遊牧地帯との境界を画する外長城(金山嶺)

▲遊牧地帯との境界を画する外長城(金山嶺)

 北京市内には燕山々脈の尾根を中心にして幾筋もの長城が現存している。古来、北部外縁に構築され遊牧地帯と境界を画した長城、あるいは北京の懐深くに入り込み京師(首都)の中枢を護るために機能した長城など、その立地や役割はさまざまだった。北京の東西南北で入り組み、各所で複雑に交差する長城を、それらが所在する地区との関係に視点を合わせ、ここで一度整理しておこう。北京に今も残る長城のほとんどは明代長城で、それらをつぶさに観察していくと、元を倒して新たな政体を確立した明朝がすでに北帰したモンゴルをいかに恐怖していたかが見えてくる。

 

北京の外縁を護る5地区

万里の長城全図(万里の長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より引用)

◁万里の長城全図(万里の長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より引用)

 京師を防衛する長城は、幾重にも張りめぐらされていた。いちばん外側にあって遊牧世界との境を接していたのが外長城、そして外長城の内側に展開するのが内長城だ。現在、北京の市街地を取り囲むように東から平谷、密雲、懐柔、順義、通州、大興、房山、門頭溝、昌平、延慶の10区がある。これらはそれぞれ都市化にともない2000年前後に県から区に行政区画を変更された。このうち、とくに長城と関係の深いのが平谷、順儀、密雲、懐柔、延慶の5区で、北京市の東、東北、北、西北、西辺に位置する。順義という名称は「義」(中華)に「順(し)」たがう、懐柔は「夷狄を懐柔」する、延慶は「慶びを延長」するという意味であろう。長城を越えてやってきた遊牧や狩猟などの周辺諸民族を馴致し、中華に組みこもうとした漢民族の恣意が感じられて面白い。

 元朝を倒して明を興し、皇帝の位に就いた朱元璋(洪武帝=太祖)はモンゴルの再来と東北女真族の襲来を恐れた。これらの勢力から中華を防衛する目的で主に中国北方の各州、府、県の城壁を煉瓦で覆い、長城の修築に膨大な国費を注いだのだ。その指揮をとったのが徐達(将軍)で、明が興った洪武元(1368)年から長城の修築を開始し、その後の12代、すなわち建文から嘉靖年間までの200年のあいだに現在見られるような長城の陣容を整えた。とくに京師(首都)の北部諸県には何層もの長城が築かれたのである。

 明代に長城が大規模に修築される過程でその防衛機能をいっそう高めるため、長城の沿線を「九辺」に分け、それぞれの「辺」に総兵鎮守を置いたところから「九辺九鎮」と称されるようになった。後に2鎮が増設されて「九辺十一鎮」となった。増設されたのは昌(昌平)鎮と真保鎮で、昌鎮は北京の北方でもともと薊鎮に属していた。昌鎮の総兵鎮守は昌平に置かれ、増設後は慕田峪から紫荊関までの230キロ区間を管轄し、官兵の人数は19039人を数えた。もうひとつの真保鎮は北京の南で、総兵鎮守は保定に置かれ、紫荊関から故関までの390キロを管轄し、官兵の人数は34697人にのぼった。2鎮の増設は、いずれも京師を防衛するための能力増強が目的だった。

紫禁城、京師(首都)の中枢

▲紫禁城、京師(首都)の中枢

 明朝が南京から北京に遷都したのは永楽18(1420)年のことだ。永楽帝は皇帝になる前、朱棣と名乗った時代に燕王に封じられて北京を拠点としていた。このため、北京遷都は永楽帝がみずからの根拠地にもどったことになるのだが、北帰したモンゴルやその他の北方遊牧民族への対応をやり易くするのも遷都の目的のひとつだったことは否めない。

 

平谷──北京の東辺を防衛

 北京はその東辺を河北省の興隆県と接し、東南は天津市の薊県、西はやはり河北省の赤城や懐来の諸県、南は河北省の三河県、そして北もやはり河北省の豊寧満族自治区などと境を画している。すでに判りきったことだが、北京はぐるりを河北省と天津市の一部に包囲され(あるいは護られ)て存在しているのだ。

北京の行政区画(自由的百科全書「維基百科」より引用)

◁北京の行政区画(自由的百科全書「維基百科」より引用)

 古来、北京の東辺を防衛したのは平谷で、すでに前漢の高祖(劉邦)12(紀元前195)年にはここに県が置かれ、それは漁陽郡に属した。この「漁陽」という言葉を中国の『辞海』や『大漢和辞典』(諸橋轍次編)などで引いてみると、「漁水之陽得名」あるいは「郡名、河北省密雲県的西南」などとある。『大漢和辞典』に「河北省密雲県の西南」とあるのはきっと往年の行政区画で、現在は北京市密雲県の東南とすべきである。「漁」は漁水を指すので、白河のことだろう。「陽」は山の南面した斜面、または河の北岸を意味する。中国大陸では河川は概ね西から東に流れ、漁水はちょっと南に傾斜しているがやはり西北から東南方向に流れている。つまり中国の河川の多くは両岸が南北に対面しているのである。北岸は南に面しているので、当然のことながらよく陽が当たる。このことから漁陽とは陽光に満ちあふれた漁水の北岸、つまり現在の密雲東南部から薊県の一帯であることがわかる。

 平谷という名称は、東、北、西側を山に囲まれ、中部に平原が谷状に展開していること、あるいは中華に侵入して谷にひそむ夷狄を平らげるという漢族の気分に由来するのだろう。古代から潞県(北魏)、漁陽県(同)、平峪県(金・元)と名称や隷属先が変遷し、清の乾隆8(1743)年には順天府に帰属し、1958年になって県として北京市に組み入れられた。現在は北京郊外の都市化にともない区に昇格している。

京師の中枢を防衛する内長城(居庸関)

▲京師の中枢を防衛する内長城(居庸関)

 平谷の東辺と、天津市の北端にある薊県の黄崖関は2キロほどしか離れていない。平谷の東北辺を走る長城は黄崖関から延伸してきたもので、北は司馬台、金山嶺、古北口に展開する長城群に連なっている。これらの長城は、古来、京師の東辺を防衛する外長城として機能してきた。

 明代長城は黄崖関から西進した長城が県境の彰作で平谷に侵入し、そこから西北方向に進んで将軍関、北水峪、大梯子峪、葡萄峪、楊家堡、南別樹峪、姚橋峪、大角峪、北峪、白嶺関、司馬台、金山嶺、古北口へと延びて外長城を形成した。南別樹峪や姚橋峪、大角峪、北峪などの「峪」とは、字面のごとく山谷の意味である。大梯子峪は、梯子のように急峻な斜面にへばり付くように構築された長城壁に由来し、葡萄峪とはおそらく山葡萄がたわわに実る山谷を長城が通過していたのだろう。
 司馬台、金山嶺、古北口の数十キロを走る長城は構築様式がきわめて精緻で、燕山の絶景に溶け込み、明代長城6000キロの白眉といえよう。

 

密雲──北京東北辺の要衝

祈年殿、皇帝はここで天と対話して五穀豊穣などを願う

◁祈年殿、皇帝はここで天と対話して五穀豊穣などを願う

 蜜雲は北京の東北辺に位置し、満州族の自治区が点在する河北省と境を接している。古名は漁陽で、平谷の北、懐柔の東に位置する。長大な東辺と東北辺を長城が防御している。これははるか戦国時代の燕が遊牧民族の東胡の侵入を阻むために築いた防壁のなごりで、この壁は遠く朝鮮国境の鴨緑江畔までつづいている。九辺鎮のいちばん東にある遼東鎮がこれだ。万里の長城といえば一般的に北京の八達嶺をすぐに思い浮かべるが、その全容は朝鮮国境の鴨緑江畔にある虎山長城から甘粛省のゴビに屹立する嘉峪関までが大動脈(明代長城)で、そこから祁連山脈、疏勒河に沿って敦煌方面に向かう2ルートが確認されており、敦煌郊外の漢代長城の遺址を最後にゴビの砂礫のなかに消えている。その総延長は12000キロにも達する。

 北京と河北を画する地帯に燕山々系が横たわり、高い山に育まれた地域はあたかも密集する雲のなかにあるような地であることから、密雲はこの名前でよばれるようになったのだろう。あくまでも想像である。現在の蜜雲区はその中心に巨大な密雲水庫(ダム湖)を擁し、首都に大量の生活用水を供給している。
 明代には韃靼、オイラート(瓦刺)の侵入を食い止めるために、洪武年間から万歴年間にかけ18回も長城の修築が実施され、堅牢な長城群が完成した。密雲を駆け抜ける長城の代表は古北口、金山嶺、司馬台、白竜潭、白馬関口などである。

 

懐柔──北京の最北を護る

 懐柔は北京市の最北で、その東辺を密雲、北東辺を河北省と境を画し、最北端は河北省の承徳市に属する豊寧満族自治区、北西部は北京の延慶、南部を順義、昌平の各区と接している南北に細長い地域だ。この地は唐代にはすでに契丹部落として成立していた。中国北方で10世紀初頭に興り、12世紀には滅んだ遼の末裔が棲んだ地域である。元代には檀州の地となり、明の洪武元年には懐柔県となって、清代に至るまで順天府に隷属した。

 懐柔を走る長城は内長城と外長城に大別される。古北口から燕山々系の尾根を西行した外長城は密雲最北の白馬関あたりで大きく西南方向に向きを変えて北京の懐深くまで達し、懐柔の中南部から侵入して河防口、慕田峪などを形成する。河防口とは河を防衛するために構築された長城の関口で、その河とは密雲ダムから流れ出した潮白河の支流と思われる。外長城は慕田峪の数キロ先にある摩崖石刻周辺で枝分かれしてもう一匹の小龍を放ち、それが居庸関、残長城、八達嶺などへと向かう。これが内長城である。内長城は皇帝が起居し、執務した京師の中枢(紫禁城)に近く、外長城が遊牧民族などによって突破された場合、外長城の内側にあって中枢を防衛する機能を持つ。

慕田峪(外長城)にはここから登る

▲慕田峪(外長城)にはここから登る

 懐柔は明、清二代にわたり、京師防衛とともに皇帝陵を外敵から護る任務を担ったことも明記しておくべきだろう。この場合の皇帝陵とは明の十三陵、すなわち長陵(永楽帝)、献陵(洪熙帝)、定陵(万暦帝)など明代13人の皇帝の陵(みささぎ)、および清の東陵、つまり孝陵(順治帝)、景陵(康熙帝)、裕陵(乾隆帝)、定陵(咸豊帝)、恵陵(同治帝)ら清代5人の皇帝陵のことを指している。清代皇帝の陵としては他に河北省易県にある清の西陵が有名で、ここには泰陵(雍正帝)、昌陵(嘉慶帝)、慕陵(道光帝)、崇陵(光緒帝)がある。

 

延慶──内蒙古高原への要路

 延慶は北京の西北辺に位置し、その西辺は河北省の懐来県、南は北京の昌平、北は河北省の赤城と境を接する。古くから内蒙古の高原へと通じる交通の要衝だった。北部には外長城が展開し、南部には内長城が京師を護っている。懐柔の摩崖石刻あたりで外長城と枝分かれした内長城が青龍橋、居庸関、残長城、八達嶺方面へ延び、外長城は河北省の赤城県にある長城の北限、独石口に向って走る。
 延慶は河北省の張家口市と境界を接している。張家口は内蒙古高原に至る要路に当たり、このあたり一帯はモンゴルの再来を喰い止める目的で構築された長城が複雑に入り組んでいて興味深い。

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

王瑞平編『北京市地図册』(測絵出版社、1994年)

河北省地図編纂委員会『河北省地図册』(中国地図出版社、2002年)

譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(中国地図出版社、1982年)

林岩・李益然主編、羅哲文顧問『長城辞典』(文滙出版社、1999年)