Archive for June 2009
バウルの便り/第7回
インド西ベンガルの村からバウルの便り

6月も末になるというのに本格的な雨がありません。ぐったり長くなって寝ているのは犬や猫だけにとどまらず、人間までもがごろりと横になってしまいそうです。風があれば鳥のさえずりも軽やかに響き、木々は風の呼吸に合わせて踊ります。けれども、一枚の葉っぱも動かない無風状態の高湿度の重苦しい暑さの中では動物や人間までも動きが止まってしまうかのようです。地球温暖化、異常気象。只でも暑いインドのような国で更に暑くなるというのは生活の限界を感じるものです。実際、「こんな暑さは今まで経験したことがない」とか「こんな寒さは初めてだ」とかいうようなことを70歳を過ぎたお年を召した方々が喋っておられるのを最近よく聞きます。新聞もテレビもない生活をしている私にとって、その人たちの「人生初」宣言は、ほとんど「史上初」の、少なくともここ7,80年の新記録であることを証明しているのと同じです。
歴史時代小説を読む/第10回
雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第10回
書名『闇の華たち』
著者名 乙川優三郎
発売 文藝春秋
発行年月日 2009年4月15日
定価 ¥1400E
幕末の桜田門外の変と昭和の二・二六事件には共通するものがある。 桜田門外の変から戊辰戦争までわずかに7年、二・二六事件から第二次世界大戦の勃発までもほぼ同様の歳月である。また、雪の日の凶行という点も似ているが、そもそも、この二つの事件は、その後の日本のあゆみに大きな転機をもたらした大事件であった。 本書『闇の華たち』に収められた短編「面影」は桜田門外の変前後と戊辰戦争前夜を交錯させた歴史小説で、あの時代の当事者である立見と半蔵という二人の佐倉藩士が登場する。
「昨日の焼討ちで、薩摩は兵を出した幕府や庄内を潰す理由をもらったようなものだ、もともと紛争の火種を作って挑発したのは薩摩の方だし、今度は本気で出てくるだろう。戦いにも大義名分がいるが、あれほど幕府を困らせた攘夷はどうなったのかな」
政権を返上した幕府が薩摩藩の挑発に痺れを切らし、遂に三田の薩摩藩邸を焼き討ちした翌日に、立見と半蔵は再会する。立見の言う「薩摩が今度は本気で出てくるだろう」の「今度」は7年前の桜田門外の変を踏まえている。
北京の胡同から/第15回
最近私の住んでいる胡同で、ふたたび毎日のようにドラマが撮影されていた。衣装棚や出番待ちの人用のベンチがずらりと並び、照明がギラギラと光って、狭い胡同がまるで撮影スタジオさながら。噂ではすでに放映されている回もあるのだとか。
風情のある胡同の残る一帯が映画やドラマの舞台となることは珍しくないが、今回は、近所の胡同に雨後のタケノコのように増殖しつつあるバーや喫茶店が舞台のもよう。海外はもちろん北京でも、昔ながらの胡同の風景が、懐かしがられるもの、消えゆくもの、としてより、おしゃれなもの、新しい感性で楽しめるもの、として紹介される機会が増えている。モダンさを狙うがゆえの過度の改造も多いが、伝統の再生という意味では、いい流れだといえるだろう。
歴史時代小説を読む/第9回
雨宮由希夫の歴史時代小説を読む/第9回
書名『黒牛と妖怪』
著者名 風野真知雄
発売 新人物往来社
発行年月日 2009年5月14日
定価 ¥700E
鳥居耀蔵〔甲斐守忠耀〕(1796~1874)は老中・水野忠邦に抜擢され、天保12(1841)に始まる天保の改革に尽力した幕臣である。天保の改革において南町奉行の鳥居耀蔵は、世情に通じ“遠山の金さん”と親しまれる北町奉行の遠山左衛門尉影元とは対照的に、改革令に違反する者を非常に厳しく取り締まったところから、江戸庶民から甲斐守忠耀をもじって“妖怪(耀・甲斐)”と渾名され、忌み嫌われた。天保の改革が行き詰まるとともに失脚した耀蔵は弘化2年(1845)、有罪とされ全財産没収のうえ、讃岐国丸亀藩に幽閉された。以降、鳥居は明治維新の際に恩赦を受けるまでの23年間、軟禁状態に置かれるのである。
中国知識人群像/第6回
続・胡耀邦を記念する人びと
『胡耀邦伝』と「山寨文化」
4月15日の胡耀邦没後20周年の前日に、北京から雑誌『炎黄春秋』の最新号が届いた。中国のジャーナリストや作家の友人たちからは、天安門事件20周年につながる胡耀邦関連の報道はできず、公式記念行事もないと聞いていたが、果たして『炎黄春秋』がどのような文章を掲載したか、あるいは掲載できなかったかが気になっていた。『炎黄春秋』という雑誌の特性を考えれば、2009年4月の号に胡耀邦の名前がないはずはない。はやる気持ちを抑えながら郵便小包を開いて、驚いた。表紙には、巻頭論文「李鋭:向胡耀邦学習」と記されていたのだ。
中国知識人群像/第5回
胡耀邦を記念する人びと
共青城
山というよりは小高い丘というほどのなだらかな斜面を登りきったところに、胡耀邦の墓地はあった。生い茂る木々が切り拓かれ芝生の斜面が続くその先に、胡耀邦のレリーフが刻まれた巨大な墓碑がたたずんでいた。胡耀邦、1915ー1989。墓碑には、中国少年先鋒隊、中国共産主義青年団、そして中国共産党の徽章がそれぞれ刻まれている。
胡耀邦の墓地は、共青城の町はずれにある。訪ねたのは随分と前のことだが、案内してくれた共青城の担当者が誇らしげに町の歴史を語りながら、資料室に展示された共青城の立体パノラマを見せてくれたことを覚えている。共青城とは、文字通り中国共産党の青年の町だ。江西省の省都である南昌市と、廬山の麓で長江を臨む九江市のちょうど中間に位置する共青城は、中国共産党と深い関わりをもって誕生した。1955年に上海の青年有志98名が農地を切り拓いて共同生活を始め、「共青社」と名付けたという。1984年、当時総書記だった胡耀邦が2回目の視察に訪れて「共青城」と命名し揮毫したことから、胡耀邦ゆかりの地となった。

















