大境門。北壁(外側)に刻された「大好河山」の四文字が中華世界と遊牧世界を画している

▲大境門。北壁(外側)に刻された「大好河山」の四文字が中華世界と遊牧世界を画している

 

独石口から張家口へ

万里の長城全図(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

◁万里の長城全図(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

 明代長城の北限、独石口の細く小さな土長城を見たあと、突然降り出した雨に追われるようにして路線バスの客となり、悪路を張家口方面にむかう。床の抜けそうなバスはいったん県城(赤城)まで南下し、そこから赤城県、崇礼県を西進して目的地へ驀進する。途中、鎮寧堡郷、白旗郷、高家営鎮など長城に併設された堡や営を連想させる村を通過する。およそ3時間が経過したころ、バスは忽然と出現した都会の黄昏の喧噪に巻き込まれ、張家口の客運站(バスセンター)に着いた。独石口からの乗車賃は25元だった。

大境門外。すぐそこまで荒々しい山並みが迫り、その向こう側はもう内モンゴル高原だ

▲大境門外。すぐそこまで荒々しい山並みが迫り、その向こう側はもう内モンゴル高原だ

 街のど真ん中に位置する張家口迎賓館に旅装をとく。いつもの定宿である。このホテルはおそらく前世紀の1970年代くらいに建てられた当時としては高級ホテルで、ゆったりとした前庭があり、部屋は大きく天井が高い。いまではすっかり古くなってしまい、老醜をさらしている。張家口迎賓館の宿泊代は朝食付きで90元と安い。北京や上海、広州など沿海部の大都市を除けば、内陸都市の一般的なホテルはこんなものだ。観光ルートから外れているので、外国人宿泊客はいない。もっと高級な豪華ホテルにいけば、あるいは遭遇することができるのかもしれない。さっそく街に出て、南北に流れる清水河という汚れたどぶ河沿いにある食堂で烤羊肉套餐(ジンギスカン定食=18元)を旅の夕食とする。路傍の屋台で果物を買い、羊の串焼きなどを立ち喰いし、旧市街で大いに道に迷う。ここは内モンゴルの草原地帯に隣接しているので、羊肉が美味である。張家口の夜がゆっくり、にぎやかに更けていく。

 

大好河山──大いなる山河

 翌朝、大境門に登った。
 張家口は長城の関口に由来する地名であろう。九辺鎮の真ん中あたりに位置する宣府鎮の要衝である。宣府鎮の「宣府」は、現在、宣化県とよばれる地区の県城だ。張家口では明の成化21(1485)年に独石城、永合口、大境口、洗馬村などが構築された。清初、大境口、独石城の城壁に二門(関口)が穿たれ、西が大境門、東は小境門(独石口)となった。これから見ていく大境門は外長城の枢要な関口をなす。煉瓦で覆われた堅牢な長城である。

 大境門の長城は繁華な街並みがとぎれた張家口市の北端に位置し、西太平山の尾根を這いながら遊牧地帯との境界を画している。城門の北面には民国のチャハル(察哈爾)都統であった高維岳が1927年に揮毫した「大好河山」(大いなる山河)の四文字が雄渾な筆致で刻され、これより中華の農耕世界と遊牧世界を隔てる山河に分け入るのだ、という気分が伝わってくる。チャハルはモンゴルの盟旗であったが1928年、清朝によって察哈爾と綏遠の両省に編入され、1952年には再び解体されて内モンゴル、河北、山西の各省に振り分けられた。

張家口市人民政府前広場で踊る中老年男女。こうした現象は中国各地でみられる

▲張家口市人民政府前広場で踊る中老年男女。こうした現象は中国各地でみられる

 この街にはかつて少数民族工作を担当した善隣協会や軍国日本の傀儡、蒙疆連合自治政府の影響下に、大東亜省の管轄として1944年に設立された西北研究所があった。独自の進化論をとなえた若き日の今西錦司や梅棹忠夫ら京都学派の研究者が集まって遊牧研究を行い、佐口透や岩村忍らがイスラム研究を進めた。諜報機関としての役割も担った。西北研究所は日本の敗戦で翌年に廃止され、短命に終わる。

 戦前の一時期、張家口は日本の対中国戦略上で重要な立地にあったため、市街には和風旅館や料亭が軒を並べ、日本との深い縁を結んでいた。いま、日本との繋がりを認められる痕跡はほとんどない。せめて西北研究所の跡地だけでも確認しようとあちこち探しまわってみたが、それらしい場所を探し当てることはできなかった。

 

水の精──水母娘娘

 大境門を後にして、西太平山の尾根を這う長城を右手に見ながら水母宮にむかう。途中、ロバに引かれた荷車を追い越した。水母とは「水母娘娘」のことで、水の精とでも訳せばよいのだろうか。神話によれば、その水母娘娘が西太平山につらなる臥雲山を越えたとき、にわかに喉の渇きを覚えた。付近には一滴の水もなく、そこで娘娘が眼下の地肌を指さしたところ土が裂け、岩が割れて泉が滾々と湧き出したというのだ。それはミネラルが豊富な甘い(良質という意味)水質だった。硫黄やアルミ成分も含まれていたので、毛皮のなめしに使うと上等の皮革ができた。こうして張家口に皮革関連の産業が勃興し、「毛皮の都」と称されるようになったというのだが、はたして本当かしら…。産業が興ったのは、満州の狩猟民や草原の遊牧民との間で、古来、毛皮の交易が盛んだったからにちがいない。しかし、この街の発展は水母娘娘の功績に帰したほうが、なにやらお伽めかしくて楽しくもある。

文昌閣に向かう街路は市民の生活道路である。物売りが路上に店をひろげ、子供たちが遊ぶ

▲文昌閣に向かう街路は市民の生活道路である。物売りが路上に店をひろげ、子供たちが遊ぶ

 西太平山の斜面にはクリスチャン・ゼネラルと称された馮玉祥の像が目を惹く。蒋介石が全国を統一する前の国民軍第1軍を率いた馮玉祥が民国14(1925)年、張家口で西北辺防督弁に就任し、第1軍は西北陸軍に改編された。そのときの功績を顕彰したものだろう。

 

毛沢東の立像

 市内にもどる。清水河畔の市人民政府前広場には毛沢東の巨像が立ち、張家口の発展を誇っているかのようだ。その広場では中年以上の男女が夢遊病者のように踊っている。中国全国の広場で踊る行為が流行り出したのは、もう20年以上も前からである。おそらく健康増進のような目的があるのだろうが、真っ昼間から広場でくねくねする姿は、傍目には集団催眠のように見えてなんとも薄気味悪い。

 広場の端から商店や屋台が密集する繁華な通りを抜けていくと、やがて鼓楼を中心にして旧市街がひろがる。このあたりは「下堡」(南の城堡)とよばれ、明代には大境門を守った辺境防衛軍が駐屯した。張家口の発展は一辺が2キロほどのこの駐屯地から始まり、やがて北の荒野に「上堡」(北の城堡)が築かれ、数百年をかけて現在のような街並みが形成されたのである。

山楼。ひとつの建物が鼓楼、鐘楼、文昌閣、山楼を兼ねていて合理的である

▲山楼。ひとつの建物が鼓楼、鐘楼、文昌閣、山楼を兼ねていて合理的である

 鼓楼は西面している。そのおなじ建物を北にまわり込むと、そこは山楼になり、南にまわれば文昌閣になる。つまりひとつの建物の西側が鼓楼、北側が山楼、そして南側が文昌閣の役割を果たしているのだ。建物にはもうひとつ東面があるが、そこの名称を見落としてしまった。鼓楼の東側なので、あるいは鐘楼に違いない。鼓楼は太鼓を叩いて時刻を知らせ、鐘楼は鐘をついてやはり時を報じた。独石口の稿ですでに述べたことだが、かつて朝から昼間にかけては時刻をたずねるとき「幾点鐘」(何時の鐘か)と問い、黄昏どきからは太鼓を叩いて時を知らせたため、「幾更鼓」(何更の太鼓か)とたずねる。近代以前の中国においては、一夜を五更に分け、一更をさらに五点に分けて時間を計測した。朝は鐘をつき、暮れどき以降には太鼓を叩いたので「晨鐘暮鼓」という言葉も生まれた。

 文昌閣は中国の古代において祭祀に使われた建物で、また文人雅士が集ったところでもある。「五文昌」という言葉があるように、一般的には文昌帝君、魁星、朱衣神、孚佑帝君(呂祖師)、文衡帝君(関帝君)ら文運を主宰する五神が祭られている。もうひとつ、北面する山楼の機能は地元の人に聞き漏らしてしまい、わからない。

旧市街に雑踏はなく、市民の静かな時間が流れている

▲旧市街に雑踏はなく、市民の静かな時間が流れている

 夕方の斜光をあびる鼓楼や文昌閣、山楼に至る街道には子供たちが夕餉の前のひと時を楽しく遊び、老人がそれを穏やかにながめている。物売りが飴のような菓子を小さな台の上にひろげている。自転車がとおる。人が家路を急いでいる。路地に響く子供たちの声が強く、弱くこだまし、いつまでも心地よい。
 文昌閣で知り合った老人が「大境門ではなく、こここそが本当の張家口だ。毛沢東もここに進駐して敵と闘った」と説明してくれた。敵とは日本軍か、それとも国民党の軍隊なのか。八路軍は1945年8月23日に大境門から入城し、はじめてこの街を日本軍から解放した。そして1948年12月23日には、人民解放軍が今度は大境門から国民党の将兵5万人を駆逐し、2回目の解放を勝ち取っている。毛沢東はそのどちらのとき、鼓楼の司令部で作戦の指揮をとっていたのだろうか。いずれにしても、張家口はわずか3年の間に中共軍によって2度も解放されたのだ。人民政府前広場の毛沢東像が未だに撤去されない理由がなんとなくわかるような気がするのである。

 

永嘉堡の長城

 翌朝、まだ明けきらないうちにホテルを引き払い、市の中心にある小さな駅(引き込み線、ここ以外に張家口郊外には大きな張家口南駅がある)から大同行きの列車に乗る。駅はホテルから歩いて行ける距離だった。客車は内装が木造の老朽列車である。老人と相席になった。朝食がまだだったので、昨晩買っておいた菓子パンを差し出すと、タバコを一箱くれた。ひまわりの種に香りをつけて煎った「瓜仔」を喰い散らかしながら、無聊のなぐさめに世間話をする。現地の人と交わす旅の会話とは良いものである。

張家口の「下堡」は市の中心だ。ここから街が拡大発展した

▲張家口の「下堡」は市の中心だ。ここから街が拡大発展した

 列車は河北と山西の省境にある永嘉堡駅をたったいま通りすぎた。すでに大同市(山西省都)に属する天鎮県である。張家口を発って2時間半ほどたったころだった。もうすぐ次の夏小堡駅に達するかというころ、左車窓の山裾に長城が並走し始めた。平地を走る姿の良い長城である。永嘉堡付近だけは山を這うように登っている。地図で調べると、その連山は熊耳山系らしい。尾根づたいにそのまま南へ進めば、恒山を越えて五台山系につらなる。中国仏教の聖地だ。市販の地図には載っていない長城だが、その姿は長大で美しい。京師を防衛する目的で構築された内長城のひとつに違いない。この辺りは遊牧民族がモンゴル高原の塞外(長城の北側)から中華圏へと頻繁に侵入したルートだったので、幾筋もの長城が入り組んでいる。すでに九辺鎮の宣府鎮を通り越して大同鎮に入ったようだ。本来、反対側の右の車窓には外長城の威容が見えてもおかしくないのだが、それを認めることはできなかった。早朝、張家口を出発して4時間、列車は大同駅を目指して疾走している。客車内は下車する乗客が準備を始めて、にわかに慌ただしくなってきた。

 

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)

河北省地図編纂委員会『河北省地図册』(中国地図出版社、2002年)
山西省地図編纂委員会『山西省地図册』(中国地図出版社、2002年)
羅哲文顧問、林岩・李益然主編『長城辞典』(文匯出版社、1999年)
李景福主編『張家口名勝景観』(張家口市檔案館、1995年)