中華ソヴィエト共和国臨時中央政府大礼堂:江西省瑞金の中央革命軍事委員会旧址の中に保存されている

△中華ソヴィエト共和国臨時中央政府大礼堂:江西省瑞金の中央革命軍事委員会旧址の中に保存されている

 中国国際放送局(ラジオペキン)の揺籃は延安にある。
 中国共産党が延安に根拠地を置く以前、その中心は江西省東部の瑞金にあった。1927年4月12日、蒋介石が上海で発動した反共クーデターで第一次国共合作が崩壊し、地下にもぐった中共はふたつに分裂する国民政府の所在地だった武漢と南京の喉元に位置する江西省南昌市で蜂起し、その後は拠点を都市から農村に移して江西、湖南、福建の各省を中心に根拠地を設け、瑞金郊外に中華ソヴィエト共和国臨時中央政府を樹立した。
 瑞金は江西省と福建省との境にある山あいの小都で、その西郊には巨大な近代建築の中央蘇維埃(ソヴィエト)共和国歴史記念館が場違いのように屹立している。さらに進むと中央革命軍事委員会の旧址や紅井革命旧址郡景区があり、中華ソヴィエト時代の国家機関に使われていた古い建築群が田園風景に溶け込んでいる。延安は赤色(紅色)根拠地と呼ばれたが、その雛形となったのは瑞金である。

 

延安に赤色根拠地が築かれた頃

 戦間期の1930年代、蒋介石は全国統一の一環として、江西省に拠点を築いた中国共産党に対して前後5回にわたる掃共作戦(1930年12月〜1934年10月)を実施し、各根拠地を包囲、攻撃した。これに耐えきれなくなった中共軍は1934年10月16日未明、江西中華ソヴィエトを放棄して瑞金の西方約60キロに位置する雩都県の郊外を流れる貢水河畔に隊列を整え、全行程1万2千キロの「長征」(ロングマーチ)と自称する新しい根拠地を模索するための行軍を開始する。兵員は複数のルートに別れて進み、1年後に陝西省北部(陝北)にある保安県の黄土高原にたどりついた。1937年1月、最終的に延安に根拠地を再構築するまで湖南、貴州、雲南、四川、青海、甘粛などの西部各省を大きく迂回し、国民党軍をかわしながら潰走した。この行軍が「大西遷」とも称される所以だ。
 この時代の国際情勢に目を転じると、中国大陸では日本軍の侵攻が進み、西安事変で抗日を迫られた蒋介石はいったん反共政策を止め、まず日本軍を中国から撃退するための戦列を整え始める。盧溝橋事件(1937年7月)で宣戦布告のない戦端が開かれた日中間には、翌8月に第2次上海事変が勃発し、これと軌を一にして華北でも本格的な戦闘が始まった。西安事変を経て蒋介石が抗日に方針転換したことで、1927年に崩壊した国民党と共産党との関係が改善されて第二次国共合作(1937年9月)が成立する。

魯迅芸術学院:延安の北郊外に位置する橋児溝に残る天主堂。魯芸はここを校舎として使っていた

△魯迅芸術学院:延安の北郊外に位置する橋児溝に残る天主堂。魯芸はここを校舎として使っていた

 日本国内では太原会戦(1937年11月)や、徐州会戦(同12月〜翌年6月)、台児荘戦役(1938年3月〜4月)などを転戦する軍隊への補給を満たす目的で、経済の戦時体制化を実現するために国家総動員法が発令(1938年5月)された。その後日本軍は武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を占領(1938年10月)し、南昌会戦などを発動して内陸の西南方面に戦域を拡大していく。
 日中関係の悪化が国際関係を不安定化させていくと、大国は二重外交を展開することで自国の安全保障を担保することに努めた。たとえばドイツは対中借款条約を結ぶ一方で日本との間に日独防共協定を締結(1936年6月)し、翌年5月にはさらに日独情報交換付属協定を付加して極東外交に二股をかけている。こうしたなか、中国はソ連との軍事協定に踏み切り、中ソ軍事航空協定が調印される。欧州やソ連の情勢変化にともない、東アジアの局地戦であった日中戦争は急速に国際化していった。

 

黄土高原の町

 延安の赤色根拠地は、西のほうから王皮湾、鹽店子、棗園、楊家嶺、王家坪、清涼山、南に転じて中共西北局旧址、陝甘寧辺区政府旧址、そして北東には橋児溝に魯迅芸術学院(魯芸)旧址などが幅広く点在している。
 延安は、市内を逆Yの字に流れる延河とその支流の西川河に沿って発展してきた町だ。市内には「溝(gou)」という漢字の付く地名が各所にある。その代表が、魯芸旧址の所在地として有名な橋児溝である。西北のゴビから朔風(北風)にのって浮遊してきたこまかな砂漠の沙が降り積もり、陝西、甘粛、寧夏、山西を中心とする大地に黄土高原を形成した。降り積もった黄土は厚いところで200メートルにも達するというから、大自然の営為とはすごいものである。その黄土に覆われた大地に水の流れや風力が作用して深い溝が生まれ、風化による景観ができあがった。

延安の町:宝塔山から望む。逆Yの字に流れる延河に沿って市街地がひろがる

◁延安の町:宝塔山から望む。逆Yの字に流れる延河に沿って市街地がひろがる

 もう100年以上も前に黄土高原の調査隊に加わったJ.G.アンダーソンは、その著『黄土地帯』(六興出版、1987年)で黄土層が垂直に沈降するメカニズムを簡潔に説明している。それによれば、黄土の一粒ひとつぶには微細な気孔があり、容易に水分を透過させる。したがって、雨期の豪雨も地表からすぐに黄土層を通過して砂利、第三紀粘度、あるいは岩盤層に達し、黄土層の下部は水に浸って粥状になっている。このため低層はわずかな勾配でも容易に滑動し、それにつられて比較的に乾いている上部の黄土層が垂直に沈降するのだという。
 延安の黄土高原もおそらくおなじ理由で現地の人が「溝」とよぶ、深くて垂直な谷状の地形が形成され、そこに雨水などが流れて延河が生まれ、その周辺に集落ができて現在の街相に発展してきたに違いない。黄土高原に棲む人は垂直に沈降した黄土の壁を掘り貫き、そこを住居とした。それが「窰洞」である。窰洞は水捌けがよく、夏は涼しく、冬には暖かい。入り口を大きく切り開いて窓を設置すれば、照度の問題も解決できる。自然の営為を充分に利用して創造した、なんとも理想的な住空間である。延安は黄土高原に生まれた溝の町なのだ。

 

延安新華廣播電台の創立

 延安新華廣播電台は1940年12月30日に開局した。名称に見える「新華」とは「新華通訊社」のことで、開局から中共中央に廣播事業管理処が設けられる1949年6月5日まで新華通訊社の管轄下に置かれていた。
 新華通訊社の前身である紅色中華通訊社(中共の宣伝媒体)は1931年11月7日、江西省瑞金で中華ソヴィエト第一回全国代表大会が開催された際に設けられ、その翌月の12月11日には中華ソヴィエト中央政府の機関紙として『紅色中華』(後の『解放日報』)を創刊し、これら新聞と放送局の二つの宣伝媒体はともに紅色中華通訊社から生まれたものだった。

周恩来旧居:棗園の高台にある。隣には張聞天が棲んでいた

△周恩来旧居:棗園の高台にある。隣には張聞天が棲んでいた

 山田充郎氏の論考(本連載第1回)ですでに明らかなように、中共と対峙していた国民党はすでに通信社や新聞社以外に複数のラジオ局も保有していたので、中共はメディア戦略面でも大きく遅れをとっていたといえよう。大陸の統治を狙う中共にとって、ラジオ局の創立は、喫緊の課題だったのである。
 西安事変で蒋介石を軟禁し、「安内攘外」政策から抗日への転換を求めた張学良は1936年12月14日、国民党系のラジオ放送だった西安廣播電台の晩20時からの電波枠を使って演説し、蒋の身柄を拘束した理由を全国民に向って語った。そのなかで張学良は、①南京国民政府を改組して各党各派を受け入れ、ともに救国に努力する、②内戦停止、③国民党が上海で逮捕した愛国指導者の即時開放、④全国で捉えられているすべての政治犯を釈放する、⑤民衆の愛国運動を容認する、⑥人民の集会結社の自由と政治的な自由を保障する、⑦孫中山の遺訓を尊重実行する、⑧救国会議を即時に招集する、という8項目の要求を主張した。この全国民を対象にした張学良のラジオ演説が国民のなかに一気に抗日機運を高めたことは否めず、延安でこの放送を聴いていた中共幹部がラジオ放送の浸透力とその重要性を再認識したことは間違いない。
 中共がなかなかラジオ局をつくることが出来なかったのは、国民党軍と日本軍が延安を中核とする陝甘寧(陝西、甘粛、寧夏の三省を指す)辺区に対する厳しい包囲作戦をとっていたために放送設備を運び込むことが難しかったからだろう。
 騎馬中に右腕を複雑骨折した周恩来は1939年にモスクワで治療を受け、翌1940年に帰国する際、コミンテルンから中古の放送設備を譲渡され、それをまずモスクワから中央アジア・カザフスタンのアルマトイまで運び、そこからウルムチへ転送した。さらにウルムチから蘭州までは航空機で、蘭州から西安までは鉄道便で輸送し、西安から延安にはトラックで運んだ。
 この送信設備が延安に到着すると、中共はすぐにラジオ局の創設を決めた。廣播委員会が設けられて周恩来が主任となり、周が重慶に転出したあとは朱徳がそれを引き継いでいる。中共中央軍事委員会三局の局長だった王諍、新華通訊社の向仲華社長らが廣播委員会の委員を務めた。中共中央軍委三局は別に九分隊を組織して口語廣播と文字廣播の技術面を担当させた。「文字廣播」とは、党の重要文献や新聞の評論、記事などをアナウンサーが棒読みして電波に乗せる放送形式のことで、それに対して「口語廣播」は通常のラジオ放送のことを指している。
 王諍らは幾度も調査を重ね、放送局の設置場所を西川河の王皮湾村に定めた。同村は延安城からおよそ19キロの距離にあり、十数世帯が住み、人里を離れた場所で敵から発見されにくく、放送施設の安全と防衛に適していたからだ。抗日軍政大学出身の闕明を工兵隊のリーダーに据え、他に2名の紅軍兵士と複数名の民工を配置し、2ヵ月かけて村の斜面の黄土崖に2棟の窰洞を掘って放送室と予備室をつくり、対岸の石崖には送信室と電源室を設けた。電源室は廃車にした自動車の発動機を利用し、送信室にはコミンテルンから提供された送信設備を設置している。発動機はガソリンが欠乏していたので、木炭エンジンに改造して使った。発動機が使えるようになるまでの間には、手回し式の発電機を利用したようである。

 

大陸の空を翔けた赤色電波

 設備と放送室が整った延安新華廣播電台は1940年12月30日、最初の赤色電波を発して誕生した。同時に鹽店子村にあった中共中央軍委三局も王皮湾に移って九分隊と合流し、新華社のニュース文字電報を配信するようになった。
 延安新華廣播電台の呼出符号(コールサイン)はXNCRで、頭文字のXが中国を、NCRが新華廣播電台(New Chinese Radio)を表した。使用波長は61メートル、周波数は4940kHzで、開局当初の出力は300Wだった。その後、1941年2月1日〜3月31日までは昼と夜の放送時間帯に分け、第1回放送(10時〜11時)と第2回放送(20時〜22時)の使用波長をともに28メートルとした。1941年4月1日から機材の故障で放送の中断を余儀なくされた1943年3月までの期間は放送回数が増え、第1回(14時〜15時)、第2回(18時〜19時)、第3回(22時〜24時)の使用波長をそれぞれ20.5メートル、61メートル、61メートルとし、周波数も9800kHz、4940kHz、4940kHzになった。

手動式発電機:木炭発動機が稼働する前に使っていた。小さいので電圧が安定しなかった(清涼山の新華社記念館)

◁手動式発電機:木炭発動機が稼働する前に使っていた。小さいので電圧が安定しなかった(清涼山の新華社記念館)

 放送局のスタッフは、放送科の編集要員として劉克鋼、李伍、陳笑雨、王唯真の4人を配置し、アナウンサーは徐瑞璋(麦風)、姚雯、蕭岩、路岩(蕭岩の妹)、孫茜らの5人が担当した。中共中央軍委三局九分隊の隊長は傅英豪、政治委員には周浣が就き、隊員には湯翰璋(丁戈)、毛動之、苟在尚、唐旦(傅英豪夫人)、徐路、呉興周、趙洪政、黄徳媛(女)、張川治、屈隧心、趙戈らがいた。
 延安新華廣播電台は最初期、新華社の一部局の廣播科、後には口語廣播部と称され、勤務場所は清涼山の新華社本部内にあった。放送原稿は廣播科から提供されている。海外や国内のニュース、および国内各戦区の戦況は毎日夜になってから整理・翻訳されたので、廣播科の編集担当者は深夜1時に出勤し、早朝8時すぎまでに放送原稿を整えた。
 放送原稿の来源は、国内ニュースと海外から伝えられる外電だった。国内ニュースは解放区、遊撃区、国民党統治地域の状況を伝え、海外からは第二次世界大戦の戦況、外交動向などが主で、廣播科は毎日20編、8000字前後の原稿を準備した。
 原稿は新華社副社長の呉文燾が選んで放送用に書き直した。それを向仲華に代わって新華社の社長に就任した博古がチェック(博古が不在のときは陸定一が担当)し、清涼山の編集部から王皮山の放送室まで、毎日約19キロの道程を早馬を使って届けた。これらの原稿は新華社が配信する「文字放送」にも利用されている。
 延安新華廣播電台の受信対象は敵後根拠地や国民党統治地域の軍民だった。番組の内容は『解放日報』の社説や重要記事、新華社が配信した八路軍、新四軍などの戦況、そして抗日根拠地における経済建設などである。山東、山西、四川、雲南など遠隔地の省からも受信報告が寄せられた。
 ニュース以外にも文芸番組を放送した。放送室には手動式の蓄音機が用意され、毛沢東が保有していた20数枚の京劇のレコードなどを流したが、延安における赤色根拠地の現実を伝える放送素材としては適さなかったので、アナウンサーがみずから革命歌を歌ったり、ハモニカ演奏をしたり、橋児溝の魯迅芸術学院から交響楽団と合唱団を招き、同学院の音楽学部長だった洗星海の歌曲「黄河大合唱」を演奏したりもした。

 

日本語放送と原清子

 延安新華廣播電台で日本語放送が始まったのは、1941年12月3日である。中国語放送が始まってから11ヵ月後のことだった。放送原稿は中共中央軍委対敵工作部が提供し、編集・翻訳作業は劉愚、王文庶、そして中華人民共和国が成立した後も対日放送(ラジオペキン)に深く関与した張紀明らが担当した。周恩来がソ連で右腕の治療を終えて帰国した際、モスクワから一緒に延安にやってきた野坂参三(延安では「岡野進」名で活動した)も編集に関与した。野坂は編集部があった清涼山から歩いて20分ほどのところにある王家坪に住居を与えられていたので、そこから編集部まで通っていたのだろう。野坂の旧居は王家坪の中共幹部居住区のいちばん端(東端)にいまでもひっそりと保存されている。当時の日本語放送は現在のような国際放送の位置づけではなく、前線の日本軍兵士に対する宣撫工作の一環として進められ、中共の政策宣伝や日本軍兵士に投降を促すプロパガンダにその目的があった。

毛沢東旧居:他の中共幹部住居の2〜3倍の面積を有する。棗園の高台にある

△毛沢東旧居:他の中共幹部住居の2〜3倍の面積を有する。棗園の高台にある

 アナウンサーは、日本人の原清子だった。原は東京の早稲田大学で学んでいた中国人留学生の程明陞に求婚され、1937年3月、中国大陸に渡っている。原は当初、山西省の軍幹部訓練学校で日本語教師として働き、後に遊撃隊に加わって抗日戦争に参加した。1941年10月、日本語放送を計画していた中共は日本人アナウンサーを必要とし、最終的に廣播委員会の責任者だった朱徳の意向で原が選ばれ、延安によばれて放送局の立ち上げに加わる。原は毎週水曜日、王皮湾の放送室として使われた窰洞に馬に乗ってやってきてマイクの前に座った。原のアナウンサー名は原清志で、その他に母親の姓をとって前島清子、夫の姓を名乗った程清子あるいは程清志などの名前を使っていた(原清子の延安新華廣播電台における事跡については、水谷尚子『「反日」以前 中国対日工作者たちの回想』〔文藝春秋、2006年〕所収「生きていた『延安ローズ』原清子」に詳しい〕。

 

放送機材の故障による放送停止と復活、移転

 延安新華廣播電台では1943年春、送信機に使われていた真空管のフィラメントが切れてしまい、放送電波を送出することが出来なくなった。国民党や日本軍の厳しい包囲網のなかでは根拠地の外から代替品を調達することもかなわず、延安新華廣播電台はここに放送を停止せざるを得なくなった。
 放送が復活したのは2年余後の1945年9月5日で、日本が連合国に降伏した翌月のことだった。これを機に放送室は王皮湾から数キロ延安城寄りの鹽店子に移され、そこで新華社は新たに英語の文字放送も増設した。再開後の送信設備は出力が大幅に上げられ、英語の文字放送は太平洋を越えて米国サンフランシスコやインド洋上でも受信されたことが確認されている。放送はふたつの時間帯に分けて送出され、第1回(11時30分〜12時30分)と第2回(18時30分〜19時30分)の使用波長はそれぞれ40メートルと38メートル、周波数も7500kHz、9625kHzに変更された。

野坂参三旧居:王家坪にある中共幹部居住区の東端にひっそりと保存されている

◁野坂参三旧居:王家坪にある中共幹部居住区の東端にひっそりと保存されている

 国共内戦が本格化した1947年3月、延安は国民党軍の包囲・攻撃に耐えきれなくなり、1948年5月までの間に中共軍は3回の転戦を繰り返す。
 第1回転戦は1947年3月14日で、胡宗南の指揮する国民党軍が延安に入城する直前、中共は根拠地を北方80キロ付近にある瓦窰堡(陝北子長県)の好坪溝に移した。この日、延安新華廣播電台は午後の放送を終えた時点でその役目を好坪溝の戦備台(戦時代替局)に移管し、戦備台は即日夜から途切れる事なく放送任務を引き継いだ。同月21日、延安新華廣播電台は陝北新華廣播電台(略称:陝北台)に名称を変更している。
 第2回転戦は同月29日で、陝北台と国民党軍との距離が10数キロまで迫ってきたため、黄河を東に渡って放送拠点を太行山東麓の河北省渉県の沙河村に設置した戦備台に移転し、そこから陝北新華廣播電台として放送を継続した。
 第3回転戦は中共軍が反撃に転じた5月中旬である。中共はその拠点を河北・石家荘の北西郊外にある平山県の西柏坡村に移して北平入城の準備に入る。同月23日、陝北台も中共中央の指示で西柏坡に至り、そこから放送電波を送信した。

 

中央人民廣播電台の成立

 西柏坡に新たな根拠地を設けた中共はそこで1年と10ヵ月間ほど北平入城の準備を整え、1949年3月25日に北平侵攻を決行した。陝北台もその他の中央機関とともに北平に進駐し、北平新華廣播電台と改名して放送を継続する。
 北平を占領した中共は国民政府が保有したラジオ局の接収を進めて同年6月5日、「中央廣播事業管理処を拡大することに関する通知」を通達し、放送事業の重要性が高まるなかで新華社口語廣播部を中央廣播事業管理処に格上げして、この生まれ変わった組織で中国全国の放送事業を管理してゆく体制を整えた。これにともない管理処の処長に廖承志を、李強を副処長に任命した。このときから放送事業は新華社の管轄を離れ、中共中央宣伝部の下で独立した宣伝機関となる。北平新華廣播電台は自動的に中央廣播事業管理処の指導を受けることになった。
 同年9月27日、中国人民政治協商会議第一回全体会議で北平を首都に定めることが決められ、北平は首都に相応しい「北京」という名称に改められた。この決定を境に、北平新華廣播電台も北京人民廣播電台と改称される。
 建国の大典が10月1日に天安門広場で挙行され、毛沢東は天安門楼城から中華人民共和国の建国を宣言した。この模様は生まれたばかりの北京人民廣播電台によって中国全国に実況された。またこの日、中央廣播事業管理処は中央廣播事業局に改組され、局長に李強が、副局長に梅益、徐邁進が任命された。同年末の12月15日には、北京人民廣播電台が中央人民廣播電台にその名称を改め、中国建国後の放送事業を担う体制が整えられた。
 

〔主要参考文献〕
郝文採編著『延安縦覧』(内蒙古人民出版社、2005年)
劉妮編著『清涼山記憶』(陝西出版集団 三秦出版社、2011年)
陜西省地図編纂委員会『陜西省地図册』(中国地図出版社、2001年)
趙玉明主編『中国解放区廣播史』(中国廣播電視出版社、1992年)
趙玉明主編『中国廣播電視通史』(中国廣播影視出版社、2014年)
加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書、2007年)
J.G.アンダーソン『黄土地帯』(六興出版、1987年)
NHK総合放送文化研究所放送事情調査部『中国の放送(資料)』(NHK、1974年)
ピョートル・ウラジミロフ著・高橋正訳『延安日記』上(サイマル出版会、1975年)
本田善彦『中国首脳通訳のみた外交秘録 日・中・台 視えざる絆』(日本経済新聞社、2009年)
明治大学現代中国研究所・石井知章・鈴木賢編『文化大革命 <造反有理>の現代的地平』(白水社、2017年)
水谷尚子『「反日」以前 中国対日工作者たちの回想』(文藝春秋、2006年)