燕のたより

第29回

汝を愛すが故に、汝を憎む ―陳破空『仮如中美開戦(もし中国とアメリカが開戦したら)』を読む―

『仮如中美開戦──二十一世紀的戦争』

◀『仮如中美開戦──二十一世紀的戦争』

はじめに──日中が開戦?

 書店に入ると、刺激的で、つい目が奪われてしまう書名が多い。活字産業は真冬の時代と言われる昨今、売れゆきが芳しくないと、著者だけでなく出版社も共倒れになりかねない。いずれにとっても死活問題なので、書名のみならず、奇抜な装幀やキャッチ・コピーなど、あの手この手で読者の気を引こうとする。ところが読んでみると内容はそうでもなく、買って損をした気分にさせられる。結局、これでは負(マイナス)の循環になる。
 陳破空の『仮如中美開戦──二十一世紀的戦争』(允晨文化、台北、2013年)のタイトルもやはり刺激的だが、内容は期待外れにさせないものとなっている。
 日本の読者にとって、「反日デモ」の内実が分かり、また歴史認識でも新たな観点が得られるなど、とても示唆深い。タイトルは『仮如中美開戦(もし中国とアメリカが開戦したら)』だが、表紙には英語で “China, Japan and the US” と記されており、実際「もし日本と中国が開戦したら」という内容が盛り込まれている。
 とは言え、陳は決して好戦主義者ではない。その主眼は中国の民主化であり、腐敗した中国共産党独裁体制を倒す上で、日本の役割が大きいので、このように論じているのである。
 また、歴史認識では、反省するならば、中国を侵略したことよりも、撤退した後に中国共産党という「毒の塊」を増殖させたことを反省すべきだという。つまり、日本軍が国民党を攻撃しなければ共産党は政権をとれなかった。さらに、戦後も中国共産党政権を支援し、その力を増大させた。その結果が現在の腐敗汚職大国であり、また「反日」デモである。これを、陳はイソップ物語の農夫と蛇の物語にたとえ、まさに「恩を仇で返す」と指摘している。

陳破空のプロフィール

 陳はアメリカに亡命した中国民主化の活動家、政治評論家である。
 彼は1963年に四川省三台県に生まれ、湖南大学、上海同済大学で学ぶなかで、1985年に大学院生たちと連名で中国共産党総書記の胡耀邦へ改革を訴える意見書を提出した。1987年、広州・中山大学の教員となり、1989年、天安門民主化運動に呼応して、広州でも民主化運動を進め、投獄された。出獄後も民主化運動に加わり、1993年に強制労働収容所で服役するが、1994年、苦心惨憺のすえ、獄中から国連などの国際機関に、強制労働による製品の輸出や人権蹂躙の実状を訴えた。
 1995年、釈放されるが、当局から出国を暗に示唆され、1996年、米国に亡命し、コロンビア大学客員研究員となり、経済学の修士号を取得した。
 そして、民主化運動と評論活動を軸に多方面で活躍し、2007年、アメリカの「万人傑新聞文化基金」の新聞文化賞を受け、また、2008年、「〇八憲章」に署名した。

陳破空氏

◀陳破空氏

「永遠の亡命者」陳破空との出会い

 私が陳と初めて会ったのは、私がアメリカに留学していた時であった。天安門事件により数多くの亡命者が出た時期で、私は幾人もの亡命者と運命的に出会った。みな精神に深い傷痕を抱えていた。それまで言葉で知ってはいたが、まさに生身の人間として、私の眼前に立ち現れた。そして、「真の批判者」であるためには、「永遠の亡命者」にならざるを得ないと、口々に語った。
 その一人の紹介で、1997年の晩夏、ニューヨークのペン・ステーション(ペンシルベニア駅、駅舎はマディソン・スクエア・ガーデンと共有)で、陳破空と待ちあわせをした。
 その場に着いたが、彼は見当たらなかった。どうしたのかなと思っていると、ふと、中国語の新聞紙を広げて座りながら、新聞を読んでいる者が目に入った。陳破空だった。
 彼もまた言葉に言い尽くせない傷痕があったが、鋭い批判精神を堅持し、また義理人情に篤かった。それ以来、私たちは交友を深めてきた。

「反日デモ」の内実

 『仮如中美開戦──二十一世紀的戦争』では「反日デモ」が取りあげられている。
 昨年九月十一日、尖閣諸島の国有化に中国人は憤慨し、「反日デモ」が中国全土に広がったとされるが、しかし、その内実を見ると、公安警察がデモ隊を誘導し、煽動したことがうかがえる。署長が背後で指揮し、私服警官が動員され、さらに準公安要員(半官半民の「城管」)も加わっていた。「城管」は、その横暴で悪辣な取締りで、市民の怨嗟の的になっている。これについて、陳は「警匪一家(警察と匪賊は一味)」と指摘している。
 さらに、このような手法は、二〇〇八年のチベット暴動、二〇〇九年のウイグル暴動に対する弾圧に相似している。それは、いわゆる「マッチ・ポンプ」と称されるものである。つまり、自らマッチで放火しながら、素知らぬ顔で、これをポンプで消す、というように、暴動やデモを煽動し、狡猾に誘導し、収拾・解決する。確かに、暴動とデモ、弾圧の有無などで相違があるが、このプロセスで不平や不満をある程度は発散させ(ガス抜き)つつ、統制を強化することは共通している。
 その上で、「反日デモ」には特有の要因がある。普通選挙さえ実現されないどころか、逆に言論統制が強められ、不平不満を表明できない民衆が、「反日」や「愛国」を口実にうっぷん晴らしをしたもので、その矛先は、表面は日本だが、内側では中国政府に向けられている。
 そのため、中国政府は「反日」をガス抜きに利用するが、いつ自分に向かってくるか恐れている。だからこそ、反日デモが広がりを見せると、早々に抑え込んだのである。

対外的な「反日」と内政の危機

 「反日」には、中国共産党と日本の結託を覆い隠し、ODAなどの支援もカモフラージュする要素もある。
 さらに、「反日」を梃子に日本を挑発までするのは、石油エネルギーの確保、国家の面子、台湾との関係、第一列島線を突破して第二列島線へと勢力を拡大しようとしているためである。現在、尖閣諸島は、資源だけでなく、対米抑止力にとっても重要になっている。
 これらに加えて、政権の中で習近平の軍事権をめぐる内部抗争も、「反日」の要因となっている。つまり、日本への強硬な姿勢は国内の危機の現れである。
 これまでの歴史を振り返ると、このような図式はいくつもあることが分かる。特に外国との戦争と国内の危機が密接に関連していることを列記しよう。
 一九五〇年に勃発した朝鮮戦争で、中国は「志願軍」の名目で派兵したが、その時は、政権を樹立したばかりで、極めて不安定であった。
 一九六二年、インドとの国境紛争が起きるが、その時は大躍進政策の失敗で毛沢東と劉少奇の権力闘争が激化した。劉少奇は、その後、文革で一九六八年に打倒された。
 一九六九年、旧ソ連とのダマンスキー島(中国語名は珍宝島)をめぐる国境紛争では、林彪の権力増大の阻止と関連していた。
 一九七九年のベトナム侵攻は、鄧小平が華国鋒から権力を奪取する過程においてなされた。
 このように、中国では内部抗争が対外的な戦争と連動している。「反日デモ」や日本への強硬姿勢も、この延長線上で考えることができる。

現在の内政の危機──腐敗汚職や民心の離反

 国内の状況を見ると、確かに危機が深刻化している。しかも、それは権力闘争とは次元を異にして、腐敗汚職と、それによる民心の離反に至っている。
 例えば、就職難において、人民解放軍の入隊は重要なステップとなっているが、そのために賄賂が必要なことは公然の秘密である。また、売位売官は常態となっている。さらに軍隊が商売で暴利を貪っている(石油、金、森林資源などそれぞれ縄張りがある)。また、辺境の部隊は武器の密売に手を染め、海岸の部隊は、密航や麻薬の密輸入の時に小型快速艇を出動させて護衛し、分け前を受け取る。
 このようなわけで「電気(産業)は虎、水は覇王、財政はカミナリ親父、銀行は鬼婆、工商税務は狼、医者は腹黒、人民の教師は吸血ヒル、解放軍は麻薬密売の護衛」という戯れ歌が流行っている。「解放軍は好色淫乱」というのもある。
 実態はこうだから、軍事演習では、上層部が来るときに、見せかけだけの軍事演習をするだけである。当然、士気は低く、日中で開戦となれば、日清戦争の時と同様に、日本が勝つ。毛沢東は「帝国主義は張り子の虎」と言ったが、まさに人民解放軍に当てはまる。
 そして「人民解放軍」と称しながら、「人民」から全く見放されている。それは、次の戯れ歌が流行っていることに示されている。

 「日本軍が来たら、オレは部屋に入る(戦わない)
 アメリカ軍が来たら道案内する。
 国民党軍が来たら、入隊する。
 共産党軍が来たら、水に毒を入れる」

 もはや人民解放軍も中国共産党も民心を失っているのである。中国共産党は八〇〇〇万の党員と豪語しているが、いざとなれば、みな保身に走るため、すぐに崩壊する。
 そして、この実状は広く知れ渡っている。テレビ討論会などで日中開戦を煽るのは、実は、強硬派のふりをして共産党政権の崩壊を早めるためである。

日本への提言

 陳は、日本人は目を覚ますべきだと提言する。
 先述したように、日本は中国を侵略した歴史ではなく、撤退した後に中国共産党という「毒の塊」を増殖させたことこそ反省すべきである。そして現在、中国は国連常任理事国の五カ国の中で、唯一非民主的な国家である。
 そもそも第二次大戦で中国は勝利したのではない。中国は第二次大戦をファシズムと民主主義の戦いで、民主主義が勝利したというが、連合国の中でも、中国の場合は、ニセの勝利である。だからこそ非民主的な体制を続け、今や中華帝国主義を強めている。
 これは、日本が敗戦の反省により民主化したことと好対照である。それ故、日本は必要以上に反省することなく、むしろ胸を張って堂々と歩けばよい。
 そして、中国共産党と中国人を分けて考えるべきである。言わば、共産党独裁体制は中国人を拉致して、世界を恫喝しているような状況があり、この人質同然の中国人を解放するのが民主化である。
 なお、陳は中国人を漢人として捉え、チベット人やウイグル人などは「宗主国」から離脱する権利があり、民族のあり方は自由な選択に委ねると考えている。彼は、人間の自由、権利、尊厳を至上の根本原則としているのである。日本への提言もこれに立っている。

汝を愛すが故に、汝を憎む

 このように陳は鋭く共産党政府を批判するが、それは中国を愛する余りである。そこにはアンビバレント(二律背反)な思いが交錯している。
 まさに福沢諭吉が、故郷と決別しつつも、「人誰か故郷を思わざらん」と書き記したことに通じる(中津留別の書)。
 陳は、強い望郷の念を秘めつつ、中国の病根を剔抉したのである。それは、一種の診断と処方箋とも言える。

海外の言論活動と国内の民主化運動の呼応──ネット空間とリアル空間の相乗効果

 陳の診断や処方箋は、今日の中国社会には不平不満が鬱積し、群衆の突発的な事件は各地で続発している状況において重要である。「反日デモ」は一例に過ぎない。
 この状況は、まさしく魯迅の「暴君治下の臣民は、たいてい暴君よりも暴である。……暴君の臣民は、暴政が他人の頭上に奮われるのを願い、それを見て喜び、“残酷”を娯楽とし、“他人の苦しみ”を鑑賞し、慰安とする」という指摘を彷彿とさせる(『熱風』所収「随感録六十五 暴君の臣民」一九一九年十一月)。暴力が構造化されているのである。
 これに対して、敢えて日中開戦という極めて刺激的な表現で、中国の民衆を引きつけ、そして民主化へと導こうとするのが、陳である。
 だが、亡命者の陳は、直接、中国の民衆に訴えられない。しかし、彼の言論活動はネット空間で広がっている。
 確かに、グレート・ファイヤー・ウォールによる情報の鎖国はまだ堅固で、彼の言論活動は中国本土まで入るのは困難である。しかし、それがいつまでも続くことはない。続けば続くほど腐敗はひどくなり、いつか内部から崩壊する。
 もちろん、それをただ待つだけではない。彼の海外での言論活動と国内の様々な改革や民主化の動きが呼応しあうことが求められる。それはまた、ネット空間(情報)とリアル空間(街頭での行動)の相乗効果により、より大きな共鳴をもたらすであろう。
 「永遠の亡命者」の果たすべき役割は大きい。

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