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集広舍コラム

歴史時代小説を読む/第22回

雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第22回

書   名  『葛野盛衰記』
著   者  森谷明子
発 売  講談社
発行年月日  2009年10月27日
定   価  本体1900円(税別)

日本の古代宮都は平城京から長岡京、長岡京から平安京へと、桓武天皇(737〜806)の時代に、北へ北へと遷都された。中国的な皇帝像を理想としたとされる桓武天皇による2度の遷都造営には巨大な国費と厖大な労働力が必要とされた。
長岡京はかつて“幻の都”といわれ、その実在を疑う向きもあったが、昭和30年からの十数回にわたる発掘調査で、平安京に優るとも劣らない都城であったことが判明している。なぜ長岡京はわずか10年の束の間の都でしかなかったのか。
今日、京都市の東西を、東の鴨川と西の桂川の、二つの川が流れている。賀茂川ともいう鴨川はふるくから鴨川であるが、桂川に関しては、京都盆地流入以南の桂川を、古代人は葛野川(かどのがわ)と呼んでいた。長岡京は葛野川の下流の乙訓(おとくに)郡長岡村に、平安京は葛野川の上流の葛野郡宇太村にそれぞれ造営された。
古代、「葛野」と呼ばれていた桂川流域の平野は京都盆地最古の、しかも最高の豊穣の地であった。本書『葛野盛衰記』の「葛野」は“古代京都”の意味である。
本書は二部構成である。第一部の主人公は桓武天皇の寵妃・多治比真宗(たじ ひのまむね)であり、第二部のそれは桓武天皇の末裔たる平家一門の異端児・ 平頼盛(よりもり)である、として読んで差し支えないであろう。
第一部 「葛野川」。桓武天皇の政治改革のブレーンは藤原氏であったが、廟 堂には、中臣、大伴、佐伯、紀、石川、多治比(たじひ)など古代の名族が名 を列ねていた。
多治比真宗は乙訓の多治比一族が桓武天皇の後宮に送り込んだ女である。「多 治比の夫人(ぶにん)」として帝に侍った真宗は多くの親王、内親王を産む が、葛原(かずらわら)親王は桓武平氏の祖となる人物である。
真宗には、双子でただ一人の兄の耀(あかる)がいる。一族の跡取りとして出 生し、乙訓の多治比一族を統括しなければならない立場にある耀だが葛野川の 上流で、草深い村の田舎娘に出会い血迷ってしまう。一族の者たちは、「葛野 の地へは行くな」と戒めるが、耀はしかし、毎日のように葛野川をさかのぼっ て行く。他族の娘に名を明かせと迫ることは古代では求婚を意味する。耀の身 の焦がれるような求愛に対し、少女はついに名を明かさない。桓武天皇の従者 の藤原種継(たねつぐ)は、少女が秦氏の娘で讃良君(さわらのきみ)〔のち に賀茂の大神の巫女〕という名であることを知っていた。種継に邪推した耀は 種継の胸板を貫いて刺殺し、闇に逃走する。家を捨て、一族とは縁を切ること を選んだ耀は秦氏の土地・葛野で行方をくらます…………。
藤原種継(737〜785)は長岡京遷都の責任者で、工事現場で射殺される 人物である。史実では、延暦4年9月、種継は遷都に不満を持っていた旧都寧 楽(なら)の豪族・大伴継人(つぐひと)らに箭を射掛けられて殺害され、暗 殺計画の首謀者のひとりとされた桓武天皇の弟・早良(さわら)親王は廃太子 の上、乙訓寺に幽閉され、非業の死を遂げる。長岡京の造営中に、水害が生 じ、夫人、皇太后、皇后の死が相次ぐ。亀卜したところ、早良親王の怨霊のな す業と出る。桓武天皇は穢れを避けるために廃都を決定する。
 本書のストーリー展開は味わい深い。秦氏という帰化民族が山背国(やまし ろのくに)への遷都に切り離しがたく結びついていることが、耀と讃良君との 報われない恋として物語られている。作家・森谷明子(もりやあきこ)の古代 史への並々ならない造詣の深さが裏打ちされている。
桓武天皇は山背国に深い縁故を持っていた。母・高野新笠(たかののにいが さ)は帰化氏族の出であり、母方の祖母は山背国乙訓郡大枝村の出身であっ た。種継は藤原氏ながら、その母は山背国に基盤を持つ渡来人系秦氏の娘で あった。
平安京内裏の建物はもと秦河勝(はたのかわかつ)の館であるといわれてい る。土木や工芸の技術に優れた秦氏は中央政界での活躍は地味だが、本拠地と した葛野の地にあって土地の部族と交じり合い根強い力を持っていたのである。  平城上皇(桓武の子)、および上皇が寵愛する藤原薬子(くすこ)とその兄 仲成(兄妹の父は種継)らによるクーデター事件である大同5年(810)の 薬子の変の後、同じく桓武の子である葛原親王は「われは皇族という身分を離 れたい。この都はきらいです。こんな魔物の棲み処は」と語る。この親王は真 宗夫人の希望の星であり、多治比一族は、葛原親王の血筋から、いずれ帝位に つく者があらわれることを望んでいたが、親王は帝位につくよりも別の道を選 ぶ。臣籍に降りた親王は姓を「平」と称する。親王の御子孫が「平らかに、い や栄えんこと」が姓にこめられている。
「六波羅」は「森谷本・平家物語」として読めよう。
「森谷本」の主役は清盛ではなく、清盛の異母弟・平頼盛(よりもり)(11 32〜1186)である。六波羅の池殿を居館としたので池殿・池大納言と呼 ばれた頼盛は忠盛の正室である母・池禅尼(いけのぜんに)の力を背景に、早 くから異母兄清盛と対抗関係にあり、平家一門中、異端の存在であって、一門 の都落ちのときには途中から都に引き返している。
源頼朝を助命したことで知られる池禅尼は、本名を修理大夫藤原宗兼の娘・宗 子といい、この物語では「都人の姫」を所望した刑部卿平忠盛に嫁ぐ。
平家興隆の基礎を築いた正盛は長男忠盛の嫁の宗子に、語り聞かせる。
「我が家は平安の都を開かれた桓武の帝にはじまる。その御子に葛原親王あ り。平の姓を賜った。じゃが、洛中にはわれらが好きなように館を構える場所 がない。賀茂川の東ならばと。」
「賀茂川の東」は都でない、とする作家の造形がユニークである。第一部にも 「鴨川は都の東の境」という表現があった。平家一門の居館は甍を並べて六波 羅にあったが、六波羅は都の内にはない、としているのである。そうであって こそ、「『都を捨て、新しい都を造る』それが父祖の教えじゃ。この地には魔 がいるからな」との忠盛の言葉が生きてくる。
頼盛には家盛という同母兄がいたが、家盛は院の熊野御幸の随行を命じられ、 道中にて不慮の死を遂げてしまう。
「清盛を、思いのままに生きさせよ。家盛には、わび……」その一言を残し て、忠盛は世を去った。宗子は思う、「わび」の後に忠盛は何と続けたかった のだろうかと。家盛の死の真相を知るべく、清盛と対峙する池禅尼の疑念が第 二部を貫いていて、読者は目が離せない。
清盛が白河法皇の落胤であることに関する作家の造形はこれまた味わい深い。 「清盛は忠盛の子ではなく、言うをはばかる貴種であるとは、公然とささやか れる秘密であった。都のうちには、種々の怨霊が蠢いていた。洛外の六波羅に 来て、そういった魔から遠ざかったと、宗子は思っていたのに。」
「頼盛は幼い頃から兄は自分とは違うのだと教え込まれた。噂が真実だとすれ ば、兄は後白河院とも濃い血がつながっていることになる。そう思って眺めれ ば、福々しい頬、広い額、意外に大きな丸い目、二人の容貌は似通って見えて くる。」
平安朝とは延暦13年(794)10月、桓武天皇の平安遷都にはじまり、文 治元年(1185)の平氏滅亡にいたる約400年の間、政治の中心が京都の 朝廷にあった時期を指す。本書は「平安朝」の全体そのものを大枠として取り 上げながら数百年の時空の下の人間模様をこまやかに紡ぎ上げた稀有な歴史小 説である。
京都千年の歴史と文化の根底に脈々と息づいているものはなんといっても「平 安京」であろう。そこには、天皇家や藤原氏、平家など権門の家による怨霊を 生み続ける凄まじい権力闘争があったが、歴史の表舞台にほとんど姿を見せな いまま、血のつながりとして今に繋がっている中流貴族——第一部の多治比 氏、第二部の頼盛系平氏——があったことを教えてくれる。
(平成21年11月29日  雨宮由希夫 記)

Profile

雨宮由希夫

2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。
三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。

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