中国知識人群像

第01回

劉暁波:未来の自由な中国は民間にあり

「08憲章」と劉暁波

「世界人権宣言」の採択から60周年を迎えた2008年12月10日、「08憲章」と題する文章が、作家の劉暁波が拘束されたという情報と共に海外のメディアによって報道された。中国の言論状況の実態を物語る事件である。
 中国の著名な作家や弁護士、学者や社会活動家など303名が署名し、インターネット上で発表された「08憲章」は、自由・人権・平等・共和・民主・憲政の基本理念をふまえ、立法・司法・行政による三権分立の確立、民主や人権の保障、言論の自由など19項目の主張を訴えたものだ。中国共産党による現在の政治体制を痛烈に批判し、「政治民主化の変革はもはや引き延ばすことはできない」と危機感に満ちている。劉暁波は、その署名者のひとりであった。

劉暁波 約4000字の「08憲章」は、「私たちは危機感・責任感・使命感を同様に抱く全ての中国国民に、官民を分けず、身分を問わず、小異を残して大同につき、積極的に市民運動に参与し、共に中国社会の偉大な変革を推進し、一日も早く自由・民主・憲政の国家を建設し、先人が百年余りの間粘り強く追及し続けてきた夢を共に実現することを希望する」という言葉で結ばれている。社会に影響力をもつ人びとが実名で名を連ね、かくも大胆に現在の政治体制を批判することは極めて異例だ。「08憲章」はインターネット上で次々と転載されて支持を集め、署名者は12月27日時点で6600名を超えた。
 同じく署名者である作家の余傑によれば、「08憲章」は劉暁波たちを中心に一年以上前から周到に準備されていたという。12月8日に関係者が拘束されたことを受け、当初は10日に発表する予定だった「08憲章」は前日の9日に発表された。ドイツやアメリカの政府関係者が10日の世界人権デーの式典や記者会見の席上で劉暁波の拘束を批判し、海外メディアで大きく報道され、海外に拠点を置く中国語のウェブサイト上では釈放要求の署名活動や、関連する文章の発表が盛んに行われた。それらは中国国内のメディアでは一切報道されず、当初は規制がなかった主要な検索サイトでも「08憲章」が削除されるなど、現体制への批判が集まることへの警戒が高まった。天安門事件20周年の2009年を直前に控えた時期に発表された「08憲章」は、中国における民主化運動の新たな胎動と、中国の言論空間における劉暁波という人物の存在をいっそう際立たせることとなったのである。

1989年の民主化運動と劉暁波

 劉暁波は1955年に吉林省長春で生まれた。文化大革命後に吉林大学中文系に学び、北京師範大学大学院で修士号を取得して同大学の講師になった。文革以後の文学における伝統的な封建意識を鋭く批判して華々しく文壇に登場した劉暁波は、1980年代後半に「黒馬(ダークホース)」という異名をもつ評論家として注目された。1988年には博士号を取得し、ノルウェーのオスロ大学やハワイ大学から招請されて中国の知識人問題を講義していたが、転機は客員研究員としてコロンビア大学に滞在していたときに起きた。1989年の民主化運動、いわゆる天安門事件である。
 民主化を要求した学生運動が政府によって「動乱」であると公式に発表された後に、劉暁波は自ら運動に参加するためにアメリカから帰国し、平和的かつ民主的な運動を呼びかけた。学生中心だった運動が、知識人や労働者など一般の市民に支持される民主化運動に発展した過程に深く関わったといわれている。天安門広場で学生たちと行動を共にしていた劉暁波は、広場にいた学生たちにとって「道義的な象徴」であったという。6月2日、劉暁波は3人の仲間と共に「六・二絶食宣言」を発表してハンストを始め、軍事管制に抗議するとともに運動の参加者に広場からの撤退を説得していたが、6月4日未明の軍隊突入に遭遇して、その後逮捕された。
 1年半に及ぶ獄中生活を終えた後、すでに公職を解かれていた劉暁波は北京で執筆活動を続けながら民主化運動に従事していたが、天安門事件受難者の名誉回復と人権保障を呼びかけたことを理由に、1995年5月に再度拘禁された。一度は釈放されたが再び逮捕され、1996年10月からは3年間にわたり「労働教養」という矯正教育に処せられた。これは公安関係などの行政機関による行政罰であるため、司法手続きがないままにあらゆる自由を奪われて強制労働に就かせる罰である。釈放後は北京の自宅で執筆活動を再開したが、中国国内での言論活動は厳重に規制され、執筆活動は主に香港の雑誌や海外に拠点を置く中国語のウェブサイトが中心となった。
 劉暁波の言論活動は中国の人権運動の先端として海外で高く評価され、数々の賞を受賞している。1990年と1996年に人権団体のヒューマンライツウォッチの「Hellman/Hammett Grant(ヘルマン・ハミット賞)」、2003年に中国民主教育基金会「傑出民主人士賞」、2004年にNGO国境なき記者団「defender of press freedom(言論の自由を防衛する賞) 」を受賞したほか、2004年「香港人権ニュース優秀賞」、2005年「香港人権ニュース大賞」、2008年北京当代漢語研究所「当代漢語貢献賞」を受賞した。2003年からは2期にわたって独立中文筆会の会長を務め、さらに活発な言論活動を展開した。インターネット上で発表された劉暁波の膨大な文章は、「観察」・「博訊」・「新世紀新聞網」などのウェブサイトで読むことができるほか、天安門事件前後に執筆された代表的な論文は『現代中国知識人批判』(野澤俊敬 訳、徳間書店、1992年)として邦訳されている。同書の書評を執筆した横浜市立大学の矢吹晋名誉教授によれば、当時「劉暁波の思想と行動が当局をいかに驚愕させたか」、「その衝撃度は方励之を超えていたとさえ私は感じている」という。
 劉暁波の痛烈な時事評論と中国社会や文化に対する深い洞察力に富む論文は、中国国内での発表は許されないが、インターネット上に形成されている中国語の言論空間では、独特の存在感と大きな影響力を有している。一方で、その影響力の大きさと比例するように、劉暁波に対する当局の圧力も強まった。監視や電話の盗聴は常時行われ、共産党や政府の重要行事がある時期には不当に身柄を拘束されることも多い。「自由と独立」を至上価値とし、絶えず知識人としての批判精神を唱えて行動する劉暁波は、民主化や人権擁護の運動における象徴的な存在となっている。

劉暁波「未来の自由な中国は民間にあり」

 2005年11月、劉暁波の新著『未来的自由中国在民間』がワシントンに本部を置く労改基金会から出版された。人権意識、民主化、直接選挙、インターネットによる言論、メディア改革、体制内の多様な意見等、現状に対する鋭い批判を展開して中国の政治改革を論じた1冊である。目線を落として思索に耽る表紙の写真は、劉霞夫人の作品だ。
「民間レベルで権利の意識と自由の意識が覚醒したとき、中国の変革を推進する根本的な希望は政府ではなく民間にある」、「体制外の立場を堅持し、独立した主張を根気よく続けてこそ、次第に組織化した民間の圧力として凝集することができる」、「体制内部に生まれている変化を最良の圧力とすれば、官と民の間で良好に相互作用する最善の方法となる」という劉暁波の主張は、書名の「未来の自由な中国は民間にあり」という一言に凝縮されている。
 出版の後、劉暁波は2007年8月20日のBBCのインタビューに次のように答えている。

 中国の改革、自由な中国に向って進むプロセスというものは、長く曲折した道なのだと私は常に考えてきた。中国が次第に改革に向かうプロセスとは、政権の変革を激しく求めることで社会全体を変革できるものではなく、社会が自然と徐々に変革することでゆっくりと政権の変化を促すというのが現在の趨勢だ。その中では、多くの失敗や悲しみの涙も目にするだろうし、権利保護の運動さえも、その大多数は最終的に実際には失敗に終わるだろう。しかし、このようにあちこちから湧き上がる民間の自発的な覚醒は、虚言によって弾圧し抑え込めるものではない。あらゆる分野において、積み重ねる段階というものがあり、蓄積されてひとたび臨界点に達すれば、それが中国の体制のある部分を変革することになるのだ!

 民主化運動の象徴的な存在であり、急進的な主張で反体制知識人の代表格として知られる劉暁波だが、中国社会の変革に対する思考は、声高に政権の打倒を叫ぶようなものではなく、たとえその歩みが緩慢であろうとも着実な変化を訴える粘り強い主張である。1989年の民主化運動の経験と挫折、その後約20年の中国社会の変化は、反骨の知識人にさらに批判的な思惟と「民間」という希望を抱かせたのだろう。前述した「08憲章」に賛同した署名者が、知識人から学生や一般の社会人に広がりを見せたことは、劉暁波の言説に基づけば「民間の自発的な覚醒」による「未来の自由な中国」への渇望だと理解することができる。
「歴史に対して責任を取る」という劉暁波の批判精神は、批判する対象のみでなく、自己に対しても向けられている。2008年6月3日、北京当代漢語研究所の「当代漢語貢献賞」受賞の返礼の言葉として、劉暁波は19年前の天安門事件を回想し、次のように記した。

 大虐殺の生存者として、19年来私は努力して抗争し、尊厳のある生き方をして若い魂たちに恥じないようにしてきたつもりだ。だが、あの世から見下ろされてみれば、私は依然として恥辱の中で生きている。(中略)この恥辱とは、私の心の奥底にある必死なあがきから生ずるものだ。(中略)この世に命のあるかぎり、さらに心をこめて筆を取り、六四の魂たちが生命をもって書き残した悲壮な詩篇に相応しくなるようにしなければならない。(中略)私の執筆活動は、墳墓からの叫びでなければならないのだ。

劉暁波 かつて天安門広場で学生たちを前に訴えた劉暁波の言葉は、当時のように拡声器で響くことは二度とないだろう。天安門事件から20年、劉暁波の思想と行動は起伏の激しい道程であったが、訴え続けているものは時を経ても色あせることはない。それは劉暁波の主張が常に彼の行動によって裏付けられ、歴史と社会に対して道義的な責任を果たそうとする多くの人びとに支持されているからだろう。だからこそ、民主化運動のシンボリックな存在である劉暁波を、単なるシンボルとして祭り上げてはならない。劉暁波の言説はより広範な言論空間において検討され議論されるべきであり、読者は同時代に生きる者として、劉暁波に優るとも劣らない鋭い精神をもってその言説を批判する必要があるのではないだろうか。劉暁波には、自らの思想を書き記し社会に問う自由がある。読者には、その言説にふれて議論しあう自由がある。そして何者も、その自由を奪うことはできないのだ。
 劉暁波が拘束された20日後の12月28日は、彼の53回目の誕生日だった。所在も安否すらも不明な劉暁波は、中国の現代史における「08憲章」の意味を、どのように考えていただろうか。天安門事件20周年を前に、何を思っていただろうか。

コラムニスト
及川 淳子
東京出身。10歳のときに見た日中合作ドキュメンタリー映画『長江』で中国に魅了され、16歳から中国語の学習を始める。桜美林大学文学部中文科、慶應義塾大学通信教育部法学部卒業、その間に上海と北京に留学。日本大学大学院総合社会情報研究科博士後期課程修了、博士(総合社会文化)。外務省在外公館専門調査員(在中国日本大使館)を経て、現在は法政大学客員学術研究員。専門は、現代中国の知識人・言論空間・政治文化研究。共訳書、劉暁波『天安門事件から「08憲章」へ──中国民主化のための闘いと希望』(藤原書店、2009年)、『劉暁波文集──最後の審判を生き延びて』(岩波書店、2011年)、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』(花伝社、2011年)、『「私には敵はいない」の思想』(藤原書店、2011年)など。
関連記事