オーセル氏、2008年9月、北京

▲オーセル氏、2008年9月、北京

 ツェリン・オーセル〔次仁・唯色〕さんは、ご自身のブログでチベット関係を中心に中国の実状を知らせ、問題を提起しています。

 彼女の著書に『殺劫:四十年的記憶禁区、鏡頭下的西蔵文革、第一次公開』があります。それは彼女の父が撮影した文化大革命期のチベットの記録写真と関係者の証言を編集したものです。現代の中国では様々なタブーがありますが、チベットや文革は研究できないタブーとなっています。しかし、オーセルさんはこれに立ち向かい、チベットの文革という二重のタブーに迫り、その実態を、記録写真と証言で明らかにしました。
 このような『殺劫』の内容を見ますと、その前半と後半では、写真の性格が変わっています。オーセルさんは、文革初期の紅衛兵による寺院破壊や「牛鬼蛇神」への糾弾を記録した写真の生々しい真実さは、後半の写真では失われ、型にはまったものになったと述べています(後半の236頁の「全民皆兵」参照)。

初期の写真『殺劫』114頁、糾弾される僧侶

▲初期の写真『殺劫』114頁、糾弾される僧侶

後半の写真『殺劫』246頁、70年代のカムの女性民兵

▲後半の写真『殺劫』246頁、70年代のカムの女性民兵

 これは日本でいう「ヤラセ」の写真と同じです。このような「ヤラセ」写真は、大衆に社会主義イデオロギーを宣伝するプロパガンダの方式で、中国語では「毛模式」、英語では Maoist Model と呼ばれ、「摆拍的歴史(posing history)」という言葉もあります(亜克「摆拍的歴史(posing history)」『鳳凰週間』2008年第15期、5月、82〜85頁)。それは人に見せるためにポーズをとった歴史で、その裏には、見せない、隠された史実があります。

1974年8月『毛沢東選集』を学習している大港油田の労働者(許林:撮影)▼1974年8月『毛沢東選集』を学習している大港油田の労働者(許林:撮影)

 さて、映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(1997年、ジャン=ジャック・アノー監督。原作の日本語訳はハインリッヒ・ハーラー著、近藤等訳『チベットの七年』新潮社、1957年)で描かれた共産党進攻後のラサでは、五星紅旗(中華人民共和国国旗)がはためき、共産主義を謳歌する「インターナショナル」の歌が流れ、仏塔には毛沢東の肖像が飾られて、共産党の圧倒的な支配を観客に印象づけています。『毛主席語録』をはじめ、毛沢東の著作は文革の10年間だけでも50数億冊も出版され、その中にはチベット語版の二千万部も含まれています。
 そして「芸術は大衆を宣伝し、鼓舞し、結束させるための有力な武器である」というスローガンの下で、報道写真は政治的な動向に機敏に反応しました。このようにして文革期に「ヤラセ」写真が数多く現れました。そこでは、健全なる大衆、颯爽たる民兵が、毛沢東思想を学ぶ模範として理想化されています。

『黒竜江日報』のフォト・ジャーナリストであった李振盛は危険を顧みず文革の記録写真を長年保存し、ようやく『紅色新聞兵』(ファイドン社、2005年)として公刊しました。そして現在、彼はブログで35年前に東三省(黒竜江、遼寧、吉林)の写真展に出品した写真「もう一つ良質の油田が見つかった」は、「ヤラセ」で、偽りの写真だったことを自ら告白しました。
 李氏は、文革を体験した老ジャーナリストとして、40年前の「ヤラセ」写真を例にあげ、荒唐無稽な歳月のなかで多くの記者がどのように「報道」したのかを次の世代に伝えたいと思って、このように訴えたのです。さらに、当時の選考委員会も、そして、35年経った今も、異議を唱える者が一人もいないと慨嘆しています。
 この李氏自身による「掲短(欠点を暴く)」が、ネット上で大きな反響を呼び起こしました。その中で、元『人民日報』のベテラン編集者の許林氏は彼に共鳴し、「40年の報道写真を振りかえる自己批判」という文章をブログに連載し、『人民日報』の報道写真の内膜と、「完璧な写真」の裏にある「製造手法」や「物語」を詳細に公表しました。そして、次のように述べました。

「これは報道写真ではなく、芝居である。このようなヤラセの写真と歴史を鏡として、自分の過去を映しだし、さらに、報道写真を負の遺産として、故意に偽った報道の教訓としてほしい。読者は真実を知る権利を持つ。報道カメラマンは生涯、真実、客観性、公正を追い求めるべきである。真実の報道は、マスメディアに求められる最低限の条件であり、また最高の理想でもある」

 このような議論がネット上で続くなかで、李氏は以下のような経験を紹介しました。

「1962年、『長春日報』で実習していたとき、連日新聞に名前がのるベテランのカメラマンがうらやましかった。ある日、このベテラン・カメラマンが指導員となり、いっしょに現場に向かった。私がどうして毎日報道写真を採用してもらえるのですかと質問すると、彼は当時流行していた革命歌のメロディーに合わせて、ユーモアたっぷりに答えた。
 ♪我々はヤラセの達人だ
  一枚一枚のネガを新聞で写真として載せる
  我々は報道の兵士
  チャンスをつかむべきか、やらせるべきか、しっかり判断できる
  つかめるならば、ヤラセは必要ない
  つかめなければ、ヤラセでとる♪
これは実習で先生から教えてもらった『真経(本物のお経)』として、私の心に深く刻まれた」

 そして、半世紀が経った今でも、「つかむべきか、やらせるべきか」という議論が続いています。李氏は、理論と実践が常に食いちがっていると述べています。報道理論の研究者は「つかみとる」のが絶対条件だと述べますが、それは現実離れで、現場のジャーナリストは、それだけでは任務を達成できず、このようなジレンマがあると論じています。
 おそらく、日本でも時々「ヤラセ」の報道が問題となるのも、このような事情があるからでしょう。しかし、文革では、これは時々などではなく、極めて大規模に行われたのでした。このようなことも、オーセルさんの『殺劫』から考えさせられます。