天安門事件関連書籍の出版ブーム

1.はじめに

 民主化を求める学生や市民が戒厳軍により弾圧されてから二十年たちました。天安門事件二十周年となる六月を前にして、香港では関連書籍の出版ブームが起こりました。もちろん、それらすべては中国本土で発売できません。中国政府は、この流血の歴史を隠し続けています。
 香港在住の孟浪さんは、二年前にアメリカから香港に移住し、独立中文筆会のHPの「自由創作」の編集に加えて、晨鐘書局の編集や出版をするようになりました。今年だけで遇羅錦著『一個大童話―我在中国的四十年』、張樹博著『解構與建設―中国民主転型縦横談』、封従徳著『六・四日記―広場上的共和国』、帰化章、浦前共著『100「六四」人物的二十年』の四冊を刊行しました。どれも直接間接に天安門事件に関するものです。そして、他にもたくさん出版されましたので、ここでいくつか紹介します。

2.体験者の証言、回想、記録

 まず、孟浪さんが編集・出版を担当した「六・四」学生リーダーの封従徳の『六・四日記―広場上的共和国』を取りあげます。これは北京大学から天安門広場へと展開した学生運動を直接体験し、また目撃した封従徳の証言と、それについての考察をまとめています。
 封従徳は北京大学学生自治会準備委員会常務委員、北京高等教育機関学生自治連合会主席となり、天安門広場では副総指揮官に選ばれました。『六・四日記―広場上的共和国』では運動の中心的人物、重大な事件、学生組織上層部の内幕、そして天安門広場で結婚した柴玲と自分の逃走などとともに、無神論から真理の探求のためにキリスト教、イスラム教、シーク教、仏教、道教など様々な宗教を体験し、最終的に孔子の知恵と洞察に啓発されて儒教に帰るなどの個人的な精神の歩みも述べられています。そして、余英時(元プリンストン大学教授、台湾中央研究院院士)は「序文」のなかで「主観と客観が融合された、六・四学生運動に関する最も信頼性が高く、最も詳細な記録である」と評価しています。
 次に内容について見ますと、「著者前書き」ではサブタイトルの「広場上的共和国」について、以下のように説明しています。
「プラトンの名著『理想国(日本語では『国家』)』は『共和国』とも訳されている。私はギリシア語の本来の意味からラテン語、近代のフランス語や英語まで整理するつもりはなく(PoliteiaからRepublicまで)、“理想”と“共和”という二つの言葉を借りて、一九八九年に天安門広場で学生や市民が抱いた一つの理想の共和国という理念、つまり、真の公共空間と公平な社会管理への探求を説明したい。実際、ラテン語のRespublicaは公共事務を指し、プラトンが議論しようとしたこともいかにして合理的かつ公平に公共事務を管理するのかという問題であり、“八九民運”の基本理念は、これと非常に近い。即ち、中国は一党の私物ではなく、公権力は公共空間に回帰し、公共の監督と公平な管理であるべきである。」
 また封従徳は「六・四」の研究が困難であることを、芥川龍之介の「羅生門」からヒントを得て「歴史研究の羅生門」と表現し、人間の弱点や限界により、利害関係のある者が自分の有利な部分しか話さず、不利な事実を覆い隠し、さらには自分を有利にするために物語まで作り出していることを指摘しています。私は、二〇〇四年にパリで彼と会い、幾度も話しあい、とてもまじめで誠実な印象を受けました。

六四日記 次に、私が知り得た書籍について簡単に紹介します。
・高瑜『我的六四』(香港文化中国出版社)
 『経済学周報』記者だった彼女は学生運動を積極的に支持し、全人代常務委員会と学生の対話の実現を促進しました。そのため、六月三日の朝、密かに拉致され、一年三カ月の刑を言いわたされました。さらに、釈放後、一九九三年、香港の新聞に発表した文章により国家機密漏洩罪で六年の刑を受けました。これに対し、国際女性メディア財団(International Women’s Media Foundation、本部ワシントン)は、一九九五年と二〇〇六年の二度にわたり、危険かつ困難を極めた環境において報道を行う、勇気があり人格的に傑出した女性ジャーナリストに贈る「勇気賞」を授与しました。
・呉仁華『天安門血腥清場内幕』(真相出版社)
 中国政法大学講師であった呉仁華は体験者としてだけでなく、歴史学者として十数年間も史料を収集して研究し、初めて天安門広場で北京大学学生の戴金平と中国人民大学学生の程仁輿が射殺されたこと、三八軍司令官徐勤先が命令を拒否したため軍事法廷で五年の刑を下されたことを明らかにしました。
・張萬舒『歴史的大爆炸―六四事件全景実録』(香港天地図書有限公司)
 張萬舒は新華社北京本社のニュース部門の主任でした。新華社といえば、政府側で最も権威ある機関の一つで、事件の発生から一貫して情報を収集し、諮問に答えるセンターの役割を果たしてきました。張は指導層内部の対立の全過程を体験し、全国各地に駐在する新華社の記者が現場で取材した一次資料をすべて直接扱いました。彼はこれらに基づき、日記のかたちで、知られていない事実や上層部の政治的秘話を明らかにし、北京から各地の状況まで事件の全貌を詳細に述べています。
・丁楚『大夢誰先覚「中国之春」与我的民主歴程』(明鏡出版社)
 丁楚は、一九八六年から八九年まで、海外における初の民主化組織「中国民主団結聯盟(民聯)」と、その機関誌『中国之春』で起きた一連の出来事をめぐり、海外の民主化運動の盛衰を述べ、歴史を回顧するなかで、民主化運動の苦悩と内部闘争を明らかにしました。注目すべき一冊です。
・『一個解放軍的一九八九―戒厳部隊怎様対待軍中反叛者』(明鏡出版社)
 蔡錚は河北黄岡師範学院卒業後、一九八五年に人民解放軍空軍に入隊しました。一九八九年六月四日に事件を目撃し、五日に「私も一兵士で、我々の軍隊が庶民に発砲するのを見るのは悲しい」と戒厳部隊に訴えました。このため彼はひどく殴られ、八カ月拘禁され、本籍地に送還されました。その後、一九九一年に華中師範大学歴史科修士課程を修了し、二〇〇〇年にアメリカのイリノイ大学で社会学の博士課程を修了しました。本書では現場にいた解放軍兵士の貴重な体験と心理が記録されています。
・劉剛『天安門、路在何方』(英華出版社)
 劉剛は当時北京大学物理系に在籍し、指名手配された二一人の学生リーダーの一人で、逮捕されて六年間も投獄されました。
・帰化章、浦前『100「六四」人物的二十年』
 これは体験者で北京在住の学者がペンネームで出版したものです。本書では天安門民主化運動の風雲児が今日までどのようにしてきているのかが描かれています。
・孔捷生『血路一九八九』(香港夏菲爾出版有限公司)
 天安門広場で学生や市民とともに虐殺に遭遇した作家の記録です。

3.文学作品(小説、現代詩、エッセイなど)

 まず、イギリス在住中国人作家の馬建のBeijing Coma(中国語訳『北京植物人』)を取りあげます。馬建は1953年に山東省に生まれ、中国前衛実験小説を代表する作家です。画家でもあり、1978年に北京で個展を開きましたが、禁止されました。翌1979年に全国総工会(労働組合の全国組織)のカメラマンになりましたが、1983年に人間の体を撮影した写真を広告に使ったため、身柄を拘束されました。当時はブルジョワ自由化と「精神汚染」に反対するキャンペーンが押し進められていました。1987年には『人民文学』誌でチベットの現実を描いた小説「亮出?的舌苔或空空蕩蕩」を発表しましたが、その中でチベット人民の社会主義新チベット建設のために奮闘する姿が表現されていないとして発禁処分を受けました。その後、香港、ドイツを経て、1999年からイギリスに在住して文筆活動に取り組み、2001年に『レッドダスト(Red Dust、紅塵)』(上田クミ訳、集英社、2003年)を出版しました。これは80年代に中国を放浪した経験に基づく小説で、イギリスで大反響を呼び起こし、ヨーロッパ各国で翻訳され、2002年にトーマス・クック文学賞を受賞しました。他に長編小説『拉面者』、『八角街上的女人』、『北京植物人』などがあり、英語、仏語、イタリア語などに翻訳されています。そして、2009年4月に『北京植物人』はイギリスの言論自由賞(Freedom of Expression Award)を受賞しました。
『北京植物人』では、六・四天安門事件のとき、戒厳部隊に銃撃されて植物人間となった主人公の戴維が十年後に目覚めるが、母は共産党員から法輪功信者になり、周囲の生きている人たちは心理的に「植物人間」になった状況が描き出され、天安門事件と現在の中国社会が痛烈に批判されています。
 彼は「自序」で、次のように述べています。
「一九八九年初め、北京で学生運動が起きた。ぼくは香港から天安門広場に駆けつけた。学生たちがハンガー・ストライキで自由や民主を求め、また弾圧のためにやって来た軍人が北京市民に阻止される場面を目撃した。五月末、兄が転んで入院した。ぼくは急いで北京を後にした。“六・四”大虐殺は、兄の病室で聞いた。……“六四”大虐殺の後、共産党はすぐに歴史の記憶を切断し、過去を記憶する者は思想犯とされた。中国人はまた洗脳され、人々の精神や思考は夭折した。しかし、小説で戴維は依然として肉体の監獄で生きながら、支配者と記憶の権利をめぐり闘う。政治的な恐怖と溢れる物質的欲望により人々が植物人間に変えさせられる時代、戴維は肉体の牢獄の中で雨の中の稲妻のように震えている」

 次に、昨年出版した詩集『詩与坦克(詩と戦車)』(孟浪、余傑編、晨鐘書局)は独立中文筆会会員の作品選集です。約七十人の詩、エッセイ、評論を編集し、全四七八頁になっています。そのタイトルは「ある意味で詩の効果はゼロに等しい。今まで一台の戦車を阻止できた詩は一篇もない。だが、別の意味では詩は無限だ」というアイルランドの詩人 Seamus Heaney の詩からとられました。

 また「〇八憲章」を呼びかけた一人の」劉暁波は詩集『念念六四』を出版しました(出版社不明)。

4.趙紫陽『改革歴程』(香港新世紀出版社)

 多くの出版のなかで、五月二九日に公刊された趙紫陽の『改革歴程』は出色です。軟禁状態にあった彼が晩年に極秘で録音した回想がまとめられています。
 彼の秘書だった鮑?(元中共中央委員、政治局常務委員会政治秘書で、十七年の刑を終えて軟禁中)たちが中心になり、当局の監視をかいくぐり、四年の歳月をかけて三十時間におよぶ録音を成し遂げました。彼らは当局の妨害を恐れ、録音テープを童話や京劇のように偽装し、分散して保管しました。
 この肉声による回想録は、まず五月十九日に英語版で『Prisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao Ziyang(国家の囚人―趙紫陽の秘密の日誌)』というタイトルで香港や米国で発売され、その後まもなく中国語版が発売されました。
 香港では発売と同時にベストセラーとなり、すぐに売り切れになりました。私は香港で入手できず、しかたがないので書店に予約し、帰国後に孟浪さんから送ってもらいました。
 次に、内容を見ますと、回想録に加えて、元国家新聞出版署長の杜導正の「序―歴史は人民により書かれるもの」、鮑?の「前書き―趙紫陽の録音した回想録の歴史的背景」、Roderick MacFarquharの「後記に代えて」、年表、人名録、および附録(趙紫陽の発言など四篇)を編集し、全三七〇頁になっています。回想録の部分は、第一部「一九八九年“六四”事件」、第二部「非法幽禁與世隔絶(不法な軟禁と社会からの隔離)」、第三部「経済体制改革和経済建設(経済体制改革と経済建設)」、第四部「従反自由化到一三大(反自由化から一三大会まで)」、第五部「一九八八年的経済和政治(一九八八年の経済と政治)」、第六部「政治体制改革」となっています。その中ではこれまで公表されることがなかった貴重な証言が数多く含まれています。

 杜導正は「序」のなかで、次のように述べています。
「趙紫陽のこの談話は全編にわたり、根本的な考え方の多くに重大な変化があったことを明らかにしている。彼はかつて私に何回も懇切に語った。“老杜。私は以前はとても左だったことを知っている。今、私は『痛定思痛、改弦更張(苦しみが過ぎた後に、その苦しみを思い出して教訓を導き出し、制度や方法を根本的に変える)』”と。」
 私は本書を読み終えるまで、ずっとこの「痛定思痛、改弦更張」の八文字が繰り返し私の耳元でこだましていました。
 また、鮑?は「前書き」で、次のように述べています。
「趙と鄧の分岐点は、党と人民との関係に対する位置にある。」
「胡耀邦の死が学生運動を触発した。鄧は国防軍を動員して鎮圧せよと主張した。趙は民主と法制の則って庶民が最も関心を持つ腐敗と民主の問題を解決し、経済改革をさらに進めると同時に政治体制の改革を発動し、社会全体が改革に注意を向けるように導くことを主張した。
 結論は既にみな分かっている。軍事委員会主席の鄧小平は総書記の趙紫陽に“党を分裂させた”と“動乱を支持した”という罪を着せ、元老たちは江沢民が趙に取って代わるように決めた。江は政権に就いてから趙を“国家の公然たる敵”として終生軟禁し、国内の書籍、新聞、さらには歴史から趙の名前を消し去った。」
「総書記が党を分裂させようとしたが、軍事委員会主席が党を救ったと言う人がいるが、私の見るところでは、二人とも忠実な共産党員だった。」

 それでは、次に趙紫陽の回想録について紹介します。
・第一部「一九八九年“六四”事件」
 冒頭で「四・一六の社説」が「矛盾を激化させた」と述べられています。この社説は、一九八九年四月一六日付『人民日報』の「社説」で、それは「旗幟を鮮明にして動乱に反対しなければならないと放送するに至った」、「少数の野心を持った者が学生を利用して共産党と政府を攻撃させ、反動的なビラやスローガンを広め、民主と法制、安定、団結の政治的局面を破壊した」と述べ、学生運動を「動乱」、「党の指導と社会主義を否定する策略」などと強い表現で非難しました。この社説により、状況は大きく変化しました。もし、その時、情勢を有利な方向に導くことができれば、臨機応変に意思統一をはかることができたならば、その後の展開は違ったものになったと言われます。まさに「四・一六の社説」は転換点でした。
 そして、学生運動に関する二つの異なる対処の方針が鋭く対立するなか、鄧小平は戒厳令と学生を武力鎮圧を決定しました。そして、趙は罷免され、軟禁されましたが、それは非合法であると、彼は批判しています。以下、いくつか引用します。
「鄧が招集した戒厳令と学生の鎮圧に関する会議について、外電では常務委員会で三票対二票だった伝えられたが、実は三票対二票という問題ではまったくなかった。・・・・・
「また、六月一九日から二一日の政治局拡大会議で、まず李鵬が四人の常務委員を代表して規定の結論を報告し、私を“党を分裂させ”、“動乱を支持し”、“重大な過ちを犯した”と非難し、総書記、政治局員、常務委員などを罷免すると提案し、さらに引き続き私を審査すると発言した。続いて参加者が次々に発言し、私に対する批判を展開した。その中で最も下劣で汚い言葉で誹謗中傷し、人身攻撃したのは李先念だった。」
「特に滑稽なのは、表決のときに、鄧小平は何とこう発言した。参加者は政治局員であろうが、なかろうが、誰でも表決の権利を持つ。これは政治局拡大会議だから出席者は傍聴できるが、どうして表決までできるのだろうか?……将来、党の歴史ではどのように記述されるのだろう?」

・第二部「非法幽禁與世隔絶(不法な軟禁と社会からの隔離)」
「実は、彼らが私の行動の自由を制限することは、早くも一九八九年六月から始められた。しかし、私は一度も言い渡されず、さらに文書もない。」

・第三部「経済体制改革和経済建設(経済体制改革と経済建設)」
「改革開放と経済建設方面の問題について、中央政府のトップの中で終始二つの異なる意見が存在していた。一つは陳雲を代表とする五十年代の第一次五カ年計画のやり方で、改革開放に対して疑念と保留の態度を堅持し、もう一つは鄧小平を代表とする対外開放を強調し、市場経済を実行するやり方であった。私は胡耀邦とともに基本的に鄧小平の立場に立って、李先念は完全に陳雲の立場で、陳雲よりももっと固執して頑固だった。」
「腐敗と反腐敗の問題は、一九八八年の情勢においてかなり重要な問題であった。……反腐敗のためには、根本的に言えば政治体制を改革しなければならなかった。」

・第四部「従反自由化到一三大(反自由化から一三大会まで)」では、胡耀邦の辞職、反自由化、党の一三大までの内部の論争が記述されています。

・第五部「一九八八年的経済和政治(一九八八年の経済と政治)」では、一三大以後のすばらしい情勢から改革開放の挫折、中共上層部における意見の不一致、“趙の打倒”のためには党内の元老たちが手段を選ばず、原則を守らず活動し、改革開放に反対した内幕が述べられています。

・第六部「政治体制改革」では、鄧小平が考えていた政治体制の改革は、制度の根本に触れない行政改革というレベルであったことが述べられています。
「鄧は西側の多党制、三権分立、議会制に対してとりわけ反対し、断固拒否した」(二七四頁)  「一九八七年、ユーゴスラビアからの来賓と談話したとき、この問題について長々と話した。“ブルジョワ階級が言う民主は独占資本の民主で、どうせ多党制、選挙、三権分立だろう。それを我々にやれというのか?”一三大の報告を起草するとき、彼は何回も私に言い聞かせた。何としても政治体制の改革は、西側の議会政治の影響を受けてはならない。少しでも痕跡があってはいけない。彼は普段から人大や政協の役割について、一部の者が表明していた人大を両院制にすることや、政協を上院にすることなどを繰り返し批判した。」(二七四頁)
「鄧は社会主義国家で行われているすべての権力を個人、あるいは少数者が握る独裁体制をとても賞賛し、好んでいた。」
「鄧小平は最高指導権を握ってから、政治情勢の安定を保つこと、安定はすべてを圧倒すると非常に強調し、安定がなければ秩序がなくなり混乱して何もできない。安定を保つ主な手段は独裁政治という武器だと考えた。」(二七六頁)
「彼は常に人々に対して独裁政治という手段を忘れないように注意した。彼は安定を強調するたびに、必ず独裁政治を強調した。彼は政治を分権にしてバランスをとる制度に反対しただけでなく、人々が請願デモをしたり騒動を起こすことをとても嫌った。」
「実際には、一三大以後、政治体制の改革の展開は非常に困難になり、やり遂げることができなかった。まず鄧小平と元老たちは経済体制の改革について意見が異なっていたが、政治体制に関する意見はほぼ一致し、元からある政治体制を変えることには賛成しなかった。政治体制のいかなる改革も、共産党権力への挑戦であり、共産党権力を弱体化させ、共産党の指導的地位を揺るがすことであると恐れていた。」
 そして、「私の政治体制改革に対する認識の過程」という節において、「一九八五年、一九八六年になると、私の政治体制改革の問題についての認識に変化があった」と述べられています(二九二頁)。一九八九年以前の政治体制の改革構想に関して「中国共産党の執政的な地位を変えずに、執政の方式を変えなければならない。そして(法治ではない)“人治”も変えなければならない」、「党と国家の政策の透明性を増し、次に様々な対話のルートを開き、第三に選挙制度を変え、さらに公民の権利を確実に保障し、党の指導の下で限度を設けながら世論を開放する」などと政治体制の改革に関する苦悩や、その後の変化について語られています。
 一九八九年の失脚後、内外の情勢の変化により、彼には新たな考えが生まれました。
「総じて言えば、西側の民主的議会政治は現在において最善の政治体制だと思う。それに“執政党”は二つの難関を通過しなければならない。第一は党の自由、新聞の自由である。もちろん、この種の政治開放も一歩一歩と進め、必ずこの難関を通過しなければならない。第二は党内の民主という難関である。共産党内で徹底的に民主制を実行し、民主的な方法で我々の党を改造することである。……もちろん、軍隊を国軍にすることで、これこそ最も重要で、最も早急に実行しなければならない。さらに司法の独立などの問題を解決しなければならない。」

 まさに、このような回想録は中国の現体制に警鐘を鳴らす貴重な証言と、有益な提案です。二十年前に比べて、現在の中国では言論の自由がますます後退しています。六月九日、中国政府は七月から国内で販売するパソコンの全製品に「有害サイト」へのアクセスを遮断するソフトの取り付けを義務づけると発表しました。「有害サイト」と言いますが体制批判の情報に関する統制が意図されています。これは多方面の反対で、実施が延期されていますが、他でも締め付けや監視が強められ、密告が奨励されています。
 それでも、香港に来る多くの中国人は、本を買うためだと言います。本を一冊一冊没収することは難しくなっています。そして、ここで紹介した書籍は、「六・四天安門事件」の記憶が薄れていく現在、より多角的に歴史と現状を見ることを可能にすることでしょう。

5.書籍の未来―香港の「二階書店」から羅志文を偲ぶ

 六月五日、孟浪さんは「田園」や「楡林」などの「二階書店」をいくつか案内してくれました。  「東洋の真珠」といわれる香港では、良書を扱う書店は商業ビルの「二階」などにあります。孟浪さんの話では、香港では地価が高いので一九五〇年代か六〇年代ころから、文化人が貸し賃の安い二階や三階、あるいはそれ以上の階に人文関係を中心とした書店をつくるようになり、総称して「二階書店」と呼ばれています。
 かつて繁華街の旺角西洋菜街では、百メートルほどの通りに十数軒の「二階書店」があり、「香港の神田」と呼ばれていましたが、金融危機の影響を受け、今はわずか数軒が「いくばくもない余命をつなぐだけ」という状況になっています。それでも「洪葉」、「楽文」、「田園」、「楡林」など雅やかな名前の書店は、文学、歴史、哲学、社会科学、時事などを中心に、香港だけでなく、台湾、中国本土、アメリカの中国語の書籍をそろえ、さらに販売だけでなく出版も手がけています。
「田園書屋」では、中国大陸では許されない本をたくさん並べ、どれも八割引で販売しているため、たった四十平米の狭い店内はお客でいっぱいです。また「尚書房」や「国風堂」は主に中国大陸の本を扱っています。「曙光書店」の経営者は、香港で最も早くベンヤミンを研究した馬国明氏で、哲学、社会学、政治学の洋書を多くそろえています。

 一九七二年、香港大学、香港中文大学などが青年文学賞を設立し、その影響が次第に広がり、一九八一年に十数名の文学青年が資金を出しあい、「青文書屋」を設立しました。開店のとき、第五回青年文学賞準備委員会の主席、陳慶源は、次のような目標を宣言しました。
「我々は一つの偉大な志を抱いている。我々は堅固な橋をつくりあげたい。橋の一方は中華民族の文化や伝統で、もう一方は人類の究極的な理想に向かうものである。文学は思索を深め、考えさせる。さらに人類の創造力を開拓し、不合理な現実を変え、理想の世界を建設することを可能にすると、我々は固く信じる」
 八〇年代、「青文」は文学講座、文学キャンプ、原稿の公募、中高校や大学でのブックフェア、青年文学賞などを実施しました。「二階書店」が隆盛を極めたときでした。しかし、八〇年代末になると不況に見舞われて経営が困難になりました。そのとき、三聯書店に勤めていた羅志文さんは借金をして「青文書屋」を買い取り、経営しはじめました。羅さんは、編集、校正、装丁、出版、運搬、販売などすべてを一人でやり、「一人主義」と呼ばれました。今日、陳冠中など香港で活躍している著名な作家の中には「青文」で初めて著書を出版した者が何人もいます。
 しかし、九〇年代に入ると、香港は中国本土と同様に、文学書はますます売れなくなりました。地元の文学を奨励するため、一九九一年に香港の公共図書館は、現代詩、エッセイ、小説、文芸評論、児童少年文学という五つの分野で「香港双年奨」を設立しました。今日まで「香港双年奨」は九回発表されましたが、「青文」が出版した書籍は十二冊も受賞しました。
 しかし、文学書が売れなくなると、他の「二階書店」は経営の多角化を開始し、旅行、八卦、CD、DVD、文房具などを売るようになりました。「青文」だけ暗く狭い店で、文学などの人文系中心の書籍販売を貫いていました。
 私は日中二カ国語の総合文芸誌『藍・BLUE』の共同編集長をしていたころ(二〇〇六年休刊、その経緯の一端は同年十一月五日『東京新聞』報道)、これを彼に委託販売していました。彼は、昼でも薄暗い入り口をくぐって、本が天井まで積みあげられ、身動きもなかなかできない「二階書店」のなかで、瓶の底のような分厚いめがねをかけ、いつも気どらないシャツを着て、寡黙にレジの後ろに座っていました。

 二〇〇六年、羅志文さんは家賃、電話代、電気代、水道代、そして多額の借金に追いつめられ、休業しました。そして、「青文」の本を全部倉庫に運搬し、再起を図ろうと考えました。羅さんは、大角咀の工場の小さな倉庫に本を移し、「青文出版社陳列室」の名札をかけましたが、誰も訪れませんでした。
 それでもこつこつと地味に努力していましたが、私たちの友人、羅さんは、旧暦の二〇〇八年十二月二八日、倉庫ではしごに昇り本を取ろうとしたとき、積み重ねていた本が崩れ、その下敷きになって押しつぶされたのでした。発見されたのは十四日後でした。羅さんは、本を選んで春節の後に台湾で開催されるブックフェアに出そうとしていました。

 羅さんは生前文筆活動をしませんでした。死後、彼は「文化の推進者」、「書籍の人」と呼ばれるようになりました。彼の形見を整理すると、四台の新しいパソコンと、別の場所の家賃の領収書や書類などが見つかり、再建計画が着実に進められていることが分かりました。孟浪さんは、こう語りました。
「羅志文の死は一つのシンボルだ。もし不幸だと言うのなら、もしかしたら、それは我々の未来を象徴しているのかもしれない。しかし“小衆化”により書籍、出版、読者の間はより緊密になっている。文学の精神は“永遠”だ。」