2005年1月、プリンストン大学、郭羅基(左)と方励之(右)

明けの明星が忽然と流れ隕(お)ちた

 郭羅基氏から「明けの明星が忽然と流れ隕(お)ちた」と、方励之氏の急逝の知らせが届いた。方氏と郭氏は北京大学の学友で、ともに反右派闘争では激しく糾弾され、天安門事件後には亡命するが、人間は本来的に権威から自由で自己決定権を有するとリベラル知識人の立場から発言し続けるなど、半世紀を通して励ましあい、親交を深めてきた。
 方氏は国際的に著名な宇宙物理学者であり、また「中国のサハロフ」と呼ばれた民主化運動の代表的存在でもある。両者は、宇宙物理学による宇宙の普遍的原理の研究と、自由や人権など人類普遍の原則に基づく社会構築ための民主化という普遍的原理・原則の探求において共通している。それ故、方氏は科学と民主主義の原点たる「五四運動」の精神を継承し、実践する象徴的存在とも見なされている。

天安門事件により事実上亡命した4人の知識人。一九九三年一月、ワシントンDC。左から:劉賓雁、王若望、郭羅基、方励之。郭先生の提供

 方氏は一九八九年はじめに「民主主義は勝ちとるものであって、恩賜ではない」、下から上を突き動かす民間の力にこそ希望があると呼びかけた。これは、近代社会を構成するのは自由で自立した市民であり、恩賜で生かされる臣民ではないことを明快に表明している。
 確かに天安門事件により民主化運動は鎮圧されたが、この呼びかけは天安門世代の若者に強い影響を与え、そして劉暁波氏たちの「〇八憲章」に受け継がれている。二〇一〇年の劉氏不在のノーベル平和賞受賞式に、方氏は駆けつけた。
 郭氏は、方氏がいつも胸を張って大股で早く歩き、人生もそのようで、最後は流星の如く急逝したと語った。民主中国の黎明を待たず、暗夜に発した明けの明星の輝きは世代を越えて伝えられ、不朽である。流れ星に願うと、願いごとはかなうという。方氏と民主化に関して、この言い伝えは信じてよい。

§

劉暁波──天安門犠牲者の声と生者の声をつなぐ──

 二〇〇九年四月二八日、米国ペンクラブは獄中の劉暁波にBarbara Goldsmith Freedom to Write Award を贈った。妻の劉霞も授賞式には出られず、挨拶を送った。彼女はその中で「(劉暁波は)不器用だが勤勉な詩人で、たとえ投獄されても詩を書くことを放棄しませんでした。……詩人のほとばしる熱情をもって中国の民主化を進め、独裁者に向かって、ノー!ノー!ノー!と繰り返してきました。……詩人の暖かなやさしさをもって無実の罪で殺された人の霊魂、そして親愛なる友や私にイエス!イエス!イエス!と繰り返してきました」と述べている(中国信息中心編『零八憲章与中国変革』労改基金会、二〇〇九年、五五―五六頁)。

2011年8月5日、北京にて(写真の説明は文末の注を参照)

 これは劉暁波の人柄を鮮明に概括している。彼は多彩に言論活動を展開しているが、その根底には一貫して理想を追求する芸術的精神がある。それ故、彼の思想と行動を理解するためには政論だけでなく、詩も読まなければならない。彼の詩には闘いの中で愛する妻に捧げた骨がらみに戦慄する抒情と天安門事件の犠牲者を追悼する慟哭という二つの側面がある。前者では「担う―苦難の妻へ―」があり、劉暁波は「君はぼくに言った/すべて担える/君の瞳は粘り強く太陽に向かい/失明して炎となり/炎は海水を塩に変えた//親愛なる人よ/暗闇を隔てて君に聞かせよう/墓に入る前に/骨と灰でぼくに手紙をくれ/冥土の宛先を忘れるな……」と綴る。このように凄味さえある熱情と真摯さをもって、彼は強力な磁石のように劉霞を引きつけ、二人は固い絆と愛を育み、一九九六年に大連の労働教養院で獄中結婚した。
 また、後者としては「十五年が過ぎた/あの銃剣で赤く染まった血なまぐさい夜明けは/相変わらず針の先のようにぼくの目を突き刺す/あれ以来、ぼくの目にするものはみな血の汚れを帯びている/ぼくが書いた一字一句はみな/墳墓のなかの霊魂が吐露したものから来ている」がある(電子メールで送られてきた詩)。時間の経過とともに記憶も薄らぐが、劉暁波は毎年天安門事件の犠牲者を追悼する詩を発表し、年々幸いに生き延びた者(中国語で「幸存者」)としての自分が自覚され、犠牲者の想念や悲哀を思わされるようになった。このようにして、事実上の一党独裁体制との闘いは、忘却との闘いにもなった。
 これは繊細な感性と鋭いエスプリをもって人間本来のあり方を追求する詩人の使命である。そして詩人は物理的に無力と思われるが、文学の力を持つ。一九九五年にノーベル文学賞を受賞したアイルランドの詩人シェイマス・ヒーニーは「ある意味で詩の効果はゼロに等しい。今まで一台の戦車を阻止できた詩は一篇もない。だが、別の意味では詩は無限だ」と詠んだ。まさにこれは劉暁波にも当てはまるだろう。

注:写真キャプション
 2011年8月5日、北京で。「天安門の母」の丁・蒋先生ご夫妻、余傑ご夫妻、そして筆者。この日、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞以来、10か月ぶりに初めて再会できました。丁・蒋ご夫妻は軟禁生活で、余傑は暴行を受けました。その後、余傑は2012年1月11日にアメリカに亡命し、これ以来会うことはできませんでした。でも、きっとまた逢えることでしょう。
 写真で、壁に掛けられた肖像画は、丁・蒋ご夫妻の息子の蒋捷連です。彼は17歳の高校2年生で、誕生日の翌日、戒厳部隊の銃弾に倒れました。丁先生は、天安門事件で子供や家族を殺傷された女性を中心に組織された「天安門の母」を創設し、事件
の真相究明を粘り強く続けています。手にしているのは、日本の職人が制作した箸で、ご夫妻と息子の三人のお名前が刻まれています。ご夫妻は毎年の清明節(墓参りの節)で、息子を供養するときこの箸を使いますとおっしゃいました。同様に、劉暁波・劉霞ご夫妻にも箸を用意しています。いつか出獄した時に、手渡したいと思っています。
 また『「私には敵はいない」の思想』(藤原書店)も手にしています。この書には、丁・蒋先生や余傑、李鋭、および日本の良識ある知識人・子安宣邦先生、矢吹晋先生などそうそうたるメンバーの文章が収録されています。