著名なアーティストの高兄弟と(2015年8月、北京798アート・コミュニティにて)

▲著名なアーティストの高兄弟と(2015年8月、北京798アート・コミュニティにて)

一、初対面? 再会? ──獄中で筆者に宛てて書いた詩の朗読

 花冷えの四月五日、こぬか雨のそぼ降る大阪の難波、ネオンの映る道頓堀で、私は中国人一行と会した。彼らは言論統制が厳しくなる一方の中国において、鋭い批判や風刺で人気を博しているブロガーであり、日本のある財団が、その表現活動に注目し、招聘した。
 和食レストランで、日本酒は「人肌のお燗で」などと宴の席の雰囲気がほどよい感じになったころ、洒落たパナマ帽にサングラスという装いでパイプをくゆらせ、悠揚として迫らぬ風情を醸(かも)していた詩人の兪心樵(ユ・シンジャァ)が、おもむろに一篇の詩を朗読した。それは、彼が獄中で私に宛てて書いた詩であった。

三月三十日:劉燕子へ

無造作に、郷愁の奥深く刻印する
燕子の、春をめぐり来たらせる妙なる巧みさ
鉄格子からさえ芽生えが萌え出る
犲狼さえ月光の下で念仏を唱える

飛び舞う天性を備えながら
いつから泥を口にくわえて巣をつくる責務を負うようになったのか
精神の晦渋で多彩な振る舞いで
燕子は文学の軽重や緩急を示す

ハサミにたとえるなど無用
銃弾にたとえるなど無用
人心の隔絶を透徹し、貫通せよ
積乱雲とぶつかり合い、巨大な雷鳴を響かせよ

不撓不屈に歴史を記憶すべく、死の瀬戸際で懸命にもがく者にとって
燕子は春を告げる使者、我が姉、我が妹
密やかで温かな理想郷を空中に泥でつくっている
そう、空中から、このぼくを癒やすために

 私は驚きながら、記憶が走馬燈のように蘇った。確かに、獄中の兪心樵を励ますために、一九九九年から二〇〇〇年にかけて何度か、日本からわかめスープやふりかけなどを送ったが、届いたかどうか分からないまま、すっかり忘れていた。十数年を経て、兪心樵が受けとり、しかも、それをモチーフに詩を書いていたことを知ったのであった。そして、彼はこれを収録した『詩選』(長江文芸出版社、二〇一三年)を私に手渡してくれた。
 兪心樵は獄中でも詩を書いていたが、幾度も摘発され、没収された手稿は数万枚になる。それでも幸いに持ち出せた詩を選び、編集したのがこの『詩選』である。私はその重みをズシリと感じた。
 記憶は、あたかも雪のようにシンシンと降り積もるが、言葉として出てくるや、陽光を浴びて溶け、流れていくようだ。そして、蒸発し、空高く舞い上がって結晶化して雪になり、また降り積もる。そのように考えながら、一九九九年のことを思い起こした。
 この年、私は現代詩の研究のため北京を訪れ、詩論家の唐暁渡に会った。その時、「兪心樵という詩人が濡れ衣を着せられて投獄された。さらにひどいリンチを受けているけれど屈しない。励まそうと食べ物など送ったが届かない。日本から送れば届くかもしれない」と言われ、義憤を覚え、先述したように差し入れを行った。
 それから何年もの歳月が過ぎ去り二〇一四年となった。私たちは行方も分からず漂う木の葉のように流れて、道頓堀で初めて相見(まみ)えることになった。
 私たちは物静かに語りあった。私は胸の奥底からこみ上げるものを抑えきれず、熱い涙をホロリと落とした。
 「不思議としか言いようのない縁(えにし)」
 「初対面? 再会?」

 

二、兪心樵とは何者か?

 兪心樵は、一九六七年、福建に生まれた。根底から自由に生きることを信条とする母親の影響で、独裁体制の教育は中学一年生までしか受けず、独学でダンテの『神曲』などの名作を読みあさり、文学に目覚め、愛、憤怒、憎悪、懐疑、否定、超越など思想と狂気が錯綜し、共振しつつ躍動するカオス的な世界に魅了された。それは「生」の自由を渇望する若者の熱情を鼓舞し、兪心樵は狂おしく創作し、発表し始めた。
 一九八〇年代初め、兪心樵は繊細な感性の中に鋭いエスプリを込めてヒューマニスティクな都会の抒情を詠う現代詩を発表し、詩壇で頭角を現した。彼は、北京を中心に全国各地で詩を朗読し、またパフォーマンスを繰り出した。それは民主化運動のうねりに合流していったが、一九八九年六月四日未明、流血の天安門事件で封殺された。

詩人の兪心樵(2014年4月、大阪・難波にて)

◀詩人の兪心樵(2014年4月、大阪・難波にて)

 その後、重苦しい閉塞感が垂れ込めた。しかし、この状況の下、彼は沈黙を破り、「新文芸復興運動」を提唱し、それは学生たちの間で大きな反響を呼び起こした。そして、一九九三年に中篇小説「ローマは既にローマにはない」、長詩「霊魂総動員」などを書きおろし、華東師範大学などのキャンパスで「文芸復興」というテーマの講座を開いた。
 詩の朗読と芸術的パフォーマンスをダイナミックに融合した活動は、沿海部の各大学で「兪心樵」旋風を巻き起こした。そして、彼は、浙江大学で、天安門民主化運動の学生リーダーの一人であった王有才と出会った。
 王有才は、北京大学院生(物理学専攻)で、「高自聯(学生自治連合会)」の最後の秘書長だった。彼は、天安門事件後も、粘り強く民主化運動の再建に取り組み、中国民主党の創設者の一人となった。しかし、王有才は逮捕され、一九九一年に懲役四年の刑に服した。同年末に減刑・釈放されたが、厳しい監視下に置かれた。そのため積極的な活動は控えていたものの、兪心樵の自ら課した目標に向かって真摯に努力する人間性、その勇気に共感・共鳴した。王有才は、次のように述べている。
 「兪心樵は、その頃、北京、上海、杭州、貴州など各地を駆けめぐり、現代詩とパフォーマンスを展開しながら中華復興党の結成を進めていた。私は時期尚早だと思ったが、彼が文学と政治を繋げた活動に目を見張った。女子学生のファンが多く、密かに入党した者もいた。」
 しかし、兪心樵も一九九八年に逮捕され、八年の実刑判決を下された。
 その罪状は政治的なものではなく、「強姦罪」だった。「民衆の通報」により駆け付けた警官が、女性とともにいた兪心樵を捕まえた。
 ところが、彼は、この女性と半年以上も「同棲」していたのだった。その後、詩人やアーティストの間で、その女性は「スパイ」ではないかという噂が流れたが、その真相は未だに闇の中である。
 このような逮捕劇は、昨年(二〇一三年)、一層激しいかたちで再現された。八月、インターネットの言論空間で腐敗汚職などの社会問題を取りあげ、ニュー・オピニオン・リーダーと目された薛蛮子(本名は薛必群、ベンチャー企業やNGOに資金提供する個人投資家、慈善家)は「群衆の摘発」により「買春」の容疑で逮捕された。そして連日、CCTVのニュースで全国放送され、しかも必ず彼がネットの著名人であるとことわった上で、道徳的人格的に低劣であると激越な表現で糾弾され続け、さらに自己批判までさせられた。明らかに見せしめ(中国語では「示衆」)のためであり、多くの人々は文革の恐怖を思い起こさせられた。

 

三、「墓碑銘」と中国民主党

 兪心樵が投獄された一九九八年には、王有才と多数の同志も投獄された。全員の刑期を合計すると千年以上になったという。
 この年の六月二五日、クリントン米大統領の訪中や中国の国際人権規約署名というタイミングを測り、浙江省杭州で、王有才、王東海、林輝たちは中国民主党の結成を宣言し、中国民主党浙江省準備委員会機関紙「在野党」を創刊した。それは事実上の一党独裁体制の中国において衝撃的な事件であった。
 中国では共産党の他に中国国民党革命委員会など「民主党派」と呼ばれる党派が八つあり、形式上は多党制だが、いずれも中国人民政治協商会議を構成する組織として共産党と統一戦線を組む翼賛団体である。さらに、共産党員が「民主党派」の党員でもあるという二重党籍(「交叉党員」と呼ばれる)を通して、各「民主党派」を統制している。従って、政権担当能力どころか、共産党を批判する力量はなく、「野党」とは言えない存在である。まさに、中国の憲法に明記されている「人民民主主義独裁」とは一党独裁を維持し、それへの反対を弾圧し、批判を封殺している支配体制である。
 このような政治体制下において、中国民主党の結成宣言は、「野党」としての合法的な存在の承認を当局に求めつつ、共産党一党独裁体制に反対する立場を明確に表明した。さらに各地で支部や結成準備会が相次いで結成され、合計二三組織で、メンバーは千人を超えた。それは、一九七九年の「民主の壁」運動以来の筋金入りの活動家と天安門民主化運動を進めた元学生が合流したものであった。しかも、その主張は政府が署名した国際人権規約の中の結党・結社の権利の行使であった。しかし、早くも八月に中国民主党は弾圧され、王有才は国家政権転覆煽動罪で逮捕され、懲役十一年の判決を下された。
 そして二〇〇四年、王有才は仮釈放され、アメリカに亡命し、二〇一三年に兪心樵とニューヨークで再会した。その時、王は兪の「墓碑銘」を読み、「中国民主党という野党の結成を早めた。この詩は重要な役割を果たした」と語ったという。

墓碑銘

ぼくの祖国では
ただ君だけが、ぼくの詩を読んでいない
ただ君だけが、ぼくを愛していない
もし、君がぼくの埋葬地を知れば
最も美しい春を選び
最も明るい道を歩み
ぼくにあやまりに来てください
その日に雨の予報が出ていたら
日を改めてください
その日にまだレンゲソウが咲き乱れていないなら
前倒しで花を開かせよう
日光が燦々と降りそそぐ祖国よ
月光が遠く照らす祖国よ
家々に明かりが灯る祖国よ
ただ君だけが、ぼくの詩を読んでいない
ただ君だけが、ぼくを愛していない
ただ君だけが、光満ちあふれる祖国の中で
唯一の暗い陰だ
青空に向かってあやまれ
白い雲にあやまれ
山紫水明にあやまれ
最後はぼくにあやまれ
最後に「兪心樵が生きていたら、よかったのに」と言えば
良しとしよう。

一九八九年九月二日 清華園

 

四、詩想に住するが故に漂泊する──黄翔、兪心樵、王蔵という叛逆の系譜

 兪心樵は、現在、北京郊外の「798芸術村」を拠点として、詩人・画家として活動している。また中国式ミニブログ・ウエイボーのフォロワーは約七万人という。
 詩人からアーティストへと展開したが、その芸術精神は一貫し、常に自由や尊厳を追い求めている。兪心樵は二〇一三年、ニューヨークなどで講演した時、「中国では専制支配が伝統文化になっており、それが今や跳梁跋扈している。また、それをもたらしているのは、権力者に媚びへつらう劣悪な奴隷根性を持ちながら巧みにレトリックで飾る知識人である。これとマルクス主義的プロレタリア独裁の暴政は二つの毒だ。それは民族の宿痾になっている。詩人は独裁を拒絶する美と力をもって野蛮な暴政と対峙し、その道義的責任を果たさなければならない」などと鋭く批判した。
 このような詩想やパフォーマンスの系譜は、亡命詩人、黄翔に遡れる。彼は、詩の発表を禁じられ、六回も投獄され、最後は米国に亡命を余儀なくされた(小著『黄翔の詩と詩想-狂飲すれど酔わぬ野獣のすがた-』思潮社、二〇〇三年)。
 このように変転する人生を生き抜いてきた黄翔は、ハイデガーがヘルダーリンの「人間は/この大地の上に詩人として住む」を繰り返し論じていることに対して、詩人とは「大地」に「住む」のではなく、「漂泊」するのだと提起した(前掲『黄翔の詩と詩想』一九三頁、及び濱田恂子、イーリス・ブッフハイム訳『ヘルダーリンの詩作の解明』ハイデッガー全集第四巻、創文社、一九九七年、四六頁、一二六頁、二〇〇~二〇二頁等)。これは、世阿弥の「住する所なきを、先ず、花と知るべし」(『花伝書・別紙口伝』)という芸術精神に通底する。
 次に、兪心樵より若い世代に注目すると、一九八〇年代生まれ(八〇后)の王蔵(ペンネームは小王子)という詩人がいる。彼もまた発表の機会を奪われているため、詩人として街頭で行動(パフォーマンス)している。これは「詩歌は単なる技巧や形式でなく、行動によって表現すべきものである」という詩想の実践である。
 二〇一四年三月一日、私は王蔵と北京の芸術村で会った。その時、彼は「ぼくは既に(投獄の)覚悟をしている。今されないと、間に合わない」と語った。それは冗談じみた口調であったが、内心に秘めた真剣な覚悟がうかがえた(その後、実際に投獄)。
 彼は投獄どころか、死についても意識しているとさえ言える。それは、「ひまわり」という小品から読みとれる。

ひまわり

ギロチンで切られたひまわりは
清明節に復活する
太陽の花びらといっしょに
自分の墓参りをする

 これは決して誇張ではない、中国の民主化運動を振り返ると、天安門事件(血の日曜日)はじめ流血の歴史であると言わざるを得ない。そこには民主化の志を半ばに斃れた者たちの死屍累々の凄絶な光景が広がっている。

 

筆者と兪心樵の平和のためのハグ(高兄弟が20年前から平和を広げようと続けているパフォーマンス)

◀筆者と兪心樵の平和のためのハグ(高兄弟が20年前から平和を広げようと続けているパフォーマンス)

五、死屍累々たる「奥の細道」を照らす詩の灯火(ともしび)

 それではこの無惨な現実に対して、黄翔、兪心樵、王蔵たち詩人は無力なのだろうか? 私はそのようには考えない。詩人は「私人」のレジスタンスができる(ヨシフ・ブロツキイ/沼野充義訳『私人──ノーベル賞受賞講演』群像社、一九九六年)。
 彼らの系譜を、日本において考えるとき、私は「奥の細道」を想起する。これは日本の代表的な紀行文学だが、芭蕉には「野ざらし紀行」もある。「野ざらし」とは、野外で風雨にさらされることを意味し、風雨にさらされた白骨をも指す。
 中国民主化の死屍累々たる歴程を記述するならば、まさに「野ざらし紀行」となるであろう。そして、芭蕉が、戦国時代の血なまぐさい記憶が濃い寛永から太平の世となり文化が花開く元禄にかけて生き、「野ざらし紀行」や「奥の細道」を書き記したことの意味(詩想)を想う。果たして、中国民主化は「野ざらし」の「奥の細道」を進み、太平の民主的な社会に到るだろうか。
 黄翔、兪心樵、王蔵たちは、このように問うというよりも、そうしなければならないと考えてきた。それは、人間として表現の自由を求めることは当然だからである。これを断念したとき、人間は人間らしい生き方を失ってしまう。
 このような意味で、彼らの詩は「奥の細道」をほのかに照らす灯火であり、またこれからもそうだろう。そして、これを通り抜ければ、自由や民主主義という普遍的価値の大道にたどり着くだろう。

 

六、精神の地殻変動を目指して

 確かに、それはまだまだ遼遠のように見えるが、希望はここにある。今日、ウエイボー(微博)やウエイシン(微信)などのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)が連動・進展してソーシャル・メディアとなり、既存の厳重に統制されたメディアとは異なる動きを呈している。そのうねりの中で、インターネットの言論空間にもほころびが出来はじめている。
 確かに、これに対して統制が強化されている。それでも自由への希求はなくならない。
 この統制と自由がせめぎ合う間隙を縫って内奥から突きあげる自由を発露して精神的な地殻変動を起こし、民主化の突破口を切り開くこと、それが、詩人の目指すところである。ここに文学の力の真価が発揮されるとき、無数の先人たちの声なき声が「奥の細道」から聞こえ始め、それが今を生き抜く者たちの声を唱和し、共鳴・共振し、厳重に統制された言論空間の土台を揺り動かすだろう。その予震、予兆を察知する詩人の鋭敏な感性は、軽視すべからざるものがある。