廃黄河を行く

第02回

開封──ユダヤ人コロニーと黄河の氾濫

延慶観の筮竹占い師

▲延慶観の筮竹占い師

 河南省は漢民族の揺籃の地という意味で、中国の中心と言ってもよい。文明としての中華が発祥した黄河中下流域にひろがる広大な平原を形成し、「中原」とか「中州」(=文明の中心地)とも称される。そこはいま、とうもろこしやにんにくの畑が地平線までつづくかと思われる縹渺とした農耕地帯だ。その平原のど真ん中に開封という都市があり、黄河の恵みに育まれ、氾濫で翻弄された歴史や文化が横たわっている。
 黄河は中流域の黄土高原を流れる過程で大量の泥土を飲み込み、それらが河床に堆積して天井河となる。いちど大規模に決壊すると広大な地域を水浸しにして、その河道がもとにもどることは稀だ。これが、黄河が歴代何度も流れを変えてきた原因のひとつと言えよう。

開封市街(包公湖)。遠くに見える三階建ての建物は開封市博物館

▲開封市街(包公湖)。遠くに見える三階建ての建物は開封市博物館

 河道の変更はたとえば対戦中の敵軍を水攻めにするため、人為的に変更させられたこともある。近現代における一例を挙げれば日中十五年戦争期の1938年6月、徐州会戦にあった蒋介石の国民党軍が開封と鄭州の中間地点にある花園口で発動した黄河決壊事件が有名である。鄭州は平漢(北京-漢口)線と隴海(蘭州-連雲港)線の鉄路が東西南北に交わる交通の要衝で、日本軍がここを攻略すると武漢、西安などの戦略都市が危機的状況に陥るため、花園口の黄河堤防を爆破して決壊させ、同地域を制圧中の日本軍を水攻めにする目的で実施された。また歴代、税糧や兵糧を運搬するため、ときの政権が運河やその他の河川などとの接続の便を優先して人為的に黄河の河道を変えたこともあった。まことに政治的な河川だったのである。
 黄河の水は肥沃な泥土を大量に含んでいるので灌漑に適している。「水を制する者は天下を制す」とは、古今東西に通用する不変の真理である。中国の歴代政権は、どうすれば水と調和し、広大な大地を統一することができるのかに腐心してきた。

開封のユダヤ人

「現在の黄河と廃黄河」の地図

◀「現在の黄河と廃黄河」の地図(NIKKEI GALLERYより転載)

 ふたたび開封の散策にもどろう。
 黄河の流れに一喜一憂した人たちの中には、北宋の時代にヨーロッパでキリスト教への改宗を迫られ、ディアスポラとして中央アジアを越え、タクラマカン砂漠を踏破して開封に避難してきたユダヤ人の集団がいた。北宋の都に到達した多数のユダヤ人が真宗皇帝から「遵守祖風」の許可を得て、みずからの宗教、言語、風俗習慣を守りながら開封に定住したのは咸平元(998)年からである。そして、その170年後にはユダヤ人コロニーみずからが資金を調達して開封の中心地区にシナゴーグ(中国語では回教風に「清真寺」とよばれた)を建立している。そこには彼らがヨーロッパから1万数千キロの道のりをいとわずに携えてきたトーラーの巻物が聖櫃に納められて安置された。この時より開封のユダヤ人はみずからの宗教的な拠り所を得て、公式に祖先を尊崇し、開封で生まれ育った子孫にヘブライ語を教え、後代に一賜楽業(イスラエル)教を伝えることができるようになった。そのシナゴーグもまた、鉄塔や繁塔とおなじようにたびかさなる黄河の氾濫や決壊に翻弄、破壊され、経典も黄土混じりの河水に漬かり、ユダヤ人コロニーは幾度も存続の危機に脅かされた。

千手千眼観音像(大相国寺)

◀千手千眼観音像(大相国寺)

 シナゴーグは現在の解放中路と財政東街が交差する南東角の居民地区にある南教経胡同という名前の路地にその遺址が残っている。路地名の「教経」(jiaojing)とは類似した発音の「挑筋」(tiaojin、アキレス腱)に通じ、この名称は王子が天使と戯れてアキレス腱を切ったとされる神話を信じるユダヤ人が牛や羊の筋(スジ)を食さないという習慣に由来する。このため中国語では、ユダヤ教のことを挑筋教ともよぶ。
 開封市博物館の三階にはユダヤ人コロニーが残した「重建清真寺記」碑が厳重に保存されているが、一般には公開されていない。特別に拝観料を払って見せてもらうと、そこには度重なる黄河の決壊で破壊されたシナゴーグの改修の経緯が記されていた。
 開封のユダヤ人コロニーに決定的な打撃を与えたのは、清の道光19(1839)年に発生した黄河の大氾濫だった。シナゴーグは壊滅的な破壊を被り、共同体のユダヤ人はみずからの生活をどのように再建すればよいのか途方に暮れた。開封に定住して800年以上も経過していた。そのころになるとコロニー外部の中国人との混血が進み、ユダヤ人の子孫たちはアイデンティティ、母語としてのヘブライ語、宗教観念などが曖昧になり、共同体としての統制が取れなくなっていた。
 南教経胡同を歩き、かつてここに居住していたユダヤ人のことを住民に聞いてみる。古来、開封に多数のユダヤ人が存在していたことは知っているが、混血と離散が進み詳しい状況はわからない、というのが大方の人の話だった。

州橋界隈

 北宋は唐代の貴族社会を脱皮し、商品経済を発展させたところにその特徴が認められる。経済の隆盛は、積み荷を満載して汴河を行き交う河船の風景に象徴される。『清明上河図』にみる虹橋のにぎわいだ。開封の城内には汴河をはじめ蔡河、金水河、広済河の4運河が流れ込み、水路が四通発達していた。
 現在は汴河の河道(東南地区)に恵済河が重なり暗渠となって城内に進入し、金水河(西北地区)の河道には黄汴河の支流が流れている。北宋時代の汴河は東南角の東水門から城壁をくぐって開封城内に進入し、相国寺街を西行して西南地区の西水門から城外に流れ出ていた。

南教経胡同。ユダヤ人居住区だったことを示すフラッグが目をひく

▲南教経胡同。ユダヤ人居住区だったことを示すフラッグが目をひく

 州橋は汴河の中心、すなわち御街と相国寺街(現在の自由路西段~大紙坊街)が交叉する開封の中心にあった。州橋とは中州(中原)に懸かる橋の意である。汴河にはあわせて13の橋があり、その中心が州橋だった。前世紀末の1984年8月、自由路西段から大紙坊街、観前街にかけて水道管の埋設工事を進めていたところ、地下4メートルのところで北宋時代の州橋の遺構が発見された。幅17メートル、長さ30メートルの橋は青石で建造され、橋北は御街の軸線上に皇城の宣徳門を望み、橋南には朱雀門が遠望されたはずである。御街は宮城とそれに連なる皇城から開封城の南郊に至るメインストリートだった。州橋の遺構が地下4メートルのところで発見されたということは、現在に到る約1千年間におよそ3年に1回発生した黄河の氾濫や決壊で開封の街は激流に洗われ、黄土が4メートル以上も積層したことを物語っている。
 皇帝は天帝の付託を受け、俗界の政(まつりごと)を行ってはじめて政権の正統性を調達することができた。御街から朱雀門をくぐっていく開封の南郊には皇帝が天を祭る祭壇などの施設が設けられていた。皇帝はそこで定期的に天と対話をし、天帝の御意を地上に反映する役割を担っていた。あくまでも形式の話である。

南教経胡同。ユダヤ人コロニーがあった南教経胡同(開封の中心地)

◀南教経胡同。ユダヤ人コロニーがあった南教経胡同(開封の中心地)

 自由路西段から大紙坊街、観前街に至る地区は現在も開封の繁華な中心地区で、大相国寺や道観の延慶観が軒を並べてにぎわい、路傍には屋台や旅館などが林立して往時の繁栄を彷彿させる。
 大相国寺は北斉の天宝6(555)年に創建され、唐宋時代に栄華をきわめた。たび重なる黄河の氾濫で幾たびかの破壊を被り、清代に天王殿、大雄宝殿、八角琉璃殿、蔵経楼などが修復されて現在に至る。蔵経楼の玉仏、八角琉璃殿に安置された千手千眼観音像などが有名だ。鐘楼の鐘は相国霜鐘とよばれ、中国を代表する寺鐘である。この寺は空海が訪れたことでも知られ、大師堂には空海の銅像が安置されている。
 大紙坊街は大相国寺をすぎると、左手に道観が見えてくる。晩宋期、道教の一派である全真教創始者の王詰(重陽)がここで昇仙して建立した延慶観だ。廟内の見学路には筮竹占いの易者が一角を陣取り、達者な口上で客を集めている。仏教寺院のように権威を笠に着たところがなく、この雰囲気が庶民を道教に惹きつけたひとつの要因なのだろう。
 御街の入り口にある小餐館(食堂)で開封名物の鹹驢肉(ロバ肉の塩漬け)を食べた。中国人はよく「驢肉很香」(ロバ肉はとても良い香りがする)などと言う。独特の臭みに対する中国語的表現であろう。河北省の保定、北京などではスープにして食されることが多い。開封では塩漬けにして、薄いハムのようにして食べる。地元の人たちはロバ肉のこの臭みがたまらないらしい。「天上龍肉、地上驢肉」とも言われるので、珍味であることに間違いない。

蘭考県挟河灘村へ

 廃黄河が黄河本流から分岐する蘭考県にむかう。蘭考県は開封郊外を西に40キロほど行ったところに位置する。廃黄河の入り口は、三門峡から河南省を一気に東流してきた黄河が大きく北に流れを変える挟河灘という村の近くにあるようだ。開封の汽車站(長距離バスセンター)から郊外バスに乗って約1時間、車窓に映る火力発電所の建物などを見ているうちに蘭考県に到着した。そこから車を雇って挟河灘までさらに30分以上かかった。埃っぽい村道を歩いていくと石橋があり、下に土色の浅い流れがある。そこが廃黄河らしい。橋を渡って左側の雑木林のむこうに黄色い大河が見える。黄河の本流に違いない。どんどん進んで水際にたどりつくと、そこには人の手が加えられていない原始の護岸が延びている。いたるところで土が割れ、水没している。これが大規模に崩れると決壊するのだろう。老人が沖の濁流を眺めていたので、廃黄河の入り口はどこですか、と訊ねると、静かに左の方角を指差してくれた。

廃黄河の分岐点(蘭考県の挟河灘村)

▲廃黄河の分岐点(蘭考県の挟河灘村)

 黄河から分流した廃黄河の入り口は思ったより狭く、目測で50メートルほどの幅しかない。数百年の星霜を経て、黄土に埋まってしまったのだろうか。地図によれば廃黄河には「蘭考総乾渠」という別名もあるので、渇水期には流量が少なくなり枯れることがあるのかも知れない。現在は付近一帯の灌漑用水路に使われているようだ。廃黄河の淵には小さな木舟が打ち捨てられている。その中から野良犬がこちらを伺っていた。
滔々と流れる大黄河から枝分かれした廃黄河は、蘭考県の郊外を東行しながら商丘にむかって流れていく。商丘は北宋の時代、南京応天府とよばれていた古都だ。南京とは東京(開封)の南に位置する陪都という意味で、現在の南京ではない。廃黄河を行く旅は蘭考県の分流地点を確認したので、これから商丘をめざして東進することになる。

初出『NIKKEI GALLERY』96号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕
李景文他編著『古代開封猶太人』(人民出版社、2011年)
潘光主編『猶太人在中国』(五洲伝播出版社、2003年)
劉順安主編『開封研究』(中州古籍出版社、2001年)
小岸昭『中国・開封のユダヤ人』(人文書院、2007年)
伊原弘『中国開封の生活と歳時』(山川出版社、1991年)

コラムニスト
中村達雄
1954年、東京生まれ。北九州大学外国語学部中国学科卒業。横浜市立大学大学院国際文化研究科単位取得満期退学。横浜市立大学博士(学術)。ラジオペキン、オリンパス、博報堂などを経て、現在、フリーランス、明治大学商学部、東京慈恵会医科大学で非常勤講師。専攻は中国台湾近現代史、比較文化。