居庸関。関溝から一気にそそり立つ長城は登るのが大変だ

▲居庸関。関溝から一気にそそり立つ長城は登るのが大変だ

 渤海湾に突き出した老龍頭を起点に歩きはじめた長城を踏破する旅は、山海関、角山長城、漁陽古地の山奥にある黄崖関、そして燕山々脈の尾根を走る司馬台、金山嶺、慕田峪と外長城をめぐってきた。今回、その遊牧と農耕地帯を画する外長城から数十キロほど南下して、京師(首都)防衛の要としての役割を担った内長城の居庸関にむかう。
 居庸関長城は北京市街から北西におよそ50キロ、観光バスで1時間半ほどの距離だ。明代13人の皇帝墓として有名な十三陵やダム湖(十三陵水庫)を右の車窓にかすめながら、バスはすでに昌平区に入った。留学時代に訪れた十三陵はまだ昌平県と称した偉大なる田園の緑の風景のなかに点在していた。いま昌平区と名前を変えたこの地は人口増加で急激に発展し、北京市街の高級ホテルにも負けないような立派な宿泊施設が林立し、レストランが軒をならべ、あの忌まわしいスモッグにさえも襲われるのだ。

 

居庸関の地勢

 九辺鎮の2番目、薊鎮の西端に位置する居庸関はかつて皇帝が居住した紫禁城にいちばん近い長城の関口であったことから、古来、幾多の戦役が繰り返され、京師攻略を狙って北の草原地帯から押し寄せた遊牧民や、南方から政権の転覆をめざして襲来した農民反乱軍を撃退し、あるときは攻め込まれた。渤海沿岸から万里を走り始めた巨龍のごとき外長城は遊牧地帯との境界に天然の要害のように屹立して慕田峪までつづき、そこからもう一匹の小龍を放ち、それが内長城としての居庸関、残長城、八達嶺となって首都を護ったのである。内長城はふたたび北上し、河北省の独石口(明代長城の北限)、宣府(宣化)、大境門などの外長城につながっていく。居庸関は居庸路段に属し、灰峰下、八達峰下、石峡峪下から構成される首都防衛の要衝だった。

雲台(過街塔)。西夏文字の研究を世界に広めた舞台になった

▲雲台(過街塔)。西夏文字の研究を世界に広めた舞台になった

雲台上部の欄干に刻されたレリーフは元代のものとされる

◁雲台上部の欄干に刻されたレリーフは元代のものとされる

 居庸関からさらに北東の八達嶺方面にむかって10キロほどいくと、途中に京包(北京-包頭)鉄道の青龍橋駅がある。このあたり一帯は地勢が険峻であることから鉄路の難所で、スイッチバック方式の運行をつかさどる線路形式を見ることができる。スイッチバックは中国語で「折返式鉄路」、あるいは「人字形鉄路」などと称され、漢字表記はその意味がまことにわかりやすい。北京から張家口方面にむかう鉄路に乗ってみればすぐにわかることだが、列車は居庸関のちょっと前にある南口駅をすぎる辺りから山あいに差しかかり、次の青龍橋駅でスイッチバックにはいり、斜面をいったりきたりしながら燕山々系を登っていく。この天険を越えなければ、鉄路は隣接した山西省や内モンゴルの大地に乗り入れることがかなわないのだ。ここを越えると大地はふたたび平原となり、九辺鎮の3番目にあたる宣府鎮の中心があった宣化、そしてそ先の張家口、大同などへと連なっていく。
 居庸関長城がのたうつ連山は西の太行山脈と東の山海関をむすぶ燕山々系に位置し、その特徴は険しい山の間を流れる谷川(関溝)を跨いでいることである。この関溝は山西省の大同から宣化をへて、北京に通じている。居庸関は切り立った山の底に流れる関溝を跨いでいるために勾配が急で、登りはじめるとその急峻な城壁の階段に阻まれ、登攀には強靭な体力を要する。

 

長城に到らずんば好漢に非ず

 登り口の広場に関王廟という名前の道教寺院がある。関口に建てられた立派な城楼を上がっていくと、そこには中共軍を率いた毛沢東が1935年、新たな根拠地になる陜西省の黄土高原地帯にある延安へむかう途中の山中で詠んだ『清平楽・六盤山』の一節「不到長城非好漢」が石塔に刻まれている。

天高雲淡(天はあくまでも高く、雲は淡くたなびき)
望断南飛雁(雁の南に飛ぶを見えなくなるまで望む)
不到長城非好漢(長城に到らずんば好漢に非ず)
屈指行程二万(指を屈して数えること、すでに行程二万里)
六盤山上高峰(いま六盤山の高峰に到達し)
紅旗漫巻西風(紅旗、西風をゆるやかに巻いてはためく)
今日長纓在手(今日、長纓はこの手のなかに在り)
何時縛住蒼龍(何つの時か蒼龍を縛りあげることができようか)

残長城。八達嶺に属し、最近になって修復が始まった。まだ一般にはほとんど知られていない。

▲残長城。八達嶺に属し、最近になって修復が始まった。まだ一般にはほとんど知られていない。

 長纓とは長い帯、紐のことで、蒼龍は想像上の蒼い龍、ここでは仇敵の蒋介石を指している。蒋介石は全国統一の一環として、江西省に拠点を築いた中国共産党に対して前後5回にわたる掃共作戦(1930年12月〜34年10月)を実施し、各根拠地を包囲、攻撃した。これに耐えきれなくなった共産党軍は1934年10月16日未明、中華ソヴィエトを放棄して雩都県の郊外を流れる貢水の河畔に隊列を整え、全行程1万2千キロの「長征」(ロングマーチ)と自称する新しい根拠地を模索するための潰走行軍を開始した。兵員は複数のルートに別れて進み、1年後に陝西省保安県の黄土高原にたどりついて延安に根拠地を再構築するまで湖南、貴州、雲南、四川、青海、甘粛などの西部各省を大きく迂回し、国民党軍をかわしながら進軍した。この行軍が「大西遷」とも称される所以である。

関溝(谷川)を跨ぐ居庸関長城

◁関溝(谷川)を跨ぐ居庸関長城

 この行軍の最終段階にあった1935年の秋10月、最後の難関が六盤山で、毛沢東は山越えの途中で上に示した詩を詠み延安へと向かったのである。新たな根拠地の構築を実現するための大西遷を万里の長城への登攀に例え、その困難と期待を詩にこめて詠ったのだ。
 居庸関の「居庸」という名称は秦の始皇帝期、苦役についた「庸徒」(労働力)がこのあたり一帯に居住したことに由来するらしい。つまり「庸」徒が「居」住した地の関、という意味から、居庸関となったのである。秦の長城はここからさらに遥か北を通っていたが、始皇帝は長城の築城と沿線への補給を目的に、付近一帯に12郡を設け、そのうちの上谷郡が現在の昌平、延慶、懐来、宣化、保定一帯に位置していた。

「不到長城非好漢」の碑は八達嶺など他の長城にも建てられている

◁「不到長城非好漢」の碑は八達嶺など他の長城にも建てられている

 居庸関は長城以外に、雲台とよばれる歴史的な建築物がある。雲台はもともと過街塔と称され、上部に三座あるいは五座の塔がそびえていた。街道を跨ぐ構造は元代建築の特徴で、門塔、塔門などとも愛称される。ここ以外では元の世祖期(1260-1294)、大都の南城(現在の北京宣武区)に建設された塔門、恵宗期の至正14(1354)年に盧溝橋で完成した過街塔などが知られる。北京のほかにも河北省承徳にある普陀相乗之廟の塔門、鎮江江蘇省鎮江の昭関(過街塔)、広西チワン族自治区桂林の舎利塔、雲南省官渡にある過街塔などが有名だ。いずれも通行人が街路を跨がった雲台の下(内部)を歩きながら仏をいただく、という目的があった。居庸関の雲台の内壁には多くのレリーフや文字が刻まれている。レリーフはすべてラマ教の彫刻で、五曼荼羅や東西南北、東北、東南、西南、西北、上下の10方向に仏が配置された十方仏、千仏、四大天王、交叉金剛杵(密教の法具)などが壁面に刻されている。文字は、梵語(古代ネパール文字)、チベット語、パスパ文字(モンゴル語)、ウイグル文字、漢字、西夏(タングート)文字の6種類で、陀羅尼経文や造塔功徳記などが記されている。これは元の時代における周辺諸国との頻繁な交流を示すものであろう。とくにここで発見された西夏文字は、それまで謎につつまれていた同文字の研究を大いに発展させるきっかけとなった。

 

西夏文字。雲台の内壁に刻されたこの文字の発見がきっかけとなって西夏文字の研究が世界に広まる

▲西夏文字。雲台の内壁に刻されたこの文字の発見がきっかけとなって西夏文字の研究が世界に広まる

「今」という字を西夏文字で書くとこのようになる。下の2文字は、画数の多い西夏文字の見本

▲「今」という字を西夏文字で書くとこのようになる。下の2文字は、画数の多い西夏文字の見本

雲台の内壁に刻された梵語

▲雲台の内壁に刻された梵語

雲台の内壁に刻されたパスパ文字(左)と縦書きのウイグル文字(右)

▲雲台の内壁に刻されたパスパ文字(左)と縦書きのウイグル文字(右)

雲台に刻まれた西夏文字

 数千年にわたり幾多の王朝が盛衰した中国大陸において、夜空に一瞬の光芒をひく彗星国家のようにわずか189年の歴史しか刻まなかった西夏(タングート)王国の文字がこれほど後世の学者の興味を集めようとは、この文字を創らせた開国の王李元昊も想像できなかっただろう。
 西夏文字は現在確認されているものだけでも約6000字ある。それらの制定過程で、漢字を手本にしたのはその形態から明らかだ。まず、曲線を多用した文字ではなく、直線を基本にしていることである。右側から書き始めるのも漢字と同じである。形も○型ではなく□を基本にしている。漢字の「偏」や「旁」に相当するパーツを有し、それぞれを組み合わせて新しい文字を作り上げ、意味と音を決めていく方法も漢字と同じだ。字体に草書体や印鑑などに多用する篆書があるのも似ている。
 たとえば中国語の「今」に相当する西夏文字は右図のようになる。これを見ると判るように一見漢字と見間違えそうだが、いずれの字も筆画が多く複雑で、この点は漢字と大きく異なる。
 西夏文字の探求は19世紀後半から欧米、ロシア、日本、そして中国本土で精力的に展開された。西夏文字の発見の舞台となったのは甘粛省の武威(ゴビ灘のオアシス城市)で、当地の文廟に併設される西夏博物館の入り口ホールにその現物である西夏碑、つまり「重修護国寺感通塔碑」が展示されている。発見したのは清代の西北史地学者で武威人の張澍とされる。嘉慶25(1820)年、張は地元の名刹清応寺に参り、そこで問題の碑を見つけ出し、碑の裏側の漢文説明から碑表面に刻された文字が西夏文字であると判断した。
 この直後、やはり武威の金石学者青園は地元で発見した古銭の文字が西夏碑と同じであることに気づいたことを同時代の古銭研究家、初尚齢がその著書『吉金所見録』で明らかにしている。

 

探検家コズロフの功績

 諸外国で西夏文字の研究に火がついたのは、居庸関の雲台(過街塔)に刻まれた西夏文字を19世紀末に欧米の研究者が発見し、世界に紹介したことによる。過街塔の通路内壁に刻された西夏文字の音韻研究がきっかけとなって、日本をはじめとする外国研究者の西夏文字に対する興味が増幅されたのだ。

 西夏文字の研究に大量の資料を提供したのは、1907年にロシアが派遣した探検隊であろう。隊長のピョートル・クズミッチ・コズロフ率いる一行はシベリアのキャフタからモンゴルを縦断し、青海湖に至る往路と復路で西夏遺跡が豊富に残る黒水城(カラホト)を二度にわたり踏査し、豊富な史料を収集した。その成果を基にして『西夏国書略説』、『西夏国書類編』、『番漢合時掌中珠』(西夏後と漢語の対照字典)などが中国の学者によって編まれた。コズロフの探検紀行は『蒙古と青海』(白水社、1967年)として刊行されている。

雲台の内壁に彫刻された四大天王のレリーフ

▲雲台の内壁に彫刻された四大天王のレリーフ

雲台の内壁に刻された曼荼羅

▲雲台の内壁に刻された曼荼羅

 西夏碑が発見された武威は古名を凉州と称し、西夏の領内にあった。カラホトは武威の北西400キロのゴビ灘を流れる黒河(エチナ川)流域に位置する。武威で出土した西夏関連の文物には貴重なものが多い。武威にはまた、郊外の長城県岸門村のとうもろこし畑に明代長城の遺構が残っている。
 城壁の急斜面を登り、衣服は汗みどろになってしまった。燕山々系に吹く心地よい山風で吹き出た汗を乾かしながら居庸関をくだり、北京への帰路についた。
 

〈参考文献〉
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

河北省地図編纂委員会『河北省地図册』(中国地図出版社、2002年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)
羅哲文『長城』(清華大学出版社、2008年)
コズロフ著、西義之訳『蒙古と青海』(白水社、1967年)