今回と次回は、いつもとは観点を変えて、世界各地で実践されている社会的連帯経済の背後にある文化的・社会的背景を考えた上で、日本との間にはどのような違いがあり、これら実践例を日本社会に取り込むためにはどのような取り組みを行なう必要があるのかについて考えてみたいと思います。

 前述したように、世界でも連帯経済が最も盛んで、官民ともに動きが活発なのはブラジルですが、このブラジルではパウロ・フレイレ(1921~1997)が、没後20年近く経過した今でも非常に大きな影響をさまざまな社会運動家に与えています。その代表作「被抑圧者の教育学」(日本語新訳が2011年に刊行)についてはこちらで詳しく紹介しましたが、ブラジルと日本では社会構造にさまざまな違いがあるとはいえ、一部の支配層とそれ以外の被支配者の関係を意識した上で、そうではない社会的連帯経済を構築する上で、この本が日本などさまざまな国で役に立つことは間違いないでしょう。

「被抑圧者の教育学」日本語新訳

◉「被抑圧者の教育学」日本語新訳

 私が思うに、遠回りに思えるかも知れませんが、「被抑圧者の教育学」の読書会を通じて日本社会における抑圧構造を認識した上で、それを克服するための手段として社会的連帯経済をとらえ、世界各地の事例を学ぶことが何よりも大切なことではないかと思われます。それも、パウロ・フレイレの研究者を招いて講演会を行なうのではなく(といっても、日本でフレイレを研究している人は非常に少ないと思いますが)、地域で有志が集まって読書会を行い、その内容を噛み締めた上で日本社会、さらには皆さんのお住まいの地域においてどのような支配・被支配構造があるのか、そしてその構造を変えてゆくためには具体的にどのようなことが必要なのかについて検討してゆくことが欠かせないと思います。実際、中南米のみならず最近では欧州でも、パウロ・フレイレの手法を社会的連帯経済の実践に応用する動きが始まっています。

 以前にも書きましたが、今の日本ではさまざまな形で貧困問題が生まれ始めています。非正規雇用しか得られないため何年働いても最低賃金に毛が生えた額しかもらえず、そのために結婚して家族を持つことができない人や、リストラに遭ってしまい再雇用にありつけず苦しんでいる人が少なからずいますが、こういう人たちが人間としての尊厳のある生活を得られるよう支援することこそが、社会的連帯経済の本義ではないでしょうか。もちろんバブル崩壊後長年経済が停滞している日本で新規事業を立ち上げることは並大抵のことではありませんが、収入を増やすことと同時に、生活費がかからないライフスタイルを提案することで、収入の少なさを補うような事業が提案できる可能性があります(省エネ構造の住宅を安く賃貸提供して光熱費を節減したり、農村部であれば自前の農園を持って食費を節約したり)。また、私が現在住むスペインでは、スーパーなどで売れ残った期限切れ間近の食材を引き取り、それを料理して格安で食事を提供する「社会的食堂」と呼ばれる動きがあり、昨年11月に訪問した香港でも同様の取り組みがあるようですが、特に消費者生協の売れ残った食材を活用して、このような食堂を運営することで、生活保護さえ受けられない人たちを多少なりとも救うことができるのではないでしょうか。

 また、社会的連帯経済が盛んな国の多くは、過去数十年の間に軍事独裁を経験しており、それに反発して戦った世代が民主化後に経済面での格差を是正するために社会的連帯経済の運動に取り組んでいるという事実があります。実際、ブラジル(1964-1985)、アルゼンチン(1976-1983)、チリ(1973-1989)、韓国(1961-1988)などは軍事政権により民主主義が抑圧された歴史を持っており、その時代に青春を送った世代が、中高年層となった現在でも社会運動の中核を担っており、その時代を知らない現在の若い世代に当時の状況を語り継いでいます。また、1936年から39年にかけての内戦により第2共和制が崩壊し軍事独裁に至ったスペインでは、第2共和制下において協同組合運動が非常に盛んでした。もちろんそれから80年近く経過しており、当時のことを知る人たちは非常に少なくなっていますが、過去の文献を探って当時の前衛的な社会制度を学ぶ動きも、細々と続いています。さらに、アラブの春を経てチュニジアやモロッコなどでは、社会的連帯経済への意識が高まりつつあります。

パウル・シンジェル・ブラジル連帯経済局長のことば

◉パウル・シンジェル・ブラジル連帯経済局長のことば。「ここブラジルでは軍事政権がわれわれに対して貴重な遺産を残した: 民主主義が不可欠であるという明確な確信である。民主主義の侵害を正当化できる対象は存在しない」

 もちろん、日本社会において同様の社会意識を持つことは、簡単なことではありません。日本でも太平洋戦争中には特高警察などによりさまざまな人権弾圧が行なわれましが、その時代の悪夢を日本社会一般が共有しているとは言えません。1960年代には日本でも学生運動が一時期大きな盛り上がりを見せましたが、その後支離滅裂になって社会全体からの支持を失ってゆきました。そのため日本国内では、上記のシンジェル局長のような意識が共有されているとは言えません。

 むしろ今の日本では、そういった民主主義を守る議論よりも、非民主的な日本社会の構造を誇りに思う議論のほうが主流になっているのではないかと、私は懸念します。10年近く前に「国家の品格」(藤原正彦著、2005年)という本が出て、約200万部の売り上げを記録して大ベストセラーになりましたが、この本では民主主義よりも武士道を重視する日本的価値観を賞賛しています。「武士道」自体は20世紀初めに新渡戸稲造が欧米の友人向けにその価値観を紹介するために著したものですが(そのため原文は英語。非常に高尚な英語で難解な単語が多いので注意)、民主主義や人権を大切に思う立場からこの本を改めて読むと、違和感が感じられるものと思います。また、岩波新書に「日本人の法意識」(川島武宜著、1967年)という本がありますが、権利という概念が存在していない日本社会の特徴が紹介されています。私が思うに、日本における権利は、欧米人にとっては権力からの恩寵でしかないと言えるのではないでしょうか。

 日本の場合、明治維新以降の富国強兵型経済発展を行なうにあたって、西洋の物質文明は貪欲に受け入れる一方で、民主主義や人権といった西洋的価値観については意図的に排除し、それまでは武士という特定階層だけの価値観だった「武士道」を、学校教育を通じて元農民や商人などにも普及させ、「お上」や上司などの意見には絶対服従という軍隊型社会を作ってきました。これにより確かに経済的には発展し、世界的に有名な大企業が多数生まれましたが、その一方で欧米諸国と比べると長時間労働を強いられ、休暇どころか家族でゆっくり過ごす時間にも事欠くようなライフスタイルが当たり前になっています。学校では、パウロ・フレイレの言うところの典型的な「銀行預金型教育」が行なわれ、部活を通じて「武士道」から派生した「体育会系」の価値観が植えつけられ、そして就職活動ではマニュアル本通りに行動することが求められています。確かに先進国と呼ばれるに足る経済力を日本は持っていますが、その繁栄を本当に日本人が謳歌していると言えるでしょうか? また、武士道という、もともとは武士=軍人という特殊な社会階層だけに求められていた自己犠牲を万人に求めるような社会が、果たして健全と言えるでしょうか? 社会的連帯経済を推進する上では、このような基本的な問いかけも同時に行なう必要があると思いますし、そもそもこのような価値観が社会的連帯経済と両立するのかについても、疑問を投げかける必要があるでしょう。

 また、特に戦後において日本は、社会的連帯経済が盛んなラテン諸国との関係が比較的薄くなった点も強調しなければなりません。中南米との間では、戦前は移民を通じた関係を強く築いており、天然資源の供給先としての重要性も保ってきましたが、米国と周辺アジア諸国との関係が緊密化する中で、相対的に中南米の重要度が下がっています。ラテン系欧州諸国についても、サッカーや観光など一部の分野では関係を保っていますが、経済関係はそれほど深くないのが実情です。そのため、ラテン系言語が幅を利かせている社会的連帯経済に深く入り込める人が少なくなっています。もちろん、研究者同士のつながりなどはある程度ありますが、今後もこれら関係をさらに強化してゆく必要があるといえるでしょう。

(次回に続く)