燕のたより

第08回

汪全勝という名の幼なじみ・六四天安門事件20周年にあたり

「真の猛士はあえて惨憺たる人生に直面し、あえて淋漓たる鮮血を正視する(魯迅「色淡き血痕のなかに」丸尾常喜訳)

(1)

 去年の12月、関西空港と故郷の長沙(湖南省省都)との間に直行便が運行されるようになり、春休みに帰郷しました。この直行便は、湖南省人民政府の全面的な支援で、南方航空公司が週一往復の定期便を運行しています。十数年前、私が留学で大阪に来たときには、夢にも思わなかったことです。
 来日してからアッという間に18年が経ちました。光陰矢の如し。白駒隙を過ぐ。まさにそのようでした。この18年間、長沙は中国の他の都市と同様に激しく変貌しました。日本から出店した平和堂や北京から出店した王府井などのデパートでは物価が上昇していますが、レストランはどこも満員で、不景気には見えませんでした。  帰郷してから家族、親族、友人たちと会いました。みな口をそろえて「百年来の繁栄」だと「調和社会」を賛美し、とても満足している様子でした。このように話に花が咲いていたとき、私は「あの子はどうしてるの?」とたずねました。
「あの子って、全勝のことかい?。もうだめだよ。調子がいいときは女の子を追いかけるから、お乳を飲ませてやると、よだれを垂らしながらにやにやしている。まるで赤ん坊だよ。(発作が出て)悪いときは、棒やレンガを持って、通りかかる人を殴ろうとする。ああ、ほんとうにかわいそうよ。あんなにいい子だったのに」  母はこう言って、ため息をつきました。私は続けて「もう退院したの?」と聞きました。
「とっくに。数年前、父親は肺ガンで亡くなった。たばこの吸いすぎだよ。姉さんが4人いて、一番上の梅花と二番目の桃花は自宅を雀荘にしている。すごくうるさくて、チンピラやごろつきが出入りして、隣の家の干し肉から洗濯物まで手当たり次第に持って行く。梅花や桃花は隠れて売春もしているよ。居民委員会(自治組織で準行政組織)もどしようもないの。三番目の牡丹は自由市場の屠畜場の隣で散髪屋をしている。四番目の坆瑰は包工頭(バオゴントゥ。建設業の請負人)と蒸発したよ」
「全勝は、今、誰といっしょに暮らしているの?」
「母親とだよ。雀の涙くらいの軍人恩給しかないから、病院から追い出されてしまったんだ。誰も面倒なんか見てくれないよ。ほんとうにかわいそうだよ」
「会えるかしら?」
「会ってどうするの?」
「別に。幼なじみだから、ただ会ってみたいだけ」
「フー」
 母はため息をつき、もうこの話題を続けませんでした。

(2)

 全勝は私の幼なじみです。お父さんとお母さんは寡黙で、ピストン製造工場のきまじめな臨時工でした。娘が4人続き、ようやく待望の息子が生まれ、全勝と名づけられました。子どものころはとても貧しくて、食べるのがやっとでした。暗い25ワットの電球の下で、家族みんなで黙々とマッチ箱の材料をのりではりつけて作っていました。臨時収入の一つでした。
 4人の姉が着ていた服は、工場で使わなくなった布ヤスリをかき集め、ヤスリの部分を削って縫い合わせたものでした。旧正月のときくらいしか、赤いコールテンの服は着られませんでした。それも一つしかないので、まず一番上の姉が着て、次に二番目のという具合に順番で着ていました。
 ところが全勝は違いました。彼は汪一家の希望の星、宝物で、生まれてから両親と4人の姉に猫かわいがりにかわいがわれ、食べるものも、着るものも特別でした。40℃近い真夏に、4人の姉は小さな肩に木箱をかけてアイスキャンディーをあちこち売り歩き、汗だらけになっても、一本も食べませんでした。ところが、全勝は私たちといっしょに昆虫採集したり、塀の上でじゃんけんしたりして遊んでました。時々、アズキのアイスキャンディーを口にくわえて、みんなの前でおいしそうになめて、からかいました。けんかになっても、全勝は全戦全勝でした。それは4人のお姉さんが、彼の鋼鉄の応援団だったからです。
 私が小学5年生のときの夏休み、父が数百キロ離れた江西省の労働改造先の農村から一時帰休しました。父は文革期に知識人として労働改造に送られていたのです。
 父は私と弟を連れてダムまで泳ぎに行きました。全勝は勝手に付いてきました。ところが、4人の姉がそれを聞きつけて追いかけてきました。
「だめよ。劉おじさん。絶対だめよ。うちは男の子が一人だけ。汪一家の家系を継ぐ一人っ子よ。溺れて死んだらどうするの」
 さすがの父も、4人の姉が口角泡を飛ばして続けざまに連発する言葉の弾丸に降参しました。
 そして、全勝だけ高校を卒業しました。でも、4人の姉のうち、上の二人は小学校だけで、下の二人は中学校まででした。一番下の坆瑰は澄んだ目をキラキラ輝かせるきれいな子でした。私は小学校と中学校をいっしょに通い、80年代には北島や顧城をまねて朦朧詩を書いていました。
 高校を卒業し、1988年に全勝は人民解放軍に入隊しました。汪一家は大喜びで「一人参軍、全家光栄」という扁額を玄関に飾りました。全勝は緑黄色の軍服に赤い絹の花を斜めに飾り、ドラや爆竹が鳴り響くなかを、そよ風とともに颯爽と進む美少年でした。

(3)

 1989年4月、中国共産党前総書記の胡耀邦が死去しました。それを契機に天安門を中心に民主化運動が広がりました。4月22日には、長沙でも夜7時ごろ中心部の五一路の広場に集まった数千人の群衆の一部が「民主万歳」、「専制打倒」、「官倒(役人ブローカー)打倒」などのシュプレヒコールを繰り返しながら、道路沿いの商店のガラスを割りました。そして、この騒ぎに加わった百人近くが連行されました。
 その後、北京大学や清華大学が無期限ストに突入し、全国から学生の代表が続々と上京するとともに、全国の学生は北京に呼応して決起し、民主化要求デモを全国で展開せよという檄が電報で飛ばされました。さらに、北京市内の各大学の学生たちは大学を出て市民に直接働きかけ始めました。当時、「改革」の加速が、国営企業の自主権の拡大や価格改革をもたらし、それを通して確かに高度経済成長が実現できましたが、その反面、インフレの昂進、官僚の腐敗・汚職の蔓延、物価の高騰などの問題も広がりました。そして、市民は義憤にかられ、また生活に切実な問題を訴えるため、学生の民主化要求と結びつき、自ら「自治会」を結成し学生への様々な支援を始めました。
 ところが、4月26日の『人民日報』は社説「旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」を発表し、それを中央テレビは放送しました。この社説は少数の野心を持った者が学生を利用して共産党と政府を攻撃し、反動的なビラやスローガンを広め、民主と法制、安定・団結の政治局面を破壊したと述べ、学生運動は「動乱」であり、「党の指導と社会主義を否定する策略がある」など強い表現で非難しました。さらに、5月3日、政府スポークスマンの袁木は学生側の請願を拒否し、また「学生に策略を授けて動乱を引き起こそうとする者が背景にいるにちがいない」と非難しました。
 しかし、5月4日、北京長安街は再び5万人の大規模なデモ隊で埋めつくされました。そして、デモ隊は警備陣を圧倒し、立入禁止とされていた天安門広場に入りました。これに一般市民も加わり、参加者は10万人に膨れあがりました。その中で学生たちは五・四運動70周年記念宣言を読みあげ、今後も当局と対話を求めることを前提に、5日から全学ストライキを解除するという方針を発表しました。

(4)

 1989年5月19日、全勝が所属する第38軍団は先頭部隊として北京に入りました。その日、北京市内には戒厳令が敷かれました(布告は翌20日)。解放軍文芸出版社の『鋼鉄的部隊:陸軍第38集団軍軍史』(『軍史』編審委員会編著、約1000頁の内部発行)の第7章「北京へ赴き、首都の秩序を守り、動乱を制止し、反革命暴乱を平定する」第1節では、次のように書かれています。
「5月15日以後、首都北京の情勢が急激に悪化した。北京市の社会の安定と市民の生命や財産の保護のため、中央国家機関と北京市政府の正常な公務の執行のため、北京市の警備力の不足のため、中華人民共和国憲法第89条第16項により授与された権力に基づき、国務院は北京の一部の地区に戒厳令を敷くと決定した」
 北京市内に入る途中で、部隊は集結していた学生や市民の頑強な抵抗に阻まれました。前掲『鋼鉄的部隊』第7章では、次のように書かれています。
「北京に向かい前進する途中で、各部隊は状況の真相が分からない(当局の言い方で、分からないため策略に煽動されたと示唆している)学生や群衆に取り囲まれ、前進を阻まれた。このような事態により、牽制・偽装、迂回、秘密前進、迅速前進など様々な戦術をとり北京に集結した」
 このようにして部隊は市内に入りましたが、しかし、23日にはこれに抗議する100万人規模のデモが行われました。このように緊張した状況のなか、6月に入ると、天安門広場で民主化を要求して座り込みを続けていた学生・市民に対して、地方から次々に人民解放軍の部隊が集結しました。そして、6月3日深夜から4日未明にかけて、人民解放軍は戦車や装甲車まで出動し、座り込みを続けていた学生や市民を武力で排除し、さらに、無差別に発砲し、多数の死傷者を出すという惨事を引き起こしました。世界を震撼させた天安門事件です。
 しかし、中国政府と人民解放軍は、次のように総括しました(前掲『鋼鉄的部隊』第7章)。
「1989年の春と夏が繋がりあうとき、国際的に広範囲の気候と国内の小範囲の気候が相互に呼応しあい、ごく少数の者が学生運動を利用し、北京で中国共産党の指導と社会主義制度を転覆することを目的とした動乱と反革命暴乱を相次いで引き起こした。我が集団軍中央軍事委員会と北京軍区の命令を受け、1989年4月22日から1990年10月26日まで、前後3回にわたり北京に赴き、首都の秩序を守り、動乱を制止し、反革命暴乱を平定し、アジア大会競技場を守る任務を果たした。党と国家が危難にあるとき、指揮官と戦闘員全員は『困難と危険を恐れず。犠牲を恐れず』という革命精神を高揚し、『政治関(政治思想の難関』、『生死関』、『苦楽関』の厳しい試練を耐え、担当する使命を見事に完遂し、党と人民に合格点に達した答案用紙を提出した。……
 反革命暴乱を平定中、集団軍では3000人以上が殴られ、1100人以上が負傷し、159人が重傷で、6人が犠牲となり、また47台の装甲車と65台の自動車が焼かれたが、この鮮血と生命を偉大なる勝利の代償として、党中央と人民共和国と社会主義政府を守るために貢献した」
 そして、6月30日と7月27日に、中華人民共和国中央軍事委員会主席の鄧小平は第38集団軍の王其富など8名に「共和国衛士」の称号を授与しました。また死亡した兵士たちはその後共産党員に認められました。
 翌1990年2月11日、中国共産党中央軍事委員会主席江沢民は、第38集団軍112師団偵察大隊に「衛国英雄大隊」の栄誉称号を授与するなど、各部隊や個人を褒賞しました。さらに2月15日、北京軍区司令官の周衣氷は第38集団軍の27の部隊や個人に栄誉称号を授与しました。
 それとともに、人民解放軍を讃える出版物が次々に刊行されました。まず、89年9月に光明日報出版社が『平暴英雄譜‐平息北京反革命暴乱英雄事迹報告集』を出版しました。また、人民解放軍文芸出版社は前掲『鋼鉄的部隊』の他に『戒厳一日』、『平暴英雄譜』(第38集団軍編)、『六三行動賛』などを出版しました。さらに、各省の人民出版社もそれぞれの『平暴英雄譜』を出版しました。
 その一方で、民主化要求の運動は反革命暴乱とされ、政府や党の中では徹底的な引き締めや捜索が行われました(その一端は拙訳『中国低層訪談録』の「六・四天安門事件反革命分子・万宝成」で述べられています)。
 ところが、前記『鋼鉄的部隊』などはまもなく書店の本棚から引きあげられ、発行も停止され、全く姿を消してしまいました。私は帰郷した3月に、市内の定王台にある本の闇市で『平暴英雄譜』はありますかと聞いたところ、奥の暗い場所で、表紙もない『平暴英雄譜』をチラッと見せてくれました。16元の本が500元の値段が付けられていました。その時はちょっと高いなと思って買いませんでしたが、翌日、またお店をたずねたら、もうないと言われました。

(5)

 天安門事件の犠牲者について、日本では『天安門の犠牲者を訪ねて』(文藝春秋)などで知ることができます。しかし、中国では、その真相を知らせようとすれば、厳しく弾圧されます。元六・四戒厳部隊の張世軍は、学生や市民を虐殺したと外部に告発したため、2009年3月19日深夜、山東騰州警察機動隊により自宅から連行されました。香港の『開放』2009年4月号では、次のように述べられています。
「あのとき中国軍戒厳部隊とともに北京に進駐した張世軍は、数日前に中国国家主席胡錦濤への公開書簡をインターネットで発表した。張世軍は現在山東省騰州市に在住し、入隊したときは18歳だった。解放軍第54軍第1622師団に所属する宣伝担当幹事であり、河南省に駐屯し、その後、北京に集結し、自分の目で六・四殺人事件を目撃した。その後、良心の呵責にさいなまれ、退役の繰り上げを要求したが、『ブルジョワ自由化』、『厳重な任務の遂行を拒否』などの理由で除隊とされた。1992年3月、騰州礼堂(ホール)映画館で、私服警察に密かに連行され、その後、自宅にあった『戒厳筆記(戒厳ノート』など文字で書かれたもの全てを押収され、7月22日、当局から法律にはない罪名『反党反社会主義罪』で3年の労働教養の刑を言い渡された。張は公開書簡のなかで、自分が理由なく除隊とされたことの名誉回復と学生を弾圧した中共を厳しく非難し、中国の指導者を問いつめた。『国民党は既に蒋経国の時代に政治的な約束を果たし、新聞紙の解禁、政党の解禁を実行し、総選挙を実現した。共産党はかつて国民党より美しい約束をしたが、それをいつ実行するのか? そのスケジュールはあるのか?』」
 このようにネットで公開書簡を発表した張世軍は今でも「行方不明」です。そして、「六・四」の名誉回復を一貫して要求し続けている香港の民主運動組織は、張世軍の運命を見守り、釈放を呼びかけています。

(6)

 天安門事件のときに、全勝はどうしていたでしょうか。全勝は、市街地で争乱が繰り返される中で、小隊長とともに市民を説得しようとしましたが、「大勢の暴徒」に取り囲まれて襲われました。そして、鉄の棒や石などで後頭部を殴られ、脳震盪で倒れましたが、幸いに一命は取りとめました。
 その後、全勝は「平暴(暴乱の平定)」の手柄により、「火戦入党(戦闘の最前線で入党)」、「共和国の衛士」、「首都北京の護士」などの称号を贈られ、「平暴英雄事績巡回講演団」の一員に加えられ、一時はマスメディアの寵児、時の人物になりました。ごま塩頭のご両親まで地元政府や軍区の指導者の接見を受け、国営工場の臨時雇いの姉のうち、上の3人はみな正規雇用労働者になり、「忠心報国」という湖南省政府の某要人による題詞の扁額も玄関に飾られました。全勝はこうして栄光のうちに退役し、父が勤めている工場の門衛になりました。
 1990年の初め、人民解放軍総政治部は「平暴の偉業と歴史的意義を深く広く宣伝し、国際的な反中国勢力を撃退しよう」と「平暴一周年記念式典」を計画しましたが、鄧小平に止めさせられたといいます。それから、わずか一カ月で「巡回講演」は終わり、全勝の出番はなくなり、檜舞台から下ろされました。それで人々に忘れられたのかと言えば、そうではなく、むしろ「平暴英雄」とあだなを付けられ、世間の冷淡と嘲笑を受けました。
 八・一建軍節と春節の年に二回、民政局が組織する人民解放軍を擁護し、戦没者の家族、軍人家族、傷痍軍人などへの特別な世話や優遇のためのキャンペーン(軍民団結、国防教育の一環)では、全勝とその家族は逆の意味で「特別」に忘れられました。聞くところでは、全勝の父親は党組織に何度も「平暴業績」を「档案」から撤回してくださいと要求しましたが、厳しく拒まれたそうです。 1992年1月から2月にかけて、鄧小平は深?、珠海経済特区や広州を視察し、各地で改革開放政策加速の大号令をかけました。いわゆる「南巡講話」です。こうして改革開放の加速とともに市場経済化路線が確立し、海外からの直接投資が再びブームになり、金融市場の発展を利用したマネーゲームが盛んになりました。
 90年代後半から国有企業の改革が重点的に進められました。全勝と彼の家族の所属する「単位」の国有企業は業績不振で、資産を香港財閥に買い取られました。そして、人件費に関わるコストを最大限に抑制するため、「工齢買断(勤続年数に従って一定の金額を支払い従業員や退職者の住宅、学校、医療、福祉、年金などの社会保障すべてを自己負担とする)」が行われ、それに伴い、全勝と家族全員は「余剰人員」として「提前退休(定年退職の繰り上げ)」を強制されました。4000人の工場は、経営権が香港人になってからわずか3分の1にまで減らされました。言い換えれば、3分の2が失業しました。

(7)

「余剰人員」として解雇された全勝一家は、受け皿がないため、様々な商売に手を出し、株のマネーゲームまでしましたが惨敗に終わりました。こうして都市部の貧困層(最低生活保障の受給者)にまで落ちぶれ、生活はピンチになり、まさに「家が雨漏りすると雨の日が続く」、「遅い舟に逆風」(いずれも泣き面に蜂を意味する中国の諺)のように、不運が相次ぎ、父は肺ガンにかかり、家財を使い果たした末に亡くなり、さらに全勝の脳震盪の後遺症が悪化して発作がひどくなり、精神病専門病院に入退院を繰り返しました。傷痍軍人としての医療費は国家が負担しますが、諸雑費は自己負担なので、その支払いを滞納してしまい、病院からも拒否されました。
 また、全勝はお見合いを数回しましたが、全敗に終わりました。そのわけは、女の子に会うたびに、いきなりおっぱいに触り、お乳を飲もうとするからです。当然、女の子はキャーッと叫んで逃げ出します。全勝が「花痴(色情狂や恋愛結婚問題で神経症になった人などを指す)」になったといううわさが広がり、それに伴い、全勝は赤ちゃんのときから4人の姉の乳房で育てられ、そればかりではなく、もう童貞ではなく、4人の姉に順番に童貞を奪われたなどと、ささやかれるようになりました。まず一番上の姉がお嫁に行く前日、全勝を林の奥に連れていき、自分のふとももの奥に全勝の「小鶏鶏」を入れさせ、二番目の姉もそうして、その後は、全勝が二人の姉に教えられたやり方と自分で独自に身につけた腕前で、下の二人の姉に教えたというひどいものです。

(8)

 このような全勝の運命を考えると、やはり天安門事件の実態が問われてきます。全勝はどのように「政治関」、「生死関」、「苦楽関」をくぐり抜けたのでしょうか? 特に「人民子弟兵(人民の子弟の兵と親しみを込めた呼び方)」、「軍と人民は魚と水のような関係」と言われた人民解放軍の行動を、どのように考えていたのでしょうか? その心境はなお不明です。
 中国の庶民は、人民解放軍は国民党軍と日本軍の他は絶対に銃を向けないと信じていました。ところが違う事実を目の当たりにしたのです。兵士たちは徹底的に洗脳されて、彼らは暴徒であり、自国民でありながら「敵」とみなし、「敵と我の矛盾」として武力を行使したのでしょうか?
「軍人が服従するのは天職である」といいます。前掲『鋼鉄的部隊』では、次のように述べられています。
「第一、政治信念を堅固にし、部隊は党中央、中央軍事委員会の命令を動揺なく遂行し、貫徹させる。動乱を制止し、反革命暴乱を平定する闘争においては、状況は錯綜し、複雑で、激しく厳しいものである。国家の重要なマスコミの道具が世論をまちがった方向に誘導し、我が集団軍の元軍長(司令官)徐勤先は軍令に逆らい、戒厳の任務の遂行を拒否するという厳しい状況下で、我が集団軍の党委員会と部隊は何故妨害を排除でき、党中央と中央軍事委員会の指揮に服従し、移動や配置を断固として遂行できたのか。まさに、部隊が上から下まで高度な政治的自覚と確固とした政治的基盤を有していたからである。このような自覚と確立された基盤は、平常の教育と任務遂行における力強い政治思想教育とが総合的に結合した成果である。最初に一部の同志が善良なる希望的観測から動乱を見て、心配しつつ戒厳という問題に対処したが、我が軍は中央の精神と軍事委員会の号令で思想を統一し『まさに動乱だ。戒厳せねばならぬ。まさに暴乱だ。平定せねばならぬ』という精神を中核に据えた教育を展開した。……しっかりとした堅固な政治理念の教育に思い切り取り組んだため、幹部から戦闘員まで、複雑な政治の荒波の前で、混乱に陥っても惑わず、動乱を治めるときに手を緩めず、一致団結して、一枚の鋼鉄板となった」
 ここから徹底した「政治思想教育」の一端が分かります。

おわりに

 今では全勝から何も聞けません。しかし、彼の症状は現実です。そして、この症状から彼が訴えようとしていることを洞察することはできます。
 人間は自分の体験はごまかせません。自分にうそをつくことはできません。ですから、「人民解放」、「人民子弟兵」、「軍と人民は魚と水のような関係」などの理念と学生や市民への発砲という現実について考えれば、深刻なジレンマに陥ることになります。発狂して当然でしょう。
 そして、もし当局がこの問題を認め、適切に対応してケアやカウンセリングを提供していたなら、全勝は立ち直ったかもしれません。ところが逆に、彼を「英雄」として利用し、彼が目を背けたい体験を繰り返し大勢の前で発表させたのです。少しでも良心があるならば、深刻なジレンマがさらに悪化します。ですから、発狂したのは、彼に良心があった証拠と思われるのです。従って、このような意味で、狂ってしまった全勝こそ良心がある正気の人間で、無防備の学生や市民を多数殺傷しただけでなく、それを賞賛し、なおかつその歴史を隠してしまう当局こそ非人間的で狂気に陥っていると言えるでしょう(加藤正明、佐瀬隆夫訳『正気の社会』社会思想研究会出版部参照)。また、ベトナム戦争で非戦闘員の虐殺に関わったアメリカ軍兵士たちの心理を分析したスコット・ペックは『平気でうそをつく人たち‐虚偽と邪悪の心理学』(講談社)の第5章で「集団の悪について」述べています。さらに、なかなか伝えられていませんが、ベトナム戦争だけでなく、湾岸戦争、イラク戦争などでも兵士たちのトラウマが問題とされています。
 しかし、これらは間接的な参考にとどまり、全勝に直接確かめることはできません。それでも、私は魯迅の名作「狂人日記」を思い出します。そこでは、次のように書かれています(藤井省三訳『故郷・阿Q正伝』光文社文庫より)。
「人食いが僕の兄さんだ!
 僕は人を食う人間の兄弟なのだ!
 僕自身は人に食われてしても、それでもやはり人を食う人の兄弟なのだ!」
「兄さん」である上官に命令されて行動していた全勝の葛藤がうかがえるようです。
 また、「真っ暗で、昼だか夜だかわからない。趙家の犬がまた吼えだした。獅子のような凶暴さ、ウサギの臆病、キツネの狡猾……」とも書かれています。これはまさに中国の現実ではないでしょうか?
 そして、直接証明できない隠された真実でも、それを伝えることができるのが文学の力であるとすれば、魯迅を手がかりに、全勝を通して天安門事件の真実に迫れるのではないと考えるのです。しかも、被害者だけでなく、加害の側にも、このような結果があることは、軍隊が出動し、武力を行使することの深刻さを示唆しています。
 全勝に会いたいものです。

老鬼という人が自分の血で書いたもの これは「老鬼」という人が自分の血で書いたものです。
 彼は40年前に胡耀邦の批判闘争会に参加し、それを20年前に懺悔して、これを書きました。文章は「耀邦に泣く。耀邦は彭徳懐と同じく中国人民にとって非常に得がたい指導者だ!彼は中国とって大いに功績をあげた!耀邦同志の不遇を訴える!懐かしなあ。敬愛する耀邦よ!!!。中国の一人の一般庶民。1989年4月20日」です。

コラムニスト
劉 燕子
中国湖南省長沙の人。1991年、留学生として来日し、大阪市立大学大学院(教育学専攻)、関西大学大学院(文学専攻)を経て、現在は関西の複数の大学で中国語を教えるかたわら中国語と日本語で執筆活動に取り組む。編著に『天安門事件から「〇八憲章」へ』(藤原書店)、邦訳書に『黄翔の詩と詩想』(思潮社)、『温故一九四二』(中国書店)、『中国低層訪談録:インタビューどん底の世界』(集広舎)、『殺劫:チベットの文化大革命』(集広舎、共訳)、『ケータイ』(桜美林大学北東アジア総合研究所)、『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、監修・解説)、中国語共訳書に『家永三郎自伝』(香港商務印書館)などあり、中国語著書に『這条河、流過誰的前生与后世?』など多数。
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