私が幼稚園と小学校のときは、文化大革命のまっただ中で、小学校一年生の第一課は「毛主席万歳!」、第二課は「中国共産党万歳!」、第三課は「戦無不勝的(必勝不敗の)毛沢東思想万歳!万歳!万万歳!」でした。学校の入口、壁、掲示板、教室の前の横断幕、後ろの黒板にチョークで書いた「新聞」など、至るところに「××を焼きつくせ!」、「××の犬の頭を叩きつぶせ!」、「××の犬の足を油で揚げろ!」、「××打倒」、「××撃破」、「××撃退」、「××粉砕」、「××摘発」、「××陪闘(連座のように主に糾弾される者の傍に引き出して一緒に非難する」、「××を闘争集会にかけろ(大勢でスローガンを怒号しながらつるし上げる)」、「××を砲撃せよ」、「××を殲滅せよ」、「××を奪権」、「牛鬼蛇神の××」、「全党全軍全国人民全国紅小兵(紅衛兵より年少の小学生)をあげて悪党の××を討伐せよ」……
 このように狂気に満ちた血なまぐさい言葉の氾濫のなかで、個人の尊厳を省みる憐憫の情をはじめ、あらゆる人間性が捨て去られ、さらに真実までも覆いかくされてしまいました。

 1978年、「四人組」が失脚し、文革が終息しました。その2年後、私は高校生で、語文(国語)の教科書で魯迅の短篇「薬」を学んでいました。この小説の結びでは、夏楡(シァ・ユ)の母親が息子の墓参りをする情景が、次のように描写されています。
「そよ風はとうに止んでいた。枯れ草が一本一本、針金のように直立している。その一本がふるえるかすかな物音が、空気のなかをふるえながら伝わってゆき、次第に小さくなって、ついに消えてしまうと、あたり一面、死のような静寂である。ふたり(もう一人の墓参りの老女:引用者注)は、枯れ草のなかに立って、鴉を仰ぎ見ていた。鴉も、尖った木の枝のあいだに首をすくめて、鋳物のようにじっとしていた」(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記(吶喊)』岩波文庫改訳版、1981年、50〜51頁)
 この箇所になったとき、突然、先生は解釈を止めて、私たち生徒に向かって質問しました。
「この鋳物のようにじっとしている鴉は、何を象徴し、代表しているか?」
 教室の全員が手を挙げて、林立させました。分かる者は右手を挙げ、分からない者は左手を挙げたのです。それは私たちのクラスが独自につくった規則でした。
 私はクラスの「語文課代表(作文が上手だとほめられて指名された)」なので、名前を呼ばれました。そして、私は「鴉は害鳥(人間に害をもたらす鳥)で、“黒五類分子”より真っ黒ですから、階級の敵を象徴し、代表しています」と答えました。すると、先生はうなずき、ほめました。
「正しい。ここで鴉は反革命を代表している。従って、魯迅先生はわざわざ『鋳物のように』と形容して、頑強な反革命勢力の強さを強調しているのだ。つまり、この鴉は反革命の鴉である」
 そうか、なるほど、鳥には益鳥と害鳥の区別のほかに、革命の鳥と反革命の鳥があるのだな。生徒たちはこう学びました。

 私はいつもノートを持ち歩き、『人民日報』の社説や大いに強調された表現などを書き写し、それを作文などで活用していて、この先生からやさしくほめられたりしました。ところで、この先生は足が不自由で、名前の「路平」にかけて、生徒たちは「長沙路不平(私たちがいた湖南省長沙市の道路はデコボコだという意味)」というあだなをつけていました。
 ある日、「路不平」先生がいつもとちがう靴をはいて教室に入ってきたとき、みんなどっと笑いました。すると、先生の表情がサッと変わり、顔の筋肉をギュッと引き締め、まさに第三次世界大戦が一触即発の寸前という雰囲気になりました。
「何を笑ってるんだ! 君たち、何を笑ってるんだ! さっさと言いなさい。笑いには革命的な笑いと、反革命的な笑いがある。君たちは前者なのか、それとも後者なのか?」
 このようにして、路先生は革命的な方法で、革命的な文章を分析し、革命の後継者を育てていました。何から何まで階級論というイデオロギーに基づいて観察し、判断を下しました。
 そして現在、私はもう20年以上も路先生にお会いせず、自分も先生と同じ年齢になってしまいました。

 ここで歴史を遡って見ると、1958年5月2日の『人民日報』に中国科学院院長で詩人の郭沫若の詩が掲載されました。それは安徽省繁昌城の食料生産の大躍進を謳歌したものです。
「早くも早稲が3万6
 また中手が4万3
 繁昌は繁昌の名に恥じない
 麻城県をぴったりと追いかけている」

9月9日の『人民日報』にはまた郭の詩が掲載されました。
「麻城の中手が5万2
 繁昌の4万3を超えた
 長江の後ろの波が前の波をせきたて
 驚異的な生産高が次から次へと伝わってきた」

 ところが毛沢東主導で1958年から60年まで続いた「大躍進運動」の現実は、59年から61年に2000〜4000万人という大量の餓死者を出すもので、今では「三年自然災害」と呼ばれています。そして、安徽省だけでも人口の10%にあたる226.28万人の餓死者が出ました(楊継縄『墓碑:中国六十年代大飢荒紀実』香港天地出版社、2008年参照)。その現実がありながら、『人民日報』は郭の詩を掲載したのです。まさに、一方でウソやほらで現実を覆いかくし、他方で現実を伝えようとするものを抑えつけていたのです。そして、これがひどくなって文化大革命に至ったのでした。

 ところで、文革は1976年に終息したとされていますが、本当に終わったのでしょうか。いいえ、まだまだ私たちの生活のなかで続いています。現在でも、ネットを見ると、2004年に起きた反日デモ、2008年のオリンピック聖火リレー、亡命チベット政府やダライ・ラマなど、いずれにおいても文革的な激しい言葉で非難されています。そこでは群衆の民族主義を煽動するような「裏切り者」、「スパイ」、「反革命分子」、「反乱」、「鎮圧」などが使われ、何と、ウーセルさんの記録写真証言集『殺劫』にある文革期の大字報と驚くほど同じです。言い換えれば、文革期の言葉は、今でも一人ひとりの日常生活に染みこんでいるのです。

 これはネットだけではありません。中国の一部の新聞や各地にある横断幕や壁などに書かれたスローガンを見てみましょう。
「(一人っ子政策のノルマを)一人でも超えれば、村全体の(輸精管を)縛るぞ」(計画生育という国策の宣伝)
「墓を十増やしても、人間は一人も増やすな」(同上)
「一家が離散しても、国を滅ぼすな」(同上)
「(輸精管)を縛らねばならねえのに、しなければ、家を倒すぞ。流産せねばならねえのに、しなければ、家を壊し、家畜を取りあげるぞ」(同上)
「我々の活動の重点は二つの口をしっかりと管理することだ。下の口をふさぎ、上の口に詰め込むのだ」(同上)
「母ちゃんが死んでも、一本の木も枯らすな」(植林、緑化の宣伝)
「銀行を襲えば、その場で銃殺」(銀行の入口)
「死ぬのが怖くなけりゃ、十八郷に来てみろ」(治安の宣伝)
「投資家を侵犯するのは、誰でも人民の敵だ」(投資家保護の宣伝)
「今日納税しなければ、明日は監獄だ」(納税の宣伝)
「集団の陳情は違法で、行政レベルを超えた越訴は恥だ」(陳情を止めさせる宣伝)

 このような状況を見ると、私たちの中国語は文革のアヘンに中毒しているように思わざるをえません。あるいは言葉が文革的なメラミンに汚染され、しかもその汚染が広がっているようです。何につけても革命や階級のイデオロギーに還元し、上綱上線(たちどころに問題を党の綱領や路線にまで引き上げてビクビクさせる)で威嚇し、恐喝したり、あるいはウソやほらのプロパガンダでごまかしたりして国民を呪縛してきました。このようにして、党や政府ばかりか、国民も、威嚇や恐喝、あるいはウソやほらでしか自分の考えを表現することができなくなっています。
 昨年帰国したとき、街角で肉まんを買おうとしたら、「洗濯粉は絶対に入れてません」という看板を目にしました。翌日は「絶対に本日作った本物です。洗濯粉など入れてない、おいしくて上等な肉まんです」という看板が立てられていました。私はカメラを持つ習慣がないため、これを見せることができませんが、参考に、ウーセルさんから送られてきた、彼女が撮影した写真を紹介します。
・「模範共産党員のカウンター。正真正銘」(ラサ、2004年)
・「共産党模範スポット」(アムド、2008年)

 このように、今日でも、文革時代の言葉が氾濫するだけでなく、文革は私たちの日常生活に染みこんでいます。暴政の暴力により威嚇、恐喝、ウソ、ほらなどでできた暴言が暴民にはびこり、また同時に、暴民の暴言は暴政の暴力を支えているという状況です。暴政と暴民が表裏一体となっているようです。その状況は文革の時代の継続というより、市場経済化で商業主義が広がり、欲望が膨張したため、言葉には毒性が強まっています。そして、これに比例して猛毒の言葉はプロパガンダの道具としてさらに強力になり、人を死地に導き、追いつめる凶悪な武器になっています。まさにメラミン汚染は現代の中国語にも染みこんでいると言えます