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    <title>集広舍コラム</title>
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    <description>コラム</description>
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      <title>集広舍コラム</title>
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    <item>
 <title>燕のたより／第１６回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/liu016.html</link>
<description><![CDATA[<p><h3 class="caption_m">投降しろ・否！—　十数回も出国を阻止されてもなお試みる廖亦武</h3><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　<b>劉燕子（作家、現代中国文学者）</b></p>


<p><b><span style="color:#993300">１．廖亦武とその文学</span></b></p>

<div class="leftbox">
<a href="http://store.shukousha.com/?pid=9183072" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ"><img src="http://www.shukousha.com/media/bookcover/teisou150.jpg" width="150" height="209" alt="teisou150.jpg" /></a>
</div><p>　廖亦武は、拙訳『<a href="http://store.shukousha.com/?pid=9183072" target="_blank">中国低層訪談録</a>』（集広舎、二〇〇八年）の著者である。彼は、一九五八年、中国四川省に生まれ、八二年から詩人としてデビューし、数多くの官制の文芸賞を受賞した。八三年から八九年まで多くの在野詩人と知りあい、地下刊行物『中国当代実験詩歌』などを主編したが、八九年六月四日に起きた天安門事件を告発する「大虐殺」という長詩の朗読を録音し、また映画詩「安魂」を制作したため、反革命煽動罪で逮捕され、九四年まで投獄された。出獄後、職を得られず獄中で和尚から教えられた簫を吹いて生計を立てながら最低層の民衆に出会い、それを『中国低層訪談録』などにまとめた。著書には『沈淪的聖殿—中国二〇世紀七〇年代地下詩歌遺照』、『漂泊—辺縁人採訪録』、『証詞（証言）』、『中国低層訪談録』（いずれも発禁）などあり、『中国低層訪談録』は日本語の他に仏語、英語、独語に翻訳された。そして、ヘルマン／ハメット賞と中国独立筆会自由創作賞をそれぞれ二度受賞し、アメリカの『パリ評論（Ｔｈｅ　Ｐａｒｉｓ　Ｒｅｖｉｅｗ）』誌で二〇〇七年、二〇〇八年に取りあげられるなど、国際的に高く評価されている。『パリ評論』誌で二度も取りあげられた作家は、ヘミングウェイ以来である。<br />
　日本語版『中国低層訪談録』では、三十数名の最低層の民衆へのインタビューが編集されている。そこから読者は様々な低層の現実を知ることができるだけでなく、この現実と格闘し、たくましく生き抜く姿に力づけられる。つまり『中国低層訪談録』には読む者を励ます文学の力がある。この点について、私は次のように述べた。<br />
<br />　「マスコミは華やかな話題や派手なスクープを追いかけ、『低層』の現実を取り上げることが少ないため、彼らはほとんど注目されていません。エゴイズム、強者への阿諛追従、冷淡さが満ちあふれる世の中で、彼らはかえりみられず、訴えることもできない苦痛に苛まれています。たとえマスコミが取りあげても、それは『高層』から見た姿で、現体制にとって痛みも痒みもないように描かれるだけです。しかし、廖亦武は違います。彼によって、私たちは中国史を通して『民』の大多数を占めつづけてきた農民などの民衆の真の姿に接することができます。<br />
　また、成果を享受している人たちは、それと引き換えに代価を払わなければなりませんが、これは『低層』にまわされています。しかも、代価を押しつけられる『低層』は、このような状況を表現し、伝える術をもっていません。日々の生活では、不満、苦しさ、理不尽な扱いへの怒り、無力感、悲しさなどを感じていますが、それを伝えきれないのです。確かに、現代の中国は経済発展がめざましいですが、主流の政治エリート、ビジネス・エリート、知識エリート、文学エリートだけに目を向けず、その贅沢な生活を支えながら、社会から忘れられ、うち棄てられる存在を忘れてはならないでしょう。」<br />
　今日、中国における言語や情報の世界は、一党独裁体制と商業主義の結合により権力、財力、暴力が隅々にまで侵略し、偽善や腐敗で汚染されている。しかし、その中でも、このような世界を支える最低層の民衆が奥底から発する本音には真実があり、また生き生きとして強靱である。まさに汚された暗黒の世界を照らす灯火と言える。私たちは、ここにこそ立脚点、原点を据えなければならない。<br />
　廖亦武の文学が強靱なのは、彼自身が極めて強靱な精神の持ち主だからである。彼は天安門事件で投獄されたにも関わらず屈服せず、出獄後も真実の文学、言論の自由のために批判的な姿勢を堅持し、一党独裁体制を改革し民主的な法治国家を実現することを提唱した「〇八憲章」発表時の三〇三名の署名者の一人でもある（「〇八憲章」については、私の編集した『天安門事件から「〇八憲章」へ』藤原書店、二〇〇九年参照）。その間に様々な圧力が加えられたが、権力に媚びを売らず、彼の詩にあるように「投降しろ」に対して「否！」と答え続けている（『中国低層訪談録』九頁）。</p>

<p><b><span style="color:#993300">２．二〇〇九年四月、ベトナム国境地帯をさまよう</span></b></p>

<div class="leftbox"><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/liu/liu_016.jpg"  rel="shadowbox[liu016]" title="出国禁止の通達"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/liu/liu_016.jpg" width="200" height="302" alt="liu_016.jpg" /></a><br /><center>【出国禁止の通達】</center></div><p>　廖亦武は国内で発禁処分を繰り返されているだけでなく、国外で高い評価を得て何度招聘されても、出国を禁じられている。二〇〇〇年から幾度パスポートを申請しても受理されず、二〇〇八年の四川大地震の混乱のとき、戸籍を移してよく分からないようにして、十回目の申請でようやく取得できた。そして、大地震のルポルタージュ『地震瘋人院：四川大地震記事』（允晨文化、台北、二〇〇八年）により、オーストラリアの華人が設立した「斉氏文化基金会」の第二回「中国の文化を推進する賞」を受賞し、この授賞式に出席するためオーストラリアのビザを取得し、二〇〇九年三月から携帯電話やｅメールを使わないなど、全て消息を消し、四月下旬に成都から広西省の省都の南寧に行き、そこからベトナム・ハノイ行きの長距離バスに乗った。国境に着き、「友誼関」（国境警備隊の検問所）でパスポートの審査を受けるために列に並び待っていると、声をかけられた。<br />
　「初めての出国ですか」<br />
　「はい」<br />
　「身分証を出して」<br />
　「廖亦武だね」<br />
　「はい」<br />
　そして「出国禁止決定書」を読みあげられ、次のように通告された。<br />
　「調査が明らかにしたところでは、君は“上級文件（上から下への一方的な通達）”により出国できない者とされている。中華人民共和国出入国管理法第八条第五条により、我が国の国境警備所は君の出国を阻止する。本決定に不服ならば、決定書が届いてから六十日以内に広西省公安辺境防衛総隊に不服を申し立てることが許されている。」<br />
　出入国管理法第八条第五条では「国務院の主管部門から出国後に国家安全に危険をもたらす、あるいは、国家利益に重大な損失を与えると認められる者」について記されている。それでも廖亦武は諦めず、バスを乗り継ぎ、二十数時間かけて雲南省の河口に着いた。そこからベトナムに密出国できたが、パスポートに検印がないので、ベトナムから他の国に行けず、やむを得ず成都に引き返した。なお授賞式は、ガールフレンドの小金が代理で出席した。</p>


<p><b><span style="color:#993300">３．二〇〇九年九月、警察から「お茶」に呼ばれる</span></b></p>

<p>　二〇〇九年十月、『中国低層訪談録』のドイツ語版出版が評価され、フランクフルトで開催されたブックメッセに廖亦武は招聘された。この時は中国フェアが開かれ、中国政府は作家協会を中心に数千人（出版関係を含めると約一万人）規模の訪問団を送り込んだ。しかし、廖亦武は警察に「お茶を飲もう」と呼び出された。<br />
　「君は出国できない。」<br />
　「何で？　パスポートも、ビザもあるよ。」<br />
　「自分で分かるだろう。」<br />
　「いや。分からない。」<br />
　「今年は建国六〇周年。あれ（天安門事件）は二〇周年。向こうも、壁の崩壊二〇周年。様々に複雑な国際的国内的な状況の中で、君にだって祖国の困難と苦境を理解できるだろう。」<br />
　「なら来年は出国できるかい？」<br />
　「さあ。」<br />
　やはり出国できなかった。それでも、廖亦武は、このようないきさつに、繰り返しパスポートを申請し、ようやく十回目で取得できたことや、たとえビザが得られても出国できないことなどを加えて「さらば、遙かなるフランクフルト」というタイトルの文章にまとめ、それがドイツ語に翻訳されて「南ドイツ新聞」に掲載された（二〇〇九年十月に数回連載）。これは大きな反響を呼び起こしたという。</p>


<p><b><span style="color:#993300">４．二〇一〇年三月、飛行機から降ろされる</span></b></p>

<p>　そして、今年の三月、彼はドイツ語版の二冊目の本『証言』の出版に合わせてケルンの文学祭に特別ゲストとして招聘された。そこでは二〇〇九年ノーベル文学賞受賞者のドイツ女性作家ヘルタ・ミュラーとの対談、簫を演奏するミニ・コンサート、詩の朗読などが計画されていた。彼の簫について、私は『中国低層訪談録』で「何度も廖亦武の簫や嘯(悲愴な絶唱)を聴きましたが、どのときでも終始その音や声を彩るものは、ひたむきに自由を求める純粋で孤独な芸術精神でした。そこには、彼の生き方の真髄を流れる漂泊、はかなさ、弱者と強く共振する受苦、共苦の憂愁や悲愴がありました」と述べた（三九四頁）。<br />
　このように準備が整ったが、二月三日、警察にまた「お茶を飲もう」と呼び出された。<br />
　「北京方面から相変わらずお前は出国が制限されている人物にされていると伝えられた。リストの中でかなり前にいる要注意人物だぞ。」<br />
　「いつ解禁されるんだい。どうしたら解禁されるのかい。」<br />
　「分からん。上の考え次第だ。」<br />
　このような状況について、彼は次のようなメールを送ってきた。<br />
　「ぼくはこれでおしまいにしたくはない。憤慨の気持ちは言葉にならない。ぼくは元々政治や国家や『宣言』などに興味はない。劉暁波のような抵抗者ではない。しかし、まさに劉暁波が言うように、尊厳ある生き方をするためには反抗しかない。」<br />
　そして、二月五日、彼はメルケル首相に直訴の手紙を送った。<br />
　「ベルリンの壁が崩壊したとき、首相は三五歳で、私は三一歳でした。私はベルリンの壁が崩壊する前に起きた六四天安門事件を告発して逮捕され、四年間投獄されました。私たちは共通する歴史を体験しています。<br />
　私の祖国は私の口を永遠に封じようとしています。私は、中国の最下層の民衆のようにディスクールの権利を奪われ、人格も踏みにじられ、迫害されても声を出せないようにされています。しかし、文学は強権により辱められるだけでしょうか？」<br />
　これとともに、簫を演奏したＣＤ「不死的流亡者」と中国語版「善き人のためのソナタ」を領事館を通じてメルケル首相に贈呈した。領事は『中国低層訪談録』を読み、とても優れたものだと語った。<br />
　そして、二月十三日、成都のドイツ領事館でビザを取得し、さらに航空券もドイツから送られてきた。しかし、十五日、警察がまた「お茶」で呼び出した。<br />
　「成都から出られない。たとえ北京に行っても、絶対に連れ戻される。これは上級機関の“批示”だ。我々は執行するだけだ。それに、外国のマスコミの陰謀に踊らされるな。病気などの理由で行けないと言え。」<br />
　「批示」とは、下級から上がってきた文書に上級が直接書き示す指示や決裁で、元来は皇帝が臣下から上がってきた文書に下した決裁を指した。これが現在でも使われている。<br />
　しかし、たとえ「批示」であろうと、廖亦武の出国の意志は変わらなかった。<br />
三月一日、彼は空港に向かった。まず、十一時三十分発のフライトＨＵ７１４８で成都から北京に行き、三月五日に北京からフランクフルトへ向かうはずだった。<br />
　廖亦武は誰にも妨げられず空港に入ることができた。チェックインをすませ、手荷物検査を受け、搭乗前の最終チェックもパスし、機内に乗り込み、座席につき、シートベルトを締め、「やったあ！」と大喜びした。そのとき、キャビン・アテンダントがやって来て、「お客様、お呼び出しがあります。手荷物を持ってきてください。お友だちがお待ちです」と告げた。「これでおしまいだ」と分かった。<br />
　入口の外で四、五人の男が待っていた。「馮正虎と同じだ。これじゃあかなわない」と思った。馮正虎は帰国し、飛行機を降りようとしたら四人の警官に押し戻され、無理やり日本に送られ、成田空港で九二日間も抗議し続け、ようやく帰国できた人物である。<br />
　廖亦武は空港の詰め所に連れていかれた。そこで「国保大隊」に引き渡され、ワゴン車に入れられ、地元の警察署まで連行された。この「国保大隊」は、一九九五年から各地方の公安局や消防局に、国慶節の治安を守り、政治の安定に努め、流動人口をチェックし、犯罪を芽のうちに摘み撲滅することで「調和社会」を支えるとして緊急に創設された臨時組織である。<br />
　廖亦武は、この「国保大隊」から警察に引き渡された。「お茶」は出されず、お説教された。<br />
　「文学祭の主催は誰なんだ。あれほど言ったのに、何でこういうことをするんだ！……まあ、実は、我々のなかでも意見は統一されていないのだ。しかし、今は行かない方がいい。」<br />
　廖亦武は昨年は６０周年国慶節だからと諦めさせられ、今年こそはと思ったのに、やはり禁止され憤慨した。そして、放免されるとき、発禁処分の『中国低層訪談録』上下二巻（長江文学出版社、二〇〇〇年）を渡して、こう言った。<br />
　「ねえ。君たちとつきあって十年以上にもなるけれど、ぼくの本を一冊も読んでくれない。ぼくはただの作家だよ。政治の世界とは無縁で、興味もない。これを読んでみてよ。文学だよ。政治じゃあない。」<br />
　警察は、それを受けとった。</p>

<p><b><span style="color:#993300">５．むすび</span></b></p>

<p>　このような彼の状況は、『中国低層訪談録』で描かれている「不法越境者」を想起させる。「不法越境者」の黎憶豊は「この世で手に入れるのがいちばん難しいのが自由だ。ここじゃ飢え死にしたってだれも構ってくれないが、よそへ移って別の生き方をしようとすると、必ず邪魔が入る」と語っている（七五頁）。廖亦武自身も、次のように述べている（七頁）<br />
　「ぼくは外国に行けない。正当な戸籍がないし、『国家の安全と“形象（イメージ）”を損なう』と言われた。しかし、ぼくには自分のためにものを書く権利も、力もある。ぼくの『低層』は、このように長期にわたって基本的な生存と移動の権利が奪われた状況下で書き上げられたものだ。ぼくが文筆で生計を立てることは、出稼ぎ労働者が都会でヤミで働くのと変らない。ぼくたちはいずれも法律違反だ。それぞれは二つの違った道を進んでるが、やっぱり都市管理員と警察に遭う、というわけだ。」<br />
　それでも、彼は挫けず、「投降しろ」に対して「否！」と答え続け、非暴力不服従の尊厳ある生き方を貫きながら文学に励んでいる。そして、文学の力により、誰もが自由に出入国できるような中国にしようと努力している。<br />
　このような廖亦武に対して、文学祭の主催者を代表し、Ｗｅｒｎｅｒ　Ｋｏｅｈｌｅｒは、次のように述べた。<br />
　「このたびの詩の朗読や対談などは純粋に文学的な活動で、中国政府がこれほど力ずく一人の作家の行動を阻止するのは意外であり、憤慨を覚える。また、中国政府は国外の抗議をまったく無視することも分かった。しかし、我々は引き続き廖亦武氏を応援する。今回は参加できないが、ＣＤやビデオで公演の代わりとする。」<br />
　また、三月三日、ドイツ外務省は極めて遺憾であるという内容を含む声明を発表した。<br />
　また、廖亦武も、三月上旬現在、自宅軟禁中だが、唯一無二の声を響かせようと著述に取り組んでいる。</p>


<center>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝</center>
<p><b>【関連書籍のご案内】</b></p>
<div class="leftbox">
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</div><p><a href="http://store.shukousha.com/?pid=9183072" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ">中国低層訪談録</a><br />
廖亦武　著　劉燕子　訳<br />
サイズ 	Ａ５ハードカバー<br />
販売価格 	4,830円(税込)<br />
１９８９年６月の天安門事件後、４年間の投獄生活。<br />
出獄後、簫を奏で自作詩を詠ずる大道芸を生活の糧としながら、中国の最底辺の人々を訪ね歩く聞き書きの旅へ！<br />
浮浪児、出稼ぎ労働者、乞食、麻薬中毒者、不法越境者、同性愛者、人買い、トイレ番、死化粧師、老地主、老右派、老紅衛兵、スパイ、法輪功修行者、地下カトリック教徒、チベット巡礼者、破産した企業家、冤罪の農民、反戦の反革命分子、「六・四天安門事件」反革命分子……録音もメモもせず、渾身のエネルギーを傾注して人々の本音を聞き出す。</p><div class="leftbox"></div><br />]]></description>
 <category>劉燕子</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/liu016.html</comments>
 <pubDate>Sat, 6 Mar 2010 13:27:07 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>特報／北京芸術区</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/beijing_special001.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_xl">北京の胡同から／特別編</h3>


<p><b><span style="color:#993300">「当たり前の権利」を求めて——暴力に抗うアーティストたち</span></b></p>
<p>近年、中国にも現代アートなるものが存在し、一部の作品にいたっては、かなりの高額で取引されていることが、日本の人々にも知られるようになってきた。北京五輪後、金融危機の打撃は受けたものの、北京の郊外に広がる広大な芸術区の数々では、まだまだ意欲的な創作活動や展示が行われている。北京で活躍する欧米出身のキュレーターの中には、現在の北京の芸術的雰囲気の強さは「芸術の都パリ以上だ」と言う人もいるほどだ。</p>

<p>先日の『新京報』では、アジアをまたにかけて活躍してきた文化人である陳冠中も、「金がなくても、北京で絶望することはない。全国で人々が金が多いか少ないかだけを比べている時、北京にはまだ一日中『俺とお前のどちらがすごいか』を競っている人がいる」というコメントで、北京の魅力を伝えた。
</p>
<p>パリとの比較はともかく、後者については、筆者も同感だ。経済的な利益は二の次、ただ自己表現をしたい、という純粋な一念で、仲間と切磋琢磨しあいながら制作活動を続けている人々を、筆者はこれまで多数インタビューしてきた。</p>

<p>だが、どんな創造的行為にも、それを支える環境が必要だ。ところが先日、悲しいニュースが伝わってきた。どうも、本来ならクリエイター達をしっかり支えるべき人々まで、今は金欲のとりことなってしまったようなのだ。</p><p><b><span style="color:#993300">突然の取り壊し通知</span></b></p>

<p>日本でもニュースで流れたということで、もうご存じの方もいるかもしれないが、北京の創意正陽芸術区で、不法な立ち退きと取り壊しに抗っていたアーティストたちを、夜中に突然暴漢が襲い、日本人美術家１人、女性１人を含む計６人が袋叩きに遭った。彼らを救うため、隣の００８芸術区から８人の芸術家が応援にかけつけたが、その内の３人も負傷したという。</p>

<p>一部の媒体で報じられたように、彼らは「たてこもって」いたのではない。自らの正当な権利を守るため、不当な取り壊しに備え、毎日当番を決めて芸術区に詰めていただけである。また、政府や政策にあからさまに対抗する態度をとっていたのでもない。ただ、「いきなり立ち退きの通知を受け、契約期間が切れていない内に追い出され、各自がかけた膨大な内装費用や引っ越し費用の弁償も行われず、しかも十分な引っ越し準備期間も与えられなかった」ため、生存のための正当な権利を求めて、抗っていたのである。</p>

<p>最初に立ち上がったのは、同じような状況にあった隣の００８芸術区のアーティストを含む１００人ほどのアーティストたち。だが交渉が難航し、苦情の申し立てが裁判沙汰へともつれこみ、費用が嵩んだり参加者のエネルギーが消耗されたりするにつれ、メンバーは減り、現在はコアメンバー３０人を残すのみとなった。</p>


<p>借り主であるアーティストがオーナーから１２月５日までに出て行けというたった４行の通知を受けとったのは２００９年の１１月２６日。同月から取り壊しは
開始し、しかも建設系の業界にいたオーナーの一人は、取り壊し費用を節約するため、自らの力で取り壊しと追い出しを実行したという。
</p>
<p>その後のアーティストら自身の調査によって、オーナーは同年７月の時点で取り壊しの事を知っていたことが判明。だが、借り主に通知をしなかったばかりか、新たな入居者を募り、長期の賃貸契約まで結んでいた、という事実がアーティストらの怒りを買った。</p>

<p>しかも、立ち退き通知以降、オーナーは借り主らの補償要求に応じなかっただけでなく、姿をくらまし、極寒の１２月の北京で、電気を止め、暖房を止め、水を止めるといった嫌がらせを始めた。アーティストらは、ろうそくの灯や自家発電機を頼りに踏みとどまったが、今年は冬の寒さが厳しく、氷点下の日々が続いたため、やがて当番を決めて芸術区で番をし、強制取り壊しに備えるようになった。</p>


<p><b><span style="color:#993300">芸術の『冬を暖める』ために</span></b></p>

<p>それと同時に、同じような境遇にある周辺の２０前後の芸術区と共同で、『暖冬（冬を暖める）』という芸術的アクションを４期に分けて行い、中国の各種メディアの注目を集めた。</p>

<p>彼らが近年話題の「釘子戸」とやや異なるのは、彼らが「借り主」であることだ。これまで中国では借り主の権利が大変狭い範囲に限られ、突然補償もなく追い出されたり、予告もなく家賃が大幅に上げられたりすることがしばしば起こってきた。筆者もその被害者で、何度も頭を痛めたものである。</p>

<p>さらにアーティストら、特に彫刻やインスタレーションなどを手掛ける若い作家らにとって悲劇なのは、家を追い出されることは創作、つまり自分の仕事をストップさせられることを意味することだ。その上、彼らが必要とするような広さのスペースは一般の部屋より見つけるのが難しいばかりか、あってもたいてい壁はコンクリートのたたきで、内装どころかインフラさえ整っておらず、住めるようにするためにはかなりの費用がかかってしまう。</p>

<p>また、今回のケースでは釘子戸と比べ、賠償の範囲として訴えられている範囲もけた違いに大きい。今回訪れた創意正陽芸術区だけでも、建坪少なくとも１万平米以上。こういったものが、北京の中心部から車で１時間の場所に２０以上あるのだ。もっとも、全ての芸術区がこのように悲惨な状態にあるのではない。オーナーが良心的なところでは、借り主はきちんと補償金を得ていて、「平和的」に立ち退いているという。</p>


<p>筆者が知らせを聞いて訪れたのは、事件の約二週間前の２月１０日。建物の壁を埋めていたのは、学生運動を思わせるような標語や主張の洪水だった。「生存の権利を守れ」、「法律に依拠せよ」といった主張から、「ねばれ！」、「寒い！」といった掛け声や実感まで。それらは半分がガラクタと化した広大な平地の中で寒風にさらされつつ、崩される寸前のところで踏ん張っている、という切実さで筆者の目の前に迫ってきた。</p>

<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_03.jpg"  rel="shadowbox[art008_special]" title=""><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_03.jpg" width="420" height="281" alt="tada019_03.jpg" /></a></center></p>

<p>だが、いざ当番のアーティストたちと話をしてみると、彼らは必ずしも強い政治的主張をもっているわけでも、また、芸術区を絶対に保護しなければならない、といった一途な要求を抱いているわけでもない様子だった。「芸術区が保護されることは確かに理想的だが、当面はただ当然の補償を得たいだけだ」という。だが、それが「当たり前の主張」だけに、筆者はかえって静かだが強く切実なものを感じた。</p>
<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/artplace008_01.jpg"  rel="shadowbox[art008_special]" title="芸術家たちが交替で番をしていたところ"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/artplace008_01.jpg" width="420" height="281" alt="artplace008_01.jpg" /></a><br />【芸術家たちが交替で番をしていたところ】</center></p>

<p>当直室では、石炭の大きな塊を砕いてくべる簡易ストーブが焚かれていたが、空気が悪い割にそう温かくもない。厳寒の冬にここで一晩を明かすのは、大変なはずだ。そこからも、彼らの主張が、静かながら人間の尊厳と関わる、動かし難いものであることが、ひしひしと伝わってきた。<br />
「この問題が起こる前は、僕たちはお互いのことを知らなかった。今回の活動を
始めてから、親しくなったんだ。追い出されたお陰で、交流が深まったともいえ
るね」と、彼らは笑った。<br />
一緒に一晩を過ごしてみたい気持ちに駆られながら、筆者は後ろ髪を引かれつつ、その場を去った。</p>



<p><b><span style="color:#993300">深夜に襲った暴力</span></b></p>

<p>悲劇的な通知が入ったのは、その二週間後だった。４台のユンボ（油圧ショベル）を率いた１００人以上の暴漢が来て、当番をしていた芸術家たちを袋叩きにしたのだった。そこには運悪く日本人芸術家のＩさんもいた。Ｉさんは今回のコア・メンバーではなかったものの、最もひどく殴られた一人で、頭に４針縫う怪我を負い、背中にも打撲の痕が残ったという。手にも、抵抗のさいや、壁を乗り越えて逃走するさいに残った傷が残った。</p>

<p>暴力は一人を十数人で殴るという残酷さだった。暴漢らはまず相手の携帯電話などの所持品を取り上げると、男女構わず殴る蹴るの暴行を加えた。別の部屋にいた仲間の連絡を受けて応援に駆け付けた００８芸術区の芸術家も、強く抵抗したため、かなり深い傷を負ったという。Ｉさんは携帯こそ取られなかったものの、所持していたデジタルカメラが奪われ、木っ端みじんにされた。その後、暴漢らによってカメラのメモリー・カードが抜き取られたこともわかった。</p>

<p>悲劇の翌日、知人が芸術区を訪れると、当直室の天井が崩され、著名な彫刻家が作品の倉庫に使っていた巨大な建物にも、大きな穴が開けられていた。</p>


<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/artplace008_02.jpg"  rel="shadowbox[art008_special]" title="著名彫刻家のアトリエ"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/artplace008_02.jpg" width="420" height="285" alt="artplace008_02.jpg" /></a><br />【著名彫刻家のアトリエ】</center></p>

<p>そもそも、郊外の広大な芸術区が、なぜこうも一気に壊されることになったのか。これは、年々深刻化している住宅不足などの問題を解決するため、「都市部と周辺の農村部の一体化」をはかる政策が進められているからだ。</p>

<p>今回は再開発の対象外となっているある芸術区に住む芸術家によれば、北京の郊外には、「城中村」といわれる出稼ぎ労働者の居住区がいくつかあるが、狭い地域に多数の人が居住しているため、権利関係が複雑で、立ち退かせるのも容易ではない。そこで、権利関係が比較的単純な芸術区がとりあえず優先的なターゲットになったのだ、という。</p>

<p>また、中国では近年、家屋の取り壊しの際に適用される条例が、「物権法」と矛盾しない、より家屋の所有主に配慮したものへと改定される予定で、その実施前の「滑り込み」再開発という見方もある。これに加え、春節直後に、芸術区の一部を含む北京郊外の大量の土地の開発権が市場に流れ込むというニュースが流れており、なるべく早く「すべてを更地にして波に乗りたい」という事情もあるらしい。</p>

<p>暴力事件が起こる前に数回「脅し」に訪れた取り壊し業者が口にしたという、「この春節中に立ち退いてくれなきゃ、俺はもうこの業界で食って行けない」という言葉が、彼らの焦りをよく物語っている。</p>

<p><b><span style="color:#993300">デモで権利を主張</span></b></p>

<p>殴られた直後、一部の芸術家たちは、たまりにたまっていた不満をぶちまけるように、長安街で１００人規模のデモ行進をした。暴力事件をめぐって取り調べを受ける過程で、真の黒幕に気づいた、という事情もあるらしい。</p>

<p>事件のあった日に駆け付けた警察は、すぐに犯人を追わなかったばかりか、被害に遭った芸術家ら以上に暴漢らの具体的な数を知っていたという。また、この事件に関し、北京では厳しい報道規制が敷かれ、以前は芸術区での動きを逐一追っていた『新京報』でさえも口を閉ざしていることが、この事件の黒幕をむしろ如実に物語っているように感じられてならない。</p>
<p>
さらに芸術家らの怒りを買ったのは、警察は暴力事件を「刑事事件」ではなく「治安上の事件」として処理しようとしていたことだった。もっともＩさんにだけは、「刑事事件」として扱うと約束したという。デモの後、警察は芸術家らに取り調べを行ったが、暴力事件には一切触れず、デモの首謀者や参加者に関する質問ばかりが行われたという。事件後、芸術区には警察によって監視カメラがとりつけられたが、この調子では、いったい誰を監視しているのか分らない。</p>

<p>その後、Ｉさんの件に関しては、中国のある機関を通じて日本大使館に事情説明、陳謝、捜査状況の説明、今後の方針の説明があったという。芸術家たちが人として当然の権利を享受し、暴力による被害の件も含めて、正当な額の弁償が得られることを、筆者は願ってやまない。昨年の中国での大ヒットドラマ「蝸居」でも描かれていたが、現在の中国では、結婚後も借家に住まざるを得ない人々が激増している。芸術区の事件は一見特殊な事件のようだが、家の賃貸において、借り主の権利が保障されるようになることは、小さな一歩ではあっても、多くの都市人口に影響を与える根本的な変化だ。行き過ぎた黒猫白猫主義を是正し、地主が横暴を極めた旧社会への逆行を食い止めるためにも、ぜひ平和的に解決してもらいたい。</p>

<p>Ｉさんは、傷の回復を待たずして、再び当番として芸術区に詰めるという。芸術家らの「抗い」はまだ続いている。「春」の訪れが待ち遠しい。</p>]]></description>
 <category>多田麻美</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/beijing_special001.html</comments>
 <pubDate>Fri, 26 Feb 2010 11:41:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>北京の胡同から／第１９回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/beijing019.html</link>
<description><![CDATA[<p>やむを得ない事情により、長らく連載をお休みしてしまい、申し訳ありません。
春節を機に心機一転し、再開させていただきます。ちなみに、先月1月に新しい
訳著『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/search?ie=UTF8&keywords=%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%B8%9D%E3%81%AE%E5%B9%BB%E7%8E%89&tag=shukousha-22&index=books&linkCode=ur2&camp=247&creative=1211">乾隆帝の幻玉——老北京骨董異聞</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=shukousha-22&l=ur2&o=9" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />
』（劉一達著、中央公論新社刊）が刊行
されました。こちらでは、民国期の北京を舞台にした、ストーリー性とディテー
ルの豊富な小説の形で、皆さんに北京の奥深い文化を楽しんでいただければ、と
願ってます。</p>


<h3 class="caption_m">継続か否か——保護と伝承の合間で揺れる廟会</h3>

<p>中国の最も盛大な祭日と言えば、やはり何といっても日本の旧正月に当たる春節
だろう。旧暦に基づいた多くの北京の行事が、さまざまな歴史的経緯から消失、
または商業化、形骸化の一途をたどっているなか、春節はまだ割合と伝統的な節
句としての雰囲気が濃厚な祭日の一つだといえる。</p>

<p>春節ならではの風習の中で、爆竹や餃子を食べることと並んで、大きな存在感を
誇っているのが、廟会巡りだ。廟会とはそもそも縁日に寺院の周辺に立った月ご
との定期市が由来で、かつては春節に限らず毎月開かれていた。文革をはさんで
一時期途絶えたが、その後政府のバックアップによって徐々に復活。今は毎年春
節が近づくと、北京では次の廟会をめぐる話題が新聞を賑やかに埋めている。</p><p>「廟」は広く「祠や寺」を指す言葉で、広義には仏教寺院も含まれる。だが現在
の北京では、「廟会」のほとんどが公園で行われており、きちんと「廟」で行わ
れているものは極めて少ない。<br />
実はかつて、もっとも廟会らしい雰囲気があるといわれたのは白雲観の廟会だっ
た。白雲観とは、元代の長春真人にゆかりの、北京でも最も古い道観の一つ、こ
こで廟内に彫られた石猿を撫でる行為は、一年の初めの縁起担ぎとして、北京っ
子たちの間では広く知られている。廟会の日に、石猿をなでようとする参拝客た
ちが門前に長蛇の列を成す様子は、春節の北京の風物詩となってきた。<br />
だが、人々が殺到することで、文化財の破壊も進むことを恐れた政府は２００８
年より白雲観での廟会開催を中止した。中止といっても、「廟会」として人を集
めることや、出店や各種催しを禁止しただけで、白雲観の参拝や見学は許可して
いる。ある意味で、現在使われている「廟会」という言葉が、いかに強い商業的
要素をもっているかが伝わってくる。</p>

<p>ところで、これまで筆者はためらいつつも廟会を「縁日」と訳してきた。だが、
今回起きた廠甸の廟会の移転騒ぎをきっかけに、今後の北京の廟会については、
もうこの言葉を使うのは無理かもしれない、と強く感じさせられた。</p>

<p>そもそも、廠甸の廟会とは、４００年の歴史を誇る廟会の一つ。火神廟、呂祖
祠、土地祠の門前市が発展したもので、琉璃廠と近接しているため、かつては骨
董関係の露店も多く、掘り出し物を探そうとする文人らに広く愛されたらしい。
改革開放後に廟会が再興されてからは、一般の道路を利用した、唯一チケットを
買わなくてよい廟会だったこともあり、毎年多くの人が殺到。筆者も足を運んだ
ことがあるが、広い通りを人がぎっしりと埋め尽し、露店での買い物はおろか、
露店に近づくのさえ難しい状況だった。</p>


<p>こういった人の流れがもたらす混乱を避けるため、この廟会を今年から同じ宣武
区の陶然亭公園に移す案が出された。だが、歴史の古い廟会であるだけに、「場
所を移しては名実が一致しなくなる」、「４００年の伝統を絶ってしまうの
か？」など、市民や文化財関係者の間で様々な反論が続出。だが結局はボラン
ティアによるお宝鑑定など、琉璃廠の文化と密接に結びついた催しを除き、露店
の出店はすべて陶然亭公園に移ることになった。</p>

<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_01.jpg"  rel="shadowbox[beijing019]" title="陶然亭に移された「廠甸廟会」の様子01"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_01.jpg" width="300" height="201" alt="tada019_01.jpg" /></a></center></p>


<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_02.jpg"  rel="shadowbox[beijing019]" title="陶然亭に移された「廠甸廟会」の様子02"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/tada/tada019_02.jpg" width="300" height="201" alt="tada019_02.jpg" /></a><br />
【陶然亭に移された「廠甸廟会」の様子】</center></p>


<p>その具体的な変化が気になり、今年の春節３日目に陶然亭公園を訪れた。初日の
来訪者数が以前の４割に減ったと報道されていた通り、客が減った分、歩きやす
くなっていたが、露店の種類にせよ、雰囲気にせよ、特に他の廟会との違いは目
立たず、周囲の交通渋滞も依然として深刻だ。係員の話でも「廠甸の廟会はすべ
てこちらに移った」とのことで、やはりこちらの人の意識では、廟会イコール露
店の集まりなのだ、という印象が深まっただけだった。しかしこうなると、なぜ
ここを「廠甸の廟会」と呼ぶのか？という疑問も抑えることができない。もちろ
ん、今回の移転問題に関して、市民に文化の伝承をめぐる討論の場が開かれたこ
とは大きな進歩だとしても。</p>

<p>一方で、商業行為としての廟会は過熱化する一方だ。昨年もご紹介した地壇公園
の廟会は、他のいくつかの廟会とともに、２００４年から敷地の一部の出店権
を、競売にかけ始めた。法外の額で一番有利な場所を手に入れた者は「標王」と
呼ばれ、新聞でも実名を挙げて報道。今年の標王は史上最高額の３０万で７日間
の出店権を手に入れた谷勝立さんだった。その露店のシシカバブは何と一本２０
元で、他の露店での価格の４倍。標王の勝利にあやかって「縁起物」としてこれ
を買う人はいそうだが、それにしても本当に元はとれるのだろうか？と不思議で
ならない。</p>

<p>実際、「赤字組」は続出しているらしい。近年、大型の商業施設などで、テナン
ト同士が互いに連携して管理側の契約違反や横暴ぶりに反抗するケースが目立っ
ているが、その流れを継いでか、今年の地壇公園の廟会でも、出店権を高額で競
り落とした１００余の露天商が、「今年は客の流れが余りに悪い、元手を大きく
すってしまう」として、集団で抗議を始めた。もっとも公園側は、「商売とはそ
もそも浮き沈みがあるもの、リスクをめぐる説明も事前にしてある」とそっけな
いもようだ。<br />
オリンピック景気にあやかってオリンピック・センターで始まった廟会に至って
は、今年の余りの入場者の少なさに、予定開催期間の半分の３日間で閉幕。露店
商たちが「宣伝不足によるものだ。出店料を返せ！」と交渉をしているという。</p>

<p>廟会で大損をした露店商に対する管理側の言い訳として、「廟会は文化的な活動
であり、純粋な商業目的だけで開いているのではない」というものがある。確か
に、無形文化財関連のブースは入口近くに設けられ、出店の費用の面でも優遇さ
れているなど、文化遺産の保護と復興のために廟会の場が利用されているのは確
かだ。だが先述の通り、廟会そのものについては、その本来の文化的・歴史的背
景が忠実に受け継がれているとは言い難い。</p>

<p>今年初めては円明園で「皇室文化」をテーマにした廟会が始まり、注目を集め
た。このように、廟会が人々の嗜好や社会の変化に応じて変容していくことは、
否定しないし、むしろ当然だと思う。だが、一部の巨大廟会に大勢の客が殺到し
ている現在の状態は、結局のところ交通の混乱や不法な露店商の横行などを招い
ており、決して望ましいとはいえない。<br />
北京には実は半分忘れられた古い寺院址がたくさんある。歴史的建築物の保護や
露店で販売される食品の衛生管理、駐車スペース、そして宗教や信仰の問題など
とも関わるため、実施上の難しさは十分理解できるが、やはり、廟会の本来の意
味を一部たりとも伝承し、これらを利用した名実相伴う「廟会」をもう少し復活
させて欲しい、と心から願わずにはいられない。
</p><br />]]></description>
 <category>多田麻美</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/beijing019.html</comments>
 <pubDate>Mon, 22 Feb 2010 04:03:19 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>狼の見たチベット／第１４回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/ohta014.html</link>
<description><![CDATA[<p>我輩は狼である。
２月１４日と言えばバレンタインデーだ。お前さんたちの国、日本では女性が男性にチョコレートを送り、代わりに一ヵ月後に高価な品々を巻き上げるという変わった風習があると聞く。</p>



<p>バレンタインの起源はローマ時代に遡る。当時、ローマ帝国は兵士の結婚を禁止していた。故郷に愛するものを残すことで、兵士が命がけで戦えなくなることを避けるための法だった。<br />
しかし、法で禁止したところで人の心からの思いは変えることなどできはしない。どうやら古代ローマの為政者は、現代のどこぞの為政者と同じ程度に人の心を理解できない存在だったようだ。<br />
そんな恋人たちの思いをかなえるために、秘密裏に結婚の儀を行っていたのがキリスト教の僧侶であるバレンタインだった。しかしながら法を破って結婚をさせていたバレンタインはローマ帝国によって処刑されてしまう。その処刑された日が、バレンタインデーの発祥であるというのがキリスト教的な起源だ。<br />
ところで、その日はローマでは女神ユノの祝日であった。ユノはギリシア神話でいる女神ヘラ（ゼウスの妻）で、結婚と女性の守護者であった。結婚の女神の祝日に、秘密裏に結婚の儀を行っていた異教徒の僧侶を処刑したというのは事実だろうか。我輩ならば、結婚を司る女神の不興を蒙るのを避けるために、別な日を選んで処刑する。<br />
どうやらキリスト教の中でもバレンタインの処刑は史実であるという根拠が薄いと考えられているようで、今現在はカトリックの正式な祝日からは外されていて、あくまでも民間的な習慣に過ぎないそうだ。<br />
それでは、なぜそんな伝説が生まれたのだろうか。キリスト教以前にも、その日は女神ユノの祝日であったのだから、愛に関わる記念日の側面もあったと考えることはたやすい。聖者バレンタインの伝説を創造することで、愛に関する記念日を消すことなく、異教の女神への信仰を葬り去るための、初期キリスト教の一端ではないだろうか。<br />
同じようなことは、世界のいろんな宗教で起きている。ギリシア神話を知っている人は、主神ゼウスの女癖の悪さもよく知っているかと思う。ギリシア神話にはゼウスの恋人に関する神話が山のようにある。<br />
しかし、これも何の理由もないわけではない。古代ギリシアには多くの部族が住んでいて、それぞれの神を祈り奉っていた。<br />
ひとつの部族が、他の部族と戦い勝利した後、支配するうえで、この異なる信仰というやつは大きな障害となった。<br />
違う信仰を持つことは、違うアイデンティティを持つことで、違うアイデンティティがある限り、相手を完全に同化・支配することはできない。<br />
中国が、チベットを支配する上で、幾千もの寺院を破壊し、多数の僧侶を殺し、公衆の面前で尼僧たちを犯したのも、チベット人から仏教というアイデンティティを奪い、支配しやすくしようという意図からであったのだろう。<br />
ところが、古代ギリシアの蛮人たちは、現代の共産党政府ほどには野蛮でも、愚かでもなかった。征服した部族を同化するために、彼らは虐殺や破壊を行う代わりに、「実は君たちの神も、私たちの神も名前が違うだけで、本当は同じ神なんだよ」ということにしていった。<br />
征服者の主神は、被征服者の主神の神話を受け継いでいった。結果、ゼウスは多くの神話をもち、多数の恋人を持つことになった。<br />
ロマンティックとされる、バレンタインやギリシア神話の中にも、征服と支配のドロドロとした歴史が眠っている。人間という生き物は、良くも悪くも興味深い。</p>


<center><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/ohta/ohta014.jpg" width="400" height="286" alt="ohta014.jpg" /></center>


<p>さて、２０１０年の２月１４日には、バレンタインデーだけでなく、別の祝いの日でもあった。<br />
チベット人たちのロサル（新年）である。公平を期すために言えば中国人たちの春節も月の運行で決まる太陰暦であるためにこの日から始まるわけだが、十数億もいる彼らのことだ我輩が語らなくても、嫌というほどいろんな場所で語られるだろうから、彼らの春節については多くは語る必要はないだろう。<br />
近年、古来からの中華街のある街だけでなく、日本各地で春節を祝う行事が開かれているので、自ら足を運び、楽しんでくることで知るのもよいかと思う。もっとも日本各地で今まで祝われていなかった春節が祝われるようになっているということは、考えようによっては空恐ろしく感じる部分もあるが。</p>

<p>ともあれ、我輩が語るのは、中国人の春節ではなく、チベット人のロサルである。<br />
今年のロサルを祝うかどうかは、一部のチベット人の間に葛藤があったと伝え聞く。<br />
２００８年３月で捕らわれた人々が、まだ自由になっていないということがひとつ。<br />
中国政府が、平静を強調するためにロサルを祝うことを強要していることへの反発がひとつ。<br />
そんな中で、一人のチベット人の発言が印象に深かったので、お前さんたちにも伝えることにしよう。<br />
そのチベット人は、テンジン・ドルジェと言い、現在アメリカに住んでいる。<br />
彼は、なかなか興味深い人間なので、彼については、今度ゆっくり話そう。<br />
彼は、こんな風に言っている。<br />
</p>

<p>〜・〜・〜・〜・〜・</p>

<p>ロサルはチベットのものだ。<br />
ロサルはチベットの人々のためにある。<br />
誰も私たちから奪うことはできない。 </p>

<p>
自分はチベット固有の祭りが意味をなさないような遠い外国に住んでいる。<br />
毎朝、毎晩混雑している地下鉄で戦い、見知らぬ人たちのまなざしを逃れ、自分の歩く地面 は、山の故国から遠く海と空を隔てている。<br />
なぜロサルを祝う必要があるのか？<br />
西暦での新年はもう終わってしまったのに。</p>


<p>さて、答えは簡単だ。<br />
どこに住んでいようが、自分はチベット人だからだ。<br />
チベット人が自分たちの伝統を祝わなくてどうするのだ。 </p>

<p>中国当局も、チベットの一部の地域ではチベット人がロサルを祝うのを奨励しているという。<br />
花火への補助金を出しているところもあるそうだ。<br />
言うまでもなく、ロサルを「乗っ取ろう」という中国当局の哀れな試みは、ロサルを中止するまで思い詰めていたチベット人たちに反射的な怒りを引き起こさせた。<br /> 
ロサルを祝うのは中国当局の指示によるものだ、というのは間違いだ。<br />
同様に、中国当局が祝うように言うから、ロサルを中止する、というのも間違いだ。<br />
伝統を尊重 するならば、中国当局への賛否ぐらいで、そんなに簡単に左右されるべきではない。<br />
中国は自分たちの伝統に口を出さないでほしい。<br />
私たちチベット人は、いつ、どこで、どのようにして、いかにロサルを執り行うか、私たち自身で計画して活動せねばならない。 <br />
来年も、その翌年も、中国当局はロサルを祝うようにと、私たちに言うだろう。<br />
ただアピールのために毎年ロサルを中止すべきだろうか？ </p>

<p>中国政府に本当に痛手を負わせたいと思うなら、彼らを排除してロサルを行うべきだ。<br />
そして、私たちは自分のアイデンティティを主張するのに、この機会を利用すべきだ。<br />
チベットの食べ物を食べ、チベットの衣服を着て、チベット語を話し、チベット語でロサルのカードと表札を書き、バターランプを灯して、コルラ（右僥）する 。<br />
カターを扉にかけ、ルンタを風に泳がせ、ツァンパとお香の匂いで空気を満たす。 </p>

<p>チベット本土からの記事や詩でも、中国人から私たちをひきはがし、気力を養い、私たちのアイデンティティを確認する機会としてチベット人たちがロサルを祝おうと しているという。<br />
ハートマークに"Tibet"という文字を添えて、ヴァレンタインデイとロサルが重なることを示す人も多いという。<br />
例えばラサでは、ほとんどの人たちがロサル前の買い出しを終え、それぞれの自宅でロサルを祝おうとしていると聞く。<br />
２年近くになる事実上の戒厳令下で、グチュの熱い鍋や、デシーの甘い皿を友人や家族と囲んで、精神を養うのだ。</p>

<p>悲しみは象徴的な振る舞いとしては大切だけれど、政治的には一定の価値しか持ち得ない。過度の悲しみは、死者を生き返らせるよりむしろ、生きている人を死に近づけてしまう。<br />
本当は、自由へのチベット人の戦い（命をかけた戦い）、草の根からの活動による戦いを進めることが、殉教者を勇者たらしめているのだ。<br />
人々が参加し たいと思うのは、躍動的で包容力にあふれ、魅力的でダイナミックな活動だ。<br />
決して、自己憐憫と無限の悲しみと涙の海に一緒に溺れたいと思わないだろう。 <br />
私たちの悲しみではなく、私たちの精神で、私たちの嘆きではなく、私たちの行動で、私たちとその抑圧者とを区別しよう。<br />
行動を一歩進めたいのなら、そして犠牲になった人々に敬意を表したいのなら、チベット人として、行動によって、誓いによってロサルを行うべきだろう。 <br />
今年のロサルには、ぜひ毎週何をするとか、できれば毎日何をするとか、そういう決心をしてほしい。それがチベット人を強くし、中国帝国を弱めることになるのだから。 </p>

<p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
【小社出版書籍のご案内】</p>

<div class="leftbox"><a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ"><img src="http://www.shukousha.com/media/News/satsugo_cover.jpg" width="120" height="166" alt="satsugo_cover.jpg" /></a>
</div><p>書名：<a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ">殺劫（シャーチェ）チベットの文化大革命</a><br />
著者：ツェリン・オーセル（茨仁唯色、Tsering Woeser）<br />
訳者：藤野　彰（ふじの・あきら）<br />
　　：劉燕子（リュウ・イェンズ）<br />    
Ａ５並製／４１２頁<br />
定価 ４,８３０円(税込)<br />
発行：集広舎<br />
発売：<a href="http://www.cbshop.net/" class="znkwl" target='_blank' title="中国書店">中国書店</a><br />
ISBN：978-4-904213-07-0　C0022</p>

<p>チベット「封印された記憶」の真実——。</p>

<p>一九六六年から十年間、チベット高原を吹き荒れた文化大革命の嵐は、仏教王国チベットの伝統文化と信仰生活を完膚なきまでに叩き壊した。現在も続くチベット民族の抵抗は、この史上まれな暴挙が刻印した悲痛な記憶と底流でつながっている。長らく秘められていた「赤いチベット」の真実が、いま本書によって四十余年ぶりに甦る。</p>

]]></description>
 <category>太田秀雄</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/ohta014.html</comments>
 <pubDate>Tue, 16 Feb 2010 05:05:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２５回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/amamiya_025.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２５回</h3>
<div class="leftbox">
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4901998536" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書　名　　　『維新　　岩倉具視外伝』<br />
著　者　　　堀　和久<br />
発行所　　　幻戯書房<br />
発行年月日　２０１０年２月１日<br />
定　価　　　本体１，９００円＋税</p>

<p>明治維新は鎌倉以来連綿と続いた武家社会に終止符を打った政治運動であるが、
それとともに、平安以来の朝廷の伝統である摂関制度を終焉させた変革であっ
た。しかも、信じ難いことに、和宮降嫁で失脚し、昨日、赦免されたばかりの岩
倉具視（１８２５〜８３）が翌日には衣冠束帯に身を正してあらわれ、幕府と朝
廷の政治組織の解体を上奏していることである。<br />
岩倉具視は下級の公家であった。公家社会は信じがたいほどの閉鎖社会であり、
どれほど才能才覚があっても、下級の公家が出世する道は限られていたが、にも
かかわらず、なぜ岩倉は閉鎖社会から躍り出て、公武の旧政治体制の廃止を宣言
するという離れ技をやってのけることが出来たのか。<br />
　本書は副題に「岩倉具視外伝」とあるように、主人公である高家・大沢基保
（もとやす）の回想を通じて、様々な抗争、事件、策謀が入り乱れ、しかも欧米
列強の思惑も絡んで同時進行した幕末維新という時代と、その時代を生きた岩倉
具視を語るという手法をとった歴史小説である。<br />
明治１６年(１８８３)７月２０日、岩倉具視は逝去するが、作家は、岩倉逝去の
この日の朝の岩倉邸の様子を、「あたりが静まりかえっている早朝。東京丸の内
の、皇居が仰ぎ見られる一角。盛夏とはいえ、一帯に黎明特有の冷気がたちこめ
ている」とスケッチすることから物語をスタートさせている。<br />
その岩倉邸の門前に佇む一人の青年が、「ぜひ会いたい」と具視当人が乱れた筆
致で書いた一通の書簡を持った大沢基保である。急迫の事態と察知した基保は、
遠州堀江（静岡県浜松市）の浜名湖畔の居住地から取るものもとりあえず岩倉邸
に駆けつけたのであった。しかし、岩倉家の門番は貧しい身なりの基保をすげな
く門前払いにする。<br />
門番の仕打ちに怒るどころか基保は「御一新後のこの１０年余で、何もかにもが
変ってしまったのだ」と世の激変に思いを致す。岩倉具視は驚異の出世街道をひ
た走るが、一方、高家であった大沢家は急落し、基保は過去の栄光を捨て、浜名
湖畔で一介の漁夫として自給自足に近い暮らしを送っているのだった。<br />
江戸時代の高家とは、元禄赤穂事件の吉良上野介のごとく、大大名並みの高い官
位を持つ武家であり、公家の職種も兼ね、朝廷と幕府の間を取り次ぐ特殊な階級
であった。幕末には二十六家あったが、大沢家は藤原氏の血脈に連なる名門であ
ることから家康以来、朝廷よりの将軍宣下などの儀礼を専ら司った。<br />
基保の回想は文久元年（１８６１）１０月の皇女和宮降嫁にはじまる。<br />
「牛に牽かれた和宮の豪奢な乗り物に最も接近したあと、二騎の公卿が並んで蹄
の音を響かせていた。ひとりが具視で、具視は降嫁実現に尽くした功で右近衛権
少将に昇進し、公家側の警護責任者に抜擢された。もう一騎こそは、まだ紅顔の
美少年という顔貌であるが、筋骨たくましい高家の大沢基保である」。基保が
「幕府側付添の重責を仰せつかったのは、将軍家茂の強い意向」であった。</p>　　
　　　　　
<p>和宮降嫁の交換条件に攘夷実行を幕府が約束したことが､幕府の衰退を早め､命取
りの大きな原因となるのだが、基保はそうしたことには無頓着で、歳の離れた田
舎娘・ミチと一生を共にすることを夢見る青年として造形されている。<br />
また、基保は、しばらく、岩倉の辞官落飾と行方不明を知らなかった。孝明天皇
の意に反して和宮降嫁を進めたという理由で、岩倉は姦物と蔑まれ朝廷から追放
された。公武合体がなされた文久元年の夏、京都では天誅テロがはじまり、岩倉
は秋には洛北・岩倉村を潜伏の地として息をひそめざるを得なかったとは、基保
が後年、聞き知った当時の政情の荒筋である。<br />
文久３年（１８６３）２月１３日、将軍家茂の上洛行列が江戸を出発する。実に
約２３０年ぶりの出来事であるという将軍の上洛に、基保は随行した。３月１１
日、孝明天皇の賀茂社行幸。家茂は公家の後尾につくという屈辱の行列を強いら
れるを目の当たりにして、将軍の騎馬に従う基保は憤懣やるかたない。<br />
　第二次長州征伐のために再上洛した家茂は慶応２年（１８６６）７月２０日、
大坂城で死し、１２月２５日、孝明天皇が崩御する。「基保は、朝幕の最高位を
占める両者の連続急死に、「現今は一寸先は闇の時代、将軍が没し、天皇が隠れ
る世である。曖昧を装って時流を乗り切るしかない」と茫然自失の体であった。<br />
京や江戸ではいざ知らず、地方では、暗殺の噂も流れた。<br />
「腐敗と無気力の幕府を倒し、天朝も一新、その天朝によって世を転換する、維
新回天の事業を急がねばならせないのじゃ」と、再会を果たした蟄居中の岩倉
は“王政復古”を熱く語る。「二股膏薬、蝙蝠野郎と陰口され、時として険悪だ
と評せられる、岩倉具視には別の表情があった。」岩倉の魅力にひきつけられた
基保は「実のところ、具視卿が描く“事”をしっかり飲み込めていないが、た
だ、具視卿のお役に立ちたいという思い」にかられる。慶応３年（１８６７）夏
より急速に広まったお陰踊り（ええじゃないか）は具視が隠棲地・岩倉の山一つ
向こうの村の八瀬の赦免地踊りにヒントを得たものであった、とは作家の造形で
あろう。岩倉の内命を受け、基保はごく内密の闇の仕事に手を染める。三河、尾
張地区のお陰踊りの仕掛け人は基保とミチのコンビであった。<br />
基保の回想はいよいよ佳境に入る。「慶応３年１０月になると、政局は急変の様
相を呈した。底に沈んだままの土砂が蠢きだす、不気味な予兆をあらわにする地
震直前の大海のような……」と作家は当時の歴史背景を描写している。<br />
１０月３日、慶喜は幕政返上の使者として高家筆頭大沢基寿に上京を命ずる。基
寿は基保の異母兄である。６日、軍艦で大坂に着き、夕方、将軍慶喜が待つ京の
二条城に入った基寿・基保の兄弟は城内に渦巻く殺気と混沌に身震いする。兄弟
が二条城高家部屋で無為の時を過ごすうちに、運命の日の１０月１４日、慶喜は
誰に謀ることもなく、朝廷に大政奉還を上表する。<br />
徳川家臣としての高家・大沢兄弟は劇的な場面に居合わせてすべてを目撃したわ
けではなく、御所や二条城、大坂城でくりひろげられた熾烈な騒動を直接には知
らないのだが、大政奉還からいわゆる王政復古のクーデターを経て戊辰戦争に至
るくだりは生々しい。<br />
慶応４年（１８６８）正月にはじまる戊辰戦争。大沢兄弟は幕臣としては重大な
裏切りであると知りつつ、新政府軍の東征に協力し、岩倉の援けもあって、維新
のドサクサに兄・基寿は堀江藩を立藩している。<br />
基保は徳川政権のあまりにもあっけない崩壊が信じられない。「大政奉還は暴
挙」とあの当時、基保は確信していたが、幕府の惨めなほどの崩壊は慶喜ひとり
の責任ではあるまいとも思うのだ…………。<br />
本書の成功の因は大沢基保という高家を主人公に配した構図の妙であろう。「幕
臣であって、そうとも言えず、朝臣であって、そうとも断じえない鵺のような存
在の高家」が幕末維新の際にどのような役割を果たしたのか。基保という青年高
家が岩倉具視と和宮降嫁を機にして知り合い、公武双方に足がかりを持ち、「こ
のような鵺に将来はあるのか」と必死に生きていく姿が爽やかでありかつ逞し
い。<br />
意外にも同い年と知るや、基保に親密の情を示し、基保の近侍を殊の外、喜んだ
１４代将軍家茂。９歳年下の将軍家茂を将軍とは思わずに軽視し、立て板の水の
雄弁ではあるが、誠意がなく、実行力もない「最後の将軍」慶喜。陰険な策謀家
という評判の高いが、実際は多弁で、よく笑う岩倉具視。作家の描く人物造形も
納得のいくものであった。<br />　
本書の冒頭の、基保が岩倉家の門番に門前払いされるシーンに、立ち返る。<br />
　基保は万難を排して、遺体と対面すべきであったかと自問し、悩んだ挙句に自
答する、そのことばが味わい深い。</p>


<p>「生きて会えばこそ、何らかの意味はあったにせよ、死別してしまえば、思い出
だけに留めておくのが正しいのではあるまいか」</p>

<p>死別してしまえば、思い出だけに留めておきたい、そのような人こそ、読者であ
る我々の人生においても、かけがえのない人ではなかろうか。<br />
（平成22年2月4日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/amamiya_025.html</comments>
 <pubDate>Fri, 5 Feb 2010 05:42:56 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>狼の見たチベット／第１３回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/ohta013.html</link>
<description><![CDATA[<p>我輩は狼である。改めて、新年の祝いとやらを申し上げる。<br />
新年を祝うというのは、人間独自の風習なので、本来我輩がつきあう義理はないのだが、我輩の話を記録している人間が挨拶したがっていたので挨拶をすることにした。<br />
記録係と言えば、この人間、２００９年末に信号待ちで停車中に後ろから追突されて、現在ムチウチとやらに苦しんでいるらしく、我輩の話を記録してお前さんたちに伝える作業が遅れがちになっている。そのうち元気になるだろうから気長に待ってくれればうれしい。</p>

<p>今回は、新年ということで正月について語ろうと思う。<br />
チベットにも正月はある。チベット語でロサルと呼ぶ。<br />
チベットには独自のチベット暦があり、チベット暦での新年を祝う。<br />そのため、西暦換算では毎年不特定の日がロサルとなる。<br />
西暦２００９年には２月２５日に、チベット暦の２１３６年が始まった。<br />
西暦２０１０年の２月１４日に、チベット暦の２１３７年が始まる。<br />
このチベット暦の新年（ロサル）とは、どのように決まるのだろうか。<br />
チベットの一ヶ月は、月の周期に合致している。<br />
新月の日が一ヶ月の始まりで、次の新月が次の月の始まりである。<br />
このような月の満ち欠けに基づく暦を太陰暦と呼ぶ。<br />
現在、一般に使われている西暦は、太陽の周りを地球が回る周期を一年とするもので、太陰暦に対して太陽暦と呼ぶ。<br />
太陰暦の一ヶ月は、太陽暦の一ヶ月より短いため、太陽暦と太陰暦では年度がどんどんずれていってしまう。<br />
それを補正するために、数年に一度、一年を１２ヶ月でなく、閏月を加えた１３ヶ月として太陽暦との年度の差を最小限にするように改良を加えた太陰暦を、太陰太陽暦と呼ぶ。<br />
チベット暦は、この太陰太陽暦の一種となる。</p>

<p>話をロサルのことに戻そう。ロサルの祝いは、前年の終わりから始まる。<br />
新年を迎える１、２週間前からチベット人たちはロサルの準備を始める。<br />
昔、まだコンビニなど無い時代に、日本の年末でも正月の準備に買い物をしていたのと同じ感じなのかもしれない。<br />
日本でも、かって各家庭でおせち料理を作っていたように、チベットにもロサルのためのご馳走を作る。<br />
ツァンパ（乾煎りしたハダカムギ、一般にチベット人の主食と言われている）を少量のバター茶で練って団子状にしたものを、チーズとチャン（チベットの酒）で煮込んだものや、デシと呼ばれる炊き込みご飯などがよく知られている。<br />
デシは、赤い色をした炊き込みご飯で、一見日本の赤飯を連想させる。赤飯が古代の赤米（今日本で一般に食べられているジャポニカ米と、東南アジアで食べられているインディカ米の中間的な品種であったといわれている）の色を真似たものを吉事に食べるという風習であることを考えると、チベットでも同じ赤米を食べていた時代があるのかもしれない。もっともお前さんたちが肉牛が食べている飼料のブランドなど気にしないのと同様に、我輩にとってはお前さんたちが食べている米の種類などどうでもよいことだが。<br />
しかし、赤飯を思い浮かべながらデシを食べるとめんを食らうことになる。デシの赤い色は木の根によってつけられているもので、赤飯とは似ても似つかない味だからだ。ちょうどバター茶の香りをかいで、甘いミルクティを想像しながら口に含むと、大きな衝撃を受けるのと似ているかもしれない。</p>
<div class="leftbox"><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/ohta/ohta013.jpg"  rel="shadowbox[ohta013]" title="「モモ」と呼ばれる蒸し餃子に似た食べ物"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/ohta/ohta013.jpg" width="200" height="223" alt="ohta013.jpg" /></a></div><p>また、モモと呼ばれる蒸し餃子に似た食べ物もある。これは現在チベット文化圏各地で食べられており、日本でもネパール料理店などにいけば食べることができる。<br />
モモ自体が本来は特別な日のご馳走であるが、大晦日の前の晩には特別なモモを食べる。モモの中に炭や砂糖、岩塩、唐辛子、ヤクの手等様々なものをいれ、自分が食べたモモの中に何が入っていたかで占いをするというものだ。一家の団欒の場でのパーティグッズのような役割を果たしているといえるだろう。<br />
他にはカプセという練った小麦粉を揚げた菓子がある。これも本来はお寺以外ではロサルにだけ食べるお菓子だったらしいが、今はそこまで特別なものでもないようだ。しかしロサルの前になると、特別な大きな花のような形のカプセを作り仏様に備える。新年になってしばらくして、仏様の前から下げてから食べる。硬くなってしまっている場合は、バター茶に少し浸して食べたりすることもあるようだ。我輩には味はわからぬが、人間どもはうまそうに食べている。</p>


<p>日本で正月には門松や鏡餅等の正月飾りを置くが、チベットにもロサルの飾りがある。<br />
さっきまで並べた食べ物と違い、我輩好みの飾りだ。<br />
すなわち「羊の頭」だ。頭を飾りにしたあとの残りの肉を我輩にくれれば言うことなしなのだが、残念ながら残りの肉はチベット人たちが食べてしまう。<br />
欧米のキリスト教徒たちからみたら、悪魔崇拝の象徴に見られかねないが、チベットでは昔から羊の頭をロサルに飾る風習がある。<br />
チベット人が遊牧社会であることが、この正月飾りからもよくわかる。<br />
なぜか、中国政府の主張では中国が侵攻する前はチベット人の大半は農奴だったそうだが。<br />
ところで、残念なことに、最近は本物の羊の頭でなく、瀬戸物やプラスチック製の代用品ですます家庭が都市部を中心に増えてきているそうだ。<br />
他にも年始周りで訪れた家の玄関先でツァンパを空に向けて撒く等、ロサルにはいろいろ独特の風習がある。
</p>


<p>このように毎年祝われるロサルだが、２１３６年（西暦２００９年）のロサルは世界中のチベット人社会でロサルの祝いが自粛された。<br />
２００８年３月の騒乱で多くのチベット人が犠牲になったことを悼んでのことだった。<br />
これに対して、中国政府はチベット本土のチベット人たちにロサルの祝いを行うことを強制した。チベットが平静であるというアピールのためだった。<br />
祝いたくないときに、祝うことを強要される。中国政府は人の心まで力でどうにかできると思っているのだろうか。
</p>



ダライラマ法王日本事務所で毎年チベット暦のカレンダーの通販が行われています。
２０１０年分は完売しましたが、関心がある方は年末にチェックしてみるのもよいかもしれません。

<a href="http://www.tibethouse.jp/japan_office/calendar2010.html" target="_blank">http://www.tibethouse.jp/japan_office/calendar2010.html</a>

<p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
【小社出版書籍のご案内】</p>

<div class="leftbox"><a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ"><img src="http://www.shukousha.com/media/News/satsugo_cover.jpg" width="120" height="166" alt="satsugo_cover.jpg" /></a>
</div><p>書名：<a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ">殺劫（シャーチェ）チベットの文化大革命</a><br />
著者：ツェリン・オーセル（茨仁唯色、Tsering Woeser）<br />
訳者：藤野　彰（ふじの・あきら）<br />
　　：劉燕子（リュウ・イェンズ）<br />    
Ａ５並製／４１２頁<br />
定価 ４,８３０円(税込)<br />
発行：集広舎<br />
発売：<a href="http://www.cbshop.net/" class="znkwl" target='_blank' title="中国書店">中国書店</a><br />
ISBN：978-4-904213-07-0　C0022</p>

<p>チベット「封印された記憶」の真実——。</p>

<p>一九六六年から十年間、チベット高原を吹き荒れた文化大革命の嵐は、仏教王国チベットの伝統文化と信仰生活を完膚なきまでに叩き壊した。現在も続くチベット民族の抵抗は、この史上まれな暴挙が刻印した悲痛な記憶と底流でつながっている。長らく秘められていた「赤いチベット」の真実が、いま本書によって四十余年ぶりに甦る。</p>
]]></description>
 <category>太田秀雄</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/ohta013.html</comments>
 <pubDate>Tue, 26 Jan 2010 13:23:06 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>バウルの便り／第１０回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/baul010.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">インド西ベンガルの村からバウルの便り</h3>

<p><b>バウルの唄</b></p>

<i><p>傍に居る人を、<br />
　どうして、大声で呼んでいるんだい？<br />
お前が居るところに、その人も居るんだよ。<br />
　一体、誰を探し回っているのかね。</p>

<p>手の届くところに居る人を<br />
　ダッカへ、デリーへと探しに行く<br />
　いったい何の真似だい？<br />
　　お前のような哀れな人間は<br />
　　　　　　この世にいないさ。</p>

<p>稲光りが眼を眩ませ魅了するように、<br />
　　時々、この快楽の館に、<br />　
　　　　　　閃光を放つ<br />
　　いつもその傍に居るというのに、<br />
　　　　　　眼に入らないのさ。</p>

<p>部屋の中に、もうひとつの部屋。<br />
　そこに誰が住んでいるのか<br />
　　どうして見つけようとしないのだ。<br />
師、シラジ・シャインは　言う、<br />
　　　　愚かなラロンよ、<br />
　　　　　それはお前のその姿と<br />
　　　　　　同じ姿をしているのだよ‥‥‥‥と。</p></i>
<p>　ベンガルはもうすっかり寒気に入りました。毎年ベンガルの暦のカルティック（１０月後半から１１月後半）頃から朝夕冷えるようになりますが、このカルティック月に敬虔なボイシュノブ派の信仰者は早朝、クリシュナ神の御名を唱えながら村を廻ります。</p>

<p>　吐く息が白く、まだ晴れぬ霧とまじわりながら、素足で歩く信者の後方に流れて行きます。頭からすっぽりショールを巻き、手には小さなシンバル（鐃鉞）を持ちリズムを打ちながら、体中の力をこめた大きな声で神の名を唱え唄います。そして夜明けを知らせる鳥たちのさえずりは、まるでその祈りの声に合わせて唄っているか、合いの手を入れて応援しているように聞こえるものです。</p>

<p>　それにしても、ベンガルの初冬の象徴のようだったこの朝のナーム（神の名を唱えること）も、今年は心倣しか寂しく響きます。長閑だった私の住む村でも制限付の外出禁止令が出され村の中心部が機動隊で溢れるなど、共産党政権の存続が揺さぶられている今、トゥリノムル・コングレスの勢力が増し西ベンガル中のあちこちで紛争が絶えません。しかも、機動隊の暴行で瀕死の重傷を負っているのは村の共産党幹部たちという有様です。</p>

<p>　そんな情勢の中、バングラデシュに行く機会がありました。こちらの人たちは東ベンガルとも呼びますが、本来一つであった西ベンガルとバングラデシュ。同じ言葉を話し、ほぼ同じと言える自然環境、同じような顔、背格好。けれども、国境を越えるともおうこの「ナーム」を聞くことはありません。国境に向かうまで、まるで見送ってくれているかのように道路沿いのあちこちに立っていたヒンドゥー教の女神たちの象も姿を消します。陸路で国境を越えたせいもありますが、”ああ、そうだイスラム教区だったんだ”と、あらためて思い起こさねばならないほど、私は西ベンガルとバングラデュの間に宗教的な差異があるということを、ベンガル──ベンガル語を話す人たち──という共通項があることによって度外視してしまっていたようです。そもそも、東パキスタンとして分割されたのが、イスラム教徒が多い地区であると言う理由からであったにも拘らずです。</p>

<p>　そして、何日か滞在するうちに、今度は、”同じベンガル人なのに宗教がかわるとこんなにも習慣が違うのか”と思うようになりました。けれども、よく考えてみればヒンドゥー教ほど細かい作法の取り決めがある宗教はほかにないのであないでしょうか。「浄」、「不浄」の区別がはっきりしていて、例えば、食されているもの、食べ残し、食事の後の食器は不浄なものとしてそれらに触れたものはすべて不浄となります。左手は不浄で食事の際など右手しか使わないのはよく知られていることですが、だからと言って食事中の右手で何かを触るとそれは不浄なものとなってしまい、触られたものがもし食べ物だったりすると大変なことになります。ですから私が住むような田舎では、お菓子のようなものでもお皿に盛られたものをみんなで一緒に食べるというようなことはありません。皆でつつく日本の鍋料理や、食事中のお茶碗を持っておひつからご飯をよそうなどというのはヒンドゥーの人たちにとっては不浄の極まりない光景で、見てしまったら最後、ご飯がのどを通らないはずです。<br />
　御飯をよそう時、しゃもじをお茶碗に接触させずによそうことは出来ません。けれども、食べている最中のお茶碗に接触させたしゃもじをまた、おひつの中に戻すということは、それはヒンドゥーの人にとって、もうおひつの御飯全部が食べられないものになってしまうということなのです。敬虔なヒンドゥー教徒は料理中に味見をすることもありません。調理中のお玉で味見するなどというのは言語道断ですが、調理された食べ物を先ず神に捧げ、そのお下がりとしてそれを戴くと考えれば、味見する行為そのものが供物を穢してしまうことになるのです。<br />
　そしてまた、ベンガルのヒンドゥー教徒は、用を足した後、その時に着ていたものは全て洗って清めます。小用の場合は足だけ洗います。こんなことはあげれば限りがありません。<br />
　習慣というのは、それに従っている人にとってはそれが当たり前のことです。日本人の私でさえ、長年この作法に従っているうちにこれが当たり前となり、日本に行くと逆カルチャーショックを受けてしまう程です。今回のバングラデシュ訪問でも、同行した西ベンガルのヒンドゥー教徒の人たちの中で食事が出来なくなった人がいました。この”当り前”はすべての人にそれぞれの基準を作り出しているようです。環境や、習慣、性質が違う一人一人の基準は、到底すべてに当てはまることは出来ません。それは極めて曖昧なものです。</p>

　一定の行動様式を反復しているうちにそれに慣れていくということは、それ以外の様式に違和感を感じさせるという面を持っています。この違和感は差異を認識している状態だと思いますが、何かの理由でこの差異を受け容れられなくなった時、嫌悪が生まれます。そして嫌悪によって些細な生活習慣の違いも、民族間、人種間、国家間の差別、敵対心を生み出す根拠となり、更にそれは分断支配に利用されていくというのは歴史の語るところです。
　そしてよく見ると、その根っこは私たちの日常的な心の在り方に簡単に見い出すことが出来ます。

<p>　インドの賢者たちは「心」の性質を”常に願望と疑念。確信と不確実性の間をさ迷う”と定義しました。「これをしよう」と思えば、今度は「だめなのではいか」という想いがやって来る、「これは確かだ」と思えば「そうでないかもしれない」という想いがやって来るというように。ですから「心」は次から次へと疑惑を生み、いつも「不満足」です。それは絶えず打ち寄せる波の様で「安心」することがありません。そして「不満足」の解消となるはけ口が”与えられたならば”、「心」は溜まった事をそこに出し続けるのです。<br />
　悲しいことに人間は、いつも、自分よりも低いものを作り上げて安心していたいようです。妬む心は対象を蔑視し、人は噂話に我を忘れます。<br />
　それにも拘わらず、「心」はいつも「私」の正当性を主張します。正当性は、家族、親族、カーストの正当性につながり、それは国家の正当性、民族の正当性、イデオロギーの正当性と、帰属意識の関る範囲で広がります。<br />
　私たちひとりひとりの帰属意識が、宇宙とまでは言わなくても、せめて地球レベルの広がりを持ち、同じ人間としてお互いを尊敬し生きていくようになるためには、やはり、まず一人一人が自分自身の「心」を見つめていくことから始めることが大切だと思います。</p>

<p>　心は完全に自由であるべきです。あらゆる拘り、偏見、嫉み、競争から自由であるべきです。とらわれる心に愛はありません。</p>

<p>　異質なものが様々に存在するからこの世は美しいのです。<br />
　世界中の人が私と同じ顔をし、私と同じ声をし、私と同じことを考えているようであれば、それはまるでロボットの世界です。<br />
　庭に咲くバラの花と、コスモスの花とどちらが美しいか決めることが出来るでしょうか。それはあくまで好みの問題です。好みは基準にはなりません。<br />
　すべてが、そのままで美しい‥‥‥優劣をつけ競争する人間の癖は、いつになれば直るのでしょうか‥‥‥心の中のこの問いに対して、バングラデシュの若者たちの中に、私は希望的でポジティブな答えを見たような気がしました。</p>

<p>　今回のバングラデシュの旅で印象に残ったのは、若者たちの愛国心でした。独立以前、ウルドゥー語の強制により母国語であるベンガル語を奪われていた歴史を持つ彼らは、ベンガルの自然を、歴史を熱心に語ります。<br />
　そして、私が出会った若者たちは、冒頭にあげた詩の作者であるバウル‥‥ラロン・フォキールを愛する人々でしたが、その中でも、今、若者たちの間で絶対人気のバンドの女性歌手アヌーシェは、「ラロンは私たちの世代の新しいアイデンティティよ。」と熱っぽく語ってくれました。</p>

<p>　ラロン・フォキール（１７７４〜１８１３？）は、イスラム教の偏向や、正統派ヒンドゥーを徹底的に批判し、宗教、宗派、カーストを認めず、「愛の道」を歩むバウル修行者でした。<br />
　絶えず、不安定な政治的情勢を経験してきたバングラデシュの若者たちは、どの政治的党派にも、どの宗教宗派にも期待せず、一人のバウルの残した二千篇とも言われる唄の中に、自分達の未来を導く哲学と教えを見出そうとしているように見えました。「愛」を知るものなら「愛」のあり方を学び、宇宙的規模の愛の獲得を目指す若者たちが存在するということは素晴らしいことではありませんか。</p>

<p>　「お前が居るところに、その人も居るんだよ」<br />
　「それは、お前のその姿と同じ姿をしているのだよ」<br />
　ラロンは、何度も何度も、”自分自身が何であるか知ることが出来れば、「その人」──「神」──を、「宇宙」を知ることが出来るのだ”と繰り返し伝え続けたのでした。</p>

<p><b>※フォキール</b><br />
ヒンドゥー教系のバウルの道の修行者をバウル、イスラム教系の修行者をフォキールと呼びます。</p>




<p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
【小社出版書籍のご案内】</p>

<div class="leftbox"><a href="http://store.shukousha.com/?pid=12511572" target="_blank" title~"集広舎ブックストアへ"><img src="http://www.shukousha.com/media/News/india_cover_h250.jpg" width="174" height="250" alt="india_cover_h250.jpg" /></a></div><p>書名：<a href="http://store.shukousha.com/?pid=12511572" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ">インド解き放たれた賢い象</a><br />
著者：グルチャラン・ダース<br />
訳者：友田浩<br />
Ａ５平／４１８頁<br />
定価 ３,４８６円(税込)<br />
発行：集広舎<br />
発売：<a href="http://www.cbshop.net/" class="znkwl" target='_blank' title="中国書店">中国書店</a><br />
ISBN：978-4-904213-04-9 C0098 ¥3320E<br />
インド人による初めての本格的なインド紹介の本と評判の『インディア・アンバウンド』の邦訳。ノーベル経済学賞受賞者アマルティア・センも「自叙伝、経済分析、社会調査、政治点検およびビジネス展望が、ない交ぜになってインド理解へと導く素晴らしい本」と絶賛する。</p>]]></description>
 <category>かずみ まき</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/baul010.html</comments>
 <pubDate>Thu, 21 Jan 2010 05:05:47 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>狼の見たチベット／第１２回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/ohta012.html</link>
<description><![CDATA[<p>我輩は狼である。<br />
２０１０年、新しい年の幕開けだ。<br />
ヤクから聞いた話の続きをする予定だったが、その前に一つ語らねばならない話がある。</p>



<p>ドンドゥプ・ワンチェンという名前を覚えているだろうか。<br />
チベットの現状を世界に伝えようと、普通に生活しているチベット人たちの生の声を映像にとりためて送り出した男だ。<br />
（狼の見たチベット<a href="http://www.shukousha.com/column/ohta/ohta003.html">第３回</a>、<a href="http://www.shukousha.com/column/ohta/ohta009.html">第９回</a>参照）<br />
２００８年３月から中国当局に拘束されていた彼に、昨年末２００９年１２月２８日に非公開の裁判で、懲役６年の判決がくだされていたことがわかった。<br />
中国がチベットに設置している刑務所では、通常囚人たちは医療の恩恵を受ける機会を与えられない。<br />
病や衰弱が末期に来た囚人のみが、刑務所内で死亡したわけではないという体裁を繕うために、軍病院に移送されたり、家族のもとに引き渡され、そして息絶えるのが慣例だ。<br />
以前語ったように、ワンチェンは不衛生な留置所内での拷問と虐待でＢ型肝炎に感染している。ワンチェンが６年の懲役を生き延びることができるのか。我輩はいたたまれない思いで、ただ吼えることしかできなかった。</p><p>当然のことだが、ワンチェンの家族は、上告を試みるそうである。<br />
希望がまったくないわけではない。当初、中国側は１０年の刑期をワンチェンに科すという情報もあった。<br />
ところが世界中からワンチェンを救うことを求める多くの声が集った結果、中国政府はワンチェンの刑期を６年とした。<br />
再び、前回以上の声が世界中から寄せられれば、ワンチェンの刑期が短縮されることや、解放されることもありえるかもしれない。<br />
過去にも、国際的なキャンペーンの結果刑期が短縮されたり、死刑から懲役刑に減刑された例が中国の司法にはあるのだ。</p>
<p>
それでは、今回の本題に入ろう。<br />
ダライラマ、チベットについて何も知らない者でも一度は聞いたことがある名前ではないだろうか。我輩たち四足で駆け巡る獣でさえ名前ぐらいは聞いたことがある。<br />
歴代のダライラマは、中華人民共和国が侵攻してくるまで、３００年に渡ってチベットの政治と宗教双方の指導者だった。<br />
そのダライラマがなぜ、今はチベットでなくインドにいるのだろうか？<br />
中国がチベットに侵攻後、多くの人々がダライラマに亡命を進めた。インドに外遊したときは、そのままインドに留まってはどうかと当時のインドのネール首相からの申し入れもあった。<br />
それでも当初、ダライラマはチベットに留まった。それは彼がチベットの指導者だったからか？一人のチベット人として自分の故郷を離れたくないと思ったからか？我輩も、我輩に話を語ってくれたヤクも獣であり、人の心の細部まではわからない。その時ダライラマが、どのような思いでチベットに留まろうと思ったかは、お前さんたち自身の心で推察してほしい。</p>


<p>前回も語ったように、中国は自分たちが強制した１７条の協定を有名無実のものとし、チベットへの支配を拡大していった。<br />
ラサに進駐した中国軍による食料や物資の徴発により、ラサや近隣では食糧不足に陥り、物価は数倍に跳ね上がった。<br />
ラサの人々は、今までに経験したことのない飢餓というものを味わうことになった。<br />
青海省や四川省に編入されていたチベット東部では多くの人々が勇敢に人民解放軍と戦った。近代化された武装を持ち、数でも優勢な人民解放軍を相手にカムやアムドの戦士たちはゲリラ戦で多くの打撃を与えた。<br />
中国側も容赦なく反撃を行い、多くの村が廃墟と化した。数千人の難民が東チベットから中央チベットに流入した。<br />
そんな中、中国当局からダライラマのもとに観劇の招待がなされた。<br />
中国側は、ことを大げさにしたくないので、ダライラマには随員や護衛をつけずに来てほしいと要請した。<br />
招待される観劇の会場は、中国軍の司令部だった。</p>


<p>この観劇は、当初秘密裏に遂行される予定だったが、ラサの市民たちの知ることとなった。<br />
ラサの市民たちは、この招待がダライラマを誘拐もしくは亡き者にしようという中国の陰謀だと思った。<br />
当然だ、我輩でも聞いただけで罠だとわかる。<br />
軍事力を背景に罠だとわかっていても、その罠にダライラマが飛び込まざるえないと中国は確信していたのか、あるいは罠だと気づかれないと思い込むほどチベット人たちを馬鹿にしていたのか。それは我輩にはわからないが、この陰謀は５０年前に実際に行われようとした。<br />
それに対して陰謀を知ったラサの市民たちは立ち上がった。観劇の予定日であった１９５９年３月１０日、３万人の群集がダライラマを護るために、ダライラマの宮殿を取り囲んだ。<br />
状況は一触即発のものだった。宮殿を取り囲む民衆と、中国軍との間の衝突は避けがたい状態だったという。<br />
中国側としても、占領地で血気にはやった民衆が３万人集っていると聞けば臨戦態勢となったであろうことは想像にたやすい。<br />
特に東チベットでゲリラ戦が続いていた時期でもあったから、なおのことだ。</p>



<p>ダライラマは、このままチベットに留まることが民衆を危険にさらすことに繋がると判断した。<br />
側近たちの勧めに従い、ダライラマはついに亡命を決意した。およそ８万人の人々がダライラマとともにインドを目指した。<br />
インドとの国境付近まで落ち延びてきたときに、ダライラマは有名無実のものであった１７条協定の無効を宣言し、チベットは独立国であることを確認した。<br />
しかし、ダライラマの決断にも関わらずラサの人々は救われなかった。<br />
人民解放軍は、自分たちの意向に逆らったラサの市民たちをけして許しはしなかった。<br />
ラサの街のあちらこちらで市街戦が繰り広げられた。<br />
ダライラマが逃げ延びたあとの主なきノルブリンカ宮殿には、およそ８００発の砲弾が打ち込まれた。<br />
ラサに残ったダライラマの護衛や、僧侶たちは、中国当局によって捕らえられ処刑された。
多くの寺院が人民解放軍により破壊され、略奪された。<br />
ダライラマの思いとは裏腹に、ダライラマがラサを後にしてから数日の間に８７０００人のチベット人たちが、命を落としたといわれている。</p>


<p>しかし、チベット人たちは、今でもダライラマが自分たちを見捨てたわけではなく、護ろうとしたことを知っている。<br />
多くのチベット人たちが、ダライラマへの思慕の念を抱き、その帰還を待ち望んでいる。<br />
先に語ったドンドゥプ・ワンチェンが撮った映像の中でも、多くの人々がダライラマへの思いを語っていた。<br />
もしダライラマが帰還したならば、うれしさのあまり川に飛び込んで死んでしまうかもしれないと、豪快に笑う老婆の姿が我輩にはとても印象的だった。</p>


<center><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/kiD3EqVJX-I&hl=ja_JP&fs=1&rel=0"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/kiD3EqVJX-I&hl=ja_JP&fs=1&rel=0" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="320" height="265"></embed></object></center>

<p><b>ドンドゥプ・ワンチェンさんの解放を求めるオンライン署名サイト</b><br />
<a href="http://org2.democracyinaction.org/o/5380/p/dia/action/public/?action_KEY=1125" target="_blank">http://org2.democracyinaction.org/o/5380/p/dia/action/public/?action_KEY=1125</a>
</p>

<p>Ａ４の厚手の紙に印刷して、切り離してそのまま使える署名はがきのテンプレート<br />
胡錦涛国家主席、温家宝首相、司法部（法務省）、公安部（警察庁）宛てにワンチェンさんの解放と適切な医療・司法処置を受けれる用に要請する内容</p>

<p><a href="http://sftjapan.wdfiles.com/local--files/nihongo:filmingfortibet/LFB_postcard4x4update.pdf" target="_blank">http://sftjapan.wdfiles.com/local--files/nihongo:filmingfortibet/LFB_postcard4x4update.pdf</a><br />
（注：PDFファイルが開きます）</p>


<p>ワンチェンさんの状況を説明するチラシ<br />
（是非、ネットを見ない方にもワンチェンさんのことを伝えてください）</p>
<p>
<a href="http://www.sftjapan.org/local--files/nihongo:filmingfortibet/LFB_flyer_4.pdf" target="_blank">http://www.sftjapan.org/local--files/nihongo:filmingfortibet/LFB_flyer_4.pdf</a><br />
（注：PDFファイルが開きます）</p>




<p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
【小社出版書籍のご案内】</p>

<div class="leftbox"><a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ"><img src="http://www.shukousha.com/media/News/satsugo_cover.jpg" width="120" height="166" alt="satsugo_cover.jpg" /></a>
</div><p>書名：<a href="http://store.shukousha.com/?pid=16586417" target="_blank" title="集広舎ブックストアへ">殺劫（シャーチェ）チベットの文化大革命</a><br />
著者：ツェリン・オーセル（茨仁唯色、Tsering Woeser）<br />
訳者：藤野　彰（ふじの・あきら）<br />
　　：劉燕子（リュウ・イェンズ）<br />    
Ａ５並製／４１２頁<br />
定価 ４,８３０円(税込)<br />
発行：集広舎<br />
発売：<a href="http://www.cbshop.net/" class="znkwl" target='_blank' title="中国書店">中国書店</a><br />
ISBN：978-4-904213-07-0　C0022</p>

<p>チベット「封印された記憶」の真実——。</p>

<p>一九六六年から十年間、チベット高原を吹き荒れた文化大革命の嵐は、仏教王国チベットの伝統文化と信仰生活を完膚なきまでに叩き壊した。現在も続くチベット民族の抵抗は、この史上まれな暴挙が刻印した悲痛な記憶と底流でつながっている。長らく秘められていた「赤いチベット」の真実が、いま本書によって四十余年ぶりに甦る。</p>
]]></description>
 <category>太田秀雄</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/ohta012.html</comments>
 <pubDate>Sat, 9 Jan 2010 17:19:30 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>歴史時代小説を読む／第２４回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/kawanobe_024.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_m">雨宮由希夫の歴史時代小説を読む／第２４回</h3>

<div class="leftbox"><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=555555&lc1=993300&t=shukousha-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4163285504" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe></div><p>書 名 『花や散るらん』<br />
著 者 葉室　麟<br />
発 売 文藝春秋<br />
発行年月日　　２００９年１１月１５日<br />
定 価　　本体１５００円+税</p>

<p>葉室　麟は１９５１年、北九州市小倉の生まれ。２００４年デビュー作『乾山
晩愁』で第２９回歴史文学賞を受賞し、以後、一貫して歴史・時代小説を書い
ている。<br />
「忠臣蔵」は歴史小説家の看板を掲げる限り避けられないテーマであるらし
い。「忠臣蔵」については事件発生このかた３００年間、書き尽くされたよう
でいて、これはもう動かしがたいという決定的なものがない、とされる。「忠
臣蔵」についてわかっていることは、以下の史実のみである。<br />
〈元禄１４年（１７０１）３月１４日。赤穂藩主・浅野内匠頭長矩（たくみの
かみながのり）が勅使下向の殿中において、吉良上野介義央に刃傷に及び、即
日切腹を命じられる。大石内蔵助良雄ら赤穂浪士四十七士が主君の仇・吉良上
野介の邸に討入ったのは元禄１５年（１７０２）１２月１４日のことであっ
た。〉<br />
「刃傷の原因」、「討ち入りの目的」、「大石良雄の資質がどうであったか」
は主たる争点であり、これらを組み合わせれば、“さまざまなる忠臣蔵”が可
能となろう。<br />視点を変えればがらりと異なった風景が見え、事件の背後に問題の核心が潜ん
でいることがわかるかもしれない。作家には新しい視点と解釈で作品をものす
ることが求められる。<br />
本書の帯の謳い文句に「気鋭が描く全く新しい『忠臣蔵』。雅（みやび）と武
（もののふ）。西（朝廷）と東（幕府）の戦い」とある。<br />
浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだかについては古来、内匠頭の乱心説や吉良の賄
賂強要説、塩をめぐる争い説等々があるがいずれも決め手を描いている。事件
の発端となる肝心かなめのことが謎に包まれているのだが、本書の作家は将軍
綱吉の生母桂昌院の叙位問題を「忠臣蔵」にからめてストーリーを造形してい
る。<br />
主人公の雨宮蔵人（あまみや・くらんど）は京・鞍馬の山裾の村に、角蔵流雨
宮道場という柔道の道場を開き、妻の咲弥（さくや）と香也（かや）という名
の娘の三人で穏やかに暮らしている。<br />
咲弥の歌道の師匠である中院道茂（なかのいんみちもち）が咲弥を介して蔵人
に「神尾与右衛門（かみお・よえもん）を斬れ」と告げることから、雨宮夫妻
は「忠臣蔵」に関わりあうことになる。神尾与右衛門は高家筆頭吉良上野介義
央が京の情勢を探るために遣わした吉良の家臣であり、中院道茂は当代きって
の歌人で歌壇の指導者で、幕府への批判を憚らず口にする硬骨の公家である。
将軍綱吉の生母桂昌院への叙位を画策する幕府の方針に従い、吉良上野介は公
家に金を貸し付け、神尾に回収させる。公家に金を貸したのは、公家を縛り、
禁裏を思いのままに動かそうとするための吉良の奇策であった。<br />
雨宮蔵人とともに重要な役割を持つのは羽倉斎（はぐら・いつき）である。羽
倉は　伏見の稲荷神社の神官の息子で、三代将軍家光の五十年忌勅使・大炊御
門（おおいみかど）前右大臣経光（つねみつ）に随行して江戸に下り、「忠臣
蔵」にかかわることになる。羽倉には「妻になっていたかもしれない女人」が
あった。１０年前の元禄３年（1690）３月、仁和寺で出会った女人は正親町権
大納言実豊（さねとよ）の娘辨子（なかこ）で、二人は互いに魅かれあう仲と
なるが、やがて、辨子は１６歳で、柳沢保明の側室・町子となる。<br />
今をときめく柳沢吉保は将軍に諂うだけの阿諛者という世評がある。吉保に
は、正室定子、嫡男吉里（綱吉の子ではないかという噂あり）を産んだ側室染
子の他、多数の妻妾があり、町子はその一人であった。<br />
将軍御台所信子の信頼厚く大奥の取締を任されている右衛門佐（うえもんのす
け）が町子に近づく。信子は五摂家のひとり鷹司教平の娘で、京の八百屋の娘
だという卑しい出自の桂昌院の叙位を阻むために策を弄する。右衛門佐に浅野
長矩という大名を使うようにいったのは羽倉であった。<政権の根源は朝廷に
ある>とした山鹿素行が教導した赤穂浅野家なら禁裏の危難を救ってくれるの
ではないか、と羽倉は考えた。<br />
「浅野様に命じて、堀部安兵衛に神尾を斬らせよ、という右衛門佐。「そんな
ら、浅野を勅使饗応役にしたらええかもしれまへんなあ」と動く町子。<br />
かくして、浅野家に大奥からの密命が下る。この話を持ち込んだのが柳沢吉保
の側室の町子であり、成し遂げることは吉保の意向にかなうことなのだと浅野
長矩は受けとめる。<br />
元禄１４年（１７０１）３月１４日。この日、長矩は朝から持病の<つかえ>に
悩まされる。長矩は伝奏屋敷で吉良を討つつもりだった。<br />
　刃傷が起きる。———御台所信子をはじめ京から来た大奥の女達が桂昌院の
従一位叙位に反発していることを吉保は知っていた。大奥は今日、叙位の内意
が伝えられることを妨害した上で、上野介にこれ以上、叙位に関わると命は無
いと脅かしたのだと吉保は納得すると同時に、この刃傷に吉保自身も無縁でな
いことに気がつく。町子からの求めで長矩を饗応役にした以上、責任が生じて
いるのだ。<br />
——「浅野の口を封じるしかない」。即日、庭先での切腹という迅速な処分
は、吉保の意向であった。長矩が何を意図して刃傷を起こしたのか、その痕跡
は拭い去られたかのようだった。<br />
長矩が刃傷に及んだ理由を知った吉良上野介は「たかが叙位のことで自身は切
腹、家は断絶。家臣のことなど何も考えておらぬような」と長矩の軽挙に舌打
ちする。<br />
念願の桂昌院叙位が実現したものの、隠居した上野介には何の沙汰もなく、無
論、論功行賞もなかった。吉保に見捨てられた上に、桂昌院叙位の功を吉保に
奪われた上野介は、吉保への復讐に残りの命を燃やす。<br />
松の廊下の刃傷が桂昌院の叙位を拒みたいという大奥の女人たちの憎しみから
端を発したことを察知した大石内蔵助は「我らは、女人の憎しみに踊らされて
討入りは行わぬ」と堀部安兵衛らに申し渡す。<br />
意外な結末が待っている。<br />
本所松坂町の吉良邸において、香也を抱き、逃げも隠れもしない上野介の前
で、赤穂浪士と浪士たちの味方であったはずの雨宮蔵人が刃を交える。香也と
いう名の娘は上野介の孫娘であった。<br />
元禄赤穂事件の背景には桂昌院の従一位授与を巡る朝幕間の紛争があったとす
る見解は以前から存在し、本書の作家の独創ではないが、江戸城大奥や朝廷内
のそれぞれの確執をつぶさに描写して、“刃傷沙汰の真相”に迫ったところが
本書の読みどころである。<br />
人物配置という観点での斬新さは柳沢吉保の側室町子の人物造形であろう。町
子なくしては本書のストーリーは成立しない。<br />
実在の町子は、吉保の栄達を、『栄華物語』にならって『松蔭日記』に著すほ
どの出色の才を持った吉保の側室であるが、本書では、町子は本阿弥光悦に仕
えた者の娘で遊女を母として生まれ、しかも、吉保の側室となりながらも公家
の娘としての誇りを持ち続け、武家社会に異議を唱える女性として造形されて
いる。<br />
従来の柳沢吉保像は将軍綱吉とともに、吉良に贔屓する悪役として描かれるこ
とが多いが、町子を細々と描くことにより、我が世を謳歌した権力者の実相が
うかびあがり、元禄という時代の狂騒が伝わってくる。佳作である。<br />
（平成22年1月6日　　雨宮由希夫　記）</p>]]></description>
 <category>雨宮由希夫</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/kawanobe_024.html</comments>
 <pubDate>Fri, 8 Jan 2010 10:01:31 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>中国知識人群像／第１０回</title>
 <link>http://www.shukousha.com/column/oikawa_010.html</link>
<description><![CDATA[<h3 class="caption_xl">「自由」を問い続ける人びと（３）</h3>


<p><b>黄色いリボン</b></p>

<p>　中国の「維権運動（権利擁護運動）」に関する情報発信をしているウェブ
サイト「維権網」は、１２月２１日のトップページで「国家政権転覆扇動
罪」に問われている劉暁波の初公判が２日後の２３日午前９時から、北京市
第一中級人民法院で行われると伝えた。「維権網」をはじめ、中国国外に拠
点を置いている各種ウェブサイトは、「０８憲章」と劉暁波に関する情報を
逐次発信しているが、中国国内では厳しく管理されているために通常はそれ
らにアクセスすることはできない。だが、規制があればその壁を超えるため
の手段も開発され、規制されたウェブサイトを様ざまな方法で閲覧している
ネットユーザーも多い。</p>
<p><center><a href="http://www.shukousha.com/media/Column/oikawa/oikawa010.jpg"  rel="shadowbox[oikawa010]" title="黄色いリボン"><img src="http://www.shukousha.com/media/Column/oikawa/oikawa010.jpg" width="300" height="280" alt="oikawa010.jpg" /></a></center></p>

<ul><li><a href="http://twibbon.com/join/Let-Xiaobo-Go-Home" target="_blank">Let Xiaobo Go Home</a></li></ul>

<p>　初公判の日程が公表された直後から、インターネット上では劉暁波への支
持を呼び掛ける動きが始まった。瞬く間に広がったのは、Twitter（ツイッ
ター）での「黄色いリボン」だ。ブログや各種SNS（ソーシャル・ネット
ワーキング・サービス）に続くインターネット上のコミュニケーション・
ツールとして急速に普及しているTwitterは、「鳥のさえずり」という意味
のとおり、個々のユーザーがわずか１４０文字の「つぶやき」のようなメッ
セージを発信するというコミュニケーションだ。同時性の高さと伝播力の強
さは、２００９年１月１５日にニューヨークのハドソン川に不時着水した
U.S. Airways 機の航空事故や、６月１２日のイラン大統領選挙の結果に対
する抗議行動などがTwitterによってリアルタイムに伝えられたことで、世
界的に話題になった。</p>

<p>中国では「推特（tuite）」と呼ばれて利用者が増えており、劉暁波に関す
る「つぶやき」も発信されている。初公判の前夜、Twitterのユーザーたち
の間では、自分の写真やイラストのアイコンに黄色いリボンを付け、「Let
Xiaobo Go Home（暁波を家に帰そう）」という呼びかけに賛同する人たちが
増え始めた。偶然にも、公判当日の１２月２３日には、中国共産党の機関紙
『人民日報』傘下の「人民網」が、中国版Twitterともいえる「人民微博
（人民マイクロブログ）」を開設した。だが、その後わずか２時間で閉鎖さ
れたのは、劉暁波の事件をはじめ共産党への批判などが飛び交ったためだと
外国メディアが伝えている。</p>


<p>　公判当日、アメリカ国務省のクローリー次官補は、劉暁波に「政治的な有
罪判決」が下されることについて中国政府を批判し、ニューヨークに本部を
置く国際人権NGO団体ヒューマン・ライツ・ウォッチも抗議のコメントを発
表した。アメリカやドイツなどの大使館員はもとより、劉霞夫人の傍聴すら
認められず、外国メディアの取材も厳しく管理されたと報じられた。しかし
同時に、その緊張感にもかかわらずインターネットで伝えられたのは、厳重
な警備が敷かれた裁判所の周辺に、黄色いリボンを手にして集まった劉暁波
の支持者たちの姿だった。公判を前に「０８憲章」の署名者や支持者の多く
が公安当局の監視下にあった中で、裁判所まで出かけられた人は多くはな
かっただろうし、中にはその場で連行された人もいたと伝えられた。それで
も、黄色いリボンはインターネット空間に増え続け、実際にリボンを手にし
て出かけた人たちとともに、劉暁波への支持を表明したのだった。</p>

<p><b>星火燎原</b></p>

<p>　２００９年のクリスマスの朝、劉暁波に「国家政権転覆扇動罪」による懲
役１１年と２年の政治的権利剥奪という判決が下された。９時半に始まった
判決は、法廷で判決文が読みあげられてわずか１５分程度で終了し、その１
０分後にはインターネット上に次々と関連情報が掲載され、筆者が判決内容
を知ったのは開始からわずか３０分後だった。
</p>
<p>「北京市第一中級人民法院刑事判決書（２００９）一中刑初字第３９０１
号」と題した判決文書も、間もなくして全文がインターネットで公開され
た。それによれば、劉暁波が罪に問われたのは「０８憲章」を中心となって
起草し発表したことのほかに、「我が国の人民民主独裁の国家政権と社会主
義制度に不満を抱き」２００５年から「観察」、「BBC中文網」などの国外
のウェブサイトで６編の「扇動的な文章」を発表したことが罪に問われた。
劉暁波は審理において、「自分は無罪であり、憲法が公民に与えた言論の自
由の権利を行使しただけにすぎず、発表した批判的な言論は、他人に対して
実質的な損害を与えてはおらず、国家政権の転覆を扇動したものでもない」
と主張した。弁護士も「劉暁波が発表した文章は、公民の言論の自由に属す
ものであり、個人的観点を表現した範疇で、国家政権転覆扇動罪にはあたら
ない」と弁護した。</p>

<p>判決文には、次の記述が見られる。</p>


<p>インターネットを利用した情報伝達は速く、その範囲は広く、社会的影響は
大きく、大衆の注目度も高いことが特徴であり、文章を書いてインターネッ
トで発表するという方法で、我が国の政権と社会主義制度を転覆するよう誹
謗し、他者を扇動する行為はすでに国家政権転覆扇動の罪である。しかも犯
罪の時間は長く、主観的な悪質度は高く、発表した文章は広くリンクが張ら
れ、転載、閲覧されて、その影響は劣悪であり、重大な罪を犯した犯罪者
は、法によって厳重に処罰しなければならない。
</p>

<ul><li>判決文：<a href="http://www.blogchina.com/20091227869581.html#" target="_blank">http://www.blogchina.com/20091227869581.html#</a></li></ul>

<p>　判決文が言及したインターネットの特性は事実だが、しかし劉暁波の文章
については「社会的影響力」や「大衆の注目度」が高いとは言えないはず
だ。劉暁波の言説は「０８憲章」の署名者たちや中国の民主化に強い関心を
もつ一部の人びとには強い影響力を有しているが、中国国内ではパソコンに
特殊なシステムを導入しない限り、劉暁波の文章が掲載されているウェブサ
イトにアクセスすることすら不可能で、天安門事件の当事者を除けば、現在
の中国社会で劉暁波の名を知る人はわずかだろう。知られていない人物の、
読めないはずの文章が、いったい誰をどのように「扇動」したというのだろ
うか。逆説的に言えば、重罪を科すことで劉暁波という人物がより強烈な政
治性を帯びて浮かび上がり、その言説が「国家政権転覆扇動罪」に問われる
ことで、劉暁波がそれほどの脅威であるということを当局が認めたというこ
とになるだろう。</p>

<p>　判決の後、９カ月ぶりに劉暁波との対面が叶った劉霞は、その後外国メ
ディアのインタビューに答え、劉暁波が「中国で言論活動が原因で犯罪者と
されるのは、私が最後であってほしい」と語り、控訴する決意を固めたこと
を明らかにした。判決当日、国連人権理事会のナバネセム・ピレー高等弁務
官、ドイツのメルケル首相、カナダのキャノン外相、EU議長国のスウェーデ
ン、アメリカ政府、台湾行政院大陸委員会が相次いで判決内容に対する遺憾
や抗議のコメントを発表したほか、国境なき記者団、アムネスティ・イン
ターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、国際ペンクラブ、独立中
文筆会などが相次いで声明を発表した。判決後に「０８憲章」の署名者たち
が発表した文章は、膨大な量に及ぶ。</p>


<p>中国国内では、新華社が短い英文で伝えたほかはCRI（中国国際放送局）が
報じたが、一般のメディアでは劉暁波の判決に関する情報は空白だった。し
かし、インターネット上の「黄色いリボン」はその後も増え続け、「ブログ
が中国を変える」をキャッチコピーにした「博客中国」のウェブサイトで
は、掲載された判決文に対してネットユーザーが次々とコメントを書きこん
だ。劉暁波に対する判決は支持者たちに強い憤りと深い絶望をもたらした
が、増え続ける小さな「黄色いリボン」と、つぶやくようなネットユーザー
たちの声を追いかけながら思い起こしたのは、「極めて小さな力でも、やが
て強大な勢力に発展する可能性をもつ」という意味の「星星之火，可以燎
原」という言葉だ。１２月２７日時点での「０８憲章」署名者数は１０７９
７名、２８日時点での「我々は劉暁波とともに責任を引き受けることを望
む」の署名者は７３２名だという。それは、中国の全体から見れば小さな星
の光のような存在かもしれないが、夜空の闇が暗いほど星の光が映えるよう
に、小さくても強い存在感を放っているといえよう。
</p>


<p><b>知識人たちの「つぶやき」</b></p>

<p>劉暁波に対する判決から二日後、「０８憲章」の第一次署名者である崔衛
平・北京電影学院教授が、この件に対する友人知人のコメントをTwitterで
紹介し始めた。「最も敏感な三文字の人名」は、「彼」に置き換えられてい
る。「０８憲章」の署名者に限らない著名な研究者、作家、映画監督、編集
者などに電話やメールでコメントを求めたのは「彼らの見解を知りたかった
だけ」で、許可を得て公開したという。それらの中から、一部を紹介したい。</p>


<p><b>銭理群：</b>彼に何か罪があるとは思わない。彼の観点ややり方の全てには必ず
しも同意しないが、それはまた別のことだ。</p>


<p><b>丁東：</b>思想はこれまでもずっと自由を求めてきたのであり、０８年にとどま
るものではない。</p>


<p><b>章詒和：</b>私たちの制度は、そもそもどれほど改善したのだろうか？私たちの
社会は、いったい進歩したのだろうか？</p>

<p><b>徐友漁：</b>判決は、人類みなが公認する文明の規範に対する挑戦だ。中国の現
在の憲法には公民の言論の自由が明記されているのだから、憲法に対する挑
戦でもある。つまり、中国の人民と人類の良知に対する挑戦なのだ。</p>

<p><b>賀衛方：</b>まったくの罪のない人にとっては、一日でさえ重く、一日の罰でも
冤罪だ。</p>


<p><b>朱学勤：</b>「私はあなたの意見には反対だ、だが、あなたがそれを主張する権
利は命をかけて守る」とは、文化の共通認識で、法治の最低ラインだ。言論
を処罰するならば、文化はとこにあるのだ？憲法はどこにあるのだ？最高法
院が介入し、本件を差し戻し、文化を擁護し、憲法の尊厳を守るよう請願す
る。</p>



<p><b>呉思：</b>言論の自由に関する各種の見解に賛成するが、しかし私は利害の計算
をしたいと思う。どんなことでも度を越せば、誰かが損をして誰かが得を
し、逆に、それまでのこととして終わってしまうのだ。</p>


<p><b>劉軍寧：</b>期待しない、絶望しない！</p>


<p>　彼らのほかにも、楽黛雲、袁偉時、秦暉、余英時、汪暉、莫言、王暁漁、
李銀河、賈樟柯などのコメントが紹介された。劉暁波の言説そのものに対す
る直接的なコメントは少なく、多くは自由な言論を擁護する内容だが、問題
の本質を歴史的な背景から考察する人もいれば、当然ながら発言そのものを
保留する人もいた。ネットユーザーからは、崔衛平とインタビューを受けた
人びとに対する称賛や敬意が数多く書き込まれていたが、その中には「（こ
のような方法は）知識人の良心を拷問にかけるようなものだ」という強い批
判もあった。</p>

<p>　崔衛平の電話インタビューに対して、例えばコラムニストの連岳は自身の
Twitterで次のようにコメントし、崔衛平もリアルタイムでフォローしてい
た。</p>


<p>劉暁波氏は、一人ひとり問い詰めることをするだろうか？態度表明ができな
くても劉暁波氏を支持するという人はいないのだろうか？敵か味方かという
二分割は、個人的にはやはり慎重に慎重を重ねるのが良いと思う。</p>


<p>どんな社会でも、大多数の人は中間に立っているのだから、彼らを劉暁波氏
の側に裁くかのように急かしてはいけない。</p>

<ul><li><a href="https://isaac.dabbledb.com/page/isaac/NRJznSaR#focus:LTk2NQ==/page:dHJ1ZQ==" target="_blank">判決に対する崔衛平の電話インタビュー</a></li></ul>

<p>
　連岳の「つぶやき」を読みながら、ある作家の友人のことを考えた。学生
時代に劉暁波のもとで学んだ天安門世代で、劉暁波の思想と行動から強い影
響を受けたと聞いている。不当な逮捕に憤慨し、判決には感情を露わにしに
していたが、「０８憲章」に関連して発表された複数の共同署名には、名を
連ねた時もあれば、そうでない時もあった。考えに考え、悩みに悩んだ末の
決意を語ってくれた時に思ったのは、一人の友人としてその決意を尊重した
いということだった。</p>

<p>連岳が「態度表明」や性急な「敵・味方の二分法」に反対するのは、良識あ
る意見として理解できる。そして筆者が知る限り、劉暁波は「一人ひとり問
い詰める」ことはしないだろうし、「態度表明ができなくても劉暁波氏を支
持するという人」がいることも事実だ。一方で、やはり筆者が知る限り、次
に引用するように崔衛平が「彼らの見解を知りたかっただけ」と言ったのは
その言葉通りだろうし、おそらくは、著名人のコメントを集めてインター
ネットに掲載することで、この件に関する多様な議論を呼び、志向を同じく
する人びとと繋がっていこうと考えたのだろう。日ごろから、日常生活にお
ける人間関係の「断裂」について多くの文章を執筆している崔衛平ならでは
の行動だと思う。さらに、先にコメントを引用した人たちに限っていえば、
崔衛平のインタビューを受けて、思うところを率直に語ったということだろ
う。</p>

<p>「知識人の良心に対する拷問」という表現がインターネットで広がりつつ
あったことに対して、崔衛平は自身のTwitter、ブログ、関連するウェブサ
イトで次のように弁明した。</p>


<p>同じ分野の知識人たちに劉暁波重刑１１年に対して尋ねたやり方は、絶対に
知識人の良心を「拷問」するものではないし、「拷問」とはあまりにも重す
ぎる。ただ彼らの考え方を知りたかっただけのことで、みながこの事件を
知った後にどう考えるかを知りたかったのだ。一般の人には、そうした考え
方を公開するルートもない。（中略）こういうやり方をする自分には、『原
罪』があることもわかっている。普通ならばこういうことはしない。しか
し、生活の中で繋がりが断たれた時、例えば暁波の重刑のように大きな出来
事が私たちの間で起こっているのだから、私たちはこの断裂を、自分の『原
罪』を背負わざるを得ないのだ。</p>

<p>知識人たちの「つぶやき」は、様ざまなことを考えさせてくれる。一般のメ
ディアがこの事件を報道できない中で、著名人のコメントやそれに対する意
見がTwitterで現れたことは、非常に興味深い出来事だ。政治的に敏感な問
題に対して発言することは、リスクを引き受ける覚悟が必要なのだろうが、
行動し、発言した人たちの勇気があったからこそ、この件に対する多様な意
見があることをリアルタイムで知ることができる。</p>

<p>一方で、連岳が指摘した危惧は、個人と「言論の自由」との問題を指摘する
ものだ。「発言する自由」があれば、当然のことながら「発言しない自由」
もあるのだから、そのいずれの「自由」も尊重されなければならない。そし
て、社会や歴史に対して、何よりも自分自身の良心に対して道義的責任を果
たそうとする人たちが自らの意思に基づいて意見を表明したとき、それに対
する批判があり、さらに反論がなされ、より多くの意見によって議論が交わ
されるとすれば、それこそがあるべき言論空間の姿なのではないかと思う。
知識人たちの「つぶやき」が現時点でインターネットから削除されていない
ことは幸いだが、これほど重大な事件について事実報道や、このように展開
された議論が一般的には知られずにある現状こそが、批判されるべきことな
のではないだろうか。</p>

<p>　最後に、劉暁波が２００６年３月に執筆した「一点突破で全般が蘇る——
言論の自由獲得を突破口とする民間の権利擁護」の一節を引用したい。</p>


<p>国民の公共的な発言は、依然として政治の強権による脅しやすかしに直面し
ているにもかかわらず、しかし、やはりますます多くの中国人ができるだけ
嘘に頼らずに生きようとし、勇気をもって自由に話をして真実を語ろうとし
ている。たとえ依然として頻繁に発生している言論弾圧に直面しようとも、
言論弾圧に公然と抗議する中国人もますます多くなっている。（中略）</p>

<p>民と官とに関わらず、大陸において報道の開放と言論の自由を推進すること
は、実際には、中国社会の安定的な転換という最も重要な目標を推進するこ
となのである。政党結成の禁止の緩和について一歩遅れるとしても、しかし
言論の禁制を解くことは一刻の猶予もない。言論の禁制が開放されれば、自
由な中国は必ずや訪れるのだ！</p>


<p>（文中敬称略）</p>

<p>２００９年１２月３０日</p>

<p>及川淳子</p>


<p>追記：「０８憲章」については、２００９年５月に李暁容・張祖樺の編集
で、香港の開放出版社から『零八憲章』が出版された。同月、アメリカでは
中国情報センター（中国信息中心）の編集で、労改基金会から『零八憲章與
中国変革』が出版された。いずれも「０８憲章」本文と関連する文章が収め
られている。１０月には余傑の編集により、獄中にある劉暁波の近年の代表
的な文章が『大国沈淪』と題して台湾の允晨文化から出版された。１２月に
は日本の藤原書店から、「０８憲章」と劉暁波の代表的な詩文を翻訳した
『天安門事件から「０８憲章」へ』（劉暁波著、劉燕子 編集・翻訳、横澤泰
夫・蒋海波・及川淳子翻訳）が出版された。</p>



<p>＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝＝<br />
【小社出版書籍のご案内】</p>

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著者：章 詒和<br />
訳者：横澤 泰夫    
Ａ５ソフトカバー／４１２頁<br />
定価 ３,９９０円(税込)<br />
発行：集広舎<br />
発売：<a href="http://www.cbshop.net/" class="znkwl" target='_blank' title="中国書店">中国書店</a></p>

<p>十年の投獄から解放されて文筆活動に入るも著作はことごとく発禁処分に、それでもなお巷間に広く流布。“中国共産党の政治”を問い続け、50年代末の反右派闘争を活写することにより、揺れ動く現代中国−“混沌”の根源に迫る。「『史記』の遺風、魯迅の悲愴を体現」と評された流麗な文によってつづられる著者最初の著作の全訳。</p>


<li></li><li></li><ul></ul>]]></description>
 <category>及川淳子</category>
<comments>http://www.shukousha.com/column/oikawa_010.html</comments>
 <pubDate>Thu, 7 Jan 2010 14:36:43 +0900</pubDate>
</item>
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