ソウル・市庁舎近くのセブン-イレブンにて。中国語の表現は教科書をそのままコピーしたような印象で、筆者には漢字文化に再び向き合うぎこちなさを感じさせた。

◀ソウル・市庁舎近くのセブン-イレブンにて。中国語の表現は教科書をそのままコピーしたような印象で、筆者には漢字文化に再び向き合うぎこちなさを感じさせた。

 前回原稿からだいぶ間が空いてしまった。この間仕事の最盛期、そして二回の旅行でなかなか筆を執る気にならなかった。その旅行だが、本来はこの欄のこともあって、香港・広東地域へ行き、一部で盛り上がりを見せている広東語復興運動などについて報告するつもりだった。しかし諸事情から、急遽広東行きを取りやめ、韓国・ソウルと沖縄・那覇に振り替えた。意図したわけではないが、この夏は中国ではなく、戦前日本帝国の周縁、(かつての)華夷秩序の境界線とでも言える地域に足を運んだことになる。しかし両地域とも急増する中国人観光客で溢れており、多少は中国語を使う機会もあった。特に韓国では外国語の地位としてすでに日本語を抜いている印象だ。政府間関係がいろいろ言われているが、こうした国境を超えた人的移動は、中国および中国語に何をもたらすだろうか

ソウルではついに日本語よりも上位に

 語弊がある表現なのかもしれないのだが、韓国はある意味筆者にとって中華圏よりも旅しやすい地域である。人が親切なのでこれまで言葉はできなくとも何とかなってきた。また本来はあまり良くはないが英語で乗り切ってきたので運良く助けてくれる人が英語が出来る場合が多かったこともラッキーだったのだ。

 ところが前回訪問より十年経った今回は、ちょっとばかり勝手が違っていた。あくまで印象論の範囲ながら、旅しやすさも人の親切さも変わりはないが、英語は若干通じにくくなっている印象を受けた。その代わり、十年前にも多少はあったけれど、十年前よりも確実に漢字、それも韓国独特の字体のものではなく、中国大陸特有の簡体字が増えていたのだ。

 これは増加する中国大陸からの観光客を当て込んでのものだと見て間違いないだろう。十年前、中国人の一般観光が解禁されてなかった頃、韓国に入ってくる中国人といえば、半ば非合法に入国してくる韓国・朝鮮系中国大陸籍の労働者だけだったように思う。ところが十年を経て中国人の一般観光が解禁された今日、状況は一変したような印象を受けている。

 一番変わったのは、明洞にある中国大使館の周辺かもしれない。十年前はいくばくかの中国語書籍を扱う店などが点在しているだけだったのが、今は観光客向けの両替商なども多数開店し、明洞に集中する中国人観光客が多数流れ込んでいる。

 筆者自身もこれまでとは勝手が違う経験をいくつかした。まず仁川国際空港からソウル市内に向かうバスの乗り方が分からなかったので東洋人と思しき観光客に英語で話しかけてみると、やはり中国人。即中国語に切り替えた。これだけならまだしも筆者自身が中国の観光客に間違えられるという、ある意味貴重な経験もした。場所は大学が多く集まる新村駅周辺。歩き疲れて入った定食屋でサンゲタンを頼んだのだが、細かなところがよく分からない。困ったところへ中国語で助け舟を出してくれたのは名門・延世大学の学生。どうやら筆者のことを日本人ではなく中国人と思ったようだ。さすが名門、発音もバッチリで助かったのだが、5回のソウル訪問で、英語ではなく中国語で助けられたのは今回が初めてだった。

 そんな経験をしたせいもあり、筆者としては韓国における言語の優先度は、韓国語、英語を除くと、すでに中国語が日本語の地位に取って代わったと考えている。漢字、特に簡体字が増えたことを前述したが、それは特にソウルでの博物館などの公共的な掲示や、商業施設などの表記において、常に中国語の文章が日本語の文章よりも上に表記されるという形で垣間見られる。ソウル市内を結ぶ地下鉄や国鉄は、主要駅に限り外国語も交えたアナウンスを行ってくれるが、その場合も韓国語、英語、中国語の順で日本語は一番最後だ。

 あまり詳しくはないが韓国の戦後史を言語から眺めると、それはハングルが主体化する歴史であるとともに、漢字が植民地時代の遺制としての日本語に付随するものとして衰退した歴史と見ることもできる。それはソウルの各博物館に展示されている公文書において時代を追うごとに漢字が減少していることから推察できる。ところがここに来て国交回復後の中国当局や増加する中国人観光客への対応から再び漢字が必要になったことが、街頭での漢字の増加にもつながっているのだろう。してみるとやや大げさな発想かもしれないが、いったんは華夷秩序から外れたこの国がある面では再び「再中華化」を余儀なくされていると読めなくもないかもしれない。

牧志公設市場での経験が示唆するもの

 一方、沖縄も周知のように近代以前には中国の冊封体制、日本の幕藩体制双方に組み込まれつつ独立性を保っていた地域である。ただ二十一世紀も十年を過ぎた今、足を運んでみると表面的には本土とそう変わりない部分が増えているように思われた。むろん独自の歴史を教育する場の不足などの問題も深く知っていけばあるのだが、それはまた別の場に譲る。

 ここは自分が思っていた以上に「国内」で観光客も日本本土からの人が多く、中国人観光客の比率はソウルよりは少なかった。しかし、滞在したホテルにも中国語で間違い電話がかかってきたりしていたから、それでもかなりの人数が詰めかけていたのは間違いない。国際通りの土産物屋なども中国語の表記も目立っていたし、近代以前に中華文化をある意味複製していた観光名所・首里城を熱心に参観する中国人客の眼差しも興味深かった。

 さて、こうした近隣諸国・地域への中国人観光客の増加は何をもたらすのだろうか? 特に本欄の趣旨からすると、こうした人的移動によって中国本土の中国語も変容していくのだろうか?

 先に「再中国化」と書いた。これを先走って中国語による文化侵略と早とちりする向きも、このご時世ならいるかもしれないが、それは筆者の意図とは異なる。今のところソウルでも那覇でも、そして東京でも一般市民まで浸透するほど中国語の存在が強大化しているわけでもないし、かりに近代以前の両地域のように中国語が強い文化的浸透度を持ったとしても、むしろ大方の予想とは逆にハングルや琉球語や日本語の語彙が中国語にも(再)流入し、中国語を変容させるだろうし、そのプロセスは進みつつあるはずである。

那覇・国際通りでの銀聯カードの広告

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 一つ興味深いエピソードを紹介したい。

 那覇の有名な牧志公設市場2階の食堂で、ヘチマの味噌炒めを食べた時のことだ。ひとくち食べて「あ、これは鹿児島のおふくろの味と同じだ」と思った。うちの家系は沖縄とは直接関係ない。鹿児島の独自の味だと思っていたが、おそらくは十七世紀の薩摩による侵攻以降、沖縄の料理文化も伝わり、知らず知らずのうちに薩摩料理にも影響し、それが代々引き継がれていったのだろう。

 文化とは、強いものから弱いものへ、支配層から被支配層へと一方的に伝播されると思われているフシがあるけれど、おそらくこの例が示すように、(かつての)被支配層が支配層の文化を変えたと思しき事例もあるのだ。手前味噌ながら、今後の言語を巡っても示唆に富んだ事例ではないかと考えている。

 最後に、今後も不定期ながら寄稿させていただきたいと考えている。また具体的な語彙をめぐる考察にも戻るつもりだ。