況をよく表している。
建武2年(1335)7月、中先代の乱を境に、尊氏、新政に造反し、遂に建武の新政は崩壊する。11月、後醍醐天皇は尊氏・直義の足利兄弟追討の東征軍を編成する。史書によれば、足利兄弟討伐の東征軍の中に正成の名はない。が、本書で作者は正成が東征軍に参加したとして、物語を進展させている。作者の造形であることは明らかである。また、それ以上に重要なことは、この建武2年11月の段階ですでに、「正成は心の中ではもはや主上に見切りをつけている」と描写していることである。続けて、「一刻も早く大塔宮を探し出し父子の和解を成し遂げて政権に復帰させることだけに正成は望みをつないでいた」と作者は物語をつむいでいる。
史上の大塔宮は、この時点、すでにこの世にいない。しかし、安部の物語では「大塔宮は生きている」。
後醍醐天皇に見切りをつけた正成は、では、何のために戦うのか。正成は大塔宮の理想実現のために戦うのである。宮は生きていると正成は信じている。
宮に万一の事があれば、正成の夢も理想も潰えてしまう…………。
楠木正成はかつて天皇制イデオロギーのもと、忠臣の鏡である「大楠公」として崇められ、皇国史観が否定された戦後の一時期、唯物史観の名の下、南北朝史は正成抜きの歴史として語られた。戦前戦後を通じ、これまでにさまざまなる正成像があったが、今日、作者は本書において、楠木家の本貫を駿河の楠村(静岡市清水区大字楠)とし、幕府の内管領である長崎家に仕えて、伊勢の地頭に取り立てられ、鎌倉と伊勢をむすぶ海運業で巨万の富を蓄えた。楠木家のような商業的武断でもって自力で所領を守ろうとするものを幕府は「悪党」と呼んだ。幕府をして「悪党」と呼ばせた、その力量を大塔宮に見込まれて、正成は天皇方となり、諸国の見方に決起を促した、として歴史に迫っている。
佐々木道誉は武家政権を樹立することを躊躇する尊氏に積極的な反旗を勧め室町幕府の創設に大きな貢献をした人物である。南北朝の政治史においては対照的な生き方をした人物であるが、作者は「正成と道誉」とふたり併称し、しかも大塔宮を介して物語らせている。作者の意図は奈辺にありや。
正成の「道誉」観は、「世人は勝手気ままな放埒ぶれに眉をひそめるが、冷静沈着な男。坂東武者のように向こう見ずなことはしない。“バサラ”というが、それは新政に対する不満をはらすために、己の存在を誇示しようと、わざと数奇な行動に走っているのだ。敵に回せば厄介この上ない相手」、というものである。一方、道誉の「正成」観は、「二つ年上の正成にかすかな嫉妬をおぼえる。男ぶりのよさ、正成の体から発する溌剌とした生命力に圧倒される想い。風を得たなら、天にのぼる龍となろう」である。
 湊川の戦を前にしての正成にとって最後の評定が、二条富小路の内裏で開かれた。主上の比叡山への臨幸、尊氏との和議を計る以外に窮地を乗り切る方法はないと言上する正成に対し、後醍醐天皇の覚えめでたい坊門清忠が、「これまでたびたび少人数で大軍を打ち破ることができたのは、武略のゆえやあらしまへん。主上のご聖運が天にかなっていたからです」と反論して朝議が決す。
このことを知った道誉に、作者は、

(惜しい男だ。天にのぼる龍であったものを)
後醍醐天皇という異形の帝を奉じたために、清らかな志が無に帰そうとしている。もし大塔宮さえ健在であったなら、正成も日本という国もこれほどひどいことにはならなかったはずだった。

と語らせている。坊門清忠の発言は、建武の中興の成功について、正成や、尊氏、道誉ら武士の功績を一切認めていないのである。大塔宮の政権構想とは将軍が実質的に軍事指揮権を得る体制であったことは疑いない。
鬼才・安部龍太郎が一冊の著作で南北朝期を描くのは本書をもって嚆矢とするが、無名時代に「師直の恋」(昭和63年12月)を書き、『血の日本史』(平成2年12月刊)で護良親王(大塔宮)、高師直、足利直義らを主人公とした短編の佳品を多くものにしている。
 『彷徨える帝』、『信長燃ゆ』、『関ヶ原連判状』などで安部が自らの小説のテーマとしているのはわが国の二元政治のありよう――この国を治めるのは朝廷か、それとも武家かという対立――を通じて政治や権力の本質を問うことであり、本書も当然ながら、そのテーマを主題としている。
建武の新政は僅か3年で幕が下りる。この物語の結論は次なる言葉であらわである。
「主上のご親政ではこの国は治められぬ」
「この経験は決して無駄ではない。この国が一つにまとまるためにも、どのような形で治めるかを探るためにも、避けては通れない苦難だった。」
(平成21年9月6日  雨宮由希夫 記)

*書籍紹介の中での「定価」はコラム著者によるもので、実際の価格には消費税が含まれる場合があります。ご購入の際はご確認下さいますようよろしくお願いいたします。

Profile

雨宮由希夫

2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。
三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。

PickUp