バウルの便り

第01回

インド西ベンガルの村から

インディア

「バウル」を求めてインド・西ベンガル州のこの村にバウルの師と共に私が住み出して16年が過ぎました。
州都カルカッタから北西100キロ程のところにある村です。今は雨季の終わり。マンゴーやグァバ、椰子の木をはじめ、雨季の間に精いっぱい水を吸って大きくなった熱帯の木々たちに囲まれ、激しい電化の波に都市化が進んでいるとはいえ、果てしない宇宙空間とのつながりを感じさせてくれる自然が、優しさと脅威、協調と対立というまさに善と悪を超えた”大いなる源”のたわむれを眼前に見るようであり、またそれを通してこの私たちの身体と宇宙とのつながりを教えられる喜びに感謝して日々を送っています。

 バウルとは… 唄をうたう修行者
 風のように何ものにもとらわれず、
 自らの内なる神を愛し、
 その愛に酔う。

 最初私はバウルをこんな風に紹介しました。
 インドの修行者たちの象徴であるオレンジ色の衣装を着け、手には竹や瓢箪、素焼きの材料を使って作られた楽器。その簡素さは、人が楽器らしいものとして考えついた最初のものでないかと遠い昔に思いを馳せさせます。
 そしてそれらが奏でる音は,風の音や木々のざわめきにも似て、鳥の声と挨拶を交わし、人の身体のなかを共鳴させて通り抜け、大地と大空とともに揺れながら彼方に消えて行くように感じます。そしてバウルの声もまた然り。技巧を凝らさない真っすぐな唄い方のその声は、”あの方”のところにきっと届くはず。

 バウルに出逢った日から、私のバウルを求める旅は始まりました。それは1991年の終わり、何かに取り憑かれたように、目に見えない強い力にぐいぐい引っ張られるようにして私はインドに渡りました。
「一体わたしに何が起こったの?」
 渡印の3カ月ほど前のことです。日本の博物館で催されていたバウル公演を見に行った時のこと。バウルの唄が始まった瞬間から私の頭の中の合理的に成り立っている部分が一瞬にして秩序を乱されたようになりました。それは例えば、きれいにはめ込まれたジグソーパズルをがちゃがちゃに掻き乱してしまえばもともとあった絵像などそこから推し量るのが不可能になるように、この一種の「頭」の錯乱がもとに戻るための何の糸口もつかめないような状態でした。ぽーんと宇宙の果てに放たれたか、さもなければ自らの内深く沈み込んだか…。
 ともかくその内なる静寂のなかで、内なる声とでもいうべき言葉が聞こえました。「バウルになるんだ。」…起こるべきことが起こる時というのは選択に何の迷いもないものです。宇宙の意思が「私」の意思として現れたかのようです。私はその瞬間にすべてを決定してしまいました。一体何が起こったのか? 確かめない限り居ても立っても居られなくなったのです。そしてまた起こるべきことが起こる時というのは全てのお膳立てが出来ているものです。私がバウルの唄を聴きに行ったのは、1ヵ月半もの長い公演期間の最終日でした。もしその日が最終日でなければ、私はその後何日か続けて唄を聴きに行って何らかの答えを自分なりに引き出していたかもしれません。でも私にはベンガルまで行くしか方法がなかったのです。

コラムニスト
かずみ まき
1959年大阪に生まれる。1991年、日本でバウルの公演を見て衝撃を受け3ヵ月後に渡印。その後、師のもとで西ベンガルで生活を送り現在に至る。1992年、タゴール大学の祭りで外国人であることを理由に開催者側の委員長から唄をうたう事を拒否されるが、それを契機として新聞紙上で賛否両論が巻き起こる。しかし、もともとカーストや宗教宗派による人間の差別、対立を認めないバウルに外国人だからなれないというのは開催者側の誤りであるという意見が圧倒的大多数を占め、以後多くの人々に支援されベンガルの村々を巡り唄をうたう。現在は演奏活動を控えひっそりとアシュラム暮らしをしている。
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