「Y八九」世代と「六・四」

1.青年の積極的な参加

 “Y八九”の“Y”はYoungやYouthで、“八九”は天安門事件が起きた一九八九年を指します。今年の天安門事件二十周年追悼祈念集会(ヴィクトリア公園)では、一九八九年生まれの青年である“Y八九”世代の積極的な参加が目立ちました。その理由として、いくつか挙げられています。
 まず、前に述べた(色淡き血痕のなかで・その二)、香港大学学生会会長の陳一諤がリコールで解任された事件や曹蔭権長官が立法会の発言のために顰蹙や怒りを買ったことで、青年の「六・四」天安門事件に対する意識が高まりました。また、「紀念六四的網絡群組」はじめ複数のHPで、追悼祈念会への参加が呼びかけられました。さらに、「支連会」が二〇〇三年に青年部を発足させ、事件当時の記憶を子供たちに語り継ぐことに務めてきました。それとともに、天安門民主運動を支援した経験を持つ中学校教師たちが手作りで歴史教科書を作りました。その中で教師たちは「教師は嘘を教えられない」、「偽の客観を捨てて、自分の思考力を高めよう」と呼びかけています。これらの地道な努力により、多くの青年が二十周年祈念集会に参加したのです。
 追悼式典で、香港大学生(専門学校以上)連合会秘書長の周澄は、次のように訴えました。
「今年は五・四運動九十周年である。中共はこれを青年節と定めている。五・四運動の批判精神と国家変革の歴史的意義が削除されたが、それでも一言半句は記述されている。しかし、中国近代史において“八九民運”は五・四運動を継承し、同様に重要な位置にあるが、中共統治の権威に抵触するため消し去られている。そのため、若い世代は乏しい知識しか持てずに育てられた。歴史教育には、次の世代に良知と責任感を育てるという重要な責務があるため、香港特別行政区政府は、良知と責任をもって、“六・四”虐殺を歴史科、及び普通教育のカリキュラムに編入し、国民教育、及び政府側の歴史記述の空白を埋めるように要求する。」
 そして、「Y八九青年宣言」が青年たちによって読みあげられました。
「私たちは一九八九年に生まれた者だ。この年、私たちは生まれたばかりの赤ちゃんか、母親の胎内にいた。この年、北京の天安門広場で中国近代史において最も波瀾万丈の八九学生運動が起きた。この年、広場では二十代の学生たちが理想のために奮闘していた。この年、暗黒が理想を呑み込み、鮮血が中国の大地を染めた。
 ……
 もしかしたら、あなたたちは信じないかもしれないが、私たちは是と非を原則に基づいて判断することができる。私たちの中には、親に抱かれて風雨の中で民主運動を応援した者もいる。成長してから、親や先生や先輩の口から六・四を知った者もいる。民間組織や六・四追悼集会で初めて六・四を知った者もいる。私たちは前の世代の情熱や憤慨を持っていないかもしれないが、それでも、あの年、学生たちが中国を改造する理想を抱きながら、不義で冷酷な虐殺にさらされたことは確実に理解できる。何故なら、私たちは、あの年の学生と同じ二十代で、中国の大地で理想を抱く若者だ。私たちは同じように中国の発展を期待し、中国の汚職、腐敗に対して、自由や人権が保障されていないことに対して憤慨する。私たちは国家の富強の裏にある様々な暗闇を悲しみ、心を痛める。これが私たちの国なのか?
 ……
 私たちは一九八九年に生まれ、豊かな香港で成長し、中国で最大の自由と発展の成果を享受している。しかし、中国の国殤に無関心ではいられない。私たちは、二十年前の天安門広場の学生と同じ人生の最も美しい時期にいて、最も自由に理想を追求し、真理を探求できる。どうして彼らが改革のために流した血をむだにできるだろうか? どうして遺族から、そして正義仁愛の人たちから託された遺志から逃れられるだろうか? どうして中国をほしいままにする暗闇などに呑み込まれようか?」

2.香港の歴史教育

 次に歴史教科書について述べます。そのために、まず香港の学校制度について説明します。日本では小学校、中学校、高校と六年、三年、三年(六・三・三制)に区分されていますが、香港は六年、三年、二年、二年と区分されています。小学校の六年間はP1からP6と呼ばれ、中学校ではF1からF7までです。F1からF3が日本の中学校にあたる三年間で、F3からF4への進学のときに振り分けが行われ、本人の成績や親の進学希望に基づき、教育部局から進学する学校がいくつか提示され、その中から選択して進学することになります。そして、F4とF5の二年間は日本の高校にあたる学年で、F5を修了する時に「香港中学教育会考」という統一試験を受け、これに合格すると中学校の教育課程修了が認められます。また、ここで進学と就職の進路選択が行われ、大学進学を希望する者は、大学予科に当たるF6、F7に進学し、大学統一入学受験(四月~五月)を受けます。
 このような学校教育制度において歴史教育は中学校のF3まで必修科目です(なお現在は学校制度の改革が進行中です)。そして、教科書では天安門事件がほとんど述べられていませんが、この歴史を次世代に伝えようとする教師たちが手作りの教科書で子供たちに事件の歴史を教えてきました。
 確かに、今年のF5修了時の統一試験「会考」で、中国史の試験に「政府が価格をつり上げ、われ先に買い求めるという動きが巻き起こり、重大な役人の不正を呼び起こし、ついに『六四事件』になった」と書かれ、「六四事件」という四文字が初めて現れました。しかし、これに対して、学生たちは、内容は当局と同じ主流の立場で、しかも香港は無関係であるというものだと批判しています。
 二十周年追悼集会のとき、私のまわりには多くの青年や制服姿の中学生がいました。一人の青年が、次のように話しました。
「歴史教科書ではわずか数行しか書かれていないが、歴史科の先生が手作りの教科書で教えてくれました。“なぜ南京大虐殺が詳細に記述されているのに、自国の歴史は曖昧なのか? 政府は意図的に一部の歴史の記憶を強化し、自国の流血の歴史を忘れさせているのではないか?”と気づき、インターネットで調べ始めました。今年四月から『八〇後六・四文化祭』というテーマで音楽会、読書会、街頭パフォーマンスなどをして祈念しました。」
 もう一人の青年は「六・四は自分の誕生日です」と言いました。そして「六・四に生まれたから特別な使命感と責任感を持ちます。インターネットからDVDの『天安門』を手に入れて、それを観てから三年連続で自分のバースディ・パーティを断り、祈念集会に参加しました。『一日不平反、一日不慶祝(一日でも再評価しなければ、一日でも誕生日を祝わない)』です」と語りました。そして、学生たちから手作りの祈念集をいただきました。
 また、三十数名の中学生が、保護者の了解を得て、教師に引率されてきていました。先生と生徒たちで曹蔭権長官の発言など「六・四」に関する様々なテーマで話しあったそうです。例えば、もし自分が「六・四」の学生リーダーならどのような方法をとったか、自分が中央政府ならどのような方法をとったか、経済発展は人間の尊い生命と交換できるだけの価値があるのかなどです。

3.“Y八九”世代の手作り記念集

 学生たちからいただいた手作りの祈念集は、香港大学、香港中文大学、香港城市大学、香港科技大学、香港理工大学、香港樹仁大学、嶺南大学の学生会などによる「聯校編輯委員会」編『我們二十―国家走到?裡』、香港バプティスト大学(香港浸会大学)編『也無風雨也無晴―六四二十周年紀念特刊』、同編『奠・六四』、香港中文大学編『抽乾/重注』です。その編集者の大半は一九八九年生まれです。どれも共通して、天安門事件の詳しい経緯、年表、当事者や当時のジャーナリストへのインタビュー、学生たちの議論、文芸作品、香港における民主や自由の問題、その未来などが収められています。その他に、祈念集によって歴史教科書、劉暁波たちの「08憲章」、「農民工」、鉱山爆発(劣悪な労働条件)、市民権や労働者の権利、この二十年間の言論の自由とネットにおける監視など様々な問題が取りあげられています。

 孟浪さんによると、香港教育学院の手作り祈念集を編集した学生は、このように語りました。
「もともと中国本土にある印刷会社が印刷すると契約しましたが、会社が内容を見たら固く断られました。仕方がないので、“六・四”に間に合わせるために料金の高い香港の印刷会社に頼み、ぎりぎりに出せました。」
 このような手作り祈念集の中で、香港バプティスト大学の『也無風雨也無晴』の内容を紹介します。これは約百頁のカラー印刷で、まず香港大学学生会会長をリコールされた陳一諤と、リコールを発議した陳巧文の意見が収録されています。
「左派に良心を売った」とされた陳一諤は、「悲劇の責任は学生と政府の双方にあった。中国は経済発展ですばらしい成果をあげたが、“政治の近代化”は必ず実現しなければならない。自分は“六四虐殺”を完全に否定してはいなかった」と弁明しています。また「大陸の学生は政治的な主張を避け、今日の繁栄と発展に伴う一部の者の犠牲はやむを得ないと考えている」という意見に対して、彼は「大陸の若者にも様々な考えがある。BBCやCNNは、CCTVや『人民日報』より独立性や客観性があると思っている者もいる」と述べています。
 他方、哲学を専攻する女子学生の陳巧文は、子供のころ両親が家に置いていた“六四”に関する本や雑誌を見て育ち、大きくなると両親から“六四”について教えられました。六年前にロンドンから香港に戻り、毎年追悼集会に参加しました。そして、彼女は「周囲の友人は政治に対して冷淡である。政府は責任をもって公的に謝罪し、犠牲者の遺族に賠償すべきである」と述べています。  次に、中学校歴史教科書について見ると、「“六四”の記述をめぐり出版社はお互いに責任をなすりつけあっている」と指摘されています。また、「政府は国民の教育費として一億も投入したのに、何故“六四”について歴史教科書ではわずかな説明しかないのか。きちんと記述すべきである」と、五月十四日の立法会で、民主派議員が要求したことに対して、曹蔭権長官が「内容の記述は十分である」と、歴史教科書のコピーを並べて、ものすごい勢いで答弁しましたことを取りあげ、天行教育出版有限公司(香港)、文達出版有限公司(香港)、現代教育研究社、香港教育図書公司、齢記出版有限公司の五つの出版社の歴史教科書における天安門事件に関する記述を比較しています。そして、確かに、本文と注釈で二言、三言しかなく、戒厳部隊が装甲車や戦車で進駐し、犠牲者負傷者が出たことは一言もないことを示しています。

 第三に、最も注目されるのは、天安門事件に関する学生へのアンケート結果です。回答したのは、一九〇名の学生(地元香港は一五九人、中国本土は二七人、その他は四人。女子は一四三人、男子は四七人)でした。

・軍隊が発砲したことについて理解できるという質問に対して
  賛成しない:67%
  特になし: 21%
  賛成する: 12%
・積極的に「六四」を知ることについて
  これまでそうした:65%
  いいえ:     35%
・「六四」事件の祈念行事に出席することについて
  しない:85%
  した: 15%
・「六四」事件を大学のカリキュラムに入れることについて
  当然:   80%
  特になし: 15%
  賛成しない: 5%
・「六四」事件のため海外に亡命した民主運動家の帰国について
  大賛成と賛成の合計:65%
  どちらともいえない:29%
・学生の請願デモは中国の民主主義の発展に寄与した
  賛成:       32%
  賛成しない:    33%
  どちらともいえない:35%
・「六四」事件の学生のリーダーの名前を書けるかについて
 王丹、柴玲、ウーアルカイシーなど書ける:39%
 以上のアンケート結果に加えて、王丹、二十年前の香港学生連合会秘書長、一般参加者、一般支援者、ジャーナリスト、中学校歴史科教師などへのインタビューも収録されています。

おわりに

 六月四日、追悼式典が終わった後、十一時ころ、孟浪さん夫妻、そして陳建華、アメリカから来た女流詩人で学者の張真、香港城市大学教授の朱濤、中国本土の広州や深センから集会のために来た十数人たちとホテルのロビーで会いました。みな私たちと同じく会場には入れませんでしたが、近くから参加していました。いろいろと意見を交わしましたが、「08憲章」や劉暁波について、きっと今年の十月一日の建国六十周年式典が終わってから釈放されるだろうと信じていました。
 しかし、この期待も裏切られました。その後、六月二四日、拘留されていた劉暁波は国家政権転覆扇動容疑で逮捕されました。
 このような状況を見ると、私は一九二六年三月一八日に起きた「三・一八事件」を想起せざるを得ません。これは段祺瑞の北京政府の軍隊が反帝愛国を訴えるデモ隊に発砲し、四七人が殺され、多数が負傷した事件です。当時は軍閥が割拠し、南方から国民革命軍の「北伐」が進められ、さらに帝国主義列強が侵出を広げ、買弁資本が活動するなど状況は極めて複雑で緊迫していました。そして、三月十八日午前十時、天安門で反帝愛国集会が開かれ、学生を中心に五千人以上が参加し、その後、デモ行進が始まりました。午後一時、デモ隊は国務院の門前で「打倒帝国主義」、「八カ国公使を駆逐せよ」などのスローガンを叫び、政府の対応を批判していたとき、政府軍がデモ隊に発砲しました。
 この事件に対して、魯迅は鋭く批判し、これは「人の世ではない」、「四十数人の青年の血が、私の周囲に満ちあふれて、私の呼吸、視聴を困難にしている」と書き記しました(増田渉訳「劉和珍君を紀念して」『魯迅選集』第六巻、改訂版、岩波書店、一九六四年、二一五頁)。さらに「段政府は逮捕令を出し、彼女たちを『暴徒』といった。やがて流言がおこり、彼女たちは人に利用されたのだという」が、しかし、殺された劉和珍は「いつもにこにこしていて、態度は物やわらかで」あり、このような学生たちが「単に殺害されたというだけでなく、はっきり虐殺であることが証明された、身体に棍棒の傷痕があったからだ」と指摘しています(同前、二一六~二一七頁)。実際、デモ隊は無防備で、それに対して政府軍が武力を行使したのでした。
「三・一八事件」の最高責任は段祺瑞にあると言われていますが、杜婉華は、段祺瑞の孫娘である友人の張乃恵が語った、家族の心にある段祺瑞の別の側面について述べています(「もう一人の段祺瑞」『炎黄春秋』二〇〇九年第五期)。それによると段祺瑞の私生活は清廉、質素で知られ、汚職で私腹を肥やさない、官職や爵位を売らない、アヘンを吸わない、大酒を呑まない、女郎を買わない、賭博をしないとして六つの悪事を働かない総理と呼ばれていました。そして「三・一八事件」について、母(段祺瑞の娘)は、冤罪であり、その時、段祺瑞は政務室にいなく、自宅にいて、デモ行進は事前に知らなかったので、発砲を命令することなどできなかったと語ったということです。
 さらに、彼は虐殺を知り悲しみや不安にさいなまれ、数日も食べることや眠ることができず、持病が再発しました。それでも政務を続け、政府の会議で「学生は若くて情熱的で、強い愛国心を持っていたが、容易に人に利用されたのだ」と発言し、すぐに公文書で学生たちに慰問と補償を与えると発表し、さらに「三・一八虐殺犠牲者同胞追悼会」に出席し、長時間ひざまずき、生涯精進して肉を食さず贖罪すると誓いました。
 もちろん、直接命令しなくても教唆し、また事件後の行動は庶民の憤激を鎮めるための政治的パフォーマンスだという人もいます。しかし、当時の複雑で緊迫した状況を考えると、軍隊への教唆ができたのは段祺瑞だけに限りません。またデモ隊が「利用」されたとしても、誰が「利用」したのかを確定することは困難です。その後の「流言」では共産党系が活動を激化させようとしたとされましたが、段祺瑞を追いつめようとする他の軍閥や混乱を助長させて侵出を広げようとする帝国主義列強とその協力者(漢奸)などの謀略の可能性も否定できません。
 今日、これらについて確実なことは言えないでしょう。しかし、それでも、段祺瑞が公に犠牲者や被害者に慰問と補償を与えると表明し、追悼会で長時間ひざまずいたことは確かです。たとえこれがパフォーマンスだとしても、「六四」天安門事件に対して、未だに非を認めず、さらにその歴史を隠蔽するために、警察やスパイを至るところに配置し、尾行や密告が常態になっているような状況よりはましでしょう。しかも、現在の中国政府は今日の発展を誇っています。つまり、現在は段祺瑞の時代より発展し、その指導者は賢明なはずです。それならば、今日の指導者は彼に見習い、彼より人々が納得するようにすべきです。
 最後に、天安門事件の犠牲者の一人に清華大学学生の段昌隆がいました。彼は段祺瑞の兄の孫に当たります。このことについて、丁子霖は「歴史の偶然である。しかしまた、歴史の必然でもある。今、段昌隆君の遺骨は北京郊外の萬安公共墓地に眠っている。この墓は段祺瑞の墓のあるところである。……ここには歴史の慟哭と嘲笑がある。人はこの二つの墓に対するとき、長嘆息するのみである」と述べています(丁子霖、蒋培坤/山田耕介、新井ひふみ訳『天安門の犠牲者を訪ねて』文藝春秋、一九九四年、一二七頁)。一九二六年から一九八九年を経て二〇〇九年までの歴史を振り返るとき、まさに偶然と必然、「慟哭と嘲笑」を思わずにいられません。それでも、香港の“Y八九”世代の生き生きとした姿を見るとき、決して「慟哭と嘲笑」で終わらず、未来に希望を抱くことができます。