新洋港界隈の街路、塩城市の北郊外に位置する。付近に白馬場長距離バスセンターがある

▲新洋港界隈の街路、塩城市の北郊外に位置する。付近に白馬場長距離バスセンターがある

 江蘇省をバスで移動していると、車窓には大小無数の水路が現れては消えていく。それらの中核を成すのが淮河と京杭大運河、そして廃黄河である。水路は古来、農地の灌漑用水に使われ、税糧や兵糧としての米を江南から京師(首都)に輸送し、専売品の塩を全国に流通した。廃黄河をたどる旅はいよいよ終盤をむかえる。今回はこれらの河と塩の関係をさぐるため、黄河故道からちょっと離れて省央の塩城市に向かう。

廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および塩城の位置(NIKKEI GALLERY104号より転載)

◀廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および塩城の位置(NIKKEI GALLERY104号より転載)

 南北に長大な沿海部を抱える江蘇省は、古来、塩の生産と流通で栄えた。早くも漢の武帝の元狩年間(紀元前122年)には塩政をつかさどる塩瀆県が置かれている。塩瀆の「瀆」には、水溝とか水路などの意味がある。塩瀆県は製塩で栄えるとともに、全国に海塩を輸送した  「塩の道」でもあったのだ。東晋の義熙7(411)年に塩城県と改められ、それが現在の江蘇省央に位置する塩城市の始まりとなった。
 塩城市には今でも大小100以上の水路が四通八達し、その中心が市街を北西から南東方向に流れる天然の通楡河と人工運河の串場河である。両河は市の北方で京杭大運河や黄河(廃黄河)と繋がれ、南方では揚子江に結ばれた。とくに串場河は塩を運搬する専用水路として使われ、江蘇の沿海地方で生産された海塩を全国に運んだのである。

美しい塩城

 宿遷、淮安の両市を通過した廃黄河(黄河故道)は方向を大きく東北に変え黄海に向う。河南省の開封郊外、蘭考県の挟河灘という村で北流する本流と別れた廃黄河をたどる旅は、いよいよ最終段階をむかえた。黄河故道と塩の関係を追い、淮安の廃黄河からあえて東南に100キロほど離れた塩城に向かう。長距離バスで2時間の距離だ。沿道の畑には菜の花が咲き誇り、ときどき桃の花が可憐な姿を見せて移動の無聊をなぐさめてくれる。黄色い花の中に農家が点在し、まるで花の香に酔ったように農作業にいそしむ人々の姿が田畑の遠く、近くに絵画のように認められる。

串場河は人力で開鑿した人工運河だ。江蘇沿岸で生産された海塩はこの内陸水路を経て全国に物流された

▲串場河は人力で開鑿した人工運河だ。江蘇沿岸で生産された海塩はこの内陸水路を経て全国に物流された

 塩城の東郊外にある長距離バスセンターに着いてすぐに市街地図を買い、取材の拠点となる宿泊場所をさがす。ホテルを決めるポイントは、繁華で交通の便が良く、街の中心に位置していることである。地図上で街区が入り組んだ商業地区を選べば、ほぼ間違いない。市政府などの公共機関が集中する地域は再開発された場所が多く衛生的で静かなのだが、飲食や公共交通の便が悪く旅の宿には適さない。

水街に残る塩商会館。かつては塩商人、製塩業者、荷役労働者などでにぎわった残照が感じられる

◀水街に残る塩商会館。かつては塩商人、製塩業者、荷役労働者などでにぎわった残照が感じられる

 招商場は13路の路線バスで30分ほどの距離にあった。塩城は在来のバス路線に加え、BRT(Bus Rapid Transit)と命名された新快速交通システムが街の東西南北を結び、きわめて便利である。BRTは進行方向に進むかぎりどこまで乗っても2元で、他の路線に乗り換えても同一料金という便利な交通機関だ。車両も新しく停留所の案内も親切で、地元民でなくても迷うことがない。バス停に至近の「城市之星」というホテルで旅装を解き、地図をながめながら取材計画を練る。
 散歩がてら宿所の周辺を歩き、バスで開放大道を北に白馬場長距離バスセンターまで行く。ここで次の目的地である濱海までのバス便を確認し、帰りに新洋港という河の夕暮れ風景を写真に撮った。塩城の街はいたる所に水路が流れ、近代以前の時代においてここが江蘇水運の中心のひとつであったことが分かる。

串場河畔で

 翌朝、まだ暗いうちに開放大道をBRTで南下し、串場河の畔で下車した。中国を南北に移動する物流は隋の煬帝が京杭大運河を開通させて以来、その主流が遭難や海賊被害の多かった海運から内陸水運に移った。塩の運搬も税糧や兵糧としての米と同じように、やはり内陸水運を使って行われた。
 塩の街として栄えてきた塩城には、精製して商品になった海塩を運ぶための運河が開削され、それは今も美しいクリークとして残っている。串場河のことである。「塩場」を串のように貫いた河、というほどの意味だろう。京杭大運河とおなじように、人間の手で開鑿された人工運河だ。

中国海塩博物館。近代以前の中国の塩政、塩商人の栄華、製塩の歴史を一覧できる

▲中国海塩博物館。近代以前の中国の塩政、塩商人の栄華、製塩の歴史を一覧できる

 中国の歴代政権は塩を専売し、それは莫大な利益をあげた。塩の生産と販売はあまりにも巨大な利益をもたらしたことから、専売という法の網をくぐり抜けて闇で取り引きされる塩も横行した。これは「私塩」とよばれて取り締まりの対象となり、塩を不法に横流して売り捌く業者は厳しく罰せられたのである。
 串場河は大量輸送に蒸気や内燃機関が利用されるようになった近代のとば口まで、塩の運搬に使われてきた。この人工運河は塩城の北方で淮河や大運河、あるいは廃黄河と繋がれ、南は揚子江に流れ込んで両淮地域、つまり淮河の北(淮北)と南(淮南)における塩の道の大動脈を担った。
 古来、塩城の黄海沿岸には夥しい数の塩田があり、大規模な製塩が行われた。このことは13世紀に当地を訪れたマルコポーロが『東方見聞録』の中で次のように証言している。

この町(淮安)では製塩も行われ、40有余の諸都市が塩の供給を当地の製品に頼っている。製塩業者と流通業者がもたらす塩税は元朝財政の重要な財源である。

 マルコポーロが中国を旅した元の時代、塩城は淮安路に属し、淮安とは隷属関係にあった。両淮地域で塩の生産が始まったのは春秋時代に遡り、製塩を主産業とする城市が各地に興った。東西南北を塩田で固めた塩城は東晋時代にはすでに有名になり、唐宋のころになると両淮の税収の半分は製塩、流通業者が支払ったもので、塩城は中国東南地方における塩業の中心都市に成長していく。元代には、両淮がもたらす塩税は天下一、とまで評されるようになった。
 串場河の西岸には広大な緑地が拡がり、市民の憩いの場となっている。塩瀆公園である。水場が豊富な園内には季節の花が咲き誇り、早朝に入園した人々はそこで太極拳やジョギングに汗を流し、老人は優雅に散歩を楽しんでいる。塩瀆公園をさらに南流した串場河は、やがて塩場として栄えた水街に進入していく。

水街──塩場の残照

 塩城の街は東西南北に大小の水路が100以上も四通発達し、それを地図で見るとあたかも碁盤の目のようである。その中核を成すのが北西から南東方向に流れる通楡河と串場河で、新洋港がそれらを東西に結んでいる。中国では大きな河川の支流を、ときとして「港」と称することがある。この場合の「港」は通楡河の支流のことに違いない。
 串場河の東岸には塩政衙門(役所)や塩商会館、水雲閣、戯台(劇場)、そして酒食や娯楽を供した店舗などの古建築が往年の役目を終えて静かに佇んでいる。この一隅は水街という古名で知られ、かつて塩の専売に携わった衙門の役人、塩商人、そして各都市から集まった塩の買い付け人や輸送業者、人足など「塩場」を盛り上げた人々が歓楽した。

塩運船の水路通行手形。清の光緒11(1885)年に両江(江蘇、江西)総督部が発行したもの

◀塩運船の水路通行手形。清の光緒11(1885)年に両江(江蘇、江西)総督部が発行したもの

 水街でひときわ眼を惹くのは、塩政衙門前の広場に屹立する範仲淹の石像だ。この人は北宋の文人、軍略家であり政治家で、そのすぐれた資質が認められ枢密副使・参知政事(副宰相)にまで登りつめた。両淮地方では、黄海から塩田や都市を襲う高潮を防ぐための堤防建設を指揮した人として夙に有名である。それは範公堤、すなわち範公が築いた堤防と尊称され、塩城北端の阜寧から建湖、大豊、東台、海安、如東、南通を経て啓東の呂四まで全長約400キロにも及ぶ長大な防潮堤だった。範公堤は塩城市街の串場河から通楡河に至る地域を南北に貫通し、いまそこには中国海塩博物館が開館し、この街の製塩の歴史を伝えている。

中国海塩博物館

 水街を静かに流れてきた串場河は通楡河の支流と交わる北岸に広大な中州を形成し、そこに2008年、中国では唯一の海塩博物館がつくられた。塩の街に相応しい三階建ての現代的な建築物である。
 中国で生産され流通する塩には、海水から製塩される海塩以外に岩塩、井塩、池塩、土塩などがある。
 岩塩(砿塩)はかつて塩湖、あるいは海だったところが大陸移動などの要因で陸地になり、水分が蒸発して塩の結晶が析出したものである。主に湖南、四川、雲南、江西、江蘇などの地域で産出する。
 井塩は井戸を掘るようにして地下に固まった塩を採掘したものだ。四川省の自貢が主産地で、ヨード、カリウム、ホウ素、カルシウムなどの成分を大量に含んでいるため、精製して化学工業製品として利用されている。

水街の塩場を再現したジオラマ(海塩博物館)。往時の塩業の隆盛を垣間みることができる

▲水街の塩場を再現したジオラマ(海塩博物館)。往時の塩業の隆盛を垣間みることができる

 池塩(湖塩)は砂漠地帯などにある塩湖が部分的に干上がり、そこに塩の結晶が析出した結果である。オルドスにある花馬池(塩池)などが有名だ。
 土塩はアルカリ土壌に多く産出する。海塩などに比べて品質が劣るために各種塩類の最下位に位置づけられ、中国では食塩の代用品として使われている。
 海塩博物館では中国で生産される塩を種類別、地域別にジオラマなどを駆使して展示し、さらに歴代の塩政を詳しく説明したパネルが興味深い。役所が発行した帳票類はここでしか閲覧できない貴重な歴史資料である
 一階のホールには塩を積んで串場河を行き交った運塩船が展示されている。 東台(塩城南部)の弶港に打ち捨てられ、朽ちていた古船を復元したものだ。主帆、二帆(船首)、三帆(船尾)と三つの帆を装備していたことから、三帆運塩船ともよばれる。
 天台宗山門派の高僧で最澄に師事した円仁が入唐して長安へ赴く途中、運河で遭遇したのもこの種の運塩船に違いない。入唐求法巡礼行記の中で円仁は次のように記している。

半夜発して行く。塩官船あり、塩を積むもの、或いは三、四船、或いは四、五船、双べ結び続け編して絶えず。数十里随って行く。乍見して記し難く、甚だ大奇と為す。

 承和5(838)年6月13日、円仁は遣唐使船で博多を出港し、翌月3日に南通北郊沿岸の掘港に至り、そこから水路を揚州に向かった。揚州からは京杭大運河、通楡河、串場河、淮河、あるいは廃黄河などをたくみに漕ぎ渡り、南船北馬の中継点だった淮安から先は主に陸路(馬車)を使って北行し、まず河北道にある仏教の聖地五台山に至り、その後に長安へ向かっている。円仁が記した塩官船は、揚州から淮安への水路を遡江する際に目撃したものだろう。
 江蘇省の長大な海岸線には日本のような磯があるわけではなく、陸と海の境界がきわめて曖昧である。そこに湿地帯が生まれ、丹頂鶴の生息地が点在している。そんな地形を北行して、廃黄河が海に注ぐ濱海港へと向かう。

初出『NIKKEI GALLERY』104号の内容を加筆再構成

〔参考文献〕
郭正忠・主編『中国塩業史』古代編(人民出版社、1997年)
宋良曦『塩史論集』(四川人民出版社、2008年)
揚捷・責任編集『江蘇航運史』古代部分(人民交通出版社、1989年)
愛宕松男訳注・マルコ・ポーロ『完訳 東方見聞録』1・2(平凡社、2000年)
円仁著、深谷憲一訳注『入唐求法巡礼行記』(中公文庫、1990年)