大運河は宿遷市街を廃黄河と平行して流れる

▲大運河は宿遷市街を廃黄河と平行して流れる

 徐州から高速バスで東南方向に1時間半ほど走ると宿遷の街に到達する。約130キロの道程には蘇北の茫洋とした風景がつらなっている。ちょうど徐州と淮安の中間地点にあるこの街は観光ルートから外れているので、市街地で外国人に出会うことはほとんどない。改革開放経済が実施される以前の1970年代までは、江蘇省北部の略称である「蘇北」という呼び名にはどちらかと言えば負のイメージがつきまとっていた。開発に取り残された貧しい地域だったのである。

廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および宿遷の位置(NIKKEI GALLERY102号より転載)

◀廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および宿遷の位置(NIKKEI GALLERY102号より転載)

 宿遷市は西北辺を徐州、東北を連雲港、東南を淮安の各市と接する江蘇省の交通と商品集散の要衝である。総面積は8340平方キロ(兵庫県の面積に匹敵)で約530万人の人口を抱えている。市街地の面積は2100平方キロ(東京都に匹敵)で人口は160万人と、中国の都市としては少ない。宿城と宿豫の2区が中心街を成し、郊外に沐陽、泗陽、泗洪の3県を抱える。北西郊外に駱馬湖、南郊には洪澤湖につらなる成子湖が展開し、銀魚、スッポン、青蝦、河蟹など淡水湖の高級水産資源に恵まれている。

 徐州平原を南流し駱馬湖に沿って宿遷北郊に進入した廃黄河は、京杭大運河と並走して市街地を北から南に突っ切っていく。宿遷市街の東半分は、廃黄河と大運河に挟まれた中洲のような地形として発展した。地勢は西北から東南にむかって緩やかに傾斜し、河川が流れていくための好条件を有している。

西高東低の大地

 中国の大地は大雑把に言えば、西北地域の海抜が高く東南にむかうほど低くなっていく。それはユーラシア大陸の東端で海に面した地勢の特性である。この地理的条件が中国の大地を流れる黄河や揚子江などの大河川を概ね西から東に向かわせて東西交通を容易にし、その副作用として南北交通を難しくした。こうした地形がなければ、南北を2千キロも繋ぐ大運河を開鑿する発想など生まれなかっただろう。西域との人と物資の往来、すなわち文化の交流を促し、そうした状況のなかで東西交流だけではなく南北の交流をも希求する壮大な野心が生まれてきたのだ。この東西移動に易く、南北移動は難しいという自然条件は、古来、この大地に暮らした人々の念頭から消えることはなかった。その証左として、たとえば共工の物語がある。

街の中心東大街商城で三輪タクシーが客待ちしている

▲街の中心東大街商城で三輪タクシーが客待ちしている

 共工とは中国の神話の世界に伝わる伝説上の生き物で、人面に蛇身、朱色の髪を生やし、洪水を起こす悪神として知られる。女媧の時代に反乱を起こし、征伐に向かった祝融に敗れ、天を支える柱が建つ不周山に頭をぶつけて戦死した。その勢いで天に亀裂が生じて大地が東の方向に傾いたので、女媧は五色の石を砕いて練り上げ、その割れ目を補った。それが天の河なのだという。さらに大亀の足を切って天と大地の間の突っかい棒にしたが、地面の傾きをもとに戻すことはできなかった。中国の大地が西高東低で東に向かってゆるやかに低くなっているのはそのためで、このときから中国の河川は西から東に向かって流れるようになった、と伝えられる。戦国の楚の詩人屈原が編纂した『離騒』に注をつけた漢の王逸らによれば、不周山は崑崙山のさらに西北に位置し、天界に通じる唯一の道だという。あくまでも神話の世界のことだが、古来、中国人が西高東低の大地の傾きに拘泥していたことが示されていて興味深い。洪水を起こす悪神の共工と、3年に一度は大決壊を起こした黄河との関係もうかがわれる。また天を支えたとされる大海亀の足からは、現在も中国の寺廟などで大きな石碑を背負う亀との関係を連想させられる。大亀が世界を支えるという神話はインドの宇宙観にその源流があり、中国の古代思想が多分に西方の影響を受けてきたことの証であろう。

廃黄河と運河の街

 徐州から乗った高速バスは、やっと宿遷の西郊外に到着した。新興の市街地らしく辺りには空き地が点在し、高層建築物などは建っていない。そこから三輪タクシーに乗って西湖路を市の中心地区に向かって走る。しばらく進むと運転手が、あれが廃黄河ですよ、と声をかけてくれた。川幅が50メートルほどもある立派な河川だ。黄河橋を渡ると風景は一変し、車は雑踏した中国の街並みに飲み込まれていく。やがて前方の天空に赤い大きな鉄橋がそびえるのが視界に入ってきた。宿遷運河大橋だという。三輪タクシーはいま廃黄河と京杭大運河に挟まれた街の中心地区を走っている。幸福路裏の年發168快捷酒店というビジネスホテルに旅装を解き、移動に疲れた身体を癒す。

早朝、朝靄に浮かび上がる大運河。砂利を積んだ平底船が静かに行き交う

▲早朝、朝靄に浮かび上がる大運河。砂利を積んだ平底船が静かに行き交う

 夕刻、半時間ほど歩いて廃黄河を見にいく。河沿いは再開発され、リバーサイドには洒落たレストランが軒を連ねていて楽しい。どの店も庭にテーブルをならべ、海鮮料理を中心とした菜譜で客を引きつけている。一皿100元以上もする料理と純白のテーブルクロスが中国の経済発展を感じさせる。風光も良く清潔な環境なので、地元の人たちの憩いの場になっているようだ。河岸を散策する人、釣りに興じるにわか太公望など娯楽の形はさまざまである。河畔には幾棟もの真新しい高層住宅が建ち、一帯が富裕層の居住地区であることがわかる。

 翌朝、まだ暗いうちに起きて運河大橋まで歩く。昨日、三輪タクシーから見えた赤い鉄橋だ。
 宿遷は大運河の街でもある。予想通り、河幅が100メートルほどもある京杭代運河の水面には早朝のひんやりした気温と水温と差がつくり出す湯気のような水蒸気が立ちのぼっている。それが濃い朝靄となって立ちこめ、幻想的な風景の中に運河大橋の橋脚がぼやけながら屹立し、その美しさに写真を撮るのも忘れてしまいそうだ。

市街を流れる廃黄河畔は富裕層の居住地区で、高層住宅が林立する

▲市街を流れる廃黄河畔は富裕層の居住地区で、高層住宅が林立する

 廃黄河の河畔が市民に憩いをもたらしているとすれば、大運河は内陸水運の大動脈としてこの街を活気づけている。高速道路や航空機、高速鉄道が整備された今でも、重くかさばる砂利や雑貨など付加価値の低い商品はバージとよばれる平底船で運ばれる。内陸水運の花形だ。舳先(へさき=船首)と艫(とも=船尾)を結びあった幾艘もの運搬船や作業船が、朝靄の立ちこめる運河を音もなく静かに航行している。

項羽の故郷

 宿遷の名前の由来は、山東省平県にあった小国の「宿」が、春秋時代に現在の地に遷都したことによるらしい。その後、秦末にはここに項羽が生まれて歴史に名を残す武将となり、そのために項羽の寵姫だった虞美人もまた名を上げ、私たちが習った漢文の教科書にもその美名が載っていたのである。

 通りすぎたばかりの徐州には、項羽を祭る戯馬台があった。そこは項羽が秦を滅ぼして楚の国の王となり、役宅を設けたところとして知られる。ここ宿遷は項羽の生まれ故郷なので、項羽故里という史跡がある。項羽は2千年以上も前の人なので何かが残っているという訳でもなく、広大な敷地に真新しい建物を建て、その中に項羽や虞美人の人形を配し、地方劇などを演じて観光客を集めているだけのテーマパークのような娯楽施設である。これといった産業もない宿遷の町おこしらしい。さして見るものもないので売店をのぞくと、商品棚には山楂糕(さんざし羊羹)が積まれていた。宿遷市項王食品有限公司が製造販売しているものらしい。ひとつ買い求めて食べてみると、野性味あふれる甘酸っぱい味が口中に広がった。宿遷は山楂子の産地なのである。その他、漢方の薬草や葡萄、りんご、梨、桃なども特産で、葡萄酒を中心に白酒、ビールなどの酒造業も栄えている。

項羽故里の演芸場では一人芝居の役者が古代の物語を語って聴かせる

▲項羽故里の演芸場では一人芝居の役者が古代の物語を語って聴かせる

 項羽故里の隣には、なかば廃墟となったような禅寺がある。その名を真如禅寺という。廃墟と感じたのは改修工事のまっ只中だったためで、本来は江蘇省でも屈指の仏教寺院である。前身は寿聖禅林と称し、街の南郊外に位置するので南大寺とも俗称された。元の大徳4(1300)年に創建されたとあるので、700年以上の歴史を有することになる。歴代の戦役やたび重なる黄河の氾濫、火災、文化大革命による破壊などで前世紀70年代には全壊してしまった。再建されたのは経済の改革開放が緒についた後で、項羽故里とおなじように宿遷の復興が目的なのだろう。すでに改修が終わった山門殿、玉仏殿、大雄宝殿などは朱色がどぎついきらびやかさが先に立ち、どうも有り難みに欠ける気がする。拝金の風潮が濃い現今の中国では、このような造作が好まれるのかも知れない。

古黄河自然風景区

 徐州から南流した廃黄河が宿遷市街に入る前の北郊外に、古黄河(廃黄河)自然風景区という広大な緑地がある。市中心から三輪タクシーで40分くらいのところに広がり、人間のよこしまな開発が加えられていない原始の古黄河が保存されている。水上公園のような雰囲気を呈し、くまなく歩きまわるには1日以上の時間を要すると思う。ほとんど流れのない油を流したように静かな水面には野鳥が飛来し、嘴を水の中に突っ込んで一生懸命に頭を振っている。餌が豊富なのだろう。管理人風の男たち数人が手漕ぎの小さなボートに乗って、水面の掃除をしている。

古黄河自然風景区に原始の廃黄河が保存されていて心地よい

▲古黄河自然風景区に原始の廃黄河が保存されていて心地よい

 開封郊外の黄河本流と廃黄河の分岐点以来、この河が人間によって積極的に利用されている姿を目撃したのは徐州北郊の天沐湖(廃黄河の別称)とここだけである。黄河が北流した清末から放ったらかしにされ、川底には黄土がたまって水深が浅くなり、場所によっては水の流れが止り、河としての機能を果たせなくなった区間もある。名実ともに廃黄河になってしまったのである。

 古黄河自然風景区はそのような黄河を原始のままに保存して、巨大な自然公園として使おうという試みらしい。岸辺は土のままに護岸もせず、草木も生え放題にして大自然そのものを市民の行楽に供しようする試みは、環境破壊が急速度で進むこの国の風潮のなかで好ましいことのように思われる。
 明日は廃黄河と運河に沿って南下し、淮安に向かう。洪澤湖と淮河、廃黄河、そして大運河の街でもある。廃黄河を行く旅もいよいよ後半に突入した。旅の宿でベッドの上に地図を拡げ、まだ見ぬ次の目的地に期待がふくらむ。

初出『NIKKEI GALLERY』102号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕

宮崎市定「中国河川の史的考察」『アジア史論考』中巻(朝日新聞社、1976年)
星斌夫『大運河 中国の漕運』(近藤出版社、1971年)

星斌夫『大運河発展史』(東洋文庫、1982年)