左から梅益、徐邁進、温済澤、廖承志

△左から梅益、徐邁進、温済澤、廖承志

 胡宗南が率いる国民党軍に包囲され、1947年3月に延安の赤色根拠地を放棄した中国共産党軍は、陝西の瓦窰堡、河北・渉県の沙河村、石家荘の西柏坡を転戦し、1949年3月25日、北平に入城した。そこでまず国民党のラジオ局を接収し、中央廣播事業管理処のもとで北平新華廣播電台を立ち上げる。延安を離れてから2年後のことだった。同年10月1日、中華人民共和国の建国を境に中央廣播事業管理処は中央廣播事業管理局に格上げされ、北平新華廣播電台も中央人民廣播電台となる。局長は梅益、徐邁進と温済澤が副局長に就任した。
 梅益(1914-2003)は広東・潮安の出身で、本名を陳少卿と称した。1935年、北平で左翼作家連盟に加わり、1937年には上海で中国共産党に入党する。抗日戦争が始まると中共上海市文化委員や書記を務め、1946年には新華社南京分社長、その後、延安に勤務地を移す。延安滞在時および撤退後は新華社総社編輯委員、副総編輯を務め、北京入城後は北平新華廣播電台編輯第一部長、建国後は中央廣播事業局副局長、局長などを歴任した。エドガー・スノー『中国の赤い星』、オストロフスキー『鋼鉄はいかに鍛えられたか』などの中国語版訳者としても知られる。
 徐邁進(1907-1987)は江蘇・呉県の出身で、徐暁光を名乗ったこともある。1925年に中国共産党入党、1936年から報道工作に従事する。1938年、重慶で『新華日報』の編輯になり、1947年2月には国民党から発禁処分に遭い、延安に避難して『解放日報』とその発行元である新華社総社の副総編輯に就任。1949年初、国民党北平廣播電台の接収業務に携わり、その後、中央廣播事業管理処辧公庁主任、建国後に中央廣播事業管理局副局長に就任した。
 温済澤(1914-1999)は江蘇・淮陰の出身で1930年に共産主義青年団に加わり、1636年、中国共産党に入党した。上海などで地下工作に従事する。5年間の入獄を経験し、延安に向った。1938年から1942年、陝北公学校で教職に就き、その後は中央宣伝部幹事、中央研究院の研究員などを務め、1943年から1946年6月まで『解放日報』副刊秘書、編輯、主編になる。1946年6月から1949年3月までの約2年間、新華社文字廣播部(=延安新華廣播電台)の主編に従事し、北平入城後は中央廣播事業管理処連絡部長兼北平新華廣播電台管理委員となり、建国後、中央人民廣播電台副総編輯、中央廣播事業管理局副局長に就任する。

 

日本語放送(ラジオペキン)の開局

 北平新華廣播電台に日本語放送が開局したのは、1949年6月20日である。当初、10日のスタートをめざしたが、準備が間に合わなかった。局舎は北平のほぼ中心地区で、西単と天安門広場のちょうど中間あたりに位置する六部口の十字路近くにあった。六部口は府右街の南端で長安街を渡ったところから南にのびる静かな街路で、そのまま進めば瑠璃廠(骨董街)や虎坊橋、そして天橋などはもう目と鼻の先である。開局直前に16歳でラジオペキンに入局し、その一生を対日放送に捧げた陳真の回想で当時を再現してみよう。

開局当時の北平新華廣播電台:最前列左から6人目が陳真(陳真『柳絮降る北京より』から)

△開局当時の北平新華廣播電台:最前列左から6人目が陳真(陳真『柳絮降る北京より』から)

 ……人力車や馬車にまじって、ラクダが通りをのたりのたりと歩いていた。ラクダを引いている農民も、煮しめたような布で頭を巻き、ツギの当たった服を着ていた。六部口といえば、今でも草創期の放送局の代名詞になっている。国民党の支配時代も、その前の日本占領時代もここは放送局だった。建物の窓という窓には頑丈な鉄格子がはめられていて、国民党軍の空爆が絶えないため、窓ガラスには爆風よけの細長く切った新聞紙が米の字に貼ってあった。ゲートをくぐっていちばん奥に、二階建ての編集部とスタジオがあった。入局したその日、入り口で廖承志とばったり出会った。廖は父、陳文彬と旧知の間柄だった。陳文彬は台湾から東京の法政大学に学び、そのまま母校にとどまって教員になっている。日本の敗戦後、同志たちと建新会という勉強会を主宰して中国人留学生にマルクス主義の理論や毛沢東の著作を教えていた。その後、台湾大学文学部の教授として赴任するため、国民党の白色テロが横行する台湾に帰る。まもなく投獄されて軍事法廷にかけられたが、共産党の地下組織から救出され、香港経由で大陸の解放区に逃れた。後に、わたしも母親や姉とともに組織の援助で台湾を脱出し、香港に渡った。ここでしばらく船を待ち、天津の塘沽港まで英国貨物船の不定期便に乗せられた。北京に落ち着くと、薬剤師だった母親は鉄道病院に仕事を得て、姉は工科大学の学生、わたしは放送局に配属が決まった。そして天津到着の三日後、北平新華廣播電台に入局した……。

現在の六部口:長安街から一歩入ると、往年の静かな北京の町並みが残っている

△現在の六部口:長安街から一歩入ると、往年の静かな北京の町並みが残っている

 現在、北京の復興門外南礼士路にはソ連式尖塔が美しい旧廣播大楼が残っている。このビルは1958年9月に竣工したもので、このとき日語組は他のすべての部局とともに六部口から新局舎に移転した。それから1980年代まで使われ、今は北京西郊外の石景山区に中国国際廣播電台として独立した局舎を有している。
 日語組の初代統括を務めた呉克泰によれば、開局前の試験放送時期、スタッフはわずか「2人半」だったという。呉と王艾英(アナウンサー)、それに北平新華廣播電台で人事を担当していた日本語の堪能な張紀明が半日だけ手伝いに来たので、呉はそのことをユーモアをこめて言っているのだろう。
 統括の呉克泰(1925-2004)は、台湾東北部宜蘭の農村に生まれた。本名を詹世平と称し、1944年、日本軍の通訳として中国大陸に渡ったのを機に抗日組織に加わる。日本敗戦後、上海で中国共産党に入党、翌1946年に台湾に戻って地下活動を開始した。台湾大学医学部に在籍しながら『民報』や『人民導報』などの発行に携わり、日本語に代わって国語となった中国語の補修塾を開設して知識人吸収工作を展開する。1949年3月、新婚の妻(高蓮子)とともに上海に渡り、5月にはすでに中共軍の統治下にあった北平で開催された第一次全国青年大会に台湾の青年たちを引率して出席した。このころから、呉克泰という名前を使うようになる。大会終了後、廖承志から対日放送で働くよう請われる。入局に際しては、北平新華放送局の総編輯(編集第一部長)だった梅益が面接した。梅益は呉克泰を日語組の統括に任命した。呉は日語組統括を皮切りに、日朝組(日本語・朝鮮語組)の組長、アジア部副主任などを歴任した。
 王艾英は当初、日語組唯一のアナウンサーだった。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に学び、卒業後、帰国して延安へ赴く。延安ではモスクワから移動してきた野坂参三の下で働いた。東京帝国大学出身の哲学者、何思敬の妻で夫との間に三人の娘がある。長女は黄華外相に嫁いだ。
 張紀明は1915年浙江・鎮海出身で、1938年に抗日戦争に参加、同年中国共産党に入党した。1942年、延安新華廣播電台の日本語編輯と翻訳に携わり、1945年10月には新華社編輯科口播組長に就任する。翌年に新華社解放区新解放城市組長、1948年には新華社新聞幹部訓練班副主任になった。北京入城後は新華廣播電台の人事部署に移り、建国後は国際廣播電台のアジア部主任、副局長などを務め、新華社東京支社の首席記者を務めたこともある。夫人は日本人で、ラジオペキンの日語組に就職した娘婿が福島県と中国との農業交流団の通訳を務め、現在、福島県の短期大学で教鞭をとっている。
 開局後の日語組は、統括の呉克泰を中心に王艾英、蘇琦(アナウンサー)、翻訳担当の男性二人、それに陳真が加わった。陳真は採用当初アナウンサーとして養成されるはずだったが、音声テストをした結果、16歳という年齢でまだ声が幼かったため、原稿を書く仕事にまわされている。アナウンサーの蘇琦は国民党時代の北平に棲んでいたが、命の危険を冒しながらも付近の解放区に奔って、中共の入城後に北平新華放送局に採用された。日本への留学経験はなかったが、正確で端正な日本語を話した。後に北京第二外国語学院に転出し、日本語教育に尽くした。翻訳を担当した二人の男性は、ともに日本で帝国大学を卒業していた。

廣播大楼:復興門外に現在も健在。1958年から1980年代まで放送ビルとして使われた

△廣播大楼:復興門外に現在も健在。1958年から1980年代まで放送ビルとして使われた

 呉克泰の回想によれば、放送原稿は開局当初、廖承志が校閲した。一般ニュースは新華社が配信したものを使い、中日関係に関わるもので取材可能な題材は中国人記者が取材した。

呉克泰:1953年頃に撮影された(本連載のメンバーである本田善彦氏が呉克泰氏から提供された)

◁呉克泰:1953年頃に撮影された(本連載のメンバーである本田善彦氏が呉克泰氏から提供された)

 廖承志(1908-1983)は、国民党左派の政治家廖仲愷と何香凝の間に東京で生まれた。1928年、中国共産党に入党。同年、ドイツに赴き国際海員組合の仕事に従事する。1932年に帰国して中華全国総工会宣伝部長、紅四方面軍総政治部秘書長などの職務に就く。1936年12月、陝北に至り紅色中華通信社(新華社の前身)で外電の翻訳業務に従事し、1945年、中共第七期候補中央委員に選出される。1946年7月から1949年3月まで新華社社長を務め、延安新華廣播電台を指導する。北平入城後は中央廣播事業管理処長兼北平新華廣播電台長に就任する。中共中央宣伝部副部長、中央統戦部副部長などの要職を歴任し、第五期全人大副委員長を最後に85歳で没した。知日派の重鎮で、おなじく知日派だった郭沫若との雑談で、「郭さん、鮨を喰いてえなあ」と語った逸話などが残されている。
 北平新華廣播電台におけるラジオペキンのコールサインは、「こちらは北平新華放送局です」だったが、建国後、局名の変更とともに「北京放送局」にかわった。放送開始時、コールサインは5回繰り返された。
 陳真の回想によれば、放送時間は早朝5時からの10分間と夜7時からの30分間、1日2回の放送でスタートした。呉克泰は、1日1回夕方15分間の放送で、しばらくして翌朝に前日夜の番組を再放送するようになり、その後は1回の放送時間が20分間になった。そして次に1回1時間となり、55年ころから再放送も含め、1日6時間を放送する体制になった、と回想している。
 日語部はこの他に、諸外国が実施していた日本語放送の傍受を行っていた。NHKやモスクワ放送、VOAなどで、これは通信社が配信する外電とともに、国際情勢を把握するための情報源となった。特定国の政治的な立場を把握するための判断材料ともされ、翻訳して関連機関に提供された。この業務は後に「収聴快報組」に移され、「収聴快報」という内部発行の翻訳新聞を発行し、おなじように党中央や政府関係機関に配布された。

 

開国の大典──中華人民共和国の建国

 1949年10月1日、中華人民共和国が建国する。これを機に北平新華廣播電台は中央人民廣播電台と名称を代え、日本向け放送も「北平新華放送局」から「北京放送局」にかわった。毛沢東が天安門楼上で世界に向って建国を宣言した「開国の大典」は国内放送と国際放送で実況され、その情景はプロパガンダ・ポスターの1枚として現在に伝えられている。その模様を李慎之の「風雨蒼黄五十年——国慶夜独語」『李慎之文集』から再現してみよう。

李慎之:中国リベラリストの重鎮だった

◁李慎之:中国リベラリストの重鎮だった

 李慎之(1923–2003)は、中国を代表するリベラリストだった。延安新華通信社の編輯などを経て1948年、中国共産党に入党している。1950年代は周恩来の外交秘書として活躍したが、その後、反右派闘争で「資本主義の道を歩む右派分子」として批判されることになる。70年代後半に名誉回復し、鄧小平の訪米団に顧問として加わったこともある。80年代には中国社会科学院副院長の重責を担いながら美国(米国)研究所長を兼務し、その晩年にはリベラリズムの研究を深め、中共の執政から生まれた政治体制に疑念を深め、そこから救われることなく、2003年、苦悩のうちに辞世した。
 建国の日の1949年10月1日午前、李慎之が天津から案内したソ連文化芸術科学工作者代表団の乗った列車が北京駅にすべり込んだ。駅頭には、劉少奇、周恩来、宋慶齢らまもなく建国する中華人民共和国の党・政府要人が出迎えた。建国式典に列席した外交使節にはソ連代表団以外に朝鮮人民代表団、そしてすでに解放区に入っていたイタリア共産党の中央委員らがいた。開国の大典は、その日の午後3時から天安門楼上で林伯渠(中央人民政府委員、秘書長)の采配で挙行された。
 この日、李慎之は午後から晩の10時まで天安門に仮設された西観礼台(雛壇)に座り、開国の大典の一部始終を目にした。このような栄えある閲兵式、このように美しい礼花、そして天安門広場に参集したこのように熱情あふれた数十万の群衆をいまだかつて見たことがなかった、と述懐している。
 李慎之の脳裏にはみずからの幼少年期から革命への参加、そして赤色根拠地の延安から瓦窰堡(陝北子長県)の好坪溝、太行山東麓に展開する河北・渉県の沙河村、さらに石家荘北西郊外の西柏坡を経て北京にいたる転戦の記憶が去来していた。また10日前の9月21日、第1期中国人民政治協商会議の全体会議で採択された人民英雄記念碑の「1840年以来、犠牲になった人民英雄は永遠に不朽である」という碑文を想ったとき目頭に涙があふれ、さらにその会議の開幕挨拶で毛沢東が宣言した「中国人民は、いま立ち上がった!」という言葉を反芻して、万感胸に迫る思いがあった。
 天安門広場ではハンガリーの国際青年祭から帰国したばかりの青年代表が北京の各大学の学生をリードして城楼前の金水橋に押しかけ、「毛主席万歳!毛主席万歳!」と連呼したとき、李慎之の感情は頂点に達した。それまで、このようなスローガンの歓呼にいくばくかの疑念を抱いていたが、このとき初めてそれを素直に受け入れることができ、天安門広場を埋め尽くした数十万の群衆とともに夢中になって「毛主席万歳!」と叫んだ。

 開国の大典を再現したポスターは、毛沢東から「油画大師」としてその画力を賞賛され、中央美術学院の教授を務めた董希文(1914〜1973)が中心になって1953年に描いたものである。絵は10月1日午後3時、毛沢東が天安門広場に整列した約30万人の軍民に向かって、「同胞の皆さん、中華人民共和国中央人民政府は、本日、成立しました!」と高らかに宣言した瞬間を描いている。
 毛沢東(中央人民政府主席、人民革命軍事委員会主席)の後方には新政府の主要閣僚が序列に従って整列し、毛の演説を聞いている。第1列は左手前から朱德(同副主席、人民解放軍総司令)、劉少奇(中央人民政府副主席)、宋慶齢(同左)、李済深(同左)、張瀾(同左)、第2列目には周恩来(中央人民政府委員、政務院総理兼外相),董必武(同委員、同副総理)、郭沫若(同委員)、そして第3列目には大典を取り仕切った林伯渠(同秘書長)らの顔が見える。
 1950年代から70年代にかけ、中国は幾度もの路線闘争、権力闘争を経験し、それによって絵に登場する人物の移動があった。
 開国の大典のオリジナル版には前列右端に高崗(中央人民政府副主席)がいた。ところが1954年、高崗と饒漱石が反党集団として粛清され、中国革命博物館の要請により董希文は原画から高崗を塗りつぶして抹殺した。それが第2版(写真)である。

 ラジオペキンの日本語組からは、三ヵ月前に入局したばかりの陳真を含む3人が取材に赴いた。陳真らは晴れの日のために用意した真新しい中山服に着替え、放送局の前庭に集合し、整列して出発を待った。各自にはそれぞれ饅頭(マントウ)と梨ひとつが配給された。梨は水筒の水代わりだった。放送局の一行は六部口から中南海南門、新華門の前を通って天安門までおよそ2キロを早足で歩いた。日語組は、天安門城楼真下のやや西寄りに取材場所を構えた。
 開国の大典のメイン・イベントが終わると、放送局員は大典の解散を待たず、長安街を駆け足で帰局した。夜の番組で建国の大典の模様をニュースにし仕上げて放送するためだ。ニュース映画の製作班から音声をもらい、文字原稿を整え、それらを電波に乗せた。放送が終わると、手分けして外国の日本語放送の傍受を始めた。各国のトップニュースは一様に中華人民共和国の建国のニュースを伝えていた。中華人民共和国という正式の国名を読み上げたのは、モスクワ放送だけだった。

 

その他の各国向け外国語放送、少数民族語放送

 ラジオペキンにおける各国向け国際放送は、建国翌年の1950年4月10日から本格的に開始された。その時間表によれば、1日の放送時間は対象国あるいは地域ごとに三つの時間帯に分けられている。
 第1回放送の時間帯は6時から10時30分(日本時間7時から11時30分)までで、それは日本語(06:00-06:30)、中国語(06:30-07:00)、朝鮮語(07:00-07:30)、モンゴル語(07:30-08:00)、インドネシア語(08:00-08:30)、ベトナム語(08:30-09:00)、暹羅(タイ)語(09:00-09:30)、ビルマ語(09:30-10:00)、チベット語(10:00-10:30)となっている。各国言語の中に中国語があるが、これは華僑向け放送であろう。

 第2回放送は12時から15時までで、朝鮮語(12:00-12:30)、モンゴル語(12:30-13:00)、アモイ語(13:00-13:30)、客家(ハッカ)語(13:30-14:00)、広州(広東)語(14:00-14:30)、潮州語(14:30-15:00)となっている。ここにアモイ語や客家語、広東語、潮州語などの中国南方の言語が混じっているのは、主に東南アジア各国に分布する中国系住民を対象としていたからだ。

開国の大典(第2版)

△開国の大典(第2版)

 第3回放送は16時30分から24時までで、海外華僑同胞記録新聞(16:30-18:00)、日本語(18:00-18:30)、インドネシア語(18:30-19:00)、アモイ語(19:00-19:30)客家語語(19:30-20:00)、ベトナム語(20:00-20:30)、広東語(20:30-21:00)、中国語新聞・評論(21:00-21:30)、英語(21:30-22:00)、暹羅語(22:00-22:30)、潮州語(22:30-23:00)、ビルマ語(23:00-23:30)、チベット語(2:30-24:00)などが見える。ここにある海外華僑同胞記録新聞の「記録新聞」とは、漢字1文字を4つの数字に置き換えて読み上げる放送のことで、主にニュースや重要文献などを間違いなく厳密に伝えるのに使われた方法である。漢字を数字に置き換えるには、中国郵電部が発行した『標準電碼本』が使われた。
 第3回放送時間帯にチベット語が含まれているのは、1950年時点ではチベットがまだ中華人民共和国の版図に含まれていなかったからだ。中国共産党軍による大規模なチベット侵攻が完了したのは、翌年の1951年のことである。
 チベット語放送が国際放送から中国国内の少数民族向け放送に枠組みを変更されたのは1950年5月22日からで、その後、8月15日にはモンゴル語放送が国内放送になっている。1956年と翌57年には朝鮮語放送が国内放送に変わり、新たにウイグル語放送とチワン族語放送が開局している。
 台湾向け放送はもともと華東人民廣播電台(済南、後に上海)から送信されていたが、1954年に同局が廃止されて以降は中央人民廣播電台に移管され、同年8月15日、正式に開局している。使用言語は普通話、閩南語が使われ、後に客家語も加えられた。当初は1日4時間の放送からスタートしたが、年を追うごとにその放送時間は延長された。
 

〔主要参考文献〕
李慎之「風雨蒼黄五十年——国慶夜独語」『李慎之文集』(公民論壇)
劉妮編著『清涼山記憶』(陝西出版集団 三秦出版社、2011年)
陜西省地図編纂委員会『陜西省地図册』(中国地図出版社、2001年)
地質出版社三編室『1997年最新版 北京旅游交通図』(地質出版社、1997年)
趙玉明主編『中国解放区廣播史』(中国廣播電視出版社、1992年)
趙玉明主編『中国廣播電視通史』(中国廣播影視出版社、2014年)
陳真『柳絮降る北京より——マイクとともに歩んだ半世紀』(東方書店、2001年)
NHK総合放送文化研究所放送事情調査部『中国の放送(資料)』(NHK、1974年)
本田善彦『中国首脳通訳のみた外交秘録 日・中・台 視えざる絆』(日本経済新聞社、2009年)
水谷尚子『「反日」以前 中国対日工作者たちの回想』(文藝春秋、2006年)