濱海県城の再開発地。こんな田舎街にも再開発の波は押し寄せている

▲濱海県城の再開発地。こんな田舎街にも再開発の波は押し寄せている

 宿遷、淮安の両市を通過した廃黄河は方向を大きく東北に変え、幾多の湖沼や内陸水路と交叉しながら、その河道は太くなったり細くなったり、濱海県城から黄海の方向に向かって流れていく。廃黄河をたどる旅は、いよいよ最終段階をむかえた。
 

湖沼は大河の調整湖

廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および塩城の位置(NIKKEI GALLERY104号より転載)

◀廃黄河地図:現在の黄河と廃黄河、および塩城の位置(NIKKEI GALLERY104号より転載)

 江蘇省には実に多くの湖や沼と池、そしてそこに水源を求める河や水路が流れている。ためしに淮北から淮南に向かって地図の上をたどってみると、湖には駱馬湖、成子湖、洪澤湖、高郵湖、太湖などがあり、大小河川や人工水路は無数と言っても過言ではない。湖は多くの場合、自然が作りあげた大小河川の水位の調整湖としての機能を担っている。たとえば淮安の西郊外に展開する洪澤湖は廃黄河、淮河、大運河などとつながり、大雨が降って河の水位が上がってくると増えた水は洪澤湖に吸収され、それにしたがって湖面の面積が大きく膨れあがる。逆に、渇水期には豊富な湖水が淮河や廃黄河、大運河に流れ込んで船舶の航行が可能な程度に水位を維持してくれる。

 この湖と河の水位調節システムは、揚子江(長江)でも機能している。洞庭湖と鄱陽湖がそれで、増水期にはまず洞庭湖に揚子江の江水が流れ込み、大河の決壊を防ぐのだ。洞庭湖だけでは間に合わない場合、東に約250キロほど行ったあたりに鄱陽湖が控えていて、ここで洞庭湖だけではまかないきれなかった河水を吸収してくれる。だから大河の調整湖は、季節によって湖面が大きくなったり小さくなったりする。
 清末に黄河本流から取り残されてしまった廃黄河の河道にいまでも一定量の河水が保たれているのは、これらの調整湖が各所にあるからなのだろう。
 

南北交通を可能にした大運河

 江蘇省は各所で廃黄河と大運河が交差している。古来、中国の大地に備わっていた東西移動の優越性に南北移動の機能を人工的に付加した画期的な物流システムだ。北方に位置した京師(首都)の長安あるいは北京から南の穀倉地帯を杭州の銭塘江まで結んだ京杭大運河は一般的に隋の煬帝期に完成したとされているが、開鑿の歴史は紀元前にまで遡らなければその全貌を理解するのは難しい。

濱海県城の車夫。小さな街なのでまだまだ人力車が現役だ

▲濱海県城の車夫。小さな街なのでまだまだ人力車が現役だ

 呉の時代には主に軍事的な目的から胥河と邗溝の開鑿が進められた。
 胥河は都の蘇州から太湖を経由して宜興、溧陽、鄧埠、銀林、蕪湖、揚子江に至る内陸水路だ。
 紀元前484年に開鑿されたとされる邗溝は揚子江と淮河を連結するための運河で、隋代に改修されて三陽瀆(揚子江北岸の江都~淮河南岸の三陽)の主部をなした。
 秦の始皇帝時代には鴻溝が開鑿され、黄河と卞河を結んでいる。
 そして隋の煬帝期には永済渠、通済渠などと胥河、邗溝、三陽瀆、鴻溝などが有機的に繋がれ、河北の白河から黄河、淮河、揚子江を経て穀倉地帯の銭塘江までを結ぶ京杭大運河が完成したのである。

 京杭大運河はこれまで何度も繰り返し説明してきたように、税糧や兵糧としての米穀を揚子江沿岸の穀倉地帯から京師に輸送するための内陸水路として構築されたものである。その施行規模は空前と言ってよく、隋朝の国家予算が湯水の如くに注ぎ込まれた。そのため大運河の大工事に取り組んだ煬帝のあとの恭帝期には財政が逼迫し、618年、隋はわずか37年の国の歴史を閉じた。東西に流れる河川を利用して南北方向の物流ルート、すなわち大運河を完成させた隋の功績は後世に語り継がれ、今でもその大工事が評価される所以である。
 

濱海県城

 塩城の白馬場長途汽車站(長距離バス・ターミナル)から濱海県城(県政府所在地)に向かう。濱海県は淮安と黄海沿岸の廃黄河口を結ぶ中継地だ。長距離バスで1時間半の路程である。北に向かっているので、沿道に咲き誇っていた菜の花が次第にまばらになってくる。淮南から淮北へやってきたのだと実感する。
 濱海は塩城市に属する県級の町で、同市の北端に位置する。西は淮安、北は連雲港に接続している。これといって産業や観光資源のない町に外国人の姿は皆無で、華やかさに欠ける街並みが連鎖している。ちょうど再開発が始まったところらしく、あちこちに旧市街を再建するための空き地が点在し、このことも町の雰囲気を寂しくしている。

濱海港鎮のメインストリートは殺伐として海辺の村の明るさはない

▲濱海港鎮のメインストリートは殺伐として海辺の村の明るさはない

 銀厦広場という繁華街にある佳得利賓館に落ち着いた。さっそくベッドに地図を広げて廃黄河口がある濱海港行きのバス路線をさがす。よく分からないのでフロントで聴いたり、表に出てタクシーの運転手に訊ねたりしてみると、明大路口の加油站(ガソリン・スタンド)から発車しているという。ところがその明大路口という場所がよく分からない。大きな市街地図を上から1センチ刻みに見ていく。すると宿からバスで停留所7つくらい離れた町外れにその名前はあった。廃黄河口行きのバスは、そこから出ているに違いない。
 

廃黄河口

 翌日、まだ明けきらない早朝、明大路口から廃車寸前の路線バスに乗って約60キロ、1時間半ほどの路程を濱海港鎮に向けて出発する。底が抜けそうな田舎バスの乗客は地元の人ばかりで、この地域の方言で話される会話は半分以上が理解できない。下手な標準語で周囲の人に話しかけたら、お前はどこから来たのだ、これからどこへ行くのか、と小さなバスの車内は大騒ぎになってしまった。バスは途中で廃黄河を北に渡ったり、あるいは南にもどったりしながら、やがて濱海港鎮に入ったようだ。鎮(村)は街路が1本あるだけの泣きたくなるような寂しい僻村で、海辺の村という開放的な雰囲気は微塵もない。
 鎮を貫くメインストリートに一軒だけある香港大酒店という名ばかりの食堂で遅い朝食をとる。これから廃黄河口の捜索が始まるので、腹ごしらえをしなくてはならない。

爆炒黄泥螺。新鮮で、身がコリコリして美味である

◀爆炒黄泥螺。新鮮で、身がコリコリして美味である

 海辺の村の食堂に相応しい新鮮な魚貝類の料理のなかから爆炒黄泥螺を注文した。黄泥螺という名前の巻き貝を豆板醤とタマネギ、ピーマンなどとともに「爆炒」(強火で一気に調理する方法)して、スープ仕立てにした逸品だ。黄泥螺は殻が雲母のように薄く、脆く、身はシコシコ、コリコリして、ちょっとナマコのような食感が美味しい。濱海港鎮の黄泥螺は廃黄河口に広がる浅瀬の砂のなかに生息しているらしい。この貝は上海人も好み、揚子江(長江)の河口で採れた新鮮なものを紹興酒、塩、砂糖、花椒などで漬け込んで生食する。上海のスーパーでは瓶詰めにして販売されている。食感が独特なので、上海在住の日本人の間では好き嫌いがはっきり別れるようだ。

 食堂の主人によれば、廃黄河口は鎮から東南方向に歩いて5キロほどの海岸にあるという。外に出ると朝から曇っていた空には冷たい強風が吹きはじめ、ときおり細かい雨が頬を打つ。ほとんど人影のない海への一本道を、寒気に震えながらひたすら歩く。道路わきに展開する菜の花畑と農家が、冷たい風と雨に霞んでいる。

濱海港鎮の菜の花畑には、地元民の墓が点在している

▲濱海港鎮の菜の花畑には、地元民の墓が点在している

 雨と風が激しくなり、視界がきかなくなってきた。小雨と霧で白く霞んだ風景のなかを1時間ほども歩く。路傍の電柱にさへ話しかけたくなるような寂しい景色だ。菜の花畑の向こうには農民の墳墓がならぶ。反対側には川のような用水路が農地を感慨している。廃黄河から引かれた水に違いない。やがてはるか前方に土手の天辺のような隆起が見えてきた。それが黄海と陸地を画する堤防らしい。

入海直前の廃黄河。黄河故道はここで黄海に注ぎ、長い旅を終える

▲入海直前の廃黄河。黄河故道はここで黄海に注ぎ、長い旅を終える

 堤防の上に立って海の方角を眺める。ときどき、オートバイに乗った地元の人が激しい風雨のなかを急いで通りすぎてゆく。
 縹渺とした水平線はミルク色に霞み、そこが果たして海なのかどうかも判らないくらいの悪天候だ。天気が良ければ、眼前に黄海の大海原がたゆとうているのだろう。反対側には入海する寸前の黄河故道が堤防の下をくぐっているので、ここが廃黄河口であることは間違いない。
 北宋の都だった開封郊外の蘭考県にある黄河本流との分岐点から約1000キロ、この2年間、河南省央から商丘、徐州、宿遷、淮安、塩城と大運河や淮河と並走し、あるいは合流して、沿線の歴史を刻んできた廃黄河の流れをたどって来たのだが、いよいよ終着地が眼前に迫っている。
 かつて、この河は幾度も河道を変えた。それは大洪水による決壊が原因したこともあり、またその時々の為政者の都合によって恣意的に変更されたこともあった。その意味で、黄河はきわめて政治的な大河でもあったのだ。

 あまりにも天候が悪いのでもう一度出直すことを考えたが、清末に黄河が最後の北流を果たし、それまで南流していたこの大河は廃止された黄河=廃黄河となって人々の記憶から薄れつつあることにあらためて思いをめぐらす。するとこの悪天候の縹渺とした風景の中で黄海に流れ出す廃黄河の風景もまんざら捨てたものではないという心持ちになり、風雨に挫けそうな心を奮い立たせて幾葉かの写真を撮る。

入海直前の廃黄河。堤防をくぐれば、そこはもう大海原である

▲入海直前の廃黄河。堤防をくぐれば、そこはもう大海原である

 黄海の波打ち際に大きな注ぎ口を広げる河口に立って南に広がる浜辺を見渡すと、濱海の寂れた漁港が遠望できる。砂浜に小船が横たわるだけで、入り江や桟橋があるわけではない。出漁するときには漁民が総出で海に船を降ろし、帰港したらまた砂浜に揚げるだけのきわめて原始的な港なのだ。打ち捨てられた小舟の残骸が強風にあおられてヒューヒューと音を発てている。強い雨が断続的に頬を打ち、その度に水平線の空が明るくなったり暗くなったりする。こんなに悲しく寂しい海の景色もめずらしい。それを眺めながら、開封からここまでの長い道のりを反芻する。眼前に展開する情景は、まことに廃黄河口という寂寥感に満ちた地名に相応しい。忘却された大河の古影とでもいうべき風景である。
 

初出『NIKKEI GALLERY』104号の内容を大幅加筆再構成

〔参考文献〕




宮崎市定「中国河川の史的考察」『アジア史論考』中巻(朝日新聞社、1976年)


星斌夫『大運河 中国の漕運』(近藤出版社、1971年)



同上『大運河発展史』(東洋文庫、1982年)