誰の心の中にも眩しい光を放ち続ける遠い日の記憶があると思いますが、筆者にとっては43年前、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会(大阪万博、EXPO70)ほど今も変わらぬ色彩を保ち続ける経験は他にありません。筆者が途上国の開発問題に向き合うようになった源流もここまで遡ることができます。

 今回は大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」及び大阪万博の象徴ともいえる「太陽の塔」に込められた岡本太郎氏の思いを振り返りながら、「開発」について考察してみようと思います。(以下、偉大な芸術家・思想家に敬意と親しみをこめて、「(岡本)太郎さん」と呼ばせて頂きます)

大阪万博のシンボル「太陽の塔」

 1970年の夏休み、筆者と同じ小学5年生であった日本全国の少年少女のほとんど誰もが「万博に行きたい!!」と心の中で叫んでいたはずです。九州在住の万博少年少女にとっては、大阪はあまりにも遠かったのですが、筆者は両親に対して「万博に行けなければ一生恨んでやる!」というような只ならぬ雰囲気を全身全霊で表現していたようで、幸運にも「永遠の3日間」を経験することができました【注1】

 田舎町の少年は夜行バスで関門トンネルを抜けて九州を脱出し、初めて本州に踏み入れ、朝焼けに浮かびあがる阪神工業地帯の巨大なコンビナート群や名神高速道路の立体交差や大規模団地といった光景から目を離せないほど驚き続けていました。そして、遂に、8月のすでに高くなった朝の太陽にきらめく万博会場という未来都市に飛び込むことになりました。その瞬間から3日間、持てる感性を全開にして、高密度の時間を手許にしっかりと手繰り寄せていく中で、圧倒的な浮遊感と心臓のバクバク音を伴う歓喜の波動が絶え間なく押し寄せていたことを今でも鮮明に記憶しています。

 中央口を通り抜け、正面で両手を広げて立ちはだかるような表情の「太陽の塔」とシンボルゾーンの大屋根が作り出す超巨大な人工空間は今まで目にしてきた如何なる建造物とも異なる圧倒的なスケールで田舎町の少年に迫ってきました。筆者は「太陽の塔」の「黄金の顔」、「正面の歪んだ顔」、「背面の黒い顔の太陽」がそれぞれ何を意味しており、全体としてどのように「人類の進歩と調和」を表現しているのか何も理解できないまま、多くの人たちと同様に、ただ漠然と「太陽の塔」を「大阪万博」、そして「人類の進歩と調和」の象徴的な存在として見つめ続けてきました。

「人類の進歩と調和」への岡本太郎さんの疑問

 筆者は大学生の頃から「太陽の塔」に挨拶するために幾度となく大阪に出向いているのですが、つい最近になって、岡本太郎さんが大阪万博に込めた思いを初めて知るに至り、「太陽の塔」がこれまでとは違った輝きを放っているように感じているところです【注2】

現在の万博記念公園「太陽の塔」

▲現在の万博記念公園「太陽の塔」

 岡本太郎さんは1971年に「万国博に賭けたもの」という文章の中で、「人類の進歩と調和」「太陽の塔」への思いを綴っています【注3】。太郎さんは大阪万博のテーマ館プロデューサーでありながら、テーマ「人類の進歩と調和」には抵抗を感じていました。「進歩」から一般的にイメージされる科学工業力が本当に人々の生活を充実させ、人間的・精神的な前進を意味しているのかと疑問を投げかけています。そして、「富と巨大な力を誇る大国だけが大きな顔をしているなんて卑しい。「祭り」にならない。そのような進歩主義、近代主義的な意識を、この際ぶち破らなければならないと思った。たとえ富や科学技術を持たない人々でも、その歴史の深さ、人間的豊かさによって、さらに誇らしい彩りを打ち出せる。打ち出してほしい」と述べています。「調和」についても、「互譲の精神で、お互いに我慢し、矯めあって表面を保つのではなく」、「己の生命力をふんだんに伸ばし、だからこそ他のふくらみに対しても共感をもち、フェアに人間的に協力」することが重要であり、真の「調和」とは「激しい対立の上に火花を散らした、そのめくるめくエネルギーの交換によって成り立つべきもの」と述べています。太郎さんの言葉を耳にすると、どこか公式見解的で優等生的なニュアンスが漂う「人類の進歩と調和」というテーマが全く異なる、躍動感を持ったテーマであったと思えてきます。

 このような思いをこめて、岡本太郎さんは、初めて欧米以外のアジアで開催される大阪万博を「全人類が対等の立場で参加できる神聖な祭り」と位置づけ、1851年のロンドン万国博から始まり、産業や科学技術を誇示し、「国威発揚」の場ともなってきた国際万国博の歴史と一線を画すべく、敢えて「第1回万国博」と呼びました【注4】

 もっとも、現実としては、大阪万博の入場者の人気はアメリカ館とソ連館を中心とする欧米パビリオンや国内企業パビリオンに集中しました。しかし、長い待ち時間(中には4時間以上も)を嫌う大人たちの都合で、すぐに入場できる、初めて聞く名前のアフリカ、アジア、中南米の小さなパビリオン巡りを半ば強いられた子どもたちもいたでしょう。確かにこれらの国々の展示はアポロ月着陸船や「月の石」やドッキングしたソユーズ4号・5号や全天全周映像に比べれば、比較対象にならない程に見劣りするものでしたが、一方、各国パビリオンで肌の色が違う様々な国籍の人々と身近に接したことで、国際社会、世界の多様性、国の豊かさの違いというものを生まれて初めて実感することになった筆者のような小学生も多かったと思います。
 また、会期中に77の参加国がそれぞれ主役となる「ナショナル・デー」が設定され、「太陽の塔」に隣接するお祭り広場と呼ばれる巨大な空間で、「富や科学技術を持たない国も人々も、歴史の深さ、人間的豊かさによって誇らしい彩りを打ち出す」機会を得ることになりました。

まだエキスポ・タワーも見える1981年。お祭り広場跡と残された大屋根の一部(手前)

▲まだエキスポ・タワーも見える1981年。お祭り広場跡と残された大屋根の一部(手前)

岡本太郎さんが「太陽の塔」にこめた思い

 「太陽の塔」は西欧的な機能主義的美しさをもつ「大屋根」の平面に「ベラボーのもの」を対決させるという発想で建設されました。そこには、「日本人一般のただ二つの価値基準である西欧的近代主義と、その裏返しの日本的伝統主義、その両方を蹴飛ばしたい」という岡本太郎さんの思いがありました。

 太郎さんはフランス滞在中(1930年~40年、19歳~29歳)に20世紀芸術の二大潮流である「抽象主義」と「シュルレアリスム」の双方に出会い、戦後、日本では前衛芸術運動を始め、相対する「抽象主義」と「シュルレアリスム」を共存させるのではなく、矛盾を矛盾として不協和のまま見せるという「対極主義」という立場をとるようになります。更に1951年、40歳の時に日本の縄文土器の「荒々しい、不協和な形態、模様」に狂喜し、日本にも生命感に満ちた土器を残した先祖がいたことを知り、「西欧的価値観か、(弥生時代以降の)日本の伝統的価値観か」という二元的な価値観の枠組みを超えてゆく大きな契機となったようです。太郎さんの芸術的立ち位置を知ると「太陽の塔」への理解が一歩進むように感じます【注5】

「太陽の塔」のまわりには、報道写真でもなく、世界の歴史的偉人でもなく、発展途上国の、無名ではあるものの、大自然と闘いながら逞しく生きる普通の人間の姿をとらえた『世界を支える無名の人々』という619枚の写真が配置されました。岡本太郎さんがテーマ館プロデューサーとして、世界の国々や人々の持つ価値の多様性・平等性を重視し、独立間もないアジア・アフリカ諸国の人々に注いでいる眼差しには、未だ埋もれたままの可能性の開花への期待感があふれていたように感じます。

「太陽の塔」が見据える人類の「開発」の行方

 岡本太郎さんは、「私は万国博以前と以後において、人間像自体が変化するべきだと考えている。もしそうでない、人類の文化史に巨大な足跡を残すことのない、ただの見世物ならば、ほんとうに空しいと言わなければならない」と述べています。残念ながら、混乱と危機が続く現在の国際情勢を俯瞰すれば、大阪万博から43年を経ても太郎さんが期待したようには「人間像自体」が変化しているようには思えません。

 それでも世界は確実に変化しています。20世紀末に東西冷戦が終結し、西側の「勝利」により、「歴史の終わり」が語られ、しばらくは米国のみが唯一の超大国の地位を占める時代が続きました。そして、21世紀半ば以降、中国、インド等の新興国が急速に存在感を高め、2008年のリーマンショック以降は世界経済を調整する枠組みにおいてもG8に代わり、G20の比重が格段に大きくなりました。アフリカ大陸も援助対象の「発展途上」大陸から、ビジネスチャンスが膨らみ続ける「新興」大陸に大きく変化を遂げつつあります。より多元的な国際社会が到来しつつあります。

 このような国際社会の変化に伴い、岡本太郎さんが望んだように、どの国も、どこの国の人々も「歴史の深さ、人間的豊かさによって誇らしい彩りを打ち出す」ことが、万博のような特別な場所ではなくても、普通にできる時代の幕開けが見え始めているのかもしれません。そして、どの国も、誰もが有している潜在的な可能性を拡大させ、開花させていくことを「開発」と呼ぶのなら、太郎さんは1970年において人類の「開発」のあるべき方向性を明確に示していたと言えるかもしれません。

 当初、「太陽の塔」は大阪万博の他のほとんどの施設と同様に仮設建造物として建設されており、いずれかの段階で解体される予定でしたが、1975年には永久保存が決定します。「太陽の塔」は大阪万博という壮大な祭りを見守る「司祭的な役割」を果たした、あるいは「御神体」に見えたことから、関係者の間で解体への抵抗感があったとの見方もあります。一方、2000年代半ばに「「太陽の塔」を世界遺産にすべき」との運動が起こった時には、すでに亡くなっていた太郎さんに代わり、養女であり、長年のパートナーでもある岡本敏子さんが「「太陽の塔」は死んでいない。いま、猛烈に生きて、人々に働きかけ、問題をつきつけているんです。過去の遺産にしないで、いまも、これからも、ますます力強く、メッセージを発信している芸術として、運動を進めてほしい」と訴え、大きな支持が得られたそうです。

 筆者は、「太陽の塔」には誰もが自らの潜在的可能性を拡大し開花させ、「誇らしい彩を打ち出す」ことができる時代が本当に到来するのかどうか、これからも長くしっかりと人類の「開発」の行方を見守ってほしいと願っています。

【注】

  1. 当時同じクラスから万博に行ったのは筆者を含めわずか4名でした。2学期が始まって、そのことを知ると万博に行けなかった多くの同級生の痛々しいほどの無念さ、悔しさ、嫉妬、諦めがまるで教室中に充満しているように思えて、「自慢話」をすることに罪深さを感じるほどでした。それほど大阪は遠い場所であり、それほど大阪万博は当時の小学5年生の心を鷲掴みする特別なイベントでした。結果として、あの感動をクラスの友達ともほとんど共有できないまま、心の奥に「冷凍保存」することになり、時折ひとり静かに「解凍」するという年月が長く続いたことも、今も変わらずに鮮明に記憶が甦る要因なのだろうと思います。
  2. 直接のきっかけはNHK番組「プロフェッショナル仕事の流儀」(7月8日放映)の中で、海洋堂による岡本太郎さんの作品群のフィギュア化が紹介されたことでした。
  3. 川崎市岡本太郎美術館編集『岡本太郎 EXPO’70 太陽の塔からのメッセージ』(2005年、光村印刷)、平野暁臣編著『岡本太郎と太陽の塔』(2008年、小学館)。
  4. 1851年の「ロンドン万国博」から始まった万国博覧会は「大阪万博」に至るまでに欧米諸国(米、英、仏、スペイン、オーストリア、イタリア、豪州、ベルギー、カナダ(1967年))で開催されていました。日本でも1912年(日露戦争後の疲弊により中止)に続き、1940年にも開催が計画されたものの、世界各国からの参加が期待できない中、規模を縮小し、東アジア諸国からの参加を想定した「大東亜共栄博覧会」(後に「大東亜建設博覧会」に変更)という名称の博覧会開催の動きがありましたが、こちらも中止になっています。万国博は産業・科学技術の発展ぶりを展示する一方、1889年の「第4回パリ万博」には柵に囲われた構造の植民地集落に現地の人を生活させた「人間の展示」があり、1904年の「ルイジアナ買収百年記念国際博覧会」(米国セントルイス)でも、有色人種に対する白人の優位性を強調するような「人間の展示」がなされ、以降、宗主国・白人の優位性を誇示する植民地展示は万国博の呼び物となっていたようです。第2次世界大戦後初の万国博となる1958年の「ブリッセル万国博覧会」においては「人間の展示」はすでに時代錯誤的になっていたにもかかわらず、ベルギーは展示を行っています。岡本太郎さんがパリに滞在した1930年代の1937年にはパリ万国博が開催され、太郎さんもこの時に展示されたピカソの『ゲルニカ』を見て感動し、太郎さんが1955年に前年の第五福竜丸の水爆実験での被ばくに触発されて『燃える人』を製作する上で影響を受けています。なお、同パリ万国博にも「人間の展示」がなされたのか、太郎さんも目撃したのかどうかは確認できませんが、いずれにしても大阪万博のテーマ館プロデューサーを引き受けた段階では万国博の歴史の中で欧米開催国がこのような白人優位性を誇示していたことはご存じだったと推測します(『岡本太郎 EXPO’70 太陽の塔からのメッセージ』、串間努著『まぼろし万国博覧会』(2005年、ちくま文庫(筑摩書房))。
  5. 川崎市岡本太郎美術館編集『岡本太郎 EXPO’70 太陽の塔からのメッセージ』(2005年、光村印刷)、平野暁臣編著『岡本太郎と太陽の塔』(2008年、小学館)、「芸術新潮2011年3月号~生誕100年記念 岡本太郎を知るための100のQ&A」(新潮社)。

 

【その他参考文献】

  • 岡本太郎他編集『日本万国博覧会テーマ館ガイド』(1970年、(財)日本万国博覧会協会)
  • 岡本太郎著、岡本敏子監修『強く生きる言葉』(2003年、イーストプレス)
  • 岡本太郎著、岡本敏子監修『壁を破る言葉』(2005年、イーストプレス)
  • 橋爪紳也監修『EXPO’70パビリオン大阪万博公式メモリアルガイド』(2010年、平凡社)