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集広舍コラム

歴史時代小説を読む/第25回

雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第25回

書 名   『維新  岩倉具視外伝』
著 者   堀 和久
発行所   幻戯書房
発行年月日 2010年2月1日
定 価   本体1,900円+税

明治維新は鎌倉以来連綿と続いた武家社会に終止符を打った政治運動であるが、 それとともに、平安以来の朝廷の伝統である摂関制度を終焉させた変革であっ た。しかも、信じ難いことに、和宮降嫁で失脚し、昨日、赦免されたばかりの岩 倉具視(1825〜83)が翌日には衣冠束帯に身を正してあらわれ、幕府と朝 廷の政治組織の解体を上奏していることである。
岩倉具視は下級の公家であった。公家社会は信じがたいほどの閉鎖社会であり、 どれほど才能才覚があっても、下級の公家が出世する道は限られていたが、にも かかわらず、なぜ岩倉は閉鎖社会から躍り出て、公武の旧政治体制の廃止を宣言 するという離れ技をやってのけることが出来たのか。
 本書は副題に「岩倉具視外伝」とあるように、主人公である高家・大沢基保 (もとやす)の回想を通じて、様々な抗争、事件、策謀が入り乱れ、しかも欧米 列強の思惑も絡んで同時進行した幕末維新という時代と、その時代を生きた岩倉 具視を語るという手法をとった歴史小説である。
明治16年(1883)7月20日、岩倉具視は逝去するが、作家は、岩倉逝去の この日の朝の岩倉邸の様子を、「あたりが静まりかえっている早朝。東京丸の内 の、皇居が仰ぎ見られる一角。盛夏とはいえ、一帯に黎明特有の冷気がたちこめ ている」とスケッチすることから物語をスタートさせている。
その岩倉邸の門前に佇む一人の青年が、「ぜひ会いたい」と具視当人が乱れた筆 致で書いた一通の書簡を持った大沢基保である。急迫の事態と察知した基保は、 遠州堀江(静岡県浜松市)の浜名湖畔の居住地から取るものもとりあえず岩倉邸 に駆けつけたのであった。しかし、岩倉家の門番は貧しい身なりの基保をすげな く門前払いにする。
門番の仕打ちに怒るどころか基保は「御一新後のこの10年余で、何もかにもが 変ってしまったのだ」と世の激変に思いを致す。岩倉具視は驚異の出世街道をひ た走るが、一方、高家であった大沢家は急落し、基保は過去の栄光を捨て、浜名 湖畔で一介の漁夫として自給自足に近い暮らしを送っているのだった。
江戸時代の高家とは、元禄赤穂事件の吉良上野介のごとく、大大名並みの高い官 位を持つ武家であり、公家の職種も兼ね、朝廷と幕府の間を取り次ぐ特殊な階級 であった。幕末には二十六家あったが、大沢家は藤原氏の血脈に連なる名門であ ることから家康以来、朝廷よりの将軍宣下などの儀礼を専ら司った。
基保の回想は文久元年(1861)10月の皇女和宮降嫁にはじまる。
「牛に牽かれた和宮の豪奢な乗り物に最も接近したあと、二騎の公卿が並んで蹄 の音を響かせていた。ひとりが具視で、具視は降嫁実現に尽くした功で右近衛権 少将に昇進し、公家側の警護責任者に抜擢された。もう一騎こそは、まだ紅顔の 美少年という顔貌であるが、筋骨たくましい高家の大沢基保である」。基保が 「幕府側付添の重責を仰せつかったのは、将軍家茂の強い意向」であった。

        

和宮降嫁の交換条件に攘夷実行を幕府が約束したことが、幕府の衰退を早め、命取 りの大きな原因となるのだが、基保はそうしたことには無頓着で、歳の離れた田 舎娘・ミチと一生を共にすることを夢見る青年として造形されている。
また、基保は、しばらく、岩倉の辞官落飾と行方不明を知らなかった。孝明天皇 の意に反して和宮降嫁を進めたという理由で、岩倉は姦物と蔑まれ朝廷から追放 された。公武合体がなされた文久元年の夏、京都では天誅テロがはじまり、岩倉 は秋には洛北・岩倉村を潜伏の地として息をひそめざるを得なかったとは、基保 が後年、聞き知った当時の政情の荒筋である。
文久3年(1863)2月13日、将軍家茂の上洛行列が江戸を出発する。実に 約230年ぶりの出来事であるという将軍の上洛に、基保は随行した。3月11 日、孝明天皇の賀茂社行幸。家茂は公家の後尾につくという屈辱の行列を強いら れるを目の当たりにして、将軍の騎馬に従う基保は憤懣やるかたない。
 第二次長州征伐のために再上洛した家茂は慶応2年(1866)7月20日、 大坂城で死し、12月25日、孝明天皇が崩御する。「基保は、朝幕の最高位を 占める両者の連続急死に、「現今は一寸先は闇の時代、将軍が没し、天皇が隠れ る世である。曖昧を装って時流を乗り切るしかない」と茫然自失の体であった。
京や江戸ではいざ知らず、地方では、暗殺の噂も流れた。
「腐敗と無気力の幕府を倒し、天朝も一新、その天朝によって世を転換する、維 新回天の事業を急がねばならせないのじゃ」と、再会を果たした蟄居中の岩倉 は“王政復古”を熱く語る。「二股膏薬、蝙蝠野郎と陰口され、時として険悪だ と評せられる、岩倉具視には別の表情があった。」岩倉の魅力にひきつけられた 基保は「実のところ、具視卿が描く“事”をしっかり飲み込めていないが、た だ、具視卿のお役に立ちたいという思い」にかられる。慶応3年(1867)夏 より急速に広まったお陰踊り(ええじゃないか)は具視が隠棲地・岩倉の山一つ 向こうの村の八瀬の赦免地踊りにヒントを得たものであった、とは作家の造形で あろう。岩倉の内命を受け、基保はごく内密の闇の仕事に手を染める。三河、尾 張地区のお陰踊りの仕掛け人は基保とミチのコンビであった。
基保の回想はいよいよ佳境に入る。「慶応3年10月になると、政局は急変の様 相を呈した。底に沈んだままの土砂が蠢きだす、不気味な予兆をあらわにする地 震直前の大海のような……」と作家は当時の歴史背景を描写している。
10月3日、慶喜は幕政返上の使者として高家筆頭大沢基寿に上京を命ずる。基 寿は基保の異母兄である。6日、軍艦で大坂に着き、夕方、将軍慶喜が待つ京の 二条城に入った基寿・基保の兄弟は城内に渦巻く殺気と混沌に身震いする。兄弟 が二条城高家部屋で無為の時を過ごすうちに、運命の日の10月14日、慶喜は 誰に謀ることもなく、朝廷に大政奉還を上表する。
徳川家臣としての高家・大沢兄弟は劇的な場面に居合わせてすべてを目撃したわ けではなく、御所や二条城、大坂城でくりひろげられた熾烈な騒動を直接には知 らないのだが、大政奉還からいわゆる王政復古のクーデターを経て戊辰戦争に至 るくだりは生々しい。
慶応4年(1868)正月にはじまる戊辰戦争。大沢兄弟は幕臣としては重大な 裏切りであると知りつつ、新政府軍の東征に協力し、岩倉の援けもあって、維新 のドサクサに兄・基寿は堀江藩を立藩している。
基保は徳川政権のあまりにもあっけない崩壊が信じられない。「大政奉還は暴 挙」とあの当時、基保は確信していたが、幕府の惨めなほどの崩壊は慶喜ひとり の責任ではあるまいとも思うのだ…………。
本書の成功の因は大沢基保という高家を主人公に配した構図の妙であろう。「幕 臣であって、そうとも言えず、朝臣であって、そうとも断じえない鵺のような存 在の高家」が幕末維新の際にどのような役割を果たしたのか。基保という青年高 家が岩倉具視と和宮降嫁を機にして知り合い、公武双方に足がかりを持ち、「こ のような鵺に将来はあるのか」と必死に生きていく姿が爽やかでありかつ逞し い。
意外にも同い年と知るや、基保に親密の情を示し、基保の近侍を殊の外、喜んだ 14代将軍家茂。9歳年下の将軍家茂を将軍とは思わずに軽視し、立て板の水の 雄弁ではあるが、誠意がなく、実行力もない「最後の将軍」慶喜。陰険な策謀家 という評判の高いが、実際は多弁で、よく笑う岩倉具視。作家の描く人物造形も 納得のいくものであった。
  本書の冒頭の、基保が岩倉家の門番に門前払いされるシーンに、立ち返る。
 基保は万難を排して、遺体と対面すべきであったかと自問し、悩んだ挙句に自 答する、そのことばが味わい深い。

「生きて会えばこそ、何らかの意味はあったにせよ、死別してしまえば、思い出 だけに留めておくのが正しいのではあるまいか」

死別してしまえば、思い出だけに留めておきたい、そのような人こそ、読者であ る我々の人生においても、かけがえのない人ではなかろうか。
(平成22年2月4日  雨宮由希夫 記)

Profile

雨宮由希夫

2006年まで三省堂書店に勤める。神田本店(現・神保町本店)にては新刊書・人文書の仕入れ販売に従事、かつ、作家や将棋棋士などのサイン会を盛んに催した。北方謙三、浅田次郎、柳美里、塚本青史、谷川浩司、羽生善治の各氏とも交流が深い。特に、柳美里さんサイン会中止事件の際の毅然とした行動はあまねく知られ、「90年代の神保町の名物店長」といわれている。
三省堂書店退社後は大学出版社勤務の傍ら、主に歴史時代小説の書評などの執筆を続けている。中国古代・近代をふくめ、源平から幕末維新まではむろんのこと、明治大正期までを背景とした歴史時代小説 の中に、歴史の真実 とそこに生きた人々の息吹きを嗅ぎとることを評論の要とする手法に特色がある。

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