台湾広播電台存続時代の自由中国之声の受信証(1951年)/受信者:中山(吉田)輝夫氏

△台湾広播電台存続時代の自由中国之声の受信証(1951年)/受信者:中山(吉田)輝夫氏

 1945年8月15日、終戦の詔書が台湾でも放送され、台湾住民は台湾が日本人の統治から離れることを知った。9月1日に新しい統治者となる中華民国(国民政府、国府)から三人の代表が初めて台湾に姿を現したのに続き、10月5日には台湾省行政長官公署と台湾省警備司令部の前進指揮所が成立、25日には台北公会堂で日本軍の降伏式が行われ、ここに日本による台湾支配は終了した。
 国民政府は台湾を特別地域とし、台湾省行政長官公署を設置して統治を開始した。しかし、同署の経済政策の失敗と腐敗、不公平な人材登用に対して住民は反撥、1947年2月には 二・二八事件が勃発し、島内は大混乱に陥った。この失敗に鑑み政府は事件鎮圧後に行政長官公署を廃止、5月16日に台湾省を設置し、人事を一新することによって統治体制基盤の強化を図った。一方、国共内戦において国府軍は敗北を続け、1949年10月の中国共産党による中華人民共和国の建国宣言後も残った支配地域を次々と失い、11月末には重慶が陥落するに到った。ここにおいて国民政府は12月7日に台北を臨時首都とする旨宣言、中共政権との内戦を継続するとともに、台湾を国際共産主義に対する防波堤とする役割も果していく。そして対外放送はその有力な武器の一つであった。

 

台湾における初期の放送

日本統治時代の放送
 台湾での放送の始まりは、1925年6月に台湾総督府が「台湾始政30年記念展覧会」を開催した際、台北の展覧会場から送信されたラジオの試験放送であったとされる。1928年には昭和天皇の即位の大礼に当り、内地からの電波を受信し、これを中継するための試験放送を開始、12月22日には台北放送局の開局式が行われ、この日から1kW送信機による本格的な実験放送が始まった。同局の呼出符号はJFAK、使用周波数は900kHzであった。
 台北からの1kW放送では聴取可能区域が島内北部に限定されることから、総督府はその範囲を全島に拡大すべく10kW放送局の建設を計画、台北・新公園に演奏所、台北郊外の板橋に送信所を設置して、1931年1月15日に本放送を開始した。これに続き同年2月1日に台湾放送協会が成立、放送業務の一部は総督府から同協会に委託されることになった。その後、同協会は台南、台中、嘉義、花蓮港に放送局を設置したほか、1940年には島内中部の民雄に出力100kWの大電力送信所を建設、また1937年には対外放送も開始した。

接収後初期の放送
 日本の敗戦後、日本占領下の放送設備の接収は中央広播事業管理処(管理処)が担当することとなり、台湾地区の接収責任者として任命された林忠は、10月5日の専用機で重慶から来台した。台北放送局では10月10日の双十節当日から中央広播電台の一部番組が中継され、他の4局は台北局の番組をそのまま中継した。25日には中国側接収委員による放送が始まると共に、台北放送局のXUPAなど、各局に新しい呼出符号が付与された。11月1日付で台湾放送協会は正式に接収されて管理処傘下の台湾広播電台と改称、各放送局の接収も11月27日には終了した。接収業務を恙無く完了した林忠は台北広播電台の初代局長に就任し、「国語広播教本」を自ら著して国語(北京官話≒北京語の台湾での呼称、以下特記以外同じ)の普及に努めるなど、国府統治初期の文化面において無視出来ぬ功績を挙げたが、1947年の二・二八事件の際、暴徒の同局占領を阻止し得なかったとされ、事態の発生後間もなく、陳儀行政長官によりその座を逐われた。

 

中国広播公司の設立と業務の開始

中国広播公司の設立
 既に述べた通り、管理処は国民党の党営事業であったが、事業拡大の見地より処内では早くから企業化の方向が検討されており、1944年には「中国広播公司組織章程草案」が纏め上がっていた。抗日戦争中凍結されていたこの計画は、1946年以降本格的に推進され、1947年4月18日に「中国広播股份有限公司章程」〈定款〉が経済部の承認を受け、ここに中国広播股份有限公司(以下特記以外略称の「中国広播公司」又は「中広」と記す)が発足した。ただ、その発起人の筆頭であり、董事長(会長)に選出されていた戴傳賢が職務に就けなかったこともあって、新会社の執行すべき総ての業務は従来通り管理処が担当していた。

台湾への移転と業務の開始
 国共内戦の中、国府軍の敗退に伴い、管理処はその管轄する放送局の多くを喪っていった。中広が発足した1947年4月には39箇所に存在した放送局は、1949年1月には29箇所に減少、10月の中華人民共和国建国宣言時点における大陸での管理下の放送局は、重慶等5箇所を残すのみとなっていた。昆明の陥落をもって管理処が大陸の全放送局を喪失する直前の同年11月16日、中広は台北で株主総会を開催し、管理処の担当業務を正式に引継いだ。またこれに伴い新人事も発令され、新会長には国民党の宣伝部部長などを務めた張道藩、総経理(社長)には同部の国際宣伝処処長を永く務めた董顯光が就任した。その後、中広は日本資産を引継いだ旧管理処の放送施設と人材を基に、台湾の放送界を主導していくことになる。

 

放送独占体制の崩壊と民営放送局の誕生

 国民政府による接収後も、台湾での放送事業は日本時代と同様、独占体制が続いていた。併し、1949年に入ると、新局を設置しようとする動きや、大陸における国府軍の劣勢に鑑み、既存の放送局を台湾へ移転しようとする動きが具体化して来た。
 前者の動きを示したものとしては、軍中播音総隊(総隊)があった。1942年6月に重慶で発足した総隊は、抗日戦争の勝利後、南京に本部を移し中国各地に放送局(軍中広播電台)を設立、その一つとして台湾軍中広播電台の開局準備を進めていた。ところが大陸の大部分が陥落、政府も台湾へ移るに及んで総隊は台湾軍中広播電台を台北軍中広播電台と改称、同局は統轄機能を与えられた上で1950年1月10日に放送を開始した。一方、民間の中にも新局設置の動きが本格化、同年3月15日に民声広播電台(現台湾広播公司台北電台)が台湾で新設された初の民営放送局として誕生した。
 後者に属するものとして、まず挙げられるのは空軍広播電台である。1946年12月に南京で開局した同局は、逸早く台湾へ移り、1949年2月1日に台北で放送を再開、台湾広播電台以外で放送を実施した国府統治下台湾初の放送局となった。また民営局としては、上海から移った民本、鳳鳴、南京から移転した益世、漢口で開局した正声の各放送局が挙げられる。これら各局は、1949年9月15日に開局した民本広播電台を皮切りに、開局準備の遅れた益世を除き、何れも1950年までに本放送を開始している。日本で民営(商業)放送局が開局したのは1951年9月のことであった。従って、台湾における商業放送は日本より2年早く始まった訳である。(因みに台湾における広告放送は、台湾放送協会により1932年6月から同年12月まで実施されている)。

自由中国之声初期(台湾広播電台廃止後)の受信証(1954年)/受信者:Philip Finkle 氏(米国)

△自由中国之声初期(台湾広播電台廃止後)の受信証(1954年)/受信者:Philip Finkle 氏(米国)

 

対外放送の開始とその展開

大陸向放送の開始と初期の動き
 台湾からの中華民国の対外放送(以下、「対外」とは、海外(=外国)及び大陸(中共政権統治下にある中国大陸の意)の双方を含む意として用いる)は、1949年7月に始まっている。この年に入り北平、南京、上海等の重要拠点を次々に失っていた国民政府の劣勢は覆い難いものとなっていたが、陳誠台湾省主席は蔣介石総統の対外宣伝重視の指示に従い、大出力の短波・中波送信機各1台を春の中に台湾へと運び込むなど、対外放送再開の準備を整えていた。
 そして台湾広播電台は7月16日に大陸民衆に対する「自由中国之声」番組の放送を開始した。放送時間は毎日現地時間19時から23時までの4時間、使用言語は国語の外、英語、閩南語、潮州語、客家語、広東語、上海語の7種で、民雄の100kW送信機によって送出された。嘗て日本人によって設置され、国府支配下の疆域向放送に使用されたこの大電力送信機は、今度は国府統治下の中国人の手により再び大陸向放送に活用されることになったのである。当初ニュース番組が中心であった大陸向放送も、1950年12月には中広の主管機関である国民党中央改造委員会第六組との合弁による番組制作の開始によりその内容は変化に富んだものとなり、放送時間も1日4時間半に拡大した。
 1951年に入ると、大陸向の放送は形式的にも整えられた。この年の5月5日、中国広播公司は大陸時代に用いていた中央広播電台の名を大陸向放送の呼称として復活させ、「中央広播電台自由中国之声」の局名で放送を開始した。これに続き8月には大陸向放送の専任組織として、節目部内に大陸広播組を設置、同組織は1954年5月20日付で大陸広播部に昇格した。使用言語は大陸広播組成立の段階では国語、閩南語、潮州語、客家語、広東語、蒙古語、ウイグル語の7種で、1952年8月に西蔵語が加わった。

海外向放送の再開とその展開
 国民政府による海外向放送が再開されたのは、大陸向放送が開始された約3ヶ月後、1949年10月10日のことであった。同日専任の担当部署として台湾電台節目部内に海外組が成立、板橋送信所の20kW送信機から米国に向け国語、英語の両言語により開始されたこの放送は「自由中国之声」 Voice of Free Chinaの局名で毎日8時間、時間により7257、9655、11725、15235kHzの何れかの周波数を用いて送信された。翌年 7月には韓国語、アラビア語、仏語、露語による放送が追加されると共に送信方向も細別され、10月10日には50kWの短波送信機が戦列に加わった。翌1951年の組織改革(台湾電台の廃止、後出)により、海外向放送は新設された中広節目部外語組の管掌する所となり、その下に東方語言、西方語言の両科が設置された。

日本語放送の開始とその位置づけ
 自由中国之声日本語放送の開始日は、海外向放送の再開1年後の1950年10月10日であったとされる。併し公式的見解はともかくとして、実際の放送開始時期がこれより遙かに早かったことは確かである。その証拠は日本のラジオ雑誌に見られる。例えば1949年9月初旬までの状況を反映したと考えられる『ラジオ技術』同年11月号には、台北から自由中国放送局が日本時間18:15~18:30に7215、910kHzの両波で「ニューズ」を放送している旨が明記されており、翌12月号では使用周波数が7215、1190、670kHzに改められたとの記述が見られる外、10月26日現在の11MHz帯の受信可能局一覧表中には11725kHzで台北からの放送が強力に受信出来、その中には日本語放送もある旨が記されている。また、同号の投稿欄には「最近思いがけなく台湾の日本語放送を受信した。周波数は910kc/sと7215kc/sの2つ。時刻は毎日1815~1830JCTの15分間で、音楽に始まり、約3分程たってから自由中国之声のアナウンスがある。短波帯での感度は当地で相当によく、普通の5球スーパーでも明瞭にキャッチできる。(原文のママ、以下略)」との佐賀在住の読者からの報告が見られる。これらの記事と当時の放送状況一覧表(『中廣四十年』263頁)を勘案すれば、台湾からの対外日本語放送は、自由中国之声の名称で大陸向放送の開始後間もなく、海外向放送の開始に先立つ1949年9月までに始まり、海外向放送の開始後は、北米向放送の使用波も利用して送出されたと判断される。畢竟、国民政府が実施した日本向日本語放送は、台湾からの場合も、嘗ての中国大陸からの場合と同様、一般の外国向放送とは別の系統に属するものとして始められた訳であり、ここからも中国(国府)の日本に対する特別視の継続性、延いては日華両国間の変らぬ特殊な関係を垣間見ることが出来よう。

 

1950年代の台湾と放送界の動き

一般情勢
 大陸における支配権を喪失し、トルーマン米大統領から台湾不介入宣言を突きつけられた1950年初頭の国府は絶体絶命の状態にあった。ところが同年6月に朝鮮戦争が勃発するや、米国は曩の不介入宣言を撤回して第七艦隊に台湾の防衛を命令、これに続き軍事・経済援助を再開し、1954年には米華共同防衛条約を締結するに到る。そしてこうした米国の支援や、農地改革の成功などにより政治的・経済的に息を吹き返した国府は、統治への自信を深め、国家建設を進めていった。
 その一方で、1949年に公布された戒厳令と、その前年に制定され、中共との戦争状態継続を理由に効力の維持を認められた動員戡乱時期臨時条款を法的根拠として、反政府(反国民党)的な言論に対する統制は強化され、反共的立場を採る者も含め反政府分子と看做された人士に対しては、厳しい制裁の加えられるのが常であった。

放送界の動き
 言論面での厳しい統制下にはあったものの、台湾における1950年代は軍・公・民の各主体による放送局が次々に開設・増設され、ラジオ放送が最も華やいだ時期であった。軍営の局としては曩に述べた軍中広播電台が金門、澎湖に放送局を設置、空軍広播電台が第二放送を開始した外、軍中播音総隊が米軍軍事施設顧問団と協力して設立された「中美軍人之声」Voice of MAAG Taiwan (Armed Forces Radio Taiwan) が1954年、国防部保密局(現在の軍事情報局の前身)の運営する復興広播電台が1957年、国防部心戦部隊による馬祖広播電台が1959年にそれぞれ放送を開始した。この中大陸からの電波の遮蔽を大きな目的として設立された復興広播電台は、多数の周波数を使用すると共に、1960年までに台中、高雄、台東、宜蘭の各地にも放送局を開設した。これらの局の多くは軍人やその家族を主対象とする番組を放送すると共に、放送時間の一部を利用して大陸向の放送も実施した。
 公営放送局として開局したのは警察広播電台、民防広播電台、教育広播電台である。この中警察広播電台は台湾省警務処が運営する省営(台湾省政府の機能凍結に伴い現在は国営)、民防広播電台(現在の台北広播電台、当初の名称は台北市民防広播電台)は台北市政府が免許を受けた市営、教育広播電台は教育部が所有する国営の放送局であった。
 この外、公営の形を採っていた放送団体として幼獅広播電台が挙げられる。この局は行政院の一組織であるものの、実質的には国民党の若手養成機関である中国青年反共救国団が運営、中波のほか短波も有し、大陸向の番組も流すという特殊な放送局であった。
 尚、民営局も1県1市に最低1局との原則の下、多数の放送局が設置されたが、その中で正声広播電台は、他に無い特色を有していた。国民政府の軍事委員会調査統計局の出身で、漢口の正声広播電台と北平の前門広播電台の創設に関係していた夏暁華は、政府の協力に得た上で大陸向放送局を開設しようとした。政府側もその計画には賛意を示したものの、当時の政府には、無収入の放送局を運営維持する財政的な余裕は無かった。そこで、両者は協議の上、国内向の商業放送局を大陸向放送局と併設し、前者の広告収入をもって後者の経費を捻出することにした。こうして開局した商業放送局が正声広播電台であり、大陸向の放送局は正義之声広播電台と称した。そしてこのような設立経緯から政府の支援を陰に陽に得ていた正声広播電台は、1955年には株式会社組織に衣替えすると共に、同年の正言広播電台(高雄)を皮切りに台中、嘉義、雲林の放送局を傘下に収め、或いは新設することにより、民営局の雄となった。一方、正義之声広播電台の方は、次第に独立性を強めていき、1963年には国防部の傘下へと移った。

中広の動き
 先述の通り、中国広播公司(中広)は中央広播事業管理処(管理処)の業務を正式に引継いだ後間もなく、管理処が中国大陸で有していた全放送局の管理権を喪失した。その結果、中広本部と台湾広播電台の機能は完全に重複することとなった。そこで1951年7月には組織改革が行われ、組織としての台湾広播電台は廃止された。
 1954年、中広の発足時からその任にあった張道藩会長と董顯光社長は共に多忙の故をもって辞職、新会長には嘗て国民党の中央宣伝部部長を務めた梁寒操、新社長には中央通訊社の副社長であった魏景蒙がそれぞれ就任した。
 局舎の移転も実施された。中広は発足以来、旧台湾放送協会の本部であった台北・新公園の局舎をそのまま本部として使用していたが、同所は業務の拡大に伴い手狭な状態となっており、新たな執務室が必要となっていた。幸い、市内東部の大安地区に台湾放送協会が放送用に建設し、接収後送信所として利用していた施設があったので、これを整備し、1953年に録音室を完成させた後、本部機構を同所に移した。尚、対外放送関係の部署は1961年9月まで新公園に留まっていた。
 放送局が宜蘭、苗栗、新竹の各地に新設された結果、その設置地点は日本時代開設の5ヶ所、管理処時代開設の2ヶ所と併せて10ヶ所となり、中広の発する電波は、台湾の略ぼ全域で聴取出来るようになった。また各局で第二放送を開始、国語、閩南語の両言語による放送網を実現した。

1950年代後半の対外放送
 1954年に大陸広播部が成立すると共に、中広の大陸向放送(中央広播電台)の編成、人事、運営は国民党中央委員会(中央改造委員会の後身)が直接担当することとされ、その責任者には大陸工作を担当する同委員会第六組幹部が就任した。1959年9月には同部の制作による大陸向番組「中華民国公私営広播電台対大陸聯播節目」が開始、これに参加する各放送局から毎日30分間同時放送された。また、翌1960年には新送信機が稼動し、使用周波数も大幅に増加した。
 一方、海外向放送では1951年10月に欧州向、東南アジア向の放送が強化され、1953年7月には越南語、1959年11月には広東語による放送が開始された。この間の1957年3月、節目部は従来存在していた方言組と外語組を統合して海外組を新設、海外向番組の編成、制作、放送に加え番組交換など海外放送局との交流の強化を図った。
 また中広は1954年12月には米国のAmerican Committee for Liberation from Bolshevism Inc.(略称ACLB)と協定を締結、翌年5月1日には同社板橋送信所の短波送信機を利用したRadio Libertyの シベリア向露語放送の中継が開始された。ラジオ・スタンチア・スバボーダ Radio Stanza Svovoda或いはバイカル Baikalと称し、日本でも一部受信愛好家の間で話題となったこの放送は1973年末まで続けられた。

自由中国之声(中広直接運営期)の受信証(1960年)

△自由中国之声(中広直接運営期)の受信証(1960年)

 

自由中国之声日本語放送初期の歩みと状況

 1949年9月までに一日15分の送出を開始した自由中国之声日本語放送は、放送時間や周波数を度々変更し、1950年9月には日本時間18時30分から19時までの一日30分間、短波の7151kHz、中波では860kHzと670kHzで送出されていた。10月には新設された50kW送信機による11735kHzが加わると共に、従来の使用波の一部が整理され、翌年初頭の段階での使用周波数は670、6040、7135、11735kHzの4本となっていた。中波による放送も受信は可能だったようで、ラジオ雑誌にはその受信報告も寄せられているが、1954年3月頃に終了している。放送時間については、1956年1月から約1年の間、平日は20分、日曜日は10分へと短縮されたことなどはあるものの、概ね一日1回、30分間実施されている。因みに1960年12月時点での放送時間は、月~土曜日の日本時間19時50分からの30分間、使用周波数は6095、11920、17785kHzの3本であった。
 放送の関係者については、男女各1名の放送員が番組を担当していたことと王根福という男子担当者がいたということ以外、正確なところは判明していないが、現時点で確認或いは推定し得る事実は次の通りである。
 王根福の出身地は不明、但し本省人(台湾出身者)でなかったことは確実である。若い頃から日本に居住していたようで、番組中での発言によれば、静岡にいたこともあった。出生時期も不明であるが、京都帝大経済学部を1931年に卒業していることから、最も遅くみて1909年、或いはこれを遡ること数年と考えるのが妥当であろう。夫人は日本人であった。卒業後、中広入局に到るまでの職歴等も不明であるが、戦中、戦後を通じ、国民党の宣伝機関に所属したことは無かったと考えられる。日本の領事館にいて、政府が台湾へ移ってから放送に係わることになったのではないかという林忠の言及が、この時期の氏の経歴に関し得られている唯一の示唆である。中広への入局時期も不明で、日本語放送の開始時から在籍していたかどうかは判明していないものの、1952年以前であったことは間違いない。何れにせよ、氏が日本語放送の初代責任者として、日本語班の基礎を築いたことは確かである。氏の後継者として日本語班を永く支えた卓菁湖が入局の挨拶に行った時は、既に入院中で話も儘ならなかったものの、その人柄は「いつも読書に励んでいるような真面目な人」(翁炳榮・接収委員の一員、元台湾広播電台部長)、「仕事熱心な親切な人」(許純美・元日本語番組担当者)であったという。現在残っているその音声や口調、文章や文字からも、こうした寸評に沿った人物像が想起される。一方、初期の女子アナウンサーの氏名や経歴は、現時点では全く確認出来ていない。
 次に番組の編成や内容であるが、これについては、「音楽、ニューズ、今月の話題(解説)音楽」(1951年3月現在)、「国歌、音楽、ニュース、今日の話題」(同年10月現在)等の記事(何れも原文のママ)がラジオ雑誌に見えるので、国歌の後に開始告知があり、音楽、ニュース、今日(こんにち)の話題(解説番組)と続き、終了告知が流れて放送が終了するという形を採っていたと考えられる。この基本形式(但し国歌は放送終了時に流れた時期もある)は、1969年に放送が1日1時間に延長されるまで永く踏襲された。因みに1960年末現在の番組編成状況(原則、特記無きものは毎日)は次の通りであった。

開始音楽、開始告知、音楽(月、火、木、金)、(聴取者)サービス番組(お便り紹介と音楽 … 水)、日本音楽と特別番組(土)、ニュース、今日の話題又は社説、特稿、録音番組(月、火、木、金)、終了告知、国歌

 尚、開始音楽は月、火、木、金曜日が「スケーターワルツ」、水曜日が国楽、土曜日が「元禄花見踊り」、終了告知の前には「くるみ割り人形」の「行進曲」冒頭部が流された。
 番組の内容については、詳細な記録が残ってはいないものの、当時の東西対立情勢の中で日本が国府と同様米国の側に立ち、日華平和条約が締結されて、両国間の関係は比較的安定していたことから、日本に対する非難めいた主張が頻繁に浴びせられていたとは考え難い。その反面で、時代を反映して解説や評論番組では烈しい口調による反共、特に反中共の言辞が発せられていたことは容易に想像される。当時のラジオ雑誌の辛口評論欄に「反共抗戦の最中の台湾。それは知つている。だが、軍備なき日本へ向けての放送まで、軍隊口調でやることは「ないはずだ」!ニュースと解説と称するものを1日10分か20分。どなりちらして宣伝になると思ったら間違い。カード(筆者注:受信証の意、連載第1回写真参照)だけ貰つたら、もう二度と聞かないというのが正直な話」(『電波科学』1956年6月号118頁)とあるのは、正鵠を射た指摘であると思われる。
 受信状態についても、音声自体は概ね強力に入感していたが、「音の悪いことでも世界一流(?)。もともと中継線だか変調機だかがおかしい上に、これでもか、これでもかとドナリこむから、ますます音は悪くなる。あげくのはては、隣り近所にサイド・バンドの被害を及ぼす。それでもたりないとみえ、ときどきバラステイツク(寄生発射)の景品まで出してくれる。」(同前)との指摘が見られるのも、事実を反映したものであろう。尤もこの時代、音質の点で問題が多かったのはこの局だけではないが。
 「皆様方からのいろんな御高見や御要求も当放送局の財的、物的、並びに人的制約を受け思うに任せないのは返すがへすも残念であり且つ又非常に申訳ないことだと思っております」(1960年の返信、原文のママ)との内容は謙遜ではなく、事実であった。受信報告に対する返信率も高くはなく、特に一度受信証を得た聴取者からの受信報告には、返信が無いというのが通常の状態であった。「聴取者サービス」なる名の番組の存在とは裏腹に、少なくとも日本語放送聴取者に対する当時の局のサービスは、良好ではなかったのである。

自由中国之声(機構改革直後)の受信証(1965年)

△自由中国之声(機構改革直後)の受信証(1965年)

 

1960年代の台湾と放送界の動き

一般情勢
 冷戦構造の固定化を背景として、米国の支援の下、国民党政権による統治は安定し、1960年代から70年代初頭にかけての台湾では、積極的な外資導入による輸出指向の工業化が推進され、急速な経済成長により国民の生活水準は大きく向上した。外交面では1964年における仏の中共政権承認後、国交樹立国減少の「なだれ現象」が危惧されたが、その後の文化大革命勃発に伴う中共側の内政・外交上の混乱の発生もあって、その危機は数年の間回避された。対日関係については、大陸側への輸銀資金による延払い輸出問題や周鴻慶事件により両国間に大きな溝が生じたものの、吉田元首相の訪台、及びその後の「吉田書簡」の送付により、その阻隔は修復された。ただ、原爆実験の成功に象徴されるようにその存在感を増して来た中共政権に対し、日本としてもこれを無視し続けることは困難な状況となって来た。そうした中で、1970年の日本万国博に当り嚴家淦副総統が国賓として来日、昭和天皇に謁見したのは、国府にとって対日外交上華かに振舞い得た事実上最後の機会となった。

放送界の動き
 1950年代に盛んに行われた放送局の新設も一段落し、民営局は経営基盤の確立、軍・公営局と中広は地方局、放送系統の拡大に努めたというのが、この時期の特徴である。交通部の統計によると、1961年6月末及び1970年6月末における放送団体、放送局及びその総出力は次の通りであった。(括弧内は内数)

1961年6月末 団体数/38、局数/66、総出力/625.9kW
1970年6月末 団体数/38、局数/104、総出力/2516.9kW(『中華民国新聞年鑑』1971)

 台湾においてテレビ放送が正式に開始されたのは、1962年10月のことであった。日本の技術と資本の協力を得て開局した台湾電視(台湾テレビ)がその局である。これに続き中華テレビ、台湾テレビが開局。当時の娯楽の王者であった映画やラジオの牙城を崩しつつ、台湾のテレビ界はこの3民営局の競争が長く続くことになった。

1960年代の対外放送
 前述の数字にある通り、1960年代のラジオ関係数値において最も大きな成長が見られたのは総出力である。この出力の増加、そしてその基礎となる送信機の増加は、専ら対外放送の強化に向けられたものであった。
 大陸向放送については、1965年5月に大陸向放送番組協調センターが設立され、大陸向放送は従来の中広大陸広播部(中央広播電台)に代って、国民党中央委員会が直接主導することになり、大陸向放送に参加する局は現地時間の05:00~06:00、23:00~翌日01:00に同時放送を行うことが義務付けられた(但し3時間全部の放送が義務付けられたのかどうかは不明)。
 中央広播電台では、1963年以降100kW以上の新送信機が次々と導入され、1969年には500kWの中波送信機3台が竣工、1000kWによる放送が開始されるに到った。また、大陸での情勢の変化に応じた番組編成の方針や内容の見直しを図り、大型番組改編を1963年以降2年毎に実施した。
 1965年5月、中広は政府との協定を締結、これにより中広の実施する海外向放送は、政府(行政院新聞局)の委託を受けて行うものと規定され、予算、人事等の独立性が担保されることとなった。この協定は同年7月1日に発効、これと同時に従来の節目部海外組は海外広播部として独立した(正式な独立日は9月1日)。一方、5月の段階で大陸向放送に対する政府(実際には国民党)の管理権が一層強まったことは、既に述べた通りである。但し、形の上では中広の大陸広播部は依然存続していた。
 対外放送部門の事実上の独立後、海外向放送の増強計画は加速化し、1000kW短波放送計画が浮上、新送信所の建設や100kW送信機の稼動などが1970年までに実現した。

日本語放送の動き
 1960年代前半の日本語放送の状況は、1961年8月に日曜日の放送が復活したことを除き、50年代後半の場合と変りないものであった。
 この状況に変化が生じたのは1965年のことであった。この年の夏以降、受信報告に対する返信率が向上した。これは前述の機構改革に起因するものであったと考えられる。海外放送部門の、そして日本語班への予算が増加したためであろう。受信証の図案も変更され、新しい受信証からは、従来記されていた「中央広播電台」の名称が消えていた。
 1966年には放送時間が増加した。従来一日1回30分間(日本時間19:45~20:15)であったものが、11月6日から一日2回(日本時間15:00~15:30、19:00~19:30)、計1時間となった。昼の番組が前日夜の番組の再放送であったとは言え、この措置は聴取者にとっては有難いことであった。1日2回の放送体制は、放送時間の変更を繰返しつつ、約3年に亘り続いた。
 放送の担当者も交替した。1963年末から1965年6月まで海外組の組長を務め、7月の組織改革による海外組の廃止によりその職を解かれた後も、日本語放送の責任者として務めていた王根福は、1968年3月頃より体調に変化を来し、6月に入院、9月に還らぬ人となった。欠員の発生に伴い海外広播部では日本語要員を募集、試験の結果合格したのが、当時京都大学大学院で東洋史を研究していた卓菁湖であった。卓は大学院の課程を1年残したまま帰国、中広へ入局する。そして翌年に実施された放送時間の延長(1969年9月に17:50~18:50の1時間放送開始)に伴う諸問題を乗り越えていく。そしてそれは、自由中国之声日本語放送最盛期の幕開けとなるものでもあった。

 

〔主要参考文献〕
(全般)呉道一『中廣四十年』
    中國廣播公司『中廣五十年』『中廣大事記』
    中央廣播電臺『中華民国台湾地区における日本語国際放送開始50周年記念特集』
    陳江龍『廣播在台灣發展史』
    北見隆『中華民國廣播簡史(上冊)』
(今回)放送文化研究所20世紀放送史編集室『台湾放送協会』
    高傳棋『台北放送局曁臺灣廣播電台特展專輯』
    若菜正義『明日の台湾』
    Adventist World Radio “The Shortwave Scene in Taiwan” (Wavescan No.385)