横城堡城門。内部には明代長城を護った兵営があったが、今はときどき映画の撮影などに使われる

▲横城堡城門。内部には明代長城を護った兵営があったが、今はときどき映画の撮影などに使われる

 オルドス沙漠の南辺を西にまわりこんだ長城は、花馬池あたりで陝西省から寧夏回族自治区に進入し、銀川をめざして驀進する。親長城と子長城の2匹の双龍が数キロの間隔をおいて並走し、60キロメートルほど北西にある興武営で合流して一本の堅固な防御壁となる。明代の辺境防衛システム、九辺鎮の7番目にあたる寧夏鎮につらなる長城である。ここもまた、オルドスに展開して漢界への侵入を試みたモンゴルを押し止めるために築かれた。双龍が合体した城壁はやがて銀川郊外を北行する黄河を渡り、オアシス都市の防衛任務にむかう。黄土高原の偏関で渡河した長城は、ここで黄河と二度目の邂逅をする。

 

黄河南岸の横城堡

万里の長城全図。赤色が明代長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

◁万里の長城全図。赤色が明代長城(株式会社日立デジタル平凡社/世界大百科事典より)

 銀川市の東南郊外を北にむかって黄河がゆったりと流れている。土色の濁流ではなく、豊かな青い水をたたえた美しい大河である。乾燥地帯に特有の澄んだ空気と藍天が造り出した光の芸術だ。河川や湖沼の水面は天空の色を映しだす。しかし、水量の豊かな青い大河も沙漠という大自然の中に置かれると、一筋の小川に見えてしまうから不思議である。
 その大河の南岸、つまりオルドス沙漠側の河岸に堅牢な堡塁の遺構が屹立する。明代、辺境防衛軍の駐屯地として築城されたその要塞は、遊牧騎馬民族による幾多の襲撃にさらされたことだろう。その砦はいまもほぼ往時の雄姿をとどめ、横城堡という古名で語り継がれている。

 砦の入り口は固く閉ざされていた。壁が崩れたところを足場にして城壁によじ登る。一辺が100メートルほどの典型的な堡塁で、正門上部の主楼と四辺を結ぶ東西南北の角楼はその姿を残しているが、辺境防衛軍の兵士が起居した兵営は全壊して黄土と化している。城壁で囲まれた空っぽの空間には、ところどころにモンゴル族の移動用住居が設営され、民族色豊かなオブジェが散乱する。現地人によれば、映画の撮影に使われた跡であるという。
 角楼をひとつひとつ調査しながら、城壁の上を一周してみる。兵営の跡に設営された蒙古テントから突然数匹の大型犬が跳び出してきて、猛烈に吠えかかってきた。廃墟の堡塁に人が棲んでいるのだろうか。あるいは野犬の巣になっているにちがいない。

横城堡の角楼の向こうに黄河が流れ、最奥に賀蘭山のシルエットが見える

▲横城堡の角楼の向こうに黄河が流れ、最奥に賀蘭山のシルエットが見える

 城壁の北辺は、青い黄河の流れに沿っている。エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の諸文明は、いずれもナイルやチグリス・ユーフラテス、インダス、黄河など大河のたまものだった。豊かな水量が肥沃な農耕地帯を育み、その絶大な生産力が都市を創出して文明を高度に発展させたからである。銀川は、内蒙古自治区の下腹に突き刺さった棘のように見える寧夏回族自治区の中心地だ。本来、農耕など生まれるはずもなかった沙漠の荒れ地は、黄河が大きく湾曲して北流したために生まれた沙漠のオアシスである。そこにアラビア半島から東漸したイスラム教を信仰する少数民族が集住して寧夏の大地、そして銀川を創り上げた。その意味で、黄河は銀川の生命線と言っても過言ではない。明代、その生命線を守る辺境防衛軍が駐屯したのがここ横城堡なのだ。

 

黄河を渡る長城

 横城堡の北辺を流れる黄河に沿って300メートルほど進むと、そこには大河に入水する長城がある。歴代の防衛戦で疲弊した巨龍は無惨にも打ち壊され、今はラクダの背のように小さな土塊の盛り上がりにしか見えない。そのラクダの背を修復してレンガで覆う工事が進められている。この旅の途中、世界遺産の長城を全線で修復・保存し、観光資源として後世に残そう、という政府のアピールがラジオのニュースで報じられた。横城堡長城の保全工事も、きっとその一環であるにちがいない。

入水する長城。典型的な土長城だが、風化が激しい

▲入水する長城。典型的な土長城だが、風化が激しい

 小さな長城に登って、前方の黄河をながめる。黄土高原の老牛湾で渡河した長城は、ここでふたたび大河の流れに身をまかせようとしている。農耕文化を育んだ大黄河の流れ、そして農耕民族と北方遊牧民族を隔て、あるいは交易の拠点としての役割を果たした万里の長城が、いま映画のセットのように眼前にひろがっている。農耕と遊牧、そして黄河と長城、その関係性をたどっていくと、中国の大地に展開した悠久の歴史が沙漠の蜃気楼のように脳裏によみがえってくるのである。

 

賀蘭山麓の奇跡

 銀川の南東郊外は、北流する黄河によってオルドス沙漠と隔てられている。反対側の西北郊外には、内蒙古自治区の阿拉善左旗とのあいだに賀蘭山脈が横たわる。つまり大河と山脈がこのオアシス都市を中心とする寧夏の北部大地を包むように護っているのだ。中国の地図を開いて眺めてほしい。寧夏が内蒙古の下腹に突き刺さった棘ように形成されたのは、まさにこれらの大河と山脈が自然の要害として存在したからにほかならない。その賀蘭山脈の麓に西夏陵園とよばれる墳墓群がある。

西夏王陵。背後に賀蘭山の山並みが美しい。山脈の向こう側には内蒙古自治区の草原が展開する

▲西夏王陵。背後に賀蘭山の山並みが美しい。山脈の向こう側には内蒙古自治区の草原が展開する

 西夏は13世紀初頭、チンギス=ハンによって滅ぼされた羌族系タングート族の国家であった。1972年6月、中国人民解放軍蘭州軍区の工兵隊が賀蘭山麓の大小無数の「土丘」(土饅頭)が散在する荒野で軍用飛行場の建設工事を進めていた。そのとき、工兵隊員が大量の陶器片を掘り当てた。一部の陶器には見慣れない文字が刻されていたので、寧夏博物館の学芸員が加わってさらに発掘作業を続けたところ、付近から墓室が発見され、ここが古代西夏の王陵であり、陶器片の文字は西夏文字であることが確認された。歴史の舞台にはたしかに登場したのだが、長くその実態が判らなかった西夏に関する考古学上の大発見である。賀蘭山麓の奇跡といっても言いすぎではない。

 

西夏九帝の陵園

 王陵は北京郊外の「明の十三陵」に次いで50平方キロもの広大な敷地を誇る。陵園の最奥、賀蘭山脈を背にした李昊元の墳墓として有名な泰陵にむかう。李昊元は漢民族王朝の宋、女真族の金が覇を争う中で西夏の開国を天下に号令し、北部中国の大地に宋、金、西夏の三国鼎立体制を創出した。
 西夏は数千年の歴史を積み重ねた中国大陸で、わずか189年の星霜しか送ることの出来なかった彗星国家である。その間、12人の皇帝が即位し、現在、陵園内では李昊元を始めとする9人の皇帝陵と陪葬された約250人の墳墓が発掘されている。まだ見つかっていないのは、李尊頊、李徳旺、李睍ら最後の3皇帝の陵墓である。末代皇帝の李睍はチンギス=ハンに殺害されたか、あるいは捕虜としてモンゴルに拉致されたはずなので、陵墓が見つからなくても不思議ではない。では、第10代と第11代の皇帝陵はどうなっているのだろう。度重なるモンゴルの襲撃で国が疲弊し陵墓の建設どころではなかったのか、あるいは今後の発掘作業で発見されるのかもしれない。

鼓楼広場の街舞。まだ明けきらない早朝から中高年が踊りだす

▲鼓楼広場の街舞。まだ明けきらない早朝から中高年が踊りだす

 開国の皇帝、李昊元が眠る泰陵を後にして、バスで敷地内の西夏博物館にむかう。車上から振り返ると、どんぶりを伏せたような形をした泰陵の背後に内蒙古自治区の阿拉善左旗と銀川を隔てる賀蘭山脈の山並みが幾重にも重なって見える。西夏を滅ぼしたチンギス=ハンのモンゴルは、あの険峻な山並みを越えて攻め込んできたのか。それとも南の長城を破り、黄河を渡ってやってきたのだろうか。チンギス=ハンの孫でモンゴル帝国の第5第皇帝フビライ=ハンが金を滅ぼし、南宋を併合して中国を統一、国号を元と定めたのは西夏が滅んでわずか44年後のことだった。

 

鼓楼広場の街舞

 早朝、龍馬鼓楼広場を散策する。
 どこの都市でもおなじみの、中老年たちによる「街舞」が演じられていた。不思議な薄気味悪い光景である。この集団舞踊をはじめて見たのは2000年ころ、吉林省長春市(旧新京)の松林が美しい牡丹園(旧満州の牡丹公園)の神武殿(旧武道館)だった。そこの庭で近隣の人たちが整列し、手に手に扇を持って奇妙な踊りを踊っていたのだ。それから各地を訪れ、朝、大きな広場に行くと、必ずといってよいほどこの「街舞」にでくわしたのである。中国のネットなどで検索してみると、米国のストリート・ダンスなどと関連づけた解説があるが、決してそんなものではない。いま、眼の前の広場で踊っている中老年男女に米国のヒップホップの感覚や意識などあるはずもない。どう見ても集団催眠か、そうでなければ新興宗教の舞踊である。

承天寺塔の境内にある釣り堀。池の水面に砂漠地帯の藍天が映って美しい

▲承天寺塔の境内にある釣り堀。池の水面に砂漠地帯の藍天が映って美しい

 いろいろ調べていって判ったことは、この「街舞」の源流が文革時代の「忠字舞」(語録舞)や農民の「秧歌舞」にあるらしいということだ。
 「忠字舞」とは文革初期(1966–68年)に広場やデモ隊が「大海航行靠舵手」(大海を航行するには優秀な舵手を頼りに)や「敬愛的毛主席」(敬愛する毛主席)、「満懐豪情迎九大」(満腔の軒昂たる気概を抱いて第9回共産党大会を迎えよう)などのプロパガンダ革命歌曲にあわせて踊った、動作が単純で毛沢東や中国共産党に忠誠を誓う踊りである。一切の固陋な文化を大いに革命するというスローガンのもとに発動された文化大革命の初期1966年から1968年ころまで流行り、第9回中国共産党全国代表大会(1969年)以降、下火になった。つまり第9回党大会で毛沢東の復権を演出するためのプロパガンダに使われたのであろう。

 「秧歌舞」は農民が過酷な農作業をまぎらわすために歌った「秧歌」に振り付けた踊りで、田植えや耕耘、農民の日常生活などが明るく表現され、それが旧正月や国慶、吉日、あるいは社会的な活動の舞台に進出していった
 「街舞」は一般的に地域住民が自発的に組織し、舞踊の指導は文革で「忠字舞」や「秧歌舞」を踊っていた人が担い、とくに政治運動の宣伝隊にいた人物がリードしている場合が多いと言われる。最近では、若者が「忠字舞」を彷彿させる舞踊を踊って楽しんでいる場面も見られる。文革に対するパロディとして踊っているのならまだ理解できるが、そこに文革へのノスタルジーがあるとしたら、それは笑っては済ますことのできない深刻な社会現象といえよう。

 

承天寺塔にて

 散策の最終日、銀川の街を俯瞰するため承天寺塔にのぼる。この塔は西夏の第4代皇帝毅宗が建立したものだ。レンガを八角形に積み上げた厚壁空心構造で、11層64.5メートルの偉容を誇る。清の乾隆年間に発生した寧夏大地震で倒壊し、現在の塔は嘉慶25(1820)年に再建されたものだという。晴れていれば最上階から西に賀蘭山脈、はるか東南方向には黄河の流れを望むことができるらしい。銀川では西夏様式を現代に伝える数少ない古建築である。
 塔を降りて敷地内にある寧夏回族自治区博物館に行ったが、あいにく閉館していた。かたわらの売店で賀蘭石の工芸品や西夏文字の拓本などを品定めして承天寺塔を後にする。

承天寺塔。西夏様式で築かれた仏塔が屹立する

▲承天寺塔。西夏様式で築かれた仏塔が屹立する

 ホテルに帰って荷物をまとめ、次の目的地に移動するため銀川空港にむかう。砂嵐のような悪天候なので飛行機が飛ぶかどうか心配だ。沙漠の真ん中にある自然環境の厳しい都市なので、このような天候もまたもう一つの日常なのであろう。車窓から外に目を移すと、タクシーはちょうど黄河にかかる大橋を渡るところだった。大河の水面に横城堡で見たような青い光の芸術はなく、曇り空のもとで力強い水流がにぶく銀色に光っている。このとき、古人がこの街を銀川と命名した意味がやっと判ったような気がしたのである。

 

〔参考文献〕
王国良・壽鵬飛編著『長城研究資料両種』(香港龍門書店、1978年)
景愛『中国長城史』(上海人民出版社、2006年)


譚其驤主編『中国歴史地図集』元・明時期(中国地図出版社、1982年)