廃黄河を行く

第1回

開封──廃黄河の分岐点

黄河の渡しは、人・家畜・自転車・トラックなどなんでも運ぶ

▲黄河の渡しは、人・家畜・自転車・トラックなどなんでも運ぶ

廃黄河とはなにか

 青海省の奥地に源を発する黄河は甘粛省の蘭州をすぎると北へ流れを変え、寧夏から内モンゴル自治区に達したところでオルドス砂漠をまわり込むように大きく湾曲して南行する。陝西と山西、河南の省境に位置する三門峡で真東に90度方向を転換し、洛陽、鄭州、開封の北郊を一路沿海部に向かい、山東半島の付け根あたりで渤海に流れ込んでいる。

「現在の黄河と廃黄河」の地図

◀「現在の黄河と廃黄河」の地図(NIKKEI GALLERYより転載。クリックすると拡大します)

 ところが黄河は歴代、洛陽から開封にいたる地域で決壊を繰り返し、いく度も河道を変更して東流(あるいは南流)したことがある。それらの旧河道は、すでに廃止された黄河という意味を込め、廃黄河とよばれている。現在の廃黄河は開封郊外で本流から分岐して商丘、徐州、宿遷に向かい、洪澤湖畔の淮安から濱海を通って黄海に注ぐ。黄河の河道変更はなぜ起こったのか。純粋に自然がもたらした結果なのか、それとも人為的な要素も加わったのか。そのことを探るのが、廃黄河をたどる旅の目的でもある。
 中国の古代、まだ内陸水運が確立していなかったころには南から北への税糧や兵糧の輸送は東シナ海や黄海、勃海の波頭をこえていく海路が利用されたが、倭寇など海賊の略奪や悪天候に遭い、多くの物資や船舶、船員を失った。往時、南北輸送は陸路の東西交易よりも難しく、そのために巨利をもたらしたのはこのためである。

城壁の下でトランプに興じる市民

◀城壁の下でトランプに興じる市民

 中国の歴史は南の穀物(税糧)や物産をいかにして北の京師(首都)に運ぶのか、北方異民族地域との境界に展開する辺境防衛軍までいかに兵糧を補給するのか、が歴代政権の課題でもあった。
 隋の煬帝期に大陸の南北をつなぐ大運河(通済渠)が一応の完成をみると海賊や天候リスクの少ない内陸水運が海運に代わるようになり、南の穀倉地帯から西、東、あるいは北の京師、軍隊に税糧や兵糧を運ぶ合理的な水運を確保するために大運河や淮河、渭水、洛河などと黄河の流れとの組み合わせがたくみに考えられた。こうしたなか、黄河は天災による決壊などの原因以外に、ときの政権が他の河川との接続の便を優先して人為的に河道を変えたこともあった。その意味で、黄河は為政者の恣意によって流れが変えられたきわめて政治的な河川だったとも言えよう。

城壁を防衛した護城河。現在は洗濯場などに使われている

▲城壁を防衛した護城河。現在は洗濯場などに使われている

黄河本流からの分岐点

 開封市の広域地図を眺めていると、黄河本流と廃黄河の分岐点が蘭考県の北郊にあるらしいことがわかる。蘭考県は開封郊外を西に40キロほど行ったところに位置する。三門峡から河南省を一気に東流してきた黄河が大きく北に流れを変えるところにある挟河灘という村だ。
 蘭考県といえばかつてはアルカリ土壌と塩害で雑草も生えないと厭われた不毛の地だったが、1960年代に県のトップとして赴任した焦裕禄が灌漑をすすめ、土壌を改良して肥沃な農地を作り出したエピソードは中国の小中学校の教科書にも載っていて有名である。焦裕禄は廃黄河の河道などを利用して黄河の水を導き、痩せた土地を優良な農地に改良した。蘭考は灌漑される以前、全国でも有数の貧困地帯だった。

48体の伎楽仏。寺廟楽隊の実相を現代に伝える超一級の文化遺産

◀48体の伎楽仏。寺廟楽隊の実相を現代に伝える超一級の文化遺産

 北宋(960〜1127年)の時代、開封は汴京あるいは東京とよばれた。首都であり、南北水運の要衝でもあった。南とは穀倉地帯の江南、北は長安、洛陽などを含む中国の北方を指している。杭州から北に向かって開削された大運河は開封近郊で大黄河と合流し、江南で収穫した米穀、すなわち税糧や兵糧を首都や辺境を防衛する軍隊まで運んだ。この街は黄河の恵みで富み、栄えたのである。その歴史的な風景は北宋の開封を描いたとされる『清明上河図』によって現代に伝えられている。
 開封はまた歴代、黄河の激流に翻弄された都市でもあった。たび重なる氾濫や決壊によって、街はいく度も黄土混じりの河水に没した。黄土は街を幾層にも覆い、開封の歴史は積層した土の中にあるとまで言われる。この街はその発展も衰退も、黄河とともに歩んできた。開封は黄河に笑い、黄河に泣いた歴史都市なのである。

伎楽仏。顔面がすべて破壊され、廃仏行為の激しさを彷彿させる

▲伎楽仏。顔面がすべて破壊され、廃仏行為の激しさを彷彿させる

開封と廃黄河

 開封一帯は黄河文明が発祥した中華の平原を形成しているので、古来、「中原」とよばれている。また、「天下腹心、水陸都市」(天下の中心、水陸の要衝都市)とも称された。戦国の魏、五代の梁、晋、漢、周、そして北宋、北宋を滅ぼした金が相次いで都を置いたので「七朝の古都」とも尊称される。その名称の変遷は時代とともに頻繁で、開封(魏)、大梁(同上)、浚儀(秦)、梁州(東魏)、汴州(北周)、東都(唐末)、東京(後晋)、祥符(北宋)、汴京(同上)、南京(金)、汴梁(元)、北京(明)などとまことにめまぐるしい。その中でも東都とか東京と称したのは西の長安や洛陽に対する東の都としての意味合いが強く、「北京」という名称は南京に都した明の太祖朱元璋には当初、開封に首都を遷す考えがあったからだろう。 
 氾濫による決壊や人為によって、古来、黄河はいく度もその河道を変えて東流した。開封郊外から東南に向きを変えた大河は、現在、廃黄河という名前で人々の記憶の淵に沈んでいる。いまは廃止されてしまった黄河だからだ。これから、その河道をたどるのである。
 開封から河南と山東の省境を流れて商丘郊外に向かう廃黄河は、そこから江蘇省の徐州、そして宿遷、淮安と南流し、最後は濱海を通って黄海に流れ出す。中国の地図には、その河道がとぎれとぎれに記されているが、詳しいことは現地に行ってみなければわからない。今はとりあえず、開封郊外にあるらしい黄河本流と廃黄河の分岐点を探しに行くのだ。その前に、旅の拠点となる開封のあれこれをしばらく見てゆこう。    

鉄塔と繁塔

 開封は北宋の都で、現在も街を取り囲む城壁をかろうじて保存している。そのすぐ外側には敵の侵入を食い止めるために掘られた護城河の水面が中原の乾燥した青い空を映して美しい。
 街の東辺を走る巨龍のような城壁の北と南には、鉄塔と繁塔が市街を見守るように屹立する。地元の人たちはこれら千年の古塔を「南繁北鉄」とよんで親しんでいる。北宋期の開封では、開宝寺、大相国寺、太平興国寺、天清寺が四大寺院と称され、名刹の誉れが高い。鉄塔は開宝寺の境内にあるので開宝寺塔とも称され、「鉄塔」という名前は愛称である。現在の開宝寺は解放北路(旧馬行街)から蓮の花が咲きほこる護城河に沿って東行し、その広大な敷地に入っていくと苔むした接院殿があらわれ、そのはるか後方に鉄塔が屹立している。
 北宋の時代、木組で建立された塔は西北方向にすこし傾いていた。これを不審に思った都人が建築大師(設計者)に問いただすと、「開封は西北風が強いので、百年もすればまっすぐになるだろう」と答えたという。慶暦4(1044)年、木塔は雷に打たれて焼失し、皇祐元(1049)年に8角形13層(56メートル)の舎利塔として生まれ変わった。外壁を覆った瑠璃瓦が濃い鉄色を放っていたので、この時より鉄塔と俗称されるようになった。瑠璃瓦には飛天、降龍、麒麟、獅子、伎楽、仏像、花卉などの模様が施され、宋代彫刻芸術の貴重な資料でもある。
 開宝寺は平安時代の日本と縁が深い。比叡山延暦寺の阿闍梨だった成尋は煕寧5(1072)年、62歳の高齢をおして中国の天台山や五台山など台密(天台宗密教)の聖地巡礼を志して北宋に渡った。成尋はこのときの記録を『参天台五台山記』として残している。開封では大相国寺、太平興国寺などを足場にして活動した。神宗皇帝から訳場監事という要職を賜り、71歳で開封の地に果て、開宝寺に埋葬されたのである。
 開宝寺は北宋末、政治(まつりごと)よりも芸術に秀でた風流天子の徽宗皇帝のころから衰退し、鉄塔だけが残った。北宋を滅ぼした金の治世下には光教寺、元代は上方寺、明代には祐国寺、清代は甘露寺として命脈を繋いだが、道光21(1841)年に発生した黄河の大洪水が開封城を包囲し、寺院の建物や塀、石碑などは防潮堤としてその役目を終え、以後、改修が叶わず現在に至っている。
 もうひとつの繁塔は開封の東南城外の天清寺にある。仏塔としてはこの街でもっとも古い。古来、寺の周囲には繁姓が多く、近辺も繁台という地名であったため、繁塔と称されるようになったのだと伝えられる。

鉄塔。瑠璃瓦で覆われた外観は鉄のように見える

◀鉄塔。瑠璃瓦で覆われた外観は鉄のように見える

 繁塔の外壁に嵌め込まれた約7000体の仏像が、北宋の仏教都市開封の面目を感じさせる。塔心の2階には12列2段、あわせて48体の伎楽仏が壁面に整然と刻されていて圧巻だ。これは北宋における寺廟楽隊の実相を現代に伝える超一級の文化遺産と評価される。
 もともと9層6角形73メートルの威容を誇った繁塔は落雷や戦乱で破壊され、下部の3層だけが現存している。天清寺も元末の戦乱で焼失したが、明の洪武年間に再建され、さらに国相寺、白雲寺が塔の周辺に建立された。明末と清末に発生した黄河の大氾濫で3寺院はことごとく水没し、現在は繁塔だけが残っている。
 鉄塔は黄河が決壊するたびに河水に洗われ、その基部は数メートル以上も黄土に埋まってしまった。天清寺は黄河の激流にのまれ、境内の繁塔は落雷と戦乱で上部の6層が失われた。黄河の開封に対する仕打ちは、まことに苛酷と言わざるをえない。
 開封は中原の農耕地帯であるのに、遊牧民が好む羊肉を食べる機会が多かった。羊肉燴麺はお隣り山西省の刀削麺に似ているが、こちらは刀で削るのではなく両手でビョンビョンやりながらのばして麺を打っていく。羊肉のスープベースに金針菜、烏賊(イカ)、木耳(キクラゲ)、香菜などを加えた粉食地帯の麺には強い腰があって、羊肉特有のクセに負けないだけの深い味わいがある。洛陽、鄭州、開封、蘭考と訪れる先々で地元民が競うように食していたので、河南省の庶民の食なのだろう。

初出『NIKKEI GALLERY』96号の内容を加筆再構成

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。