長城を行く

第04回

黄崖関──漁陽古地の行幸路

薊県のメインストリート武定街、黄崖関長城までは車で約1時間かかる

▲薊県のメインストリート武定街、黄崖関長城までは車で約1時間かかる

 
万里の長城全図

◉万里の長城全図(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

 明代長城の起点となる山海関、そのすぐ西に屹立する角山長城、そしていま見てきたばかりの黄崖関長城も外装を煉瓦で覆った構築物だった。万里の長城を西へ敦煌郊外までたどる過程で判ったことは、長城には石や煉瓦で築いた構造ばかりでなく、土を突き固めて築いた土長城、そして粘度の低い土や砂に植物繊維を混ぜてつくった長城と、幾種類かあることがわかってきた。
 

長城の内部構造

 全長約6千キロわたる長城の全行程で、もっとも広く採用されているのが「版築」とよばれる建築工法である。版築の「版」とは、土壁を築くときに用いる挟板のことで、この板で囲った泥土を丸太あるいは石塊で突き固めて長城を構築していく。平原地帯など泥土を調達しやすい地域で採用された方法だ。長城全線を俯瞰してみると、九辺鎮のちょうど中間あたりに位置する大同鎮(山西と察哈爾右翼前旗=内蒙古自治区の省境にある鴉角山から鎮口堡=天鎮県東北までの324キロ区間)以西の長城は概ね版築工法で築かれた土長城である。

長城の構造

▲長城の構造。左上は煉瓦や石で外装を覆った長城(黄崖関)、右上は煉瓦外装の内部で石と土を突き固めている。左下は版築工法で突き固めて構築した長城(ゴビの山丹)、右下は砂漠地帯の砂礫に葦を混ぜて築いた長城(敦煌郊外の漢代長城)

 山岳地帯など大量の泥土を調達するのが困難な地域では石を積み重ね、あるいは日干し煉瓦を積んで長城を構築している。その長城壁の外側は石、もしくは煉瓦で覆われているが、内部はやはり土や砂利を突き固めてある。黄崖関を擁する薊鎮(河北省の渤海沿岸にある山海関から漁陽古地を通過し、北京郊外の居庸関までの約600キロ区間)から宣府鎮(居庸関から河北と山西の省境を流れる西洋河沿岸の平遠堡に到る区間512キロ区間)に至る長城のほとんどがこれだ。
 砂漠地帯など土の密度が低く、容易に崩れやすい土壌では、砂礫に木片や藤(とう)、藁、葦など繊維質の素材を混ぜ、構造を強化して長城を築いた。ゴビを走る長城などにこの構造が散見される。
 

県城とは何か

 夕方、黄崖関から薊県の県城にもどる。
 中国の地方行政区画はまず自治体(地方政府)としてのトップに位置する直轄市(北京、天津、上海、重慶)があり、それらが省(23省)、少数民族自治区(5自治区)と同列に存在している。そして90年代の後半、これに英国から主権が返還された香港、ポルトガルから返還されたマカオがそれぞれ特別行政区として加わった。省や自治区の下級行政区画には市、県、少数民族自治州などがあり、中国では市が県の上位に位置しているのが特徴である。県城という行政区画はこの県政府所在地のことで、県の中心といえよう。
 経済の改革開放政策が緒についたばかりの70〜80年代初、県城といえば多くは都市から遠く切り離され、貧しく、不衛生で、前近代的な街区が連鎖していた。そこに生活する人たちは、わずか100キロも離れていない近隣の都市にさえほとんど行ったことがなく、また将来的にも行く機会に恵まれないのが普通だったのである。国内の経済が有機的につながる以前のことなので都市から離れた県城は人の移動も少なく、きわめて閉鎖的だった。当時北京に居住していたころ、たまにそんな県城を訪れると、貧しく、寂しく殺伐とした風景に耐えられず、数時間も滞在するともう北京に帰りたくなったものである。

県城の中心に建つ鼓楼と広場。ここには人々の憩いの時間が流れている

▲県城の中心に建つ鼓楼と広場。ここには人々の憩いの時間が流れている

 ところが1978年12月に開催された三中全会(中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議)で経済領域に限定した対外開放政策が決定されると、最初はゆっくりと、そして90年代以降はそのスピードが加速され、県城も経済が活性化し、あらゆる物資が流通して富みはじめ、不潔で殺伐とした街区は一新され、むしろ喧騒甚だしい都市部よりも生活環境が良くなってきた。経済改革が都市から海原のような農村地帯にもとどき始めたのだ。 
 薊県の県城は街のランドマークでもある鼓楼とそのまわりを囲む広場を中心に広がっている。鼓楼を東西に貫く道路が武定街、南北に走るのが漁陽街である。そして鼓楼の扁額には薊県の古名である「古漁陽」の二文字が冠されている。鼓楼の「漁陽」とは、いったいどういう意味なのだろうか。 
 この「漁陽」という言葉を中国の『辞海』や諸橋轍次の『大漢和辞典』で引いてみると、「漁水之陽得名」あるいは「郡名、河北省密雲県的西南」などとある。諸橋の辞典に「河北省密雲県の西南」とあるのはきっと往年の行政区画で、現在は北京市密雲県の東南とすべきである。「漁」は漁水だから、白河のことだろう。「陽」は山の南面した斜面、または河の北岸を指す。中国大陸では河川は概ね西から東に流れ、漁水はちょっと南に傾いているがやはり西北から東南方向に流れている。つまり中国の河川の多くは両岸が南北に対面しているのである。北岸は南に面しているので、当然のことながらよく陽が当たる。このことから漁陽とは陽光に満ちあふれた漁水の北岸、つまり現在の密雲東南部から薊県の一帯であることがわかる。北京に漁陽飯店という立派なホテルがあり、その名前の由来についてずっと判らないでいた。漁陽とは、南に面した漁水の北岸を指す言葉だったのだ。

家壁や塀に貼られた媚薬広告

▲家壁や塀に貼られた媚薬広告。中国製バイアグラ(偉哥)が興味深い。「偉哥」は「偉大なお兄さん」という意味だ

 改革開放で潤いはじめた県域にいくと、裏町の家壁や石塀などに媚薬の広告が散見される。ここ薊県の県城もおなじで「超強延時六十分」とか「早漏必治」、あるいは「一粒見効、増大増粗」などの「魅惑的」な文案が薄汚れた壁面に躍っている。このこともまた、ずっと疑問に思っていたことである。田舎には、なぜこんなに催淫を煽る広告が多いのだろう。
 近年、北京や上海などの大都会で金銭を掴んだ男たちは、近隣にある県城クラスの街に風俗を求めて向かうことが多いらしい。田舎は事業者と公安警察の関係が密接なので、取り締まりが甘いのかもしれない。だから風俗営業が盛んになり、それにともなって媚薬の広告も盛んになるのだろう。これは改革開放政策がもたらした副作用のひとつに違いない。
 

独楽寺の古影

 薊県の市街は漁陽鼓楼を核にして、メインストリートの武定街が東西に、漁陽街が南北に延びている。武定街の西端には隋から唐初に建立された千年の古刹、独楽寺や遼代に築かれたとされる観音寺白塔の枯れたシルエットが美しい。
 独楽寺は大仏寺とも称される。中核をなす観音閣に金剛力士像や脇侍菩薩像などとともに、高さ16メートルを誇る十一面観音(泥塑像)が屹立しているからだ。梁思成はその著『中国建築史』(百花文芸出版社、2005年)で、寺の創建時期を遼の聖宗統和2年(北宋太宗雍熙6年)=西暦984年としている。また、中国歴史博物館で文物の鑑定を担当した史樹青(清)はその論文『独楽寺李白署書観音之閣考』で天宝11(752)年の創建とし、諸説がある。

独楽寺観音之閣。984年に創建された千年の古刹

▲独楽寺観音之閣。984年に創建された千年の古刹

 梁思成は清末に変法派(改良派)として康有為とともに活躍した梁啓超の長男だ。東京に生まれ、北京の清華学校を経て米国ペンシルベニア大学、ハーバード大学などで建築を学んだ。中国共産党が政権を奪取した1949年以降も大陸にとどまり、北京の再建や天安門広場の設計に従事した。共産党政府に旧北京城の外側に新都市を建設して旧城を保存する案を具申したが、却下されてもいる。毛沢東ら共産党幹部は中南海をはじめとする北京の一等地に、如何にしてみずからの拠点を確保するかで争った。旧態依然とした農民思想と言えよう。その結果、現代的な方法論を具現した梁思成の副都建設案は顧みられなかったのである。
 梁啓超は康有為の変法運動に加担して清朝から追われ、20世紀初頭、日本に亡命し、孫中山が率いる革命派と「改良か、革命か」で論戦した。子息には梁思成以外に、梁思永、梁思達らがいる。

観音之閣の扁額、李白が揮毫したと伝えられる

▲観音之閣の扁額、李白が揮毫したと伝えられる

 日本軍が関外から長城の関口を攻撃し、北京や天津を包囲する中で、梁思成は1932年4月、弟の梁思達を伴って独楽寺の調査を実施した。帰京して妻の林徽因(ペンシルベニア大学で建築学を、エール大学で舞台美術を学んだ)からアシストを受け『薊県独楽寺観音閣山門考』(中国営造学社滙刊)を著した。
 独楽寺の山門をくぐると、眼前に三層構造の観音之閣の偉容が展開する。「観音之閣」の扁額は史樹青の考証によれば、唐代の詩人李白が52歳で薊州を訪れた際に請われて揮毫したものだという。扁額の左下に小さく「太白」の署名がある。現存する李白による唯一の墨跡として知られる。内部には十一面観音像が建物の三層を貫いて屹立している。
 薊州は清朝の乾隆帝が漁陽古地の東陵に行幸したルート上にあり、乾隆18(1753)年、独楽寺に行宮がつくられた。東陵は清東陵とも称され、乾隆帝の時代には清の入関後に最初の皇帝となった順治帝の孝陵、康煕帝の景陵があった。最終的には乾隆帝の裕陵、咸豊帝の定陵、同治帝の恵陵など清朝の五皇帝の御陵が置かれている。ここは現在、天津市内に現存する唯一の行宮でもある。

独楽寺の門前で路上の賭け将棋に興じる地元の人々

▲独楽寺の門前で路上の賭け将棋に興じる地元の人々

 独楽寺はこれまで幾多の改修をへて現在に至った。山門と観音之閣は遼代の統和2年に修繕された。『独楽寺大悲閣記』によれば、明の萬暦年間(1607年)に戸部郎中于陛によって改修されている。清代になると康煕初年、戸部尚書王高弘祚が修築(修独楽寺記)し、さらに乾隆18(1753)年(重修独楽寺碑記)と光緒27(1901)年にも改修工事が施された。その後、独楽寺は1980年に一般公開され、1990年の大改修をへて現在の姿になった。
 この寺は中国で最古をほこる仏教の木造建築物だ。寺の門前では男たちが車座になって路上の賭け将棋に興じ、占い師が手相を見ている。そうしたにぎわいの中を、薊県の人たちが三々五々ゆったりと行き交っている。

《参考文献》
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

河北省地図編纂委員会『河北省地図册』(中国地図出版社、2002年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
薊県文物保管所編『独楽寺』(薊県文物保管所、2002年)
倪景泉『薊州談古』元・明時期」(天津人民出版社、2005年)
洪燭『北京 城南旧事』(中国地図出版社、2014年)
譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期」(地図出版社、1982年)
羅哲文『長城』(清華大学出版社、2008年)
梁思成『中国建築史』(百花文芸出版社、2005年)
梁思成、劉致平『中国建築芸術図集』(百花文芸出版社、2007年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。