明子の二歩あるいて三歩さがる

第04回

いすみの古民家

 「古民家、見てみる?」──夫の言葉に背を押され、インターネットで物件探しをはじめたのは3年前。人生は短い。「いずれ…」という先延ばしはもうやめよう。多少がんばれば実現できることなら、だれにも遠慮せず、やってしまおう。

 昔から古いものが好きだった。建築も工芸も、古いものは美しい。フランス人は19世紀の建物にいまも普通に住んでいるし、チベット人は、お香の匂いのする古い文明をいまも守っている。だから、わたしはフランスやチベットが好きなのだ。日常的に掛け軸や火鉢のある生活がしたい。民芸館や博物館で「むかしの暮らし」をガラス越しに眺めるのはもう終わりだ。

 実際に探し始めれば、日本全国、古民家物件は驚くほど豊富で、値段も東京のマンションよりずっと安かった。物件探しの条件は大まかにいって、4つあった。すなわち、(1)東京の自宅から週末に通えること、(2)修復費用がかさまないこと、(3)周囲の環境が良いこと、(4)二次取得者による「昭和」的リノベーションが行われていないこと。
 
 これらの条件で絞ると、買える物件はとても少なくなった。まず、古民家は歴史的経緯から圧倒的に西日本に多く、東日本に少ない。4000万人が集中する関東は、かなり郊外まで行っても、高度成長時代に開発されたベッドタウンと市街地がずっと続く。醜悪な景観が途切れるのは、やっと通勤片道1時間半、半径70キロ圏を抜けたところだ。かといって自然がある場所に古民家があるとは限らない。西側の神奈川県は、鎌倉はおろか、箱根を超えても古民家は少ない。地元の不動産屋を探し、連絡し、実際に物件を見に行ったのは、秩父、成田、佐倉、奥多摩、山梨、南長野、房総など。

 修復費用がかさまない、周囲の環境が良い、中途半端なリノベーションが施されていない、という3つの条件は、あちら立てば、こちらが立たず…だった。古民家と聞けば、「ひなびた」「田舎のおばあちゃん」「囲炉裏」「干し柿」など、庶民的なキーワードを連想する。だが、実際のところ、真に庶民の家だった建物は今も昔も安普請な掘っ建て小屋であり、基礎構造からして時間の試練に耐えられない。100年後の古民家になるのは、新築当初、高級建材を惜しげもなく使い、志ある施主と優れた大工が建てた、「もと豪邸」だけなのだ。そんな家はたいてい、庄屋など土地の旧家、有力者の家であり、子孫はいまもお金に困っていないことが多い。だから、第一級のすばらしい古民家は、なかなか売りものに出てこないのだ。たまに出物があっても、それらは(有力者の住んでいた場所は今も昔も地域の中心部であることが多かったから)県道沿いや繁華街、道の十字路などにあり、トラックが通るとガタガタと揺れるような、残念な立地にあることが多かった。

 ごくたまに、人里離れたところにポツンと取り残された風情ある古民家もあった。だが、そういう古民家はたいてい二束三文、価格面でも魅力的だったが、さすがに交通の便が悪すぎる。長く空き家状態が続いた古民家は、屋根が破れ、床が崩れ、湿った土間は苔むしてぺんぺん草が生えていたりした。

 古さと新しさ、美しさと機能性のバランスはかくもむずかしい。茅葺屋根の古民家は希物件。たしかに佇まいは見事だが、雨漏れのおそれ、葺き替えに数百万もかかることを思えば手が出なかった。また、数十年、一度も手の入っていないよう家は、基礎や水回りをやり直せばたちまち新築の家を建てるより高くつきそうで、やはり買えなかった。

 ほどほどに交通の便も良く、建物の状態も良く、しかも閑静な立地にある古民家。そうした物件がまったくないわけでもなかった。子供たちが都会に移り、後継者のいない老夫婦の家。1980年代の第一次古民家ブーム当時に田舎暮らしをはじめた団塊の世代の家。人が住んでいる分、メンテや水回りの心配は少なかったが、やはり、それらの家にも問題があった。目先の利便性だけを追求した「ダボハゼ増築」古民家。とんでもなくモノが溜まった「ゴミ屋敷」古民家。趣味性に偏ったリノベーションのせいで、古民家本来の様式や影も形もない「意識高い系」古民家。後者の売り値にはバブル時代の改築費用がたっぷり乗っているだけに始末が悪かった。

その家の正面にはガラス戸さえ入っていなかった

◁その家の正面にはガラス戸さえ入っていなかった

 「うわあ!」──その家を初めて見たとき、思わず声が出た。茅葺にトタンを被せた、シンプルな赤い屋根。障子窓にはガラス戸さえついていない。江戸時代から抜け出たような棟門(むねもん)や式台(しきだい)。見事な書院造の座敷。それでいて、10年前に作られた慎ましくも近代的なキッチンと洋式トイレ、それに大きなユニットバスがついていた。庭には灯篭(とうろう)と社(やしろ)があり、梅やイチジクやビワの木が生えていた。場所は千葉県外房のいすみ市。バブル期の首都圏の肥大化の波からようやく逃れた農村地帯だ。乱開発の跡も、けばけばしい広告もない。菜の花畑をローカル鉄道のいすみ鉄道がのどかに走る。治安がいい。近所にはスーパーとホームセンターとコンビニがある。

 物件探しから半年。もう少し探してみたらという夫を尻目に、気づけばなけなしの株を売って売買契約に臨んでいた。

 それから2年半。行くたびに「うわあ!」という感動はいまも続く。一目惚れに近い買い物だったから、買った後に気づいた問題もある。家の前の通りは意外に車の往来が激しいこと。購入後、周囲に椎茸のビニールハウスや新築の家などが次々建ち、文明から隔絶した非日常感はないこと。古い土地なので敷地全体が道路より一段低く、水はけが悪いこと。広すぎて荒れ放題の庭の手入れが大変なこと。過疎化、人手不足、技能の低下のせいで、修復に手を貸してくれる大工さんを見つけるのが大変なこと。将来、売りたくなっても売るには苦労が予想されること。

古民家の屋内。仏間から座敷をのぞく

△古民家の屋内。仏間から座敷をのぞく

 反面、買ったときには想像しなかった長所もある。都市生活以外の暮らしはどういうものか、肌でわかったことだ。優しくのんびりしたいすみの人たちからは、外国暮らしと同じくらいのカルチャーショックを受けることがある。いすみの景色は江戸時代からあまり変わっておらず、良くも悪くも、人々の暮らしは江戸時代から地続きなのだ。

いすみの自然は江戸時代からほとんど変わらない

△いすみの自然は江戸時代からほとんど変わらない

 それと比べれば、変わり続ける東京で生きるということは、好むと好まざるにかかわらず、過去や先祖の暮らしや生き方に絶えず決別し続けることだった。わたしの曾祖父母、祖父母たちは、父祖の地を捨て、近代的な職業に就いた。そして、子孫である父母の世代もわたしたちの世代も、前の世代と同じ生き方をしていない。おそらく、子どもの価値観、生き方、職業もわたしたちの世代とまた変わるだろう。変化のなかで混乱し、矛盾する価値観が並存する世界で、東京人のわたしたちは、ひたすら新たな現実に適応するために過去から決別し続けているのだった。

 いすみに行くと、まず家と庭が無事であることにひとまず、ほっとする。そしてあまり役に立たない掃除をえんえんとやって帰ってくる。相手は陋屋、チガヤ、ドクダミ、ヤブガラシが茂る庭、そして、ネコ、カエル、モグラ。

 いすみから東京に帰ってくると、都会の物質的快適さや情報と人間関係の刺激は、やはりそれはそれでありがたいものだ。稠密な人口と活発な経済活動があってはじめて実現する、雑草一つない東京のマンションの人工的な庭。コンクリートで固められた大地。効率的で快適なサービス。巨大なインフラ。それらは維持する人々の努力がなくなり、社会の生態系のバランスが崩れれば、たちまち崩壊するものだと感じられる。月に2度の古民家行きは、快適すぎる生活の格好の解毒剤となり、都市への過剰適応に異化作用をもたらしてくれるのだった。

コラムニスト
下山明子
翻訳業、ブロガー。早稲田大学、パリ政治学院卒業。格付会社、証券会社のアナリストを経て2009年より英日、仏日翻訳に携わる。チベットハウスの支援、旅行、読書を通じて、アジアの歴史を学んでいる。著書『英語で学ぶ!金融ビジネスと金融証券市場』(秀和システム)。訳書『ヒストリー・オブ・チベット』(クロード・アルピ著、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
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