長城を行く

第13回

鎮北台──西安府を防衛する辺境の要塞

鎮北台と長城:風化した土長城が手前を駱駝の背のように走る

鎮北台と長城:風化した土長城が手前を駱駝の背のように走る

 偏関をあとにして山西省の保徳で黄河を渡り、九辺鎮の6番目に位置する楡林鎮に向かっている。楡林鎮の古名は延綏鎮だが、明の成化9(1473)年に統括範囲が楡林城まで北に延びたため、楡林鎮と改名された。延綏鎮の「延綏」は、延安府綏徳州(現在の陝西省綏徳県)のことである。
 楡林鎮は、明代、府谷の西北にあった清水営から神木、楡林衛、懐遠堡、威武堡、靖辺堡、旧安辺堡、定辺営とオルドス砂漠を東辺から南辺、そして西辺へとまわり込むように展開し、最終的に花馬池(塩池)までの1770里(1里=500メートル)区間を管轄した。元朝が崩壊したあと、モンゴルは再び南下してオルドス周辺から漢界への侵入を繰り返していた。楡林鎮はその脅威から、主に西安府を防衛するための任務を担った。
 

府谷から神木まで

 山西の保徳から黄河大橋を徒歩で渡って陝西の府谷に入ると、すぐに前方から神木行きの路線バスがやってきた。停留所がないので、手を挙げて乗せてもらう。地元の農民などでほぼ満員だ。なんとか席を見つけて座る。車内は乗客たちが吸うタバコで、大いに煙っている。これが中国のローカルバスというものだろう。
 行政区画が陝西省に変わり、バスは黄河沿いの大地を疾走する。府谷から神木までは、約50キロの路程だ。車窓に映る沿線の風景は、今まで走ってきた山西の風景と大差はない。バスは国道や省道を離れて未舗装の県道や郷道を走るので、前方車両が舞い上げる砂埃に巻き込まれて口のなかまでざらざらになる。他の乗客がしているように、香りのきつい地元の煙草に火をつけ、西瓜の種(瓜子)を噛み、殻を床に吐き散らす。こうすることで、現地人との間に一体感が生まれる。言葉も服装も中国人そのものなので、おそらく周囲から外国人とは認識されていないだろう。

万里の長城全図。赤色が明代長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

万里の長城全図。赤色が明代長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

 中国内陸の風景は変化にとぼしい。どこまでも似たような景色がつづき、それをやりすごせば、また同じような風景が現れる。そんな田舎道を2時間ほども走る。もうすぐ、神木の長途汽車站(長距離バス・ターミナル)に着く。数日前に大同から三岔まで乗車した第3セクターの鈍行列車の終点が神木だったことを思い出した。真新しいバスセンターは大きく殺風景で、内陸特有のがさつな寂寥感がただよう。ここから楡林まで、さらに3時間以上の路程が残っている。海原のような縹渺とした内陸の大地に呑み込まれ、このまま日本に帰ることが出来ないのではないか、という小さな不安感に襲われた。
 バスを降りて小用を足し、売店でビスケットなどを買い求める。大小数えきれないほどのバスが発着している。神木は内蒙古や山西北部、そしてこれから向かう陝西南部への交通の要衝だったのだ。バッグから地図を出し、いま自分が立っている場所をたしかめてひと安心する。
 

神木の歴史

 神木の歴史は古い。中原から関中へと東西にひろがる広大な漢界と、漢族のいう夷界を接壌する立地にあったことが、この地方に歴史的な価値を与えた。五千年前にはすでに人が棲んでいたことが考古学の調査で確認されているらしい。それは「石峁」という遺跡で、中原の龍山文化晩期から夏王朝の初期における最大の集落跡である。石峁の「峁」は中国語の方言で小山の連鎖する大地のことであり、一般的には中国西北地域に広がる黄土高原の丘陵地帯のことを指す。そこは黄河流域の文明の中心で、中原の漢族と北方の遊牧・狩猟民族が交叉していたので、中原を防衛し、外夷を撃退するための最前線だった。つまり、南は関中平野を護り、北は河套(オルドス)との塀をなし、東は晋陽(山西)の険を扼し、西は霊夏(寧夏)を支えたのである。

禹貢九州図

禹貢九州図

 神木は紀元前の秦代には擁州に属し、紀元後、唐の開元年間(玄宗皇帝、713-741年)に麟州となり、後に新秦と改名された。擁州とは現在の陝西、甘粛、寧夏を東西に帯のように結ぶ地域で、漢族文化に伝承される「九州」の1州であった。九州が冀、兗、青、徐、揚、荊、豫、梁、擁の各州のこと(『尚書・禹貢』)であることは言うまでもない。宋はここに呉爾堡を設け、金になって神木寨となる。元代になると雲州と称され、至元6(1269)年、神木県となった。北夷から中華を防衛する軍略の地だったのであろう。だから九辺鎮のひとつとして経営された。
 清の道光年間(宣宗、1821-1850)に編まれた『神木県志』によれば、県内の東北域に楊家城=古麟州城があり、場外の40歩に3株の松樹があり、大人2〜3人でやっと囲むことのできる大木だった。唐代からここにあったと伝えられ、人々はそれを神木と称した。神木という地名の由来である。1歩は5尺、3尺が約1メートルに相当するので、松の大樹は城壁の東北約65メートルのところに屹立していたことになる。その勇姿が目にうかぶ。
 

楡林へ

 神木で乗り換えたバスは悪路を埃にまみれながら、黄土の大地をひたすら南下する。夕刻、楡林の長距離バスセンターに到着した。繁華街の楡林盛源賓館に旅装をとく。いわゆる商人宿で1泊98元の部屋は広く、清潔で、柔らかい寝台があった。連日の強行軍で体調は芳しくなく、すぐに仮眠して体力を養う。
 目覚めると深夜だというのに、近所の街路にはまだ灯りがともり、人の往来が途絶えていない。同楽小吃城という客の入りが良い食堂を選んで入り、1汁、2菜、1飯を注文する。いつもより1品多いのは、疲れた身体をいたわったからだ。今朝までいた偏関の料理とは趣の異なる美味に、とても満足する。
 翌朝、明けたばかりの街路に出てみた。楡林の街が予想外に大きく、発展していることに驚く。城壁の内側にある旧市街のメインストリートはきれいに整備され、百貨大楼やファストフード店などが並んでいて楽しい。城壁の外はオフィスビルやホテルなど真新しい建物のにぎわいが郊外にむかってのび、経済発展による中小都市の再開発が、いま内陸奥深くまで進んでいることを知る。
 

鎮北台

 南北に流れる楡渓河が、楡林の市街を貫いている。この河に沿って省道204号線を北進すると、20分ほどで鎮北台に着いた。街の喧騒がとぎれた農村地帯に4層構造の城郭が忽然と出現する。基底部の一辺がおよそ80メートル、最高層が30メートルの台形を成す巨大な構造物である。ここは明の万歴35(1607)年、オルドスから漢界に進入をくわだてた遊牧騎馬民族の韃靼を喰い止めるために建立された。万里の長城につらなる城楼の中で最大規模を誇り、楡林鎮のランドマークでもある。

西老爺廟:壁に掛かった9枚の戦(いくさ)絵が興味深い

西老爺廟:壁に掛かった9枚の戦(いくさ)絵が興味深い

 鎮北台の「鎮北」には、北方にある異民族を鎮めるという意味がある。2階の南面に刻された「向明」の2文字は、ここより大明国、の意味であろう。4階から四周をながめると、東西にのたうつ長城を鎮北台が堅牢に繋いでいるのがわかる。西には草原と樹林の間を縫うように楡渓河が流れ、その向うにはオルドス砂漠が遠望できる。明代、ここ鎮北台は西安府を防衛した辺境の要塞だった。
 張家口以西の長城は土長城であることが多い。ここもやはり同じで、駱駝の背のように風化した城壁は、ただの土手と見まちがえてしまいそうだ。神木から南下してきた長城は砂漠を駆ける2匹の親子龍のように、数キロの間隔を保ちながらオルドスと黄土地帯の境界を懐遠堡、威武堡、靖辺堡へと進む。そこで大きく北西に進路を転換して旧安辺堡、定辺営とオルドス砂漠の東辺から南辺、そして西辺にまわり込み、最終的に花馬池(塩池)を目指して驀進する。大小の長城が数キロの間隔を保ちながら2列になって並走するのは、明朝がこの地域における韃靼の侵入を強く恐怖していたからだろう。
 鎮北台とそれに連なる城壁のつくりなどを見ていたら、突然、絞られるような激しい腹痛に襲われた。ここ数日来の強行軍で、すっかり胃腸をやられてしまったに違いない。訪れる人のいない土長城の上で、腸のなかを荒れ狂う水溶性の老廃物を一気に排泄した。乾燥した大地はそれを瞬時に吸収し、あとにはただ数百年の風化で細く、薄くなった黄色い城壁の起伏があるばかりだった。

旧市街のメインストリートには鐘楼や鼓楼、文昌閣などの建物が道を跨ぐように建つ

旧市街のメインストリートには鐘楼や鼓楼、文昌閣などの建物が道を跨ぐように建つ

 楡林市街への帰路、省道204号線沿いの西老爺廟を見学した。おそらく近所の住人であろうか、4人の老人が廟の由来などについて熱心に説明してくれたのだが、言葉に現地の訛りがあったため、教えられたことの半分も理解できなかった。
 

旧市街のにぎわい

 旧市街にもどり、南北にのびる大街をゆっくり流して歩く。万沸楼、新明楼、鐘楼、文昌閣、凱歌楼、鼓楼などの古建築がメインストリートを跨ぐようにつづいている。街路は中国の他の内陸都市とおなじように砂塵が舞い、人があふれる。路傍では老人たちが中国将棋に夢中だ。小ぎれいな餐庁に入って1〜2品の地元料理を注文した。卓上には、醤油、ラー油、胡椒など香辛料の小壷が並んでいるが、老陳酢(山西黒酢)の瓶が見当たらない。ここがすでに黒酢文化のない陝西省のど真ん中であることに気づかされる。

路上の対局。地方都市ではよくみられる光景

路上の対局。地方都市ではよくみられる光景

 街の東南にある小高い丘に登り、楡林の街の形を確認する。空が暗くなって、大粒の雨が降ってきた。いかにも砂漠に面した街という急激な気象の変化だ。急いで丘を下り、三輪タクシーで宿所の盛源賓館に帰る。
 その夜、売春婦から電話があった。地方都市のホテルでは、お決まりの定期便だ。電話が来ないと、どうしたのだろう、などと気になってしまう。ホテルと公安、買春組織が一帯となって宿泊客に女性を斡旋していることに呆れる。現地警察が一枚かんでいるので、佳境に入ったところで部屋に踏み込まれることはない。不法であるが、好き者には合理的で安全なシステムなのかもしれない。

理髪と風俗行為は同根。他の内陸都市とおなじように性病「特効薬」の張り紙が目を惹く

理髪と風俗行為は同根。他の内陸都市とおなじように性病「特効薬」の張り紙が目を惹く

 翌朝、暗いうちに宿を引き払う。照明を落としたフロントはまだひっそりと暗く、カウンターの向こう側で当直の少女が2人、椅子の上に布団を敷き、子猫のようにまるまって眠っている。そのうちの1人を静かに起こし、宿泊費の精算をたのんだ。次の目的地、塩池(花馬池)方面行きのバスが出る南門長途汽車站までの近道を訊ねると、引き出しから街路地図を出して丁寧に教えてくれた。
 

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)


譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(中国地図出版社、1982年)



コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。