1.色淡き血痕のなかで

「色淡き血痕のなかで」は、魯迅が『野草』という表題でまとめた一連の評論の中の一篇のタイトルで、サブタイトルは「数人の死者と生者と未だ生まれざる者の記念」です。魯迅は、一九二六年四月八日、段祺瑞政権の軍警が市民や学生の請願デモに対して発砲し、死者四七人、負傷者百五十数人を出した「三・一八」事件の後に、これを書きました。私は一九八九年六月三日夜から起きた天安門事件について考えるとき、この「色淡き血痕のなかで」を思い起こします。  そして、今年は天安門事件の二十周年に当たります。中国大陸では天安門事件はタブーとされていますが、香港では違い、追悼集会が毎年開かれています。今年、私はそれに参加することができましたので、これから、天安門事件二十周年を祈念した追悼集会、天安門事件に関する出版ブーム、青年の意識などについて、何回かに分けて報告します。

2.一通のメール

 二〇〇九年五月三一日、香港在住の詩人、孟浪さんから一通のメールが届きました。「六月三日、二〇時〇九分(夜の八時九分、一九八九年の“八九”を祈念するため)、香港文化センターの“自由の戦士”像の前で、“一般的黒夜一様黎明(同じ闇夜で同じ黎明)―六・四祈念詩歌音楽会”を開くから是非出席してください。待ってるよ」という内容でした。
 天安門事件が起きてから、もう二〇年も経ってしまいました。感慨無量です。まさに光陰矢の如しです。そして、私は次のシーンを思い出しました。
 一九八九年五月十九日、趙紫陽前総理は、天安門広場でハンガーストライキを続ける学生たちに、「君たちはまだ若い。これから先はまだ長い。君たちは元気で生きていて、我々中国の四つの近代化が実現される日を見るべきだ。君たちは、我々と違うのだ。我々はもう年寄りだから、どうなってもかまわないが」と声を詰まらせながら約八分間、拡声器を手にして学生たちにハンストを止めるよう呼びかけました。しかし、趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となり、その後、人民解放軍が戒厳令下の北京に入り、天安門事件が起きたのです。
 一九八九年六月四日の香港『明報』の社説の表題は「君たちはまだ若い。これから先は長い」でした。そして、瞬く間に二十年が過ぎ、かつて天安門広場にいて、あるいはテレビの前で趙紫陽の訴えを聞いた青年は、既に不惑になっています。一九八九年に生まれた赤ちゃんは二十歳の青年になっています。
 確かに、二十年という時間は、数千年の歴史をもつ中国にとっては短いかもしれません。私たち中国人はややもすると三百年、五百年という長さで歴史を見てしまうので、二十年は端数として切り捨てられてしまうかもしれません! 孟浪さんはメールで「歴史はあまりにも長く、生命はあまりにも短い。歴史はあまりにも長く、王朝はあまりにも短い。我々にはあといくつ“二十年”が残っているだろうか? これから本当に先は長いのだろうか?」と感慨無量に書いていました。
 孟浪さんは著名な民間(官から独立した)総合文芸誌『傾向』の編集者を務め、現在はやはり官から独立した独立中文筆(Independent Chinese Pen Center)の秘書長、香港晨鐘書局の編集者となっています。
 私は十年ほど前に文革期における地下詩壇の研究のためにボストンのハーバード大学を訪れたときに、当時博士課程にいた陳建華さん(現在香港科技大学教授)から紹介されて会いました。陳建華さんは上海の地下詩壇の代表的な詩人でもあり、お二人はボストン市民が建立した「六・四死難者紀念碑」にも案内してくれました。このようなことを思い出しながら、私は香港に行くことを決め、大急ぎで準備しました。

3.六・四祈念詩歌音楽会

 六月三日、私はインド航空で香港に着き、急いで“自由の戦士”像に向かいました。その前には既に百人ほど集まっていました。この像はフランス人の著名な彫刻家Cesar(中国名は凱撒)の作品で、一九八九年に香港のCartier当代芸術基金会が「六・四天安門民主運動」を祈念するために依頼しました。制作には三年かかり、完成後に「自由の戦士」と命名して香港政府に寄贈しました。ところが、一九九二年、寄贈された香港政府は「飛翔するフランス人(The Flying Frenchman)」と改名しました。政治的な意味を抽象化するためと言われています。これに対して、Cesarは抗議して除幕式に出席することを拒否しました。また、政府は改名しましたが、香港市民は元の「自由の戦士」の名前で呼んでいます。
 一九九三年から毎年、「六・四」のときには、香港の詩人、作家、芸術家たちは、「自由の戦士」の前に集い、「六・四犠牲者」のために白い花を献花し、詩を朗読したり、音楽を演奏したりしようと詩歌音楽会を市民や学生に呼びかけてきました。
 二十周年にあたる今年は、詩人の北島、詩人で学者の也斯、作家の崑南、黄碧雲、葉輝、陳滅、そして旧友の孟浪、陳建華たちが次々に朗読し、私は台湾の詩人で学者の余光中先生の詩「国殤―一九八九年六月十四日、大虐殺十日目」を、中国語と日本語訳で朗読しました。

北島の朗読孟浪の朗

 また、朗読や演奏とともに会場の周辺では、アート・パフォーマンスの芸術家である三木(本名陳式森)たちが静かにパフォーマンスを表現していました。彼は二十年間ずっと抗議のパフォーマンスを行ってきました。それだけでなく、二〇〇三年三月、「暫住証(一時的な居住証明書)」がないという理由で大卒青年の孫志剛が検挙され、収容所内で撲殺された「孫志剛事件」のとき、三木は広州市内の派出所に行き、抗議のパフォーマンスをしました。
 今年は、六月三日の朝八時九分から、顔に赤い糸のついた二本の針を刺し、黒いTシャツの背中には「この作品を将来における戦乱、虐殺、迫害による犠牲者に謹んで捧げる」と白い文字で書き、裸足で一日じゅう歩きまわり、この詩歌音楽会でも続けていました。

三木の黒いTシャツと白い文字 また、三木は翌日にアート・パフォーマンスをする場所と時間を伝え、同じく北京郊外の宋荘でも大陸の芸術家たちが集まって祈念することを教えてくれました。彼は「パフォーマンスは芸術のなかで最も直接的に専制体制に抗議するものだ。中国人にとって毎日が目に見えない“六・四”だ。このような“六・四”に対しては、どこでも抵抗する」と語りました。
「自由の戦士」前の会場では様々なアート・パフォーマンスが行われ、その中で芸術家たちが交流していました。私も数冊のパンフレットをいただきましたので、ここに紹介します。

・アート・パフォーマンス芸術展覧会「“五・四から六・四”」
 主催:社区文化発展中心
 場所:JCCAC L5-04 Common Space, L7-12 Green Space
 日時:2009年5月4日~6月4日

・抵抗の演出―六・四20周年写真展
 主催:光影スタジオ
 場所:JCCAC L2-10 JCCAC L3
 日時:2009年5月29日~7月7日

・風雨に翻る愛国のとき―青年芸術家六・四展
 主催:P-at-Point
 場所:牛小屋芸術村12号 芸術公社
 日時:2009年5月16日~6月14日

・現代劇「広場で一本の小さな白い花を」
 主催:六・四舞台
 場所:香港兆基創意書院多媒体劇場
 日時:2009年6月5日~7日

 一九八九年五月三十日に、北京美術学院の学生たちが制作した「民主の女神」が天安門広場に置かれ、これにより「民運芸術」が広がったといいます。私は、これが香港で着実に続いていることを実感しました。会場の別の場所では、青年たちが黒い喪服を着たり、黒のベールをかぶったりして、静かに太鼓をたたき、またろうそくを手にして黙祷していました。

アート・パフォーマンス

4.追悼する詩の朗読

 孟浪さんは自作の詩「数字の傷、数字の痛み」を朗読しました。

これらの数字は、これらの人々の失踪した日時だ
これらの数字は、これらの人々が犠牲となった日時だ
また、これらの数字は、これら失踪者の人数だ
また、これらの数字は、これら犠牲者の人数だ
これらの数字は、また、これら失踪者の不滅の日時だ
これらの数字は、また、これら犠牲者の不朽の日時だ
この数字の痛みは、かつて野蛮に抹殺されたため
この数字の痛みは、かつてやむを得ず心の奥底に大切にしまわれていた
だが、これらの数字は空の星に刻まれ
これらの数字は今や人々を照らしている

また、私は余光中先生の「国殤」の一部を朗読しました。

「河殤」の次は「国殤」
すべての空は君のための半旗を掲げ
すべての涙は君のために流され
すべての拳は君のために突きあげられ
すべての生存者は君のために喪章をつける
何故だ? 五月に神話が作りだされたのは?
子どもたちは静かに座りこみ
がらんとした空きっ腹に
はるか遠い理想の国の情報をたずね
奇跡を待っていた広場で
一組の恋人たちは抱きあって結婚式を挙げ
民主の幼子を生むのを夢想した
しかし六月に表情は一変し、童話はひっくり返され過去になった
天安門は一変して地獄門となった
何故だ? 今年は秋が早く訪れたのは?
この季節、最も勇敢で俊敏な子どもが
一夜にして白い霜に殺戮され
凜凜たる寒気はまだ残る
最終的な清算をしようというのか?
この夏休みは、母よ
何人の子どもたちが家に帰っただろうか?
もし君が負傷したのなら、若い生命よ
歴史の傷口が早くふさがり
壮麗な赤い傷跡をとどめてほしい
もし君が死んだら、よい子どもよ
この詩を一本の線香として捧げよう
あるかないかさえ分からない君の墓前に
   (劉燕子訳、竹内実監修)

 余光中先生は、この詩を「一九八九年六月十四日、北京虐殺の十日後」と記して発表しました。タイトルで使われている「殤」は早世、夭折、早死に、若死にを意味し、「国殤」は戦死者を悼むことを指します。屈原の「楚辞・九歌」に「国殤」があります。また、「河殤」は一九八六年放送の連続テレビ番組のタイトルで、それは中華文明の象徴である黄河への哀悼を通して、対外開放による再建を訴えましたが、「歴史虚無主義」、「西洋崇拝」などと批判され、さらに番組制作の蘇暁康たちは天安門事件で逮捕状が出され、米国に亡命しました。
 この夜は、雨が降ったり止んだりしていましたが、退場する人はいませんでした。朗読や演奏は十二時に一度止めて、黙祷をしました。そして再開し、朗読や演奏やパフォーマンスは朝の五時まで続きました。