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    <title>集広舍コラム</title>
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    <description>コラム</description>
    <language>ja</language>
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    <category>Weblog</category>
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      <title>集広舍コラム</title>
      <link>http://www.shukousha.com/column/</link>
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    <item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２５回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_025.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２５回</h3>
<div class="leftbox">
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4901998536" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書　名　　　『維新　　岩倉具視外伝』<br />
著　者　　　堀　和久<br />
発行所　　　幻戯書房<br />
発行年月日　２０１０年２月１日<br />
定　価　　　本体１，９００円＋税</p>

<p>明治維新は鎌倉以来連綿と続いた武家社会に終止符を打った政治運動であるが、
それとともに、平安以来の朝廷の伝統である摂関制度を終焉させた変革であっ
た。しかも、信じ難いことに、和宮降嫁で失脚し、昨日、赦免されたばかりの岩
倉具視（１８２５〜８３）が翌日には衣冠束帯に身を正してあらわれ、幕府と朝
廷の政治組織の解体を上奏していることである。<br />
岩倉具視は下級の公家であった。公家社会は信じがたいほどの閉鎖社会であり、
どれほど才能才覚があっても、下級の公家が出世する道は限られていたが、にも
かかわらず、なぜ岩倉は閉鎖社会から躍り出て、公武の旧政治体制の廃止を宣言
するという離れ技をやってのけることが出来たのか。<br />
　本書は副題に「岩倉具視外伝」とあるように、主人公である高家・大沢基保
（もとやす）の回想を通じて、様々な抗争、事件、策謀が入り乱れ、しかも欧米
列強の思惑も絡んで同時進行した幕末維新という時代と、その時代を生きた岩倉
具視を語るという手法をとった歴史小説である。<br />
明治１６年(１８８３)７月２０日、岩倉具視は逝去するが、作家は、岩倉逝去の
この日の朝の岩倉邸の様子を、「あたりが静まりかえっている早朝。東京丸の内
の、皇居が仰ぎ見られる一角。盛夏とはいえ、一帯に黎明特有の冷気がたちこめ
ている」とスケッチすることから物語をスタートさせている。<br />
その岩倉邸の門前に佇む一人の青年が、「ぜひ会いたい」と具視当人が乱れた筆
致で書いた一通の書簡を持った大沢基保である。急迫の事態と察知した基保は、
遠州堀江（静岡県浜松市）の浜名湖畔の居住地から取るものもとりあえず岩倉邸
に駆けつけたのであった。しかし、岩倉家の門番は貧しい身なりの基保をすげな
く門前払いにする。<br />
門番の仕打ちに怒るどころか基保は「御一新後のこの１０年余で、何もかにもが
変ってしまったのだ」と世の激変に思いを致す。岩倉具視は驚異の出世街道をひ
た走るが、一方、高家であった大沢家は急落し、基保は過去の栄光を捨て、浜名
湖畔で一介の漁夫として自給自足に近い暮らしを送っているのだった。<br />
江戸時代の高家とは、元禄赤穂事件の吉良上野介のごとく、大大名並みの高い官
位を持つ武家であり、公家の職種も兼ね、朝廷と幕府の間を取り次ぐ特殊な階級
であった。幕末には二十六家あったが、大沢家は藤原氏の血脈に連なる名門であ
ることから家康以来、朝廷よりの将軍宣下などの儀礼を専ら司った。<br />
基保の回想は文久元年（１８６１）１０月の皇女和宮降嫁にはじまる。<br />
「牛に牽かれた和宮の豪奢な乗り物に最も接近したあと、二騎の公卿が並んで蹄
の音を響かせていた。ひとりが具視で、具視は降嫁実現に尽くした功で右近衛権
少将に昇進し、公家側の警護責任者に抜擢された。もう一騎こそは、まだ紅顔の
美少年という顔貌であるが、筋骨たくましい高家の大沢基保である」。基保が
「幕府側付添の重責を仰せつかったのは、将軍家茂の強い意向」であった。</p>　　
　　　　　
<p>和宮降嫁の交換条件に攘夷実行を幕府が約束したことが､幕府の衰退を早め､命取
りの大きな原因となるのだが、基保はそうしたことには無頓着で、歳の離れた田
舎娘・ミチと一生を共にすることを夢見る青年として造形されている。<br />
また、基保は、しばらく、岩倉の辞官落飾と行方不明を知らなかった。孝明天皇
の意に反して和宮降嫁を進めたという理由で、岩倉は姦物と蔑まれ朝廷から追放
された。公武合体がなされた文久元年の夏、京都では天誅テロがはじまり、岩倉
は秋には洛北・岩倉村を潜伏の地として息をひそめざるを得なかったとは、基保
が後年、聞き知った当時の政情の荒筋である。<br />
文久３年（１８６３）２月１３日、将軍家茂の上洛行列が江戸を出発する。実に
約２３０年ぶりの出来事であるという将軍の上洛に、基保は随行した。３月１１
日、孝明天皇の賀茂社行幸。家茂は公家の後尾につくという屈辱の行列を強いら
れるを目の当たりにして、将軍の騎馬に従う基保は憤懣やるかたない。<br />
　第二次長州征伐のために再上洛した家茂は慶応２年（１８６６）７月２０日、
大坂城で死し、１２月２５日、孝明天皇が崩御する。「基保は、朝幕の最高位を
占める両者の連続急死に、「現今は一寸先は闇の時代、将軍が没し、天皇が隠れ
る世である。曖昧を装って時流を乗り切るしかない」と茫然自失の体であった。<br />
京や江戸ではいざ知らず、地方では、暗殺の噂も流れた。<br />
「腐敗と無気力の幕府を倒し、天朝も一新、その天朝によって世を転換する、維
新回天の事業を急がねばならせないのじゃ」と、再会を果たした蟄居中の岩倉
は“王政復古”を熱く語る。「二股膏薬、蝙蝠野郎と陰口され、時として険悪だ
と評せられる、岩倉具視には別の表情があった。」岩倉の魅力にひきつけられた
基保は「実のところ、具視卿が描く“事”をしっかり飲み込めていないが、た
だ、具視卿のお役に立ちたいという思い」にかられる。慶応３年（１８６７）夏
より急速に広まったお陰踊り（ええじゃないか）は具視が隠棲地・岩倉の山一つ
向こうの村の八瀬の赦免地踊りにヒントを得たものであった、とは作家の造形で
あろう。岩倉の内命を受け、基保はごく内密の闇の仕事に手を染める。三河、尾
張地区のお陰踊りの仕掛け人は基保とミチのコンビであった。<br />
基保の回想はいよいよ佳境に入る。「慶応３年１０月になると、政局は急変の様
相を呈した。底に沈んだままの土砂が蠢きだす、不気味な予兆をあらわにする地
震直前の大海のような……」と作家は当時の歴史背景を描写している。<br />
１０月３日、慶喜は幕政返上の使者として高家筆頭大沢基寿に上京を命ずる。基
寿は基保の異母兄である。６日、軍艦で大坂に着き、夕方、将軍慶喜が待つ京の
二条城に入った基寿・基保の兄弟は城内に渦巻く殺気と混沌に身震いする。兄弟
が二条城高家部屋で無為の時を過ごすうちに、運命の日の１０月１４日、慶喜は
誰に謀ることもなく、朝廷に大政奉還を上表する。<br />
徳川家臣としての高家・大沢兄弟は劇的な場面に居合わせてすべてを目撃したわ
けではなく、御所や二条城、大坂城でくりひろげられた熾烈な騒動を直接には知
らないのだが、大政奉還からいわゆる王政復古のクーデターを経て戊辰戦争に至
るくだりは生々しい。<br />
慶応４年（１８６８）正月にはじまる戊辰戦争。大沢兄弟は幕臣としては重大な
裏切りであると知りつつ、新政府軍の東征に協力し、岩倉の援けもあって、維新
のドサクサに兄・基寿は堀江藩を立藩している。<br />
基保は徳川政権のあまりにもあっけない崩壊が信じられない。「大政奉還は暴
挙」とあの当時、基保は確信していたが、幕府の惨めなほどの崩壊は慶喜ひとり
の責任ではあるまいとも思うのだ…………。<br />
本書の成功の因は大沢基保という高家を主人公に配した構図の妙であろう。「幕
臣であって、そうとも言えず、朝臣であって、そうとも断じえない鵺のような存
在の高家」が幕末維新の際にどのような役割を果たしたのか。基保という青年高
家が岩倉具視と和宮降嫁を機にして知り合い、公武双方に足がかりを持ち、「こ
のような鵺に将来はあるのか」と必死に生きていく姿が爽やかでありかつ逞し
い。<br />
意外にも同い年と知るや、基保に親密の情を示し、基保の近侍を殊の外、喜んだ
１４代将軍家茂。９歳年下の将軍家茂を将軍とは思わずに軽視し、立て板の水の
雄弁ではあるが、誠意がなく、実行力もない「最後の将軍」慶喜。陰険な策謀家
という評判の高いが、実際は多弁で、よく笑う岩倉具視。作家の描く人物造形も
納得のいくものであった。<br />　
本書の冒頭の、基保が岩倉家の門番に門前払いされるシーンに、立ち返る。<br />
　基保は万難を排して、遺体と対面すべきであったかと自問し、悩んだ挙句に自
答する、そのことばが味わい深い。</p>


<p>「生きて会えばこそ、何らかの意味はあったにせよ、死別してしまえば、思い出
だけに留めておくのが正しいのではあるまいか」</p>

<p>死別してしまえば、思い出だけに留めておきたい、そのような人こそ、読者であ
る我々の人生においても、かけがえのない人ではなかろうか。<br />
（平成22年2月4日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_025.html</comments>
 <pubDate>Fri, 5 Feb 2010 05:42:56 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２４回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/kawanobe_024.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２４回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4163285504" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書 名 『花や散るらん』<br />
著 者 葉室　麟<br />
発 売 文藝春秋<br />
発行年月日　　２００９年１１月１５日<br />
定 価　　本体１５００円+税</p>

<p>葉室　麟は１９５１年、北九州市小倉の生まれ。２００４年デビュー作『乾山
晩愁』で第２９回歴史文学賞を受賞し、以後、一貫して歴史・時代小説を書い
ている。<br />
「忠臣蔵」は歴史小説家の看板を掲げる限り避けられないテーマであるらし
い。「忠臣蔵」については事件発生このかた３００年間、書き尽くされたよう
でいて、これはもう動かしがたいという決定的なものがない、とされる。「忠
臣蔵」についてわかっていることは、以下の史実のみである。<br />
〈元禄１４年（１７０１）３月１４日。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩（たくみの
かみながのり）が勅使下向の殿中において、吉良上野介義央に刃傷に及び、即
日切腹を命じられる。大石内蔵助良雄ら赤穂浪士四十七士が主君の仇・吉良上
野介の邸に討入ったのは元禄１５年（１７０２）１２月１４日のことであっ
た。〉<br />
「刃傷の原因」、「討ち入りの目的」、「大石良雄の資質がどうであったか」
は主たる争点であり、これらを組み合わせれば、“さまざまなる忠臣蔵”が可
能となろう。<br />視点を変えればがらりと異なった風景が見え、事件の背後に問題の核心が潜ん
でいることがわかるかもしれない。作家には新しい視点と解釈で作品をものす
ることが求められる。<br />
本書の帯の謳い文句に「気鋭が描く全く新しい『忠臣蔵』。雅（みやび）と武
（もののふ）。西（朝廷）と東（幕府）の戦い」とある。<br />
浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだかについては古来、内匠頭の乱心説や吉良の賄
賂強要説、塩をめぐる争い説等々があるがいずれも決め手を描いている。事件
の発端となる肝心かなめのことが謎に包まれているのだが、本書の作家は将軍
綱吉の生母桂昌院の叙位問題を「忠臣蔵」にからめてストーリーを造形してい
る。<br />
主人公の雨宮蔵人（あまみや・くらんど）は京・鞍馬の山裾の村に、角蔵流雨
宮道場という柔道の道場を開き、妻の咲弥（さくや）と香也（かや）という名
の娘の三人で穏やかに暮らしている。<br />
咲弥の歌道の師匠である中院道茂（なかのいんみちもち）が咲弥を介して蔵人
に「神尾与右衛門（かみお・よえもん）を斬れ」と告げることから、雨宮夫妻
は「忠臣蔵」に関わりあうことになる。神尾与右衛門は高家筆頭吉良上野介義
央が京の情勢を探るために遣わした吉良の家臣であり、中院道茂は当代きって
の歌人で歌壇の指導者で、幕府への批判を憚らず口にする硬骨の公家である。
将軍綱吉の生母桂昌院への叙位を画策する幕府の方針に従い、吉良上野介は公
家に金を貸し付け、神尾に回収させる。公家に金を貸したのは、公家を縛り、
禁裏を思いのままに動かそうとするための吉良の奇策であった。<br />
雨宮蔵人とともに重要な役割を持つのは羽倉斎（はぐら・いつき）である。羽
倉は　伏見の稲荷神社の神官の息子で、三代将軍家光の五十年忌勅使・大炊御
門（おおいみかど）前右大臣経光（つねみつ）に随行して江戸に下り、「忠臣
蔵」にかかわることになる。羽倉には「妻になっていたかもしれない女人」が
あった。１０年前の元禄３年（1690）３月、仁和寺で出会った女人は正親町権
大納言実豊（さねとよ）の娘辨子（なかこ）で、二人は互いに魅かれあう仲と
なるが、やがて、辨子は１６歳で、柳沢保明の側室・町子となる。<br />
今をときめく柳沢吉保は将軍に諂うだけの阿諛者という世評がある。吉保に
は、正室定子、嫡男吉里（綱吉の子ではないかという噂あり）を産んだ側室染
子の他、多数の妻妾があり、町子はその一人であった。<br />
将軍御台所信子の信頼厚く大奥の取締を任されている右衛門佐（うえもんのす
け）が町子に近づく。信子は五摂家のひとり鷹司教平の娘で、京の八百屋の娘
だという卑しい出自の桂昌院の叙位を阻むために策を弄する。右衛門佐に浅野
長矩という大名を使うようにいったのは羽倉であった。<政権の根源は朝廷に
ある>とした山鹿素行が教導した赤穂浅野家なら禁裏の危難を救ってくれるの
ではないか、と羽倉は考えた。<br />
「浅野様に命じて、堀部安兵衛に神尾を斬らせよ、という右衛門佐。「そんな
ら、浅野を勅使饗応役にしたらええかもしれまへんなあ」と動く町子。<br />
かくして、浅野家に大奥からの密命が下る。この話を持ち込んだのが柳沢吉保
の側室の町子であり、成し遂げることは吉保の意向にかなうことなのだと浅野
長矩は受けとめる。<br />
元禄１４年（１７０１）３月１４日。この日、長矩は朝から持病の<つかえ>に
悩まされる。長矩は伝奏屋敷で吉良を討つつもりだった。<br />
　刃傷が起きる。———御台所信子をはじめ京から来た大奥の女達が桂昌院の
従一位叙位に反発していることを吉保は知っていた。大奥は今日、叙位の内意
が伝えられることを妨害した上で、上野介にこれ以上、叙位に関わると命は無
いと脅かしたのだと吉保は納得すると同時に、この刃傷に吉保自身も無縁でな
いことに気がつく。町子からの求めで長矩を饗応役にした以上、責任が生じて
いるのだ。<br />
——「浅野の口を封じるしかない」。即日、庭先での切腹という迅速な処分
は、吉保の意向であった。長矩が何を意図して刃傷を起こしたのか、その痕跡
は拭い去られたかのようだった。<br />
長矩が刃傷に及んだ理由を知った吉良上野介は「たかが叙位のことで自身は切
腹、家は断絶。家臣のことなど何も考えておらぬような」と長矩の軽挙に舌打
ちする。<br />
念願の桂昌院叙位が実現したものの、隠居した上野介には何の沙汰もなく、無
論、論功行賞もなかった。吉保に見捨てられた上に、桂昌院叙位の功を吉保に
奪われた上野介は、吉保への復讐に残りの命を燃やす。<br />
松の廊下の刃傷が桂昌院の叙位を拒みたいという大奥の女人たちの憎しみから
端を発したことを察知した大石内蔵助は「我らは、女人の憎しみに踊らされて
討入りは行わぬ」と堀部安兵衛らに申し渡す。<br />
意外な結末が待っている。<br />
本所松坂町の吉良邸において、香也を抱き、逃げも隠れもしない上野介の前
で、赤穂浪士と浪士たちの味方であったはずの雨宮蔵人が刃を交える。香也と
いう名の娘は上野介の孫娘であった。<br />
元禄赤穂事件の背景には桂昌院の従一位授与を巡る朝幕間の紛争があったとす
る見解は以前から存在し、本書の作家の独創ではないが、江戸城大奥や朝廷内
のそれぞれの確執をつぶさに描写して、“刃傷沙汰の真相”に迫ったところが
本書の読みどころである。<br />
人物配置という観点での斬新さは柳沢吉保の側室町子の人物造形であろう。町
子なくしては本書のストーリーは成立しない。<br />
実在の町子は、吉保の栄達を、『栄華物語』にならって『松蔭日記』に著すほ
どの出色の才を持った吉保の側室であるが、本書では、町子は本阿弥光悦に仕
えた者の娘で遊女を母として生まれ、しかも、吉保の側室となりながらも公家
の娘としての誇りを持ち続け、武家社会に異議を唱える女性として造形されて
いる。<br />
従来の柳沢吉保像は将軍綱吉とともに、吉良に贔屓する悪役として描かれるこ
とが多いが、町子を細々と描くことにより、我が世を謳歌した権力者の実相が
うかびあがり、元禄という時代の狂騒が伝わってくる。佳作である。<br />
（平成22年1月6日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/kawanobe_024.html</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Jan 2010 10:01:31 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２３回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_023.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２３回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062158574" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div><p>書　　　名『月華の銀橋——勘定奉行と御用儒者』<br />
著 者 名　高任　和夫<br />
発　　　売　講談社<br />
発行年月日　２００９年１１月５日<br />
定 価　本体１８００円（税別）</p>


<p>徳川５代将軍綱吉といえば、生類哀れみの令や側用人柳沢吉保の重用などで評判の悪い将軍であり、綱吉と吉保のコンビから、私たちは華やかな“元禄”を、そして“赤穂浪士の討入り”を思い浮かべるであろうが、本書『月華の銀橋——勘定奉行と御用儒者』は綱吉の信任を得て、貨幣改革に取り組み、幕府の財政を立て直すことに奔走した勘定奉行・荻原重秀（１６５８〜１７１３）を主人公とし、綱吉が逝去するや、６代将軍家宣の将軍侍講(政治顧問)として権勢を振い、重秀を「有史以来の奸物」「極悪人」と弾劾し罷免させた御用儒者・新井白石（１６５７〜１７２５）をもう一人の主人公とした歴史小説である。<br />
　藤沢周平の『市塵』（講談社文庫　１９８９）は、新井白石を主人公とした
作品である。藤沢作品では、側用人間部詮房と組んで、重秀を排斥しようと、
３度にわたって意見書を将軍家宣に提出している白石の激烈な行動が克明に描
かれているが、本書では白石、重秀をめぐる多彩な人間像が当時の政治・社会
状況の中に再現され、ラストシーンでは権力の中枢にのぼりつめた白石の正気
の沙汰とは思えない偏執的で恐るべき狂気が衝撃の結末を生む……。<br />
「大阪夏の陣から６０年余り、島原の乱からは４０年、戦のない時代が続き、
やることがなくなった武士は、酒を呑むか、女を買うか、博打を打つぐらいし
か能がない」そうした時代が重秀たちが青春を生きた時代であったと作家はま
ず造形したところから物語はスタートしている。<br />
「師走にしては暖かい日和。重秀は両国広小路からはずれた茶店で、渋茶を飲
みながら大川（隅田川）を眺めていた」。以降、両国橋の本所側にある船宿か
じま屋が、勘定奉行となった重秀が苛烈な日々を忘れ束の間の憩いを求める場
所となる。<br />
延宝５年の五畿内検地、天和元年の上野沼田城収公の実績で、２６歳ながら１
２人の勘定組頭の一人に大抜擢された重秀への風当たりはかなり強くなってい
た。重秀は人事の裏情報にも興味を示さず、幕府の財政を立て直すことが自分
の仕事だとして、次々と思い切った献策をしていく。そうした重秀が「いつか
しくじるんじゃないか」と心配するのは、常に客観的な情勢分析で重秀を心理
面で支える友人の石原平十郎である。親友の心配をよそに、重秀は「ひょっと
したら、おれは幕府を変える運命なのかも知れぬ」とつぶやく。<br />
重秀を抜擢した将軍綱吉は「勘定組頭として幕府財政をどのように見ておるの
か」と問いただす。重秀は「畏れながら、危機的な状態かと」と直答する。真
実、幕府は腐りきっているのだ。徳川は１５代３００年といわれるが、５代に
してすでに崩壊の危機にあったとは。読者は作家が紡ぎ出す元禄という時代の
光と闇に、いつしか引き込まれていくであろう。<br />
架空の人物であろう石原平十郎とともに重秀の良き理解者は、海運、治水の功
労者で豪商の河村瑞賢である。「おれはきちんと仕事をする男が好きだ」と重
秀は実直で素朴な風貌の瑞賢を高く評価している。<br />
もう一方の主人公である新井白石も瑞賢とかかわりがあった。かつて白石は瑞
賢から経済的援助や孫娘の婿養子の要請を受けたことがあるが、武士という身
分に強いこだわりを持つ白石にとって瑞賢は「全く理解できない町人、それが
瑞賢という男」であった。瑞賢を巡っての重秀と白石の人物造形に、すでにし
て、この物語で作家が言わんとしていることがある面、こめられている。<br />
貨幣改鋳を当時は「貨幣吹き直し」といった。貨幣吹き直しに関し、アドバイ
スを求める重秀に、瑞賢は「品物に換えることができると信じられれば、お金
の材料など何でもよろしいのではありませぬか」とさり気なく語る。「重秀は
頭を覆っていた靄がサッと晴れていくように感じた」、この時こそ、「いわゆ
る名目貨幣の概念に至った画期的な瞬間」であった。<br />
続いて、側用人のまま老中格となり幕政の実権を握った柳沢吉保に、重秀が貨
幣吹き直しを具申するシーンは圧巻である。</p>


<p>幕初以来の貨幣についての発想の大転換が容易に賛同を得られるとは思えな
い。柳沢は一瞬息をつめた。めったに動じることのない柳沢だが、瞳が小刻み
に揺れている。<br />
　「その理由は？」<br />
　「世間に通用している貨幣の量が足りませぬ。幕府のご金蔵も空になりつつ
あり申す。……柳沢さま、幕府財政は破綻申した。徳川の世も五代で終わりで
ござりまする」</p>

<p>「柳沢は綱吉の機嫌を取るのが巧みなだけで側用人に、そして老中格に起用さ
れたのではない。ほかの老中や若年寄のだれよりも、はるかに法令や財政にく
わしい」という重秀による吉保評は、作家の吉保評であろう。「綱吉は中継ぎ
の将軍といわれたが、本人にその意識はない。重秀は綱吉の果断さに、ある種
の小気味よさを感じる」のくだりと共に、作家の人物評が斬新で切れ味鋭く、
新たな視点を示している。<br />
柳沢吉保は重秀の擁護者として描かれている。<br />
吉保は綱吉の死とともに、権力の座にしがみつくことなく辞任する。隠居した
吉保は、重秀を諭す、「早く辞任せよ」と。吉保は白石が前将軍綱吉と吉保の
事跡や人物に対して殊更に誹謗の評言を投げかけ、元禄から宝永にかけて天下
の財権を掌握し、幕府財政の表裏に通じた実力者である荻原重秀らの勢力を一
掃するにちがいないと読んでいたのである。<br />
六代家宣は新井白石の弾劾を容れ、正徳２年（１７１２）重秀の死の直前に、
重秀を罷免する。重秀の死の直後、重秀の収賄の事実が発覚したとして、銀座
の役人や改鋳事業に参加した勘定衆が処罰される疑獄事件がおきている。この
時、白石は、首謀者の重秀がすでに死去したことによって処罰を免れ、同謀縁
坐の者が処罰されるのは不当である、と主張したという。これは公明正大な政
治家・新井白石の“美談”とされる挿話であるが、藤沢周平の『市塵』はこれ
を“真実”として取り入れている。<br />
重秀は貨幣改鋳に便乗して私服を肥やすことを忘れなかった汚吏だったという
強烈な負のイメージを作り出したのは、『折りたく柴の記』の新井白石である。
果たして「不当不正の賄賂を貪り、不義の奢侈に耽って居った」との評価は妥
当であろうか。重秀の得た利益に関し、知るに足る史料はほとんどなく、本人
も何も記録を残していない。<br />
本書はいまだに評価が真っ二つに分かれる人物である重秀を江戸前期の改革者
であり実務者であると位置づけ、若くして幕僚として抜擢され幕府財政を改善
すべく勤めた、その鮮烈な生涯を社会経済的背景の中に、再現するとともに、
白石は儒教的な理想主義を自らの思想信条とし現実政治にあたった日本史上に
は稀な政治家とはいえるが、自分の信念を絶対に曲げず貫き通す極端な理想主
義者の行き過ぎた正義がもたらす狂気を克明に描ききった歴史経済小説の傑作
である。<br />
奥付によると、高任和夫（たかとう・かずお）は１９４６年、宮城県生まれ。
大学卒業後、三井物産入社。９６年、三井物産を依願退社後、作家活動に専
心。０９年、『青雲の梯』（講談社）で歴史経済小説デビューを果たした、と
ある。<br />
歴史・時代小説家としては遅まきなデビューであるが、またひとり、目の離せ
ない書き手が登場した。<br />
（平成21年12月14日　雨宮由希夫　記）</p>

]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_023.html</comments>
 <pubDate>Thu, 17 Dec 2009 19:54:33 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２２回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_022.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２２回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062158469" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div><p>書　　　名　　『葛野盛衰記』<br />
著　　　者　　森谷明子<br />
発 売　　講談社<br />
発行年月日　　２００９年１０月２７日<br />
定　　　価　　本体１９００円（税別）</p>

<p>日本の古代宮都は平城京から長岡京、長岡京から平安京へと、桓武天皇（７３７〜８０６）の時代に、北へ北へと遷都された。中国的な皇帝像を理想としたとされる桓武天皇による２度の遷都造営には巨大な国費と厖大な労働力が必要とされた。<br />
長岡京はかつて“幻の都”といわれ、その実在を疑う向きもあったが、昭和３０年からの十数回にわたる発掘調査で、平安京に優るとも劣らない都城であったことが判明している。なぜ長岡京はわずか１０年の束の間の都でしかなかったのか。<br />
今日、京都市の東西を、東の鴨川と西の桂川の、二つの川が流れている。賀茂川ともいう鴨川はふるくから鴨川であるが、桂川に関しては、京都盆地流入以南の桂川を、古代人は葛野川（かどのがわ）と呼んでいた。長岡京は葛野川の下流の乙訓（おとくに）郡長岡村に、平安京は葛野川の上流の葛野郡宇太村にそれぞれ造営された。<br />
古代、「葛野」と呼ばれていた桂川流域の平野は京都盆地最古の、しかも最高の豊穣の地であった。本書『葛野盛衰記』の「葛野」は“古代京都”の意味である。<br />本書は二部構成である。第一部の主人公は桓武天皇の寵妃・多治比真宗（たじ
ひのまむね）であり、第二部のそれは桓武天皇の末裔たる平家一門の異端児・
平頼盛（よりもり）である、として読んで差し支えないであろう。<br />
第一部　「葛野川」。桓武天皇の政治改革のブレーンは藤原氏であったが、廟
堂には、中臣、大伴、佐伯、紀、石川、多治比（たじひ）など古代の名族が名
を列ねていた。<br />
多治比真宗は乙訓の多治比一族が桓武天皇の後宮に送り込んだ女である。「多
治比の夫人（ぶにん）」として帝に侍った真宗は多くの親王、内親王を産む
が、葛原（かずらわら）親王は桓武平氏の祖となる人物である。<br />
真宗には、双子でただ一人の兄の耀（あかる）がいる。一族の跡取りとして出
生し、乙訓の多治比一族を統括しなければならない立場にある耀だが葛野川の
上流で、草深い村の田舎娘に出会い血迷ってしまう。一族の者たちは、「葛野
の地へは行くな」と戒めるが、耀はしかし、毎日のように葛野川をさかのぼっ
て行く。他族の娘に名を明かせと迫ることは古代では求婚を意味する。耀の身
の焦がれるような求愛に対し、少女はついに名を明かさない。桓武天皇の従者
の藤原種継（たねつぐ）は、少女が秦氏の娘で讃良君（さわらのきみ）〔のち
に賀茂の大神の巫女〕という名であることを知っていた。種継に邪推した耀は
種継の胸板を貫いて刺殺し、闇に逃走する。家を捨て、一族とは縁を切ること
を選んだ耀は秦氏の土地・葛野で行方をくらます…………。<br />
藤原種継（７３７〜７８５）は長岡京遷都の責任者で、工事現場で射殺される
人物である。史実では、延暦４年９月、種継は遷都に不満を持っていた旧都寧
楽（なら）の豪族・大伴継人（つぐひと）らに箭を射掛けられて殺害され、暗
殺計画の首謀者のひとりとされた桓武天皇の弟・早良（さわら）親王は廃太子
の上、乙訓寺に幽閉され、非業の死を遂げる。長岡京の造営中に、水害が生
じ、夫人、皇太后、皇后の死が相次ぐ。亀卜したところ、早良親王の怨霊のな
す業と出る。桓武天皇は穢れを避けるために廃都を決定する。<br />
　本書のストーリー展開は味わい深い。秦氏という帰化民族が山背国（やまし
ろのくに）への遷都に切り離しがたく結びついていることが、耀と讃良君との
報われない恋として物語られている。作家・森谷明子（もりやあきこ）の古代
史への並々ならない造詣の深さが裏打ちされている。<br />
桓武天皇は山背国に深い縁故を持っていた。母・高野新笠（たかののにいが
さ）は帰化氏族の出であり、母方の祖母は山背国乙訓郡大枝村の出身であっ
た。種継は藤原氏ながら、その母は山背国に基盤を持つ渡来人系秦氏の娘で
あった。<br />
平安京内裏の建物はもと秦河勝（はたのかわかつ）の館であるといわれてい
る。土木や工芸の技術に優れた秦氏は中央政界での活躍は地味だが、本拠地と
した葛野の地にあって土地の部族と交じり合い根強い力を持っていたのである。
　平城上皇（桓武の子）、および上皇が寵愛する藤原薬子（くすこ）とその兄
仲成（兄妹の父は種継）らによるクーデター事件である大同５年（８１０）の
薬子の変の後、同じく桓武の子である葛原親王は「われは皇族という身分を離
れたい。この都はきらいです。こんな魔物の棲み処は」と語る。この親王は真
宗夫人の希望の星であり、多治比一族は、葛原親王の血筋から、いずれ帝位に
つく者があらわれることを望んでいたが、親王は帝位につくよりも別の道を選
ぶ。臣籍に降りた親王は姓を「平」と称する。親王の御子孫が「平らかに、い
や栄えんこと」が姓にこめられている。<br />
「六波羅」は「森谷本・平家物語」として読めよう。<br />
「森谷本」の主役は清盛ではなく、清盛の異母弟・平頼盛（よりもり）（１１
３２〜１１８６）である。六波羅の池殿を居館としたので池殿・池大納言と呼
ばれた頼盛は忠盛の正室である母・池禅尼（いけのぜんに）の力を背景に、早
くから異母兄清盛と対抗関係にあり、平家一門中、異端の存在であって、一門
の都落ちのときには途中から都に引き返している。<br />
源頼朝を助命したことで知られる池禅尼は、本名を修理大夫藤原宗兼の娘・宗
子といい、この物語では「都人の姫」を所望した刑部卿平忠盛に嫁ぐ。<br />
平家興隆の基礎を築いた正盛は長男忠盛の嫁の宗子に、語り聞かせる。<br />
「我が家は平安の都を開かれた桓武の帝にはじまる。その御子に葛原親王あ
り。平の姓を賜った。じゃが、洛中にはわれらが好きなように館を構える場所
がない。賀茂川の東ならばと。」<br />
「賀茂川の東」は都でない、とする作家の造形がユニークである。第一部にも
「鴨川は都の東の境」という表現があった。平家一門の居館は甍を並べて六波
羅にあったが、六波羅は都の内にはない、としているのである。そうであって
こそ、「『都を捨て、新しい都を造る』それが父祖の教えじゃ。この地には魔
がいるからな」との忠盛の言葉が生きてくる。<br />
頼盛には家盛という同母兄がいたが、家盛は院の熊野御幸の随行を命じられ、
道中にて不慮の死を遂げてしまう。<br />
「清盛を、思いのままに生きさせよ。家盛には、わび……」その一言を残し
て、忠盛は世を去った。宗子は思う、「わび」の後に忠盛は何と続けたかった
のだろうかと。家盛の死の真相を知るべく、清盛と対峙する池禅尼の疑念が第
二部を貫いていて、読者は目が離せない。<br />
清盛が白河法皇の落胤であることに関する作家の造形はこれまた味わい深い。
「清盛は忠盛の子ではなく、言うをはばかる貴種であるとは、公然とささやか
れる秘密であった。都のうちには、種々の怨霊が蠢いていた。洛外の六波羅に
来て、そういった魔から遠ざかったと、宗子は思っていたのに。」<br />
「頼盛は幼い頃から兄は自分とは違うのだと教え込まれた。噂が真実だとすれ
ば、兄は後白河院とも濃い血がつながっていることになる。そう思って眺めれ
ば、福々しい頬、広い額、意外に大きな丸い目、二人の容貌は似通って見えて
くる。」<br />
平安朝とは延暦１３年（７９４）１０月、桓武天皇の平安遷都にはじまり、文
治元年（１１８５）の平氏滅亡にいたる約４００年の間、政治の中心が京都の
朝廷にあった時期を指す。本書は「平安朝」の全体そのものを大枠として取り
上げながら数百年の時空の下の人間模様をこまやかに紡ぎ上げた稀有な歴史小
説である。<br />
京都千年の歴史と文化の根底に脈々と息づいているものはなんといっても「平
安京」であろう。そこには、天皇家や藤原氏、平家など権門の家による怨霊を
生み続ける凄まじい権力闘争があったが、歴史の表舞台にほとんど姿を見せな
いまま、血のつながりとして今に繋がっている中流貴族——第一部の多治比
氏、第二部の頼盛系平氏——があったことを教えてくれる。<br />
（平成21年11月29日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_022.html</comments>
 <pubDate>Wed, 2 Dec 2009 20:08:39 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２１回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_021.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２１回</h3>


<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4047315109" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書　　　名『江戸・東京百景　広重と歩く』<br />
著　者　名　大久保博則　　安田就視<br />
写　真　家　安田就視<br />
発　　　売　角川グループパブリッシング<br />
発行年月日　２００９年１１月２５日<br />
定　　　価　本体１２８０円+税</p>

<p>　広重の絵『名所江戸百景』１１９景と、絵の描かれた場所で撮った写真「平成の東京百景」１１９葉が左右に並べられて配置され、鑑賞できる。カメラマンの安田就視氏は「情緒がなくなりつつある東京の風景を広重の心になって美しく残しておきたい」と思い、シャッターを切っている。しかも、１０年もの歳月をかけて。広重の絵と安田氏（以下、Ｙ氏と表記）の写真を比較しながら、読者は“広重気分”で江戸と東京の時空を思うがままに往還できる本のつくりとなっている。<br />
本書の巻頭を飾るのは《日本橋雪晴》。「日本橋」は広重の頃とは思いもよらないほど変り果ててしまったものの代表格である。


現代の写真を撮るにあたり、「めまぐるしく変る東京の中で、これほど
昔と変らないで残っている場所も珍しい」とＹ氏が断ずるのは《外桜田
弁慶堀糀町》の「弁慶堀」、《千束の池袈裟懸松》の「千束池」であ
る。周囲の建物は現代風におきかえられてしまったが、画面を大きく占
める建物は丸に井桁のマークの「いとう松坂屋」、今の松坂屋の前身
で、遠くに「上野の森」が見える《下谷廣小路》の写真は広重の絵に通
じる景色であろう。これらに比べて、「日本橋」の変容は目を覆うばか
りである。<br />
「昔を偲ぶものは何もない」「昔の風情はなくなってしまった」「無惨
な姿になってしまった」とは変り果てた景色を眼前にしたＹ氏の常套句
であるが、《日本橋江戸ばし》では、「江戸橋もかろうじてみえてはい
るが、絵にならない。幾度か撮影し直した。これ程苦労したところも珍
しい」と嘆いている。<br />
広重の時代にあって、今に無いものは「富士の眺望」である。《する賀
てふ》当時、越後屋呉服店（今日の三越）のある駿河町からの富士の眺
望は江戸一の評判だったというが、「広重の時代には駿河国の富士山が
バッチリ見えた駿河町も、いまやここから富士山を望むのは、とても無
理なこととなった」。<br />
見えなくなったのは富士山のみではない。《日暮里諏訪の臺》「諏訪
台」は道灌山と言ったほうが通りが良いだろう。江戸の人々の行楽地
で、東方に向かっての眺望は絶景と謳われたというが、今では筑波山も
めったなことではお目にかかれない。筑波山が見えなくなったのは、
《飛鳥山北の眺望》もおなじである。<br />
江戸から東京へ。「富士」についで景観を大きく変えたものは海である。
霞ヶ関坂上の正月の凧揚げ風景を描いた《霞かせき》には海が描かれて
いる。江戸の昔、海は身近な存在だったが、今はビルが天空をふさぎ海
どころではない。「広重の絵心を再現しよう」とＹ氏は「モデルに凧を
揚げさせようとしてオマワリさんに警告をうけ」ているのは愛嬌である。
古の江戸らしき風景を再現しようというカメラマン魂には頭が下がる。<br />
《神田紺屋町》の染物のさらし干し風景は江戸の風物詩でもあった。<br />
「ＪＲ神田駅の東に、今も紺屋町は存在するが、町中探し廻っても紺屋
は一軒も残っていない」ことを知ったＹ氏はカメラを担いで、「江戸川
区は一之江迄行き、やっと見つけ」撮影している。《玉川堤の花》は左
に桜並木、右に遊女屋が立ち並ぶ、今の新宿区新宿２丁目付近を描いて
いるが、その場所には江戸情緒のひとかけらも残っていない。Ｙ氏は
「多摩川堤の花」を求めて、玉川上水を小金井市まで２０キロメールも
遡り、当時の面影を残す映像をキャッチしている。<br />
それにしても、広重の構図のなんと斬新なことか。どうしてこうした絵
が書けるのか、と不思議に思わずにいられないのは広重の目線である。
《千住の大はし》も同様であるが、たとえば、《両国花火》を見るがい
い。絵の下３分の一ほどの低位置に「両国橋」が描かれ、天空高く舞い
上がる花火を見上げる橋の上の人々はまるで胡麻粒のようである。広重
の時代、高層ビルがあるはずもない。いかにして広重はこうした俯瞰図
をものにすることができたのか。《大はしあたけの夕立》では、「広重
のアングルに少しでも近づこう」と、Ｙ氏は近くのビルの管理人にお願
いしてビルの屋上に上り、しかも、夕立が降るという気象条件を満足し
た上で、ビショ濡れになって撮影している。<br />
さすがのＹ氏も気象現象にはかなわない。永代橋の橋桁ごしに、「石川
島・佃島」を望む図の《永代橋佃しま》には月が晧晧と冴えているが、
「永代橋の付近からこの高さに、この形の月は出ない」と広重にイチャ
モンをつけている。<br />
広重と気象現象といえば、雪である。《浅草金龍山》は名品中の名品。
絵の右上に大提灯。仁王門の左側のみが書かれ、遠景に雪に覆われた五
重塔が浮かぶ。今、東京ではめったなことで雪は降らないが、雪化粧の
浅草を撮るために、Ｙ氏はその雪を待って車で寝泊りしている。<br />
超高層ビル、高速道路や気象条件は何とかクリアするＹ氏が「名所平成
の東京百景」の撮影にあたり、一番悩んだのが王子の狐火である。この
絵《王子装束えの木大晦日の狐火》だけは写真の映像に出来ないと匙を
投げている。<br />
『名所江戸百景』は安政３年(１８５６)２月から安政５年
(１８５８)１０月までの間、つまり広重が還暦を迎える直前から
数え年６２歳で死ぬまでの二年半にわたって制作されている。<br />
《高輪うしまち》は安政４年（１８５７）４月の刊行。ペリー来航の翌
年に築かれた「お台場」に虹がかかっている。Ｙ氏の「何としても、虹
ある品川風景を摂りたかった」というカメラマンとしてのプロ根性と、
「太平の眠りを覚まされたはずなのに、広重が描いた雨上がりの情景
は、清々しくもおおらかだ」との著者・大久保氏の感想が印象深い。広
重が描いたいかにも長閑な風景が〈広重にとっての今〉を私たちに訴え
かけているのである。広重はまさしく「時代の今を描く浮世絵師」で
あった。<br />
《品川御殿やま》「御殿山」は江戸の花見の一大名所であったが、「お
台場」を築造するために御殿山の土は無惨にも削り取られた。Ｙ氏は
「今も当時の原形を留めている」と書いているが、ここでいう原形とは
「広重が描いた“削り取られた”あとの美しい風景」である。「絵師・
歌川広重は変わりゆく江戸への哀惜をこめて筆を走らせていたのではな
いか。名所は、景観が素晴らしい場所という意味だけでなく、人の記憶
を呼び覚ます場であることを広重はよくわかっていた。だからこそ、
《品川御殿やま》では、お台場建造のために無惨に削り取られた御殿山
を描いて見せたのだ」との大久保氏の指摘は当を得ている。<br />
寛政９年（１７９７）、幕府定火消同心の子として生まれた広重は明治
維新のちょうど１０年前の安政５年（１８５８）９月６日の暁、数え６
２歳でこの世を去っている。その安政５年の春には条約勅許、将軍継嗣
問題で政局は大きく揺れ動き、夏にはコレラが江戸市中に流行り、秋に
は井伊大老による「安政の大獄」がはじまっている。広重の死因はコレ
ラだと伝えられている。<br />
広重が今に生きていたら、超弩級の名カメラマン、アーチストであった
ろう。<br />
広重の絵と現代の写真を対比して、一冊の本にするという試みは、大正
期の石川研堂の『今昔対照江戸百景』（１９１９年）以来、何度かなさ
れている。石川研堂は明治末から大正昭和にかけて活躍した百科全書家
であるが、『今昔対照江戸百景』の刊行にまつわる興味深いエピソード
が、河津一哉編『今とむかし廣重名所江戸百景帖』（暮らしの手帖社、
平成１０年）に掲載されている。なお同書には『今昔対照江戸百景』の
写真が掲載されている。本書の写真と比較するのも一興である。
　本書は新書版ながら、『名所江戸百景』のすべて１１９点が眼にも鮮
やかなカラーで掲載され現代の写真が並んでいる豪華なつくりである。<br />
「解説マップ」もついている。携帯に便利な本書を手にしながら、広重
が絵筆を揮ったであろう地点あたりを日がな一日逍遥したいものである。
(平成21年11月23日　雨宮由希夫　記)</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_021.html</comments>
 <pubDate>Tue, 24 Nov 2009 16:47:48 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２０回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_020.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２０回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4103070625" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div><p>書　名　　『いさご波』<br />
著者名　　　安住洋子<br />
発 売 新潮社<br />
発行年月日　２００９年１０月２０日<br />
定 価　　　本体１５００円（税別）</p>

<p>　「沙（いさご）の波」「暁（あかとき）の波」「ささら波」「夕彩（ゆうあ
や）の波」「澪（みお）の波」、全５編の短編集である。「ささら波」を除き
４編は、御家断絶に見舞われた赤穂浅野家と御家騒動で分断された九鬼家に仕
える下級武士の、ひたむきに生きる姿が武士の矜持とともに描かれている。<br />
　書名の由来となった巻頭の「沙（いさご）の波」の主人公は藤野幸右衛門、
３６歳の前橋藩士。元赤穂藩士の父を持つ幸右衛門は浪人暮らしを経て２２歳
で前橋藩に抱えられた。<br />
ある日、幸右衛門は上意討ちの討ち手になるように申し渡される。相手は家老
職の一人、掛井半之丞（かけいはんのじょう）。当時組頭であった掛井は仕官
を推挙してくれた恩人であった。無事、勤めを果たせば加増し、１５０石を保
障すると申し渡されるが、恩義ある家老を上意討ちにしなければならない苦境
の中で、幸右衛門は夢を見る。<br />
　　〈まだ明けやらぬ瀬戸内の滑らかな海。大避（おおさけ）神社の境内から
坂越浦（さこしうら）が一望できる。坂越の海はよく夢に現れた。夢の中で若
い母と幼い幸右衛門が手をとりあって静かに坂越浦を眺めている。〉<br />
坂越は江戸時代、赤穂の塩を運ぶ拠点として栄えた港町。坂越浦は瀬戸内海に
開けた天然の良港であり、大避神社は海上渡御の船祭りで有名である。<br />
いつもの夢に、父が入り込んでくる。夢の中の光景が脈絡もなく変り、やがて
夢から覚めることは誰にも経験があろう。作家の筆は絶妙で、主人公を現実に
引き戻す。<br />
　　〈瀬戸内を見て、父が低く呟いた。<br />
　　「沙の波とは、こういう海をいうのであろうな。穏やかなものだ」<br />
　　——あの海は、赤穂藩が改易になり、江戸に発つ日に見たものだ。〉<br />
　仕官がかなって以来の１４年間は心やすまる平穏な日々、すなわち、「沙の
波」のような日々であったが、上意討ちの藩命が幸右衛門の沙の波のような
日々を奪い取る。上意に叛けば禄を解かれ再び浪々の身となり、虎太郎１３
歳、壮亮（そうすけ）１１歳、雪乃９歳、３人の子供達が路頭に迷うのは必定
である。現実に引き戻された幸右衛門は仕官がかなう２年ほど前に他界した父
を想う。父上ならばいかがいたすかと。<br />
　藤野家は代々赤穂藩に仕えていたが、幸右衛門５歳の元禄１４年、刃傷事件
が生じ、赤穂藩は改易となる。<br />
父はどれほどの苦難に耐えたか。「討入りの同士に加われば、妻子にまで罪が
及ぶとお考えになられた。そなたの寝顔を飽きもせず、じっと眺めておられ
た」と幸右衛門は母より聞いていた。父は日々、身を粉にして働き詰め、何一
つ報われることなく、病に倒れたが、それとても、「世間を揺るがした赤穂浪
士の討入りの折の屈辱感に比べれば辛くはない」と、父は母に話していたとい
う。また母は、「討入りに参加された方が、もしかすると楽であったのではな
いかとさえ思います」とも語る。<br />
〈恩義のある人を葬り、己は加増を得て生き長らえる。そのようなことをやっ
てのける息子を父は何と思われるであろう。<br />
——父上、生きていくとは難儀なことですな。〉<br />
　ここでの「息子」と「父」は、「幸右衛門自身」と「幸右衛門の父」、「虎
太郎、壮亮ら」と「父たる幸右衛門」の二つの意味があろう。幸右衛門は父と
しての自らの生き方を子らに示すべく悩んだ末に、人としてとるべき道を決め
てゆく。果たして、幸右衛門がとった道はどのような道であるのか———？！<br />
「暁の波」「夕彩の波」「澪の波」の３篇は、九鬼水軍で有名な九鬼家の分断
の悲劇と転変を背景とした物語である。<br />
鳥羽（三重県鳥羽市鳥羽）の地を本拠地とし、戦乱の世を生きぬいた戦国武
将・九鬼嘉隆（くき よしたか）は船に鉄を貼った燃えない鉄甲船を建造し
て、石山本願寺側についた毛利水軍６００隻を打ち破り、信長の天下布武に貢
献し、「文禄の役」の朝鮮出兵では秀吉水軍の大船団を率いた。慶長5年（１
６００）、関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、子の守隆（もりたか）
は東軍に与した。東軍の勝利後、守隆は家康に父の助命を嘆願し受け入れられ
たが、嘉隆は自害してしまう。守隆は鳥羽藩の初代藩主として5万６千石を領
するが、守隆は後継者選定に失敗し、家督争いが起きてしまう。紆余曲折はあ
るが、結論をいえば、守隆の５男・久隆（ひさかた）が摂津国三田（さんだ）
藩３万６千石に、３男・隆季（たかすえ）が丹波国綾部藩２万石に移封され、
九鬼氏は分断された上に、累代の所領であり、九鬼水軍の本拠地である鳥羽を
失ってしまう。<br />
九鬼家の御家騒動を、作家は、「幕府の裁定は巧妙で、三田には石高は高いが
城主格は許さず、綾部には石高は低くても城を持つことを許している。互いが
自然に反目しあうように筋書きされ、九鬼家は二分し、巨大な水軍力も完全に
奪われてしまった」と描いている。<br />
「暁（あかとき）の波」の主人公は神崎幸四郎。幸四郎は幕府の裁定後、九鬼
久隆について直ちに摂津三田に赴くが、幸四郎の友人・小野木柾頼はなぜか鳥
羽に留まり、二人の若者と斬りあい、死んでしまう。小野木の妻と女児を残さ
れた。小野木の最期に疑問を持ち、親友の妻･佐和を案じていた幸四郎は、摂
津三田からはるばる鳥羽を訪れる。<br />
鳥羽の海は朝が格別に美しい。九鬼水軍にゆかりの深い鳥羽の海を３年ぶりに
見て、<br />
〈あゝ、鳥羽の海だ。〉<br />
と幸四郎は懐かしがる。「暁の波」の意味するところは明らかであろう。<br />
九鬼義隆の首塚がある答志島へ行き、小野木の死の真相を探った幸四郎は佐和
とも再会する。佐和はその日、その日を懸命に生きていた。<br />
幸四郎と佐和との仲は、これからどうなるのか………。<br />
「夕彩の波」は摂津三田、「澪の波」は丹後綾部が舞台であり、いずれも、鳥
羽の海を知らない世代の、九鬼家の下級武士がくりひろげる味わい深い物語
で、ひたむきに生きる彼らの姿と主人公をささえる家族の絆が描かれている。<br />
歴史・時代小説にとって最も肝要なことは、実在した歴史をいかに切り取るか
ということではないだろうか。方法論としての歴史の切り取り方は多様なもの
があるが、ここでいう〈切り取り〉とは作家の視点、作家の眼差しをいう。<br />
赤穂浪士の討入りそのものを扱った作品を読み私たちは感動させられる。赤穂
浪士本人が遭遇したであろう苦難に人々は涙し、討入りを果たした彼らの栄光
に人々は拍手喝采するのであるが、赤穂浪士の次世代、次々世代の苦悩のある
ものは、直接に関与した世代が味わった苦悩以上の苦悩であったのではない
か。九鬼家の御家騒動も同断である。御家騒動でいがみ合った世代ではない、
彼らの後代にも九鬼水軍としての矜持は語り継がれたのである。<br />
歴史に名を残した当事者ではない、いってみれば、ありふれた、どこにでもい
たであろう名も無き人々——名は伝わっていないが、確実に存在した人々——
が生き、歴史を引き継いできたことを、安住洋子という作家は教えてくれる。<br />
得がたい作家である。<br />
安住洋子（あずみようこ）は１９５８年、兵庫県尼崎市生まれ。１９９９年、
４１歳で小説家デビューを飾った作品、市井物の時代小説「しずり雪」で第三
回長塚節文学賞短編小説部門大賞を受賞している。<br />
（平成21年11月15日　　雨宮由希夫　記）</p>
]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_020.html</comments>
 <pubDate>Mon, 16 Nov 2009 16:21:08 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第１９回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_019.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第１９回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4758411433" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書　　名　　『飛将軍李広』<br />
著　　者　　塚本青史<br />
発行所　 　角川春樹事務所<br />
発行年月日　２００９年１０月８日<br />
定　価　　　　本体１８００（税別）
</p>

<p>「漢の飛将軍」李広は李陵の祖父である。李氏は、
戦国の末に秦に仕えた将軍李信を生んだ武門の名家
であった。上背があり、臂が猿のように長い李広は
強弓を取るや抜群の命中率を示した天性の射手で、
李陵など彼の子孫でも李広に及ぶものがなかったと
いう。あたかも、我が国の鎮西八郎為朝のようでは
ないか。天才児・義経も弓では叔父の為朝にはかな
わなかったという。<br />　李広（前１８０年？〜前１１９年）の生涯を語る
ことは、彼の生きた時代の歴史を語ることである。
李広は武帝の祖父・父である文帝・景帝及び武帝の
３代に仕えた。<br />
中国文学の碩学・吉川幸次郎は名著『漢の武帝』
（岩波書店、１９４９年刊）で、「漢の武帝の時代
は、中国史の最も輝かしい時代のひとつとして長く
中国の人々の記憶にある。」と書き出し、５０余年
の永きに及ぶ武帝の治世を年号によって、「建元、
元光の時期」、「元朔、元狩の時期」、「元鼎、元
封の時期」、「太初、天漢、太始、征和、後元の時
期」の４期に分けている。<br />
李広は「漢の武帝」の時代にあっては、「建元から
元狩まで」を武帝の同時代人として生きた。第１期
の「建元、元光の時期」は武帝が１６歳で即位し、
２８歳までの間、第２期の「元朔、元狩の時期」は
武帝３０歳代の「最盛の時期」。特に、元朔年間は
外では武帝の皇后衛氏の弟・衛青の率いる匈奴討伐
の遠征軍が輝かしい勝利を収め、内では公孫弘、張
湯が武帝の側近となり、武帝の専制強化に貢献した
時期である。李広と武帝の年齢差はおよそ３０歳。<br />
李広は武帝時代のもっとも輝かしい雰囲気を持つ時
期に、晩年をすごしたのである。<br />
塚本青史の新作『飛将軍李広』は、「李広の郷里で
ある槐里から王姉妹を異母兄の田蚡や田勝らが連れ
出したこと」から物語っている。<br />
「李広は隴西郡成紀の人であり、もともと槐里（今
の陝西省興平県）に住んでいたが、後に成紀に移っ
た」、「武帝の母・王皇太后の郷里は槐里である」
と司馬遷の『史記』にある。すなわち、偶然の一致
と言うべきか、李広と王皇太后の郷里は同じなので
ある。常人なら読みすごしてしまうであろう、この
ことに着目した塚本は李広が少年時代を過ごしたに
違いない槐里の地を背景にして、のちに漢の後宮を
ゆるがすことになる事件——やがて、王姉妹の姉が
劉徹（＝武帝）を生み、景帝の皇后の地位につく。<br />
武帝が即位するや、田蚡や田勝は外戚として台頭し
てくる素地となる——をつむぎだしている。恐るべ
き着想と嘆息せざるを得ない。<br />
吉川幸次郎の『漢の武帝』は「武帝をめぐる婦人た
ち」のことから話をはじめているが、塚本も、李広
は若き日、漢の後宮にからむ事件を目撃していたと
して、物語をスタートさせている。「武帝をめぐる
婦人たち」が李広の一生にどう絡んでくるのか。<br />
じつは、塚本の仕掛は、もう一つある。<br />
景帝治世下の前１５４年、呉楚七国の乱が起きる。<br />
２７歳の李広は周亜夫軍の校尉として奮戦。このの
ち、辺境の太守を歴任し、匈奴から「漢の飛将軍」
と畏怖されるのはこのころだが、ある日、雁門郡太
守の李広は呉楚七国の乱鎮圧の功労者であるかつて
の上司・周亜夫が反逆罪で獄につながれたと知り、
甘泉宮内の監獄へ恩義ある周亜夫を訪ねる。衛青と
いう名の奴僕の少年がいた。李広は周亜夫に水を飲
ませるよう、少年に金銭を握らせて頼む。この少年
こそ、のちの大将軍衛青の若き日の姿であるとは、
なんという造形の妙であることか。<br />
匈奴は北アジアの草原に君臨し、漢に対して軍事的
な脅威を与え続けた遊牧民族であり、匈奴の侵冦を
いかに防禦すべきかは漢朝歴代、最大の対外問題で
あった。<br />
元光２年（前１３３年）の馬邑の役は匈奴の軍臣単
于を馬邑（山西省朔県）に欺き誘き出して討とうと
した姑息な謀略で失敗している。衛尉李広は驍騎将
軍として参軍している。作家塚本は馬邑の役で李広
は次男椒を失ったとし、李広の不運を早くも暗示さ
せている。<br />
馬邑の役の失敗から５年後、元光６年（前１２９
年）秋、上谷（居庸関附近）から出撃した衛青は匈
奴の本部である龍城（今日のモンゴル高原のウラン
バートル附近）を攻撃し、漢朝はじまって以来の輝
かしい戦果をあげる。武帝治世「最盛の時期」の幕
開けであった。<br />
衛青の甥である霍去病は元朔６年（前１２３年）の
衛青の５，６回目の遠征に参加。霍去病ひとりが桁
違いの武勲を挙げる。武帝は義理の甥に当たるこの
新しい武将の出現を喜ぶ。<br />
李広は文帝の１４年（前１６６年）、初陣ながら、
蕭関（甘粛省）で匈奴を討ち取って、弱冠１５歳に
して早くも有為な武人として頭角を現したものだ
が、霍去病が少年ながら列侯に叙された、この時の
李広の胸中を、作者塚本は「李広は武門の血筋とし
ては悔しいが、衛青も霍去病も天才的な将軍気質を
身につけていると、認めぬわけにはいかなかった」
と描写している。<br />
元朔元年（前１２８年）春、衛夫人が男子を出産、
拠と名付けられ皇太子に決定する。皇太子拠は将軍
衛青の甥に当たるわけである。「時の潮流に乗ると
は、これだろうな」李広は自己の運命を呪った、と
作者は思い描く。<br />
元朔５年（前１２４年）、衛青は第４次匈奴遠征で
も戦果を上げ、大将軍の称号を得る。同じく同行し
た将軍たちも侯に取り立てられる。<br />
匈奴討伐の将軍として、連戦に次ぐ連戦で、匈奴を
撃退するという功績のあった李広はついに列侯に昇
格することはなかった。<br />
衛青や霍去病が匈奴に勝つのは、生まれながらに勝
つべき方法論を身につけているからであり、武帝の
対外積極策と、李広の戦闘方式があわなくなったこ
とを物語る、と作者塚本は結論付けている。李広の
城塞に拠る専守防衛型の戦い方と異なり、衛青らの
戦い方は沙漠へ撃って出て、大量の矢弾を雨霰のご
とく浴びせかける物量作戦によるものであった。そ
のような物量作戦を可能にしたものは武帝の積極的
な対外政策であった。武帝は文帝と景帝時代に蓄積
した国家財政を対匈奴戦争に注ぎ込み、熾烈な戦い
を制して版図の拡大を図った。<br />
元狩４年（前１１９年）の参軍は李広にとって、武
人の最期を覚悟したものであり、李広の胸中を占め
たのは４０年以上連れ添った人生の伴侶たる妻のこ
とであった、とし、李広の死へと繋がるこのシーン
は読者の胸を熱くする。<br />
「衛大将軍。是非、匈奴の正面からぶつからせてく
ださい。」甘泉宮の通路で会った奴僕の少年の面影
を見ながら、李広は今、平身していた。李広と衛青
の宿命というべき邂逅が最期の対峙のシーンで生き
ている。<br />
衛青は李広に東のルートをとることを命じ、李広は
結局、道に迷い、期日遅延の罪に問われる。李広が
自刎するとき、「衛青が心の底で、李広に敬意を
払っていることは判っている」と作者は描いてい
る。作者塚本の造形の中で、救われるのは、衛青の
李広に対する情の厚さである。「衛青は李広を心か
ら崇敬している」とする塚本の造形がいかにユニー
クであるかは『史記』を紐解けば容易に知り得る。
司馬遷は李広の生涯を描くに際し、「李広列伝」と
せずに「李将軍列伝」としている。一方、匈奴討伐
で国家的英雄になった衛青・霍去病については二人
一緒くたで「衛将軍・驃騎列伝」としている。霍去
病は「驃騎」のみで敬称はない。司馬遷はまた、
「衛青・霍去病いずれも匈奴征伐に大功のあった将
軍もまた、外戚をもって寵愛されたのであって、佞
幸伝中の人に属するが、己の才能によって昇進した
点が多かった」、と書きしるしている。一応、両人
の才能を評価しているが、言葉の裏から司馬遷のか
れらに対する嘲弄が聞こえてくる。<br />
塚本青史が『霍去病』（河出書房新社、１９９６年
刊行）を発表して一躍脚光を浴びてから１２年の歳
月が流れている。同じ史材を取扱いながら、微妙に
その描写が異なっているシーンがある。そのような
ことに気を配りながら、本書『飛将軍李広』と『霍
去病』を読み比べるのも一興であろう。<br />
（平成21年11月1日　　雨宮由希夫　記）</p>

]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_019.html</comments>
 <pubDate>Mon, 2 Nov 2009 12:52:18 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第１８回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_018.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第１８回</h3>


<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062157632" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div><p>書名『覇天の歌』<br />
著者名　岩井三四二<br />
発売　講談社<br />
発行年月日　　２００９年９月２９日<br />
定価　　本体１８００円（税別）</p>

<p>本書の主人公・里村紹巴は戦国期に活躍した連歌師である。紹巴は天正１０年
（１５８２）、本能寺の変の３日前の５月２８日京都の愛宕山（愛宕神社）で
光秀が催した連歌会「愛宕百韻」に出席した。光秀の発句「時は今 雨が下し
る 五月哉」を受けて、紹巴は「花落つる流れの末をせきとめて」と詠んでい
る。このことから、紹巴は光秀の信長弑殺の決行を察知し、光秀を諫言したの
ではないかされるが、「愛宕百韻」の真相は今も藪の中にある。<br />
奈良の町で「お寺」といえば興福寺を指す。世は戦国、「お寺」が一切を切り
回している奈良の里にも戦乱の火の粉が降りかかってくるが、人々の連歌熱は
冷めるどころか、ますます熱くなっている——というのが、この物語のスター
ト時の時代背景である。<br />１３歳で奈良興福寺の子院、明王院に稚児として入った紹巴は、安定した暮ら
しが約束された興福寺での奉公を断って、連歌師になりたいと一念発起し奈良
を出、連歌師宗匠の周桂、ついで昌休の弟子となる。昌休の死後、紹巴は里村
の姓を名乗り、里村派というべき一派の宗匠の座にある。<br />
京洛の平和が、若い宗匠紹巴に伸びてゆく時間を与えてくれた。紹巴は時の権
力者・三好長慶に愛され、著名な連歌師、宗牧の子、宗養とともによく城に呼
ばれて連歌一座を興行してゆくが、紹巴は常に宗養の次席に甘んじる。どうし
ても差が縮まらない。その理由は古今伝授の有無だと紹巴は思っている。古今
伝授は古今集の解釈の秘伝で、歌学においては最高の秘伝とされている。<br />
時の右大臣で文人としても当代一の三条西公条は紹巴を、「そなたには、歌の
天骨はない。天地を動かし、鬼神をも泣かせる歌は、そなたには無理や。わし
が古今伝授をためらったのはそこや」と突き放す。<br />
古今伝授を受けられないと悟ったころ、信長が足利義昭を奉じ大軍を率いて、
上洛。旧知の勝竜寺城主・細川藤孝に招かれ、連歌会を張行することになる。
紹巴の知っている藤孝は、和歌に連歌に、茶の湯に蹴鞠と、武家としては遊び
すぎと思われるほど公家の文化に浸った柔弱な男だったが、信長の上洛を機に
１０年ぶりに再会した、足利義昭の家臣でもある藤孝から、紹巴は「信長の天
下を統一する手助けをせよ」と囁かれ、これまで経験したことのない怪しいう
ごめきを己の胸中に感じ取っていた。信長は連歌をしない武将であり、自分の
出番はないと思っていたのである。これより、藤孝とは心を許す仲になる。坂
本城主の明智光秀に会ったのも、藤孝の引きであった。「毎日などと贅沢は申
さぬが、せめて１０日に一度は“古今”や“源氏”などの話をし、命の選択を
せぬと身が保たぬ」と嘯く光秀を観て、紹巴は「ああ、こやつも仲間か」と、
たちまちに光秀に心を許す。<br />
三条西公条の子・実枝が藤孝に古今伝授するらしいと聞き、紹巴は、「これほ
ど努力して一介の地下人からのしあがってきた男に天骨がなく、遊んでいるば
かりいる男に天骨があるとしたら、天はなんと不公平なのか」、と嘆く。<br />
天下の情勢は刻々と移り変わり、やがて紹巴は秀吉とはじめて一座を持つ。織
田家中でも指折り数えられる重臣となっている秀吉は、古典の教養がほとんど
ないにもかかわらず、連歌を仲立ちにした公家衆や武家仲間との付き合いの必
要性を熟知していた。<br />
天正１０年５月の末、「西国出陣に際して、戦勝を祈願する連歌を張行した
い。御同座ありたし」光秀からの誘いである。物語はいよいよもって佳境に入
るが、それでも作者の筆は淡々としている。<br />
天正１０年６月２日卯の刻（午前１０時）紹巴に本能寺の変の情報がもたらさ
れる。紹巴がもっとも不可解に感じたのは、丹後宮津の細川藤孝の動きであっ
た。信長の死を聞くや、光秀と親戚同士の藤孝は即座に髪を下し、幽斎と号し
て、光秀への同心を拒否したのである。<br />
紹巴は愛宕山での連歌会を思い起こす。果たして光秀はどんな覚悟で信長を
討ったのかと。光秀は「雨が下しる」と詠んだ。「雨（あめ）」は「天」でも
あり、「領（し）る」は「領有する」の意である。天下を領有するのは、当
然、信長だと解釈していたが、光秀自身という意味だったのではないかとも解
せる。そんな意味だと知っていれば、その場で諫止したか。いや連歌師にはそ
んな力はない。知ったとしても、何も変らなかっただろうと自問自答し、紹巴
は本能寺の変を結論付けている。「幸か不幸か光秀には十分な胆力と兵力が
あった」と。<br />
近衛前久、吉田兼和のような公家はともかく、まさか連歌師まで疑われること
はあるまいと思っていたが、愛宕山での光秀の連歌に紹巴が列席していた事実
から、本能寺襲撃を光秀から聞いていたに違いないという噂が飛び交い、紹巴
は汲々とした日々を送る。<br />
まもなく、紹巴に本能寺の変で一躍天下人に近づいた秀吉から連歌会のお呼び
がかかる。敵の光秀と親密だった紹巴が出座するや、秀吉は、「とがめだては
せぬ。わしにだけ言え。光秀は何と申しておった」と囁き、「わしに見方せ
い」と擦り寄る。秀吉の器量の大きさを知った紹巴は、「あれは天下人になる
な」と直感し、連歌師としてではなく、ご政道に参画するため、秀吉の下に日
参する。<br />
秀吉政権下で、紹巴が闘志をかきたてるライバルは千利休であった。紹巴は秀
吉から百石の給分を与えられたが、利休の給分は三千石であった。紹巴は利休
同様、秀吉の側近としてつとめる一方、連歌宗匠として活躍したが、茶の湯の
大成者・千利休との給分の差を「利休はわしとは器量がちがう」と意に介さな
い。<br />
天正１９年（１５９１）２月２８日、利休は秀吉の命により死を賜る。細川幽
斎は「連歌の宗匠は、連歌に命をかけて死ぬなど、せんでくれよ」と紹巴を危
ぶむ。「幽玄を尊ぶ連歌は、しばらくお預けや」。秀吉が気に入ってくれなけ
れば連歌は廃る。いまはただの言葉遊びになっても仕方ない。紹巴はそう割り
切るしかなかった——。このくだりは本書の読みどころのひとつである。<br />
連歌は五七五と七七の句を交互に詠み継いで、あわせて百韻にする遊芸で二人
以上の人が一つの歌を作る。連歌をただの娯楽ではなく、戦国を生き抜く手段
として活用した連歌師は、公家と武家の間を泳ぎまわっている不思議な存在
で、ときに便利な密使として使われた、と作者は説く。<br />
戦国といえば、信長・秀吉・家康の国取り物語が主流であろうが、本書におい
ては、織豊政権以前の歴史が、信長上洛以前の京の実力者三好長慶や松永久秀
と連歌師・紹巴が連歌を同座することによって描かれているのも、興趣を感じ
る。続いて、細川幽斎との出会いから晩年の「古今伝授」に絡むまでの愛憎の
交錯した長い付き合いを克明に描くことによって、時代の遷り変わりを浮かび
上げる切り込み方も味わい深い。<br />
慶長５年（１６００）の関ケ原の合戦。石田三成の軍勢に囲まれて丹後の田辺
城に籠城する幽斎。「幽斎が死ねば、古今伝授が絶える」というのが勅命が出
た理由だと聞いた紹巴は深い衝撃を受ける。自分の古今伝授与がにせものだと
満天下に知らされたような気がした上に、道楽だったはずの歌学が幽斎の命を
救った、と紹巴には思えたからである、と作者は描写している。<br />
そもそも紹巴は連歌が好きで連歌師になろうとしたのではなく、連歌は出世の
手段に過ぎないものであったが、時に、宗祇の高峰から、連歌の伝統から歌の
道を極めようとしたが、多くの人を結び付けるべく、ご政道へと傾いていっ
た。流転きわまりない戦国の世にあって、紹巴は「天下一の宗匠」を必死で死
ぬまで演じきった。作家はそのような紹巴を造形すべく、最晩年の紹巴に「そ
うせざるをえなかったんのや」と叫ばせ、物語を結んでいる。<br />
細川幽斎については佐藤雅美の名作『幽斎玄旨』（岩波書店、１９９８年刊）
があるが、紹巴についてはたとえば藤沢周平の光秀を主人公とした小説『逆軍
の旗』のように、端役として描かれる程度であった。この度、紹巴そのひとを
主人公とした歴史・時代小説が編まれたことを嘉したい。<br />
（平成21年10月19日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_018.html</comments>
 <pubDate>Tue, 20 Oct 2009 09:29:51 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第１７回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_017.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第１７回</h3>


<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4087713113" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div><p>書　名　　『青嵐の譜』<br />
著　者　　　天野純希<br />
発行所　　　集英社<br />
発行年月日　２００９年８月１０日<br />
定　価　　　本体１６００（税別）</p>

<p>蒙古襲来の際に８代執権として事にあたった北条時宗は、はたして、世界最強の蒙古軍の来襲に対して見事、国を守った名執権であったのか。<br />
　朝鮮半島では約３０年間にわたるモンゴル帝国の執拗な侵攻の結果として、１２５９年、高麗はモンゴルに服従して、その傘下に入り、元の属国となった高麗は元の日本遠征計画の主要基地となった。<br />
フビライは襲来に先立って使節を日本へ送り込んできた。これに対して、北条時宗は戦を前提とする国交拒否で応えている。しかし、元の使者を拒絶しておきながら、対馬や壱岐に防衛の兵を配備していなかったことも事実である。<br />
武力を背景に中央アジア諸国を併呑し、巨大なモンゴル帝国を築いた元
の大汗・フビライの国書は服従を強いるだけの挑発的な内容でもので
あったならば、時宗のとった判断は日本として当然のものであったろう。
１２７４年の文永の役、１２８１年の弘安の役は日本はじまって以来の
国難であるが、二度にわたる元寇に蹂躙され、この世の地獄と化した壱
岐、対馬を主な舞台とし、壱岐にかかわりを持つ若者たちを主人公とし
た『青嵐の譜』は、実在、虚構をまじえた多くの人物を登場させ、国内
外の錯綜する状況にふれながら蒙古襲来を壮大なスケールで描いた歴
史・時代小説である。<br />
喜平次は博多の商人謝国明の番頭で、壱岐での商いを任されているがも
ともとは北条氏に滅ぼされた鎌倉の有力御家人三浦氏の郎党であった。
喜平次には実子の二郎の他に、宗三郎と麗花という義理の子があった。
麗花は高麗から壱岐風本の湊にほど近い、無人島に漂着したのを二郎と
宗三郎が救ったのを娘として育て上げた。<br />
二郎よりもふたつ年下の１２歳の宗三郎は父親が誰なのか知らず、母が
博多唐人街・唐坊の遊女で、宋の生まれらしいことを知る。宗三郎の母
は宋の都、杭州臨安府の近郊の貧しい農家の生まれで、日本に渡り遊女
となって宗三郎を産んだのだった。〔唐坊は中国人居留地を意味する。
日宋貿易の拠点である博多には、すでにチャイナタウンが存在していた
のである。〕<br />
麗花は高麗の都だった開京にほど近い、貧しい村に、正４品の将軍林英
を父とし、賎民の母から生まれた。左別抄に追われた林英は己の死と引
き換えに娘・麗花を日本に亡命させた。かくして、孤児という似た境遇
の宗三郎と麗花の二人は壱岐随一の長者である喜平次の息子と娘になっ
た。<br />
幼い頃から絵を描くのが好きだった二郎が博多の綱首（博多の唐坊に住
み船を所有して日宋貿易に従事していた宋人）・謝国明の館で、謝国明
に絵の才能をほめられたことから、深い絆で結ばれているはずの３人の
兄妹を切り離す。二郎が「宋にわたり、絵を学んでくる」と言い出した
のである。<br />
「いつ蒙古が攻めてくるかもわからんに、絵描きになるとは悠長な話た
い」と宗三郎は二郎の無謀さをとがめたい気持ちであった。<br />
時あたかも、元は属国の高麗を通して服属を求める国書をたびたび送っ
てきた。鎌倉幕府はこれを無視。蒙古軍の侵攻は避けがたいものとなっ
た。<br />
　二郎の入宋を前にして、仲良しの３人は山桜の花が満開の裏山に上
る。眼下には風本の町並みが見える。それを眺め下しながら、桜の木の
下で固く約束を交わす。「３年後の春、またここで花見ばしよう」<br />
　二郎は父・喜平次とともに南宋に渡る。が、喜平次の船が嵐にあって
沈み、次郎は遭難してしまった。<br />
約束の三年はとうに過ぎた。喜平次が死んで、二度も家族を失った麗花
は謝国明に引き取られて博多に移り住む。宗三郎は、伴弥七郎夫妻の養
子になり、武士の子となった。父伴弥七郎は壱岐の守護代平景隆の郎党
である。<br />
文永１１年（１２７４）宗三郎は１８歳、平景隆の近習となっている。
その年の１０月１４日、壱岐へ途方もない大軍が来寇する。文永の役の
勃発である。<br />
本朝はじまって以来の、未曾有の国難。元寇の凄まじい虐殺 。
捕らえられた男達は悉く殺され、女たちは掌に穴を開けて紐を通され、
数珠繋ぎにされて連れて行かれた。宗三郎は「これが本当に人が人に対
する仕打ちなのか」と怒りに震えつつ、この危機に真剣に向き合ってい
るとはとても思えなかった鎌倉幕府の対応を呪う。最初の国書からすで
に６年がたっているのに、北条氏は一族同士で延々と権力を奪い合い、
殺し合いまでしていた。１８歳という若さで執権に就任した北条時宗は
相当の器量の持ち主という評判だが、同年代の宗三郎から見れば、周囲
に祭り上げられているようにしか思えない。身内同士で争う前に、他に
やることがあるだろうと腹が立つのだ。<br />
　１０月１５日、樋詰城が落城する。平景隆は衆寡敵しないことを知り
ながら、孤軍奮闘して自刃する。鎌倉は平景隆を平然と見殺しにする。
壱岐と対馬は最初から見捨てられていたのかもしれないと宗三郎は鎌倉
への不信を露にする。<br />
平景隆この人は自分の実の父ではないかと宗三郎は感じていた。でなけ
れば、景隆の近習などという身分不相応な職務に重用されるはずはな
かった。<br />
「城が……」、空に昇っていく煙を景隆に父を重ねる宗三郎が悄然と見
守るシーンは本書の感動的なシーンの一つである。<br />
麗花の立場はさらに複雑である。麗花には高麗が祖国だという意識はも
うほとんど消えている。壱岐には一年半の間しか過ごさなかったが、ほ
とんど故郷のように感じていた。その故郷を、自分の生まれた国の軍勢
が蹂躙していると知って、麗花は目眩する。<br />
たったひとりで地獄と化した壱岐から抜け出した宗三郎は、戦況を博多
の本陣に伝える。<br />
文永の役（１２７４）から弘安の役（１２８１）まで７年のブランクが
ある。<br />
一転して舞台は日本から南宋末期の中国杭州臨安府へと移り、日本と大
陸を股にかけた物語は一気にスケールを増幅して加速する。第四章「異
郷」の幕開けである。<br />
日本刀を持った、絵の上手い若い男が杭州城内のあちこちに落書きをし
ているという噂が流れている。その男こそ、二郎であった。<br />
　やがて、南宋の滅亡。元軍に捕らえられた二郎は鄭という姓を名乗る
臨安出身の宋人として、范文虎配下の将士となる。范文虎はかつての宋
の将軍で、元に投降し、江南で宋の残党討伐に従事している元の将軍で
ある。<br />
松浦党に身を投じていた宗三郎は、この数年、大陸で海賊のような行為
に手を染めていたが、大陸の、慶元という湊で二郎と遭遇する。<br />
「あいつは壱岐の住人を皆殺しにした国の軍にいる」。どんな事情があ
れ、戦場で出会えば敵同士なのだ。<br />
弘安４年（１２８１）４月１８日、弘安の役がはじまる。二郎２７歳、
宗三郎２５歳。フビライはまたも、なんの大義もなく他国に攻め入り、
壱岐と対馬で暴虐の限りを尽くす……。<br />
壱岐と対馬は古来、アジア大陸と日本を結ぶ懸け橋であり、中国・朝鮮
から日本へ伝来した古代の文化は全てこの道を経由してきたものであ
る。また、対馬・壱岐の道は大陸から日本へ、また逆に日本から朝鮮・
中国への侵攻ルートとなった。上古、国郡の制ができたとき、これら小
さな島は「壱岐国」と「対馬国」と、「国」として遇せられた。わが古
代人たちはこれらの島々の重要性をよく把握していたのである。<br />
本書成功のもとは元寇の戦いの主戦場となった壱岐を故郷とする若者三
人を主人公としたことである。しかも３人の造形が秀でている。宗三郎
は固有の日本の武士、二郎は日本と中国の双方に関わりのある商人の
子、麗花は三別抄の乱にかかわりを持つ高麗女、加えるに、日本人が蒙
古軍の一員として日本襲撃に加わるという虚構は興趣に富み、元寇とい
う時代の荒波に翻弄される三人の、成長と再会の物語に読者はのめりこ
むことになるだろう。<br />
作者の天野 純希（あまの すみき）は１９７９年生まれ、<br />
名古屋市出身。愛知大学文学部史学科卒業。２００７年『桃山ビート・
トライブ』で第２０回小説すばる新人賞を受賞している。<br />
（平成21年10月4日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_017.html</comments>
 <pubDate>Thu, 8 Oct 2009 16:28:22 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第１６回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_016.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第１６回</h3>

<p><div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4048739654" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div>書名『芙蓉千里』<br />
著者　須賀しのぶ<br />
発売　角川書店<br />
発行年月日　　平成２１年６月３０日<br />
定価　　本体１６００円（税別）</p>

<p>日露戦争の４年後、この物語のヒロイン、フミは楡の葉が陽光にきらめき、リラのあまい香が漂う国際都市・哈爾濱（ハルビン）にやって来る。<br />
哈爾濱はロシアの極東侵出の拠点として、ロシア人が造った町である。<br />
松花江に面した哈爾濱の地を帝政ロシアは中国国内に敷設するシベリア鉄道の短絡線である東清鉄道の建設拠点として選んだ。<br />
１２歳のフミの夢は「大陸一の女郎になる」ことであった。<br />
当時、満洲へは日本人売春婦が毎年、大挙して入り込んでいった。「哈爾濱総領事館の１９０７年１２月末の調査報告によれば、哈爾濱市在住の日本人は、男２９２、女３３５の計６２７人で、女のうち約半数に当たる１７６人が売春婦」（倉橋正直著『北のからゆきさん』１９８９年刊）であった。ロシア人は新開拓地に初めに寺院を立てるが、日本人はまず女郎屋を立てるといわれた所以である。<br />
フミのめざす遊郭「酔芙蓉」（チヨイフーロン）は哈爾濱の支那人の街・傅家旬（フージャーデン）にある、という設定である。日露戦争前は露西亜人しか住めなかったプリスタン（埠頭区）の東に位置するこの町は住民の９割が支那人であった。哈爾濱建設のために遠い故郷から駆り出されてきた苦力たちが、東清鉄道の鉄道付属地の外側に位置するこの地域に住み着いたのが、傅家旬の始まりといわれる。阿片窟がごろごろあり、光景も喧騒も独特のにおいのするこの支那人の街には、場所柄、日本人の客はあまり来ないが、フミはこれから７年の歳月を傅家旬で過ごすことになる。<br />
「酔芙蓉」の女将の芳子は、「女郎になりたい」と言い放つフミに不思議な魅力を感じる。<br />
遊郭は女の地獄である。女郎屋は言葉も通じぬ男と女がただ生の証を求め合い、欲望を放つことだけの地獄だが、フミにとっては、フミの知る幸せのすべてがあるのが遊郭であった。蒲団、銀シャリ、雨の心配の要らない屋根こそ、フミが毎日夢に見、手にしたいと願ったものであった。<br />
生まれは吉原、ガキの頃は辻芸人の娘として辛酸を嘗めた少女フミが、哈爾濱傅家旬の女郎屋「酔芙蓉」に下働きとして入り込み、やがて、哈爾濱で最も有名な芸妓「芙蓉」になるというのが、大まかなストーリーだが、本書は単なる「色もの」小説ではない。<br />
「酔芙蓉」の女郎の源氏名はすべて花の名がついている。<br />
新潟から共に渡満してきたが沈み込むタエを励ますために、フミはスンガリー（松花江）のほとりで、草鞋のまま越後獅子のとんぼをきる。女郎を嫌い本気で芸妓を目指していた一つ年上のタエは「紫桜」。哈爾濱桜は日本で見る桜とはまるで違うものであり、「わってに故郷なんてない」と思っていたフミだが、「紫桜」のタエが舞う姿に故郷・日本の桜を重ねる。<br />
伝法な口調がよく似合う、色とりどりの花を散らした黒い長襦袢に金の半袴をつけた千代は「牡丹」。娘を金の生る木と見なして哈爾濱までも追いかけてきて娘の生血を吸う父親をはじめとして、あらゆるものに裏切られ、最期は遊郭の忌み嫌われる化け物と成り果てるが、牡丹はまごうかたなく、粋でいなせで、誇り高い女郎であった。<br />
　胡蝶蘭のように清楚で気品溢れ、透き通るような肌と華奢な立ち姿とがあいまって、どこか浮世離れした雰囲気につつまれた、素性もなにもかも、謎に包まれた女郎「蘭花」。支那語も露西亜語も読み書きできる、苦界に舞い降りた天女のような人・お蘭ねえさんに、フミは母の面影を重ねている。<br />
　そて、フミは「芙蓉」。芙蓉は女将の芳子が浦塩（ウラジオストック）に渡ってきたときの名前で哈爾濱に来て店を構えたとき、その名をもとに屋号を「酔芙蓉」とつけた。女郎にとって、恋は地獄。しかし、フミは一人の男・山村健一郎を愛してしまう。山村はなんらかの反政府運動に関わっている可能性が強く、「芙蓉」の人生に重大に関わってくる。<br />
美しく花を咲かせるように、それぞれの夢をいだきつつも、運命に翻弄されて生きてゆく女郎たちの悲哀が源氏名にこめられているようで、読者は胸打たれる。<br />
やがて、フミにとって、忘れられない出来事がおこる。<br />
「内地から伊藤公がこの哈爾濱においでになる」。哈爾濱の日本人は増えてきたとはいえ、露西亜人にくらべるとまだ少ない。とくに女性は極端に少なく、前述のごとく、その大半は女郎であった。日本総領事は体面を気にして、哈爾濱の女郎屋は全て料理屋と名乗らせ、従業員を酌婦として登録していた。出迎えには和装で華やかに着飾った美しいご婦人が欠かせない。そこで娼館の中でも美人揃いと名高い「酔芙蓉」に協力を、という次第になった。<br />
明治４２年（１９０９）１０月２６日、哈爾濱駅構内で、枢密院議長で元韓国統監の伊藤博文が朝鮮人の刺客に暗殺される。<br />
しかし、フミの衝撃は伊藤博文の死の当日のお蘭の自殺にあった。伊藤博文が死んだ瞬間はたいして衝撃を覚えなかったのに、出迎えから戻ったお蘭が自室で、血溜まりの中、突っ伏したまま死んでいた。清らかな胡蝶蘭が炎の中に儚く落ちていくかのような死を見て絶句する。朝鮮人の独立運動家・安重根の暗殺の動機は理解できるが、蘭花が自分を殺す理由がフミにはどうしても分らなかった。やがて、「蘭花」ことお孝の父が元会津藩士であることを聞かされる。<br />
「敵の親玉だったじいさんが来ると聞いて、あの娘は思い出しちまったのかもしれないさ。自分が侍の娘だって言うことを。ああ、でもそう考えれば全てが合点が行く」と千代はうめくように語る。<br />
幕末の動乱、戊辰戦争からすでに４０年の歳月が流れている。「まさか、そんな馬鹿な」と鸚鵡返しに言うフミに、千代は告げる。「よけいな夢は見ないことね」と。<br />
小説の上でも、時代は奔流のごとく行き過ぎてゆく。　<br />
「人はいつかいなくなる。いつかは全て消え失せる。消えれば忘れる」との作者の独白めいた語りが重い。<br />
フミが哈爾濱に来て４年目の１９１２年におきた辛亥革命で清王朝は倒れ、中華民国が成立した。「しかし、歴史的な大事件にちがいないこの革命は、この傅家甸ではさして話題にものぼらなかった」が、フミの馴染みの中国人の客は、「悪いこた言わねえ。本当に、早く結婚するなりなんなりして、傅家甸からは一刻も早く出て行くんだ」と日本人であるフミの身を案じてくれた。<br />
６年経った大正４年(１９１５)１月に、日本はあの悪名高き「対華２１カ条の要求」を中華民国に押し付ける。「日本政府の露骨なまでの支那侵略に対し、各地で反対運動がおこる。そうした政治運動にあまり熱心でない傅家甸の住人ですら、さすがにこの無茶な要求には黙っていられなかったらしく、『酔芙蓉』や日本人の店への風当たりが強くなった」。１９歳のタエは「日本政府がこのまま突っ走るなら、私たちは遅かれ早かれ、いつかはここから追い立てられることになる」とつぶやく。<br />
日露戦争、辛亥革命、やがてロシア革命と混乱が続く中で、東清鉄道の経営をめぐってロシア・ソ連、中国、日本の三つ巴の紛争が耐えなかった。哈爾濱はその舞台となった。<br />
思えば、いまからちょうど百年前、日本の対外政策は大きな転換期に差し掛かっていた。伊藤博文亡き後、長州閥の長老として初代朝鮮総督に就任し、政治を壟断し大陸政策の采配を振るったのは寺内正毅であった。長州閥が黒幕で朝鮮問題の邪魔者として伊藤博文を暗殺したのではとの巷説も捨てがたい。<br />
本書はそうした時代の、特に、伊藤博文の暗殺の１９０９年から「対華２１カ条の要求」の翌年（１９１６年）までの７年間を背景として、哈爾濱の傅家甸の遊郭に生きる遊女たちの生きざまを描きつつ、当時の世相と歴史の動きまでをも射程に入れて活写した壮大な「色もの」小説である。<br />
作者の須賀しのぶは、生年不詳。上智大学文学部史学科卒業。１９９４年「惑星童話」でコバルト・ノーベル対象読者大賞を受賞し、以後コバルト文庫を中心に活躍しているという。<br />
（平成21年9月13日　　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_016.html</comments>
 <pubDate>Fri, 25 Sep 2009 19:35:40 +0900</pubDate>
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