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集広舍コラム

歴史時代小説を読む/第20回

雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第20回

書 名  『いさご波』
著者名   安住洋子
発 売 新潮社
発行年月日 2009年10月20日
定 価   本体1500円(税別)

 「沙(いさご)の波」「暁(あかとき)の波」「ささら波」「夕彩(ゆうあ や)の波」「澪(みお)の波」、全5編の短編集である。「ささら波」を除き 4編は、御家断絶に見舞われた赤穂浅野家と御家騒動で分断された九鬼家に仕 える下級武士の、ひたむきに生きる姿が武士の矜持とともに描かれている。
 書名の由来となった巻頭の「沙(いさご)の波」の主人公は藤野幸右衛門、 36歳の前橋藩士。元赤穂藩士の父を持つ幸右衛門は浪人暮らしを経て22歳 で前橋藩に抱えられた。
ある日、幸右衛門は上意討ちの討ち手になるように申し渡される。相手は家老 職の一人、掛井半之丞(かけいはんのじょう)。当時組頭であった掛井は仕官 を推挙してくれた恩人であった。無事、勤めを果たせば加増し、150石を保 障すると申し渡されるが、恩義ある家老を上意討ちにしなければならない苦境 の中で、幸右衛門は夢を見る。
  〈まだ明けやらぬ瀬戸内の滑らかな海。大避(おおさけ)神社の境内から 坂越浦(さこしうら)が一望できる。坂越の海はよく夢に現れた。夢の中で若 い母と幼い幸右衛門が手をとりあって静かに坂越浦を眺めている。〉
坂越は江戸時代、赤穂の塩を運ぶ拠点として栄えた港町。坂越浦は瀬戸内海に 開けた天然の良港であり、大避神社は海上渡御の船祭りで有名である。
いつもの夢に、父が入り込んでくる。夢の中の光景が脈絡もなく変り、やがて 夢から覚めることは誰にも経験があろう。作家の筆は絶妙で、主人公を現実に 引き戻す。
  〈瀬戸内を見て、父が低く呟いた。
  「沙の波とは、こういう海をいうのであろうな。穏やかなものだ」
  ——あの海は、赤穂藩が改易になり、江戸に発つ日に見たものだ。〉
 仕官がかなって以来の14年間は心やすまる平穏な日々、すなわち、「沙の 波」のような日々であったが、上意討ちの藩命が幸右衛門の沙の波のような 日々を奪い取る。上意に叛けば禄を解かれ再び浪々の身となり、虎太郎13 歳、壮亮(そうすけ)11歳、雪乃9歳、3人の子供達が路頭に迷うのは必定 である。現実に引き戻された幸右衛門は仕官がかなう2年ほど前に他界した父 を想う。父上ならばいかがいたすかと。
 藤野家は代々赤穂藩に仕えていたが、幸右衛門5歳の元禄14年、刃傷事件 が生じ、赤穂藩は改易となる。
父はどれほどの苦難に耐えたか。「討入りの同士に加われば、妻子にまで罪が 及ぶとお考えになられた。そなたの寝顔を飽きもせず、じっと眺めておられ た」と幸右衛門は母より聞いていた。父は日々、身を粉にして働き詰め、何一 つ報われることなく、病に倒れたが、それとても、「世間を揺るがした赤穂浪 士の討入りの折の屈辱感に比べれば辛くはない」と、父は母に話していたとい う。また母は、「討入りに参加された方が、もしかすると楽であったのではな いかとさえ思います」とも語る。
〈恩義のある人を葬り、己は加増を得て生き長らえる。そのようなことをやっ てのける息子を父は何と思われるであろう。
——父上、生きていくとは難儀なことですな。〉
 ここでの「息子」と「父」は、「幸右衛門自身」と「幸右衛門の父」、「虎 太郎、壮亮ら」と「父たる幸右衛門」の二つの意味があろう。幸右衛門は父と しての自らの生き方を子らに示すべく悩んだ末に、人としてとるべき道を決め てゆく。果たして、幸右衛門がとった道はどのような道であるのか———?!
「暁の波」「夕彩の波」「澪の波」の3篇は、九鬼水軍で有名な九鬼家の分断 の悲劇と転変を背景とした物語である。
鳥羽(三重県鳥羽市鳥羽)の地を本拠地とし、戦乱の世を生きぬいた戦国武 将・九鬼嘉隆(くき よしたか)は船に鉄を貼った燃えない鉄甲船を建造し て、石山本願寺側についた毛利水軍600隻を打ち破り、信長の天下布武に貢 献し、「文禄の役」の朝鮮出兵では秀吉水軍の大船団を率いた。慶長5年(1 600)、関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、子の守隆(もりたか) は東軍に与した。東軍の勝利後、守隆は家康に父の助命を嘆願し受け入れられ たが、嘉隆は自害してしまう。守隆は鳥羽藩の初代藩主として5万6千石を領 するが、守隆は後継者選定に失敗し、家督争いが起きてしまう。紆余曲折はあ るが、結論をいえば、守隆の5男・久隆(ひさかた)が摂津国三田(さんだ) 藩3万6千石に、3男・隆季(たかすえ)が丹波国綾部藩2万石に移封され、 九鬼氏は分断された上に、累代の所領であり、九鬼水軍の本拠地である鳥羽を 失ってしまう。
九鬼家の御家騒動を、作家は、「幕府の裁定は巧妙で、三田には石高は高いが 城主格は許さず、綾部には石高は低くても城を持つことを許している。互いが 自然に反目しあうように筋書きされ、九鬼家は二分し、巨大な水軍力も完全に 奪われてしまった」と描いている。
「暁(あかとき)の波」の主人公は神崎幸四郎。幸四郎は幕府の裁定後、九鬼 久隆について直ちに摂津三田に赴くが、幸四郎の友人・小野木柾頼はなぜか鳥 羽に留まり、二人の若者と斬りあい、死んでしまう。小野木の妻と女児を残さ れた。小野木の最期に疑問を持ち、親友の妻・佐和を案じていた幸四郎は、摂 津三田からはるばる鳥羽を訪れる。
鳥羽の海は朝が格別に美しい。九鬼水軍にゆかりの深い鳥羽の海を3年ぶりに 見て、
〈あゝ、鳥羽の海だ。〉
と幸四郎は懐かしがる。「暁の波」の意味するところは明らかであろう。
九鬼義隆の首塚がある答志島へ行き、小野木の死の真相を探った幸四郎は佐和 とも再会する。佐和はその日、その日を懸命に生きていた。
幸四郎と佐和との仲は、これからどうなるのか………。
「夕彩の波」は摂津三田、「澪の波」は丹後綾部が舞台であり、いずれも、鳥 羽の海を知らない世代の、九鬼家の下級武士がくりひろげる味わい深い物語 で、ひたむきに生きる彼らの姿と主人公をささえる家族の絆が描かれている。
歴史・時代小説にとって最も肝要なことは、実在した歴史をいかに切り取るか ということではないだろうか。方法論としての歴史の切り取り方は多様なもの があるが、ここでいう〈切り取り〉とは作家の視点、作家の眼差しをいう。
赤穂浪士の討入りそのものを扱った作品を読み私たちは感動させられる。赤穂 浪士本人が遭遇したであろう苦難に人々は涙し、討入りを果たした彼らの栄光 に人々は拍手喝采するのであるが、赤穂浪士の次世代、次々世代の苦悩のある ものは、直接に関与した世代が味わった苦悩以上の苦悩であったのではない か。九鬼家の御家騒動も同断である。御家騒動でいがみ合った世代ではない、 彼らの後代にも九鬼水軍としての矜持は語り継がれたのである。
歴史に名を残した当事者ではない、いってみれば、ありふれた、どこにでもい たであろう名も無き人々——名は伝わっていないが、確実に存在した人々—— が生き、歴史を引き継いできたことを、安住洋子という作家は教えてくれる。
得がたい作家である。
安住洋子(あずみようこ)は1958年、兵庫県尼崎市生まれ。1999年、 41歳で小説家デビューを飾った作品、市井物の時代小説「しずり雪」で第三 回長塚節文学賞短編小説部門大賞を受賞している。
(平成21年11月15日  雨宮由希夫 記)

Profile

雨宮由希夫

2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。
三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。

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