アジアから見る日中

第01回

インドで資本主義の本質を見る

 筆者は3年前に会社を辞め、アジアを放浪している。知人からは「まさかこんなに続くとは思わなかった」という感想がよく寄せられるが、正直当の本人も「精々半年か1年」のつもりで始めた旅がここまで来るとは想像していなかった。何故これほど続いているのか、それは一言でいえば「楽しい」からであり、「元々サラリーマンには向いていなかった」ことをこの歳にして知ったからである。

 アジアを旅するとなぜ楽しいのか、と問われても的確な答えを持ち合わせていない。ただアジアを歩いていると、その多様性に驚くと同時に、様々な場面で「ハッと気が付くことが多い」のが現実である。それは「今の日本に欠けているもの」であり、「日本人が忘れてしまったもの」であったりする。ヨーロッパやアメリカを歩いても気が付くのかもしれないが、近隣であるが故に見えにくいアジアを体感することで、それは一層はっきりするような気がしている。

 時々日本に戻って思うこと、それは「凝り固まってしまった日本」への漠然とした不安である。そしてそれは中国についても同様なことが言えるように思えてくる。ここ2、3年の日中関係に関する様々な報道、論調などを見ていると、まさに両者ともに固まってしまった感がある。

 「今日は日中の話を一切やめて、インドの話をしよう」、そんな提案がしてみたい。「アジアから日中の問題を考える」、「アジアから日中の立ち位置を見直してみる」ことはとても意義があるように思え、この連載を始めることを思いついた次第である。

 
尼僧院の質素な食事

◀尼僧院の質素な食事
(画像をクリックすると拡大します)

インドで資本主義の本質を見る

 インドの西北部、デリーから飛行機で1時間ほど乗って行くと、ラダック地方の街、レイに到着する。ここは標高3600mの高地にあり、中国のチベットと国境を接しており、インドのチベットとも呼ばれている。文化、風俗、習慣もインドのそれではなく、チベット式であり、現在の漢族化が進む中国のチベットよりもむしろ伝統的なチベットが残っている地域として、外国人にも人気のスポットである。

 何故この地を訪れたかと言えば、筆者は数年前に東京でこのラダック尼僧協会のトップと会う機会に恵まれており、「是非一度ラダックを見にいらっしゃい」という社交辞令と思われるお誘いを受けていたのだ。ただサラリーマンであった筆者にはインドに行くだけの余裕すらなく、ましてや富士山の上の高さに上る自信はなく、半ば諦め、半ば忘れていたのだ。

イギリスの女性高校生と食事

▲イギリスの女性高校生と食事

 ところが会社を辞めた途端、ラダック行きをアレンジしてくれる人が出てきたので、思い切って出掛けた。10日間、行きと帰りの飛行機を予約した以外、旅行日程も泊まる宿も全く未定、いや全く現地任せの旅に出たのだ。そして何と尼さんしかいない尼僧院に泊めて頂くことになった。日本では考えられないことだろう、尼僧院に男が泊まるなんて。勿論現地でも一般的ではないと思われるが、この縁のある外国人に負担を掛けまいとした「有難い」措置だったのではないか。

 最初は落ち着かなかった尼僧院生活、高山病の危険を回避しながらゆっくり生活した。三度のごはんは尼さん達と一緒のものを一緒に食べた。当然僧侶の生活だから、質素であり、肉や魚は勿論、ニンニクなどの刺激物も一切取らない。すごく美味しいとも言えないが,不味い訳ではない茶わん1杯の雑穀飯と野菜中心のおかず。時々は麺。あまり運動しなかったせいもあるだろうが、それだけ食べれば十分に満足できた。「日本のお坊さんって、本当に仏教徒なのだろうか?」などと余計なことを考えてしまったほどだった。

 日が経つと飽きてくるかと心配もしたが、この静かな澄んだ空気、信じられないほど青い空、インターネットなども時々しか繋がらない、そしてよくある停電への対策は夜なら「寝てしまう」しかない環境。食生活も考え合わせると健康には最高の環境であると言えそうだ。

この麺はスパイスが効いていて実に美味しい

◀この麺はスパイスが効いていて実に美味しい

 ところが5日が過ぎた頃、この尼僧院にイギリスの女子高校生がやって来て事態は一変した。「ワールドチャレンジプログラム」と銘打った合宿。イギリスの学校教育の凄さを思い知った。日本の学校で、生徒をインドの標高3600mの地に連れて来られる勇気のあるところなどないだろう。それもいいホテルに泊まるのではなく、尼僧院の部屋に雑魚寝だ。

 たださすがに育ちざかりの子供たち、食事の内容まで尼さんと一緒と言う訳にはいかない。そこでヒマラヤ登山などで活躍するシェルパが雇われ、欧米人向きの食事を作るためについてきていた。筆者とは何にも関係ないなと思っていたその時、尼さんから「あなたも外国人なのだから今日からは女性高校生と一緒に食べて」と言い渡される。勿論従う以外にはない。

 そして夕食の時間に行ってみると、何とスパゲッティとサラダが出てきた。それまで尼さんの食事に大いに満足していたはずだったのが、たった一口食べただけで「美味い」と感じ、どんどん食が進んでしまう。そもそもこの食事の代金はこの女子高生たちが払っているのだから、筆者は彼女たちから施しを受けている立場である。とてもお替りなど言いだせない筈であったが、もっと食べたい気持ちは膨らんでしまった。

尼僧院脇の道 青空が素晴らしい

▲尼僧院脇の道 青空が素晴らしい

 そこを見透かされたように先生から「もっと食べませんか」と言われ、ドキリ。一度は遠慮したものの、生徒たちはと見ると半分以上は突然放り込まれたこの環境にぐったりしていて食欲もなく、テーブルには大量のごはんが余っていた。「仕方ない」とつぶやき、心の底ではしめたと思い、バクバク食べた。何と3回お替りした。

 これにはあまりの素食続きで脳の神経でもおかしくなったのだろうか、と考えてしまったが、翌日のカレーも見事に3杯食べてしまう。そこで初めてその違いに気が付いた。「私は尼さんのごはん1杯で十分満足していたのに、これは何故3杯も食べられるのか」。その答えはスパイス、刺激にあるようだ。尼さんの食事には刺激物が入っていないが、こちらには食欲をそそるようにスパイスが振りかけられている。人間はスパイスのお蔭で必要以上に物を食べているのではないか。そして分かってはいてもそれに抗うことが出来ないでいるのではないかと。

 そこでハッと気が付いた。「資本主義というのは成長を原則として成り立っている」、「常に経済を成長させるためには、人に食べなくてもよいものを食べさせ、着なくてもよいものを着せているのだ」と。「その為に使われるのがスパイスであり刺激なのだ。そして美味しいもの作り出し、きれいな服を作り出し、購買を促し経済を成長させていく仕組みなのだ」と。もしそれに抵抗して食べない、着ない生活をすれば、すぐに成り立たなくなるシステム。どこの政府も経済学者も何とか成長を維持するために躍起になって消費を説くのだが。

尼僧院にて 小さな尼僧さん

▲尼僧院にて 小さな尼僧さん

 電気すらも不要、寝てしまえばいいという生活なら当然原発も不要だ。だがそれでは困る人々が大勢いる。しかしこのまま進めば、いつか行き詰るのは必定、人間は一体どこへ向かうつもりなのか。どこまでも青い空をボーっと眺めながら考えを巡らせても何の解決にも無からなかった。

 インドのチベットと言われるラダック。この素晴らしい自然の残る街では、中印紛争の実態を知るよりも、「そもそも資本主義とは何なのか」、「なぜいま世界はこんなに混沌としているのか」を十分に理解する機会を与えてくれた。同時に他にも沢山の貴重な経験、刺激を与えてくれたので、次回以降また紹介していきたい。

コラムニスト
須賀努
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。金融機関在職中に、上海語学留学1年、台湾地場金融機関への出向2年。香港駐在合計9年、北京駐在合計5年では合弁会社日本側代表。合計17年の駐在経験を有し、日経BP社主催『中国ビジネス基礎講座』でトータルコーディネーター兼講師を務める他、進出企業向けアドバイスを行う。日本及びアジア各地で『アジア最新情勢』に関する講演活動も行っている。 現在はアジア各地をほっつき歩いて見聞を広めるほか、亜細亜大学嘱託研究員、香港大学名誉導師にも任ぜられ、日本国内及びアジア各地の大学で学生向け講演活動も行っている。 時事通信社「金融財政ビジネス」、NHK「テレビで中国語テキストコラム」など中国を中心に東南アジアを広くカバーした独自の執筆活動にも取り組む。尚お茶をキーワードにした旅、「茶旅」を敢行し、その国、地域の経済・社会・文化・歴史などを独特の視点で読み解き、ビジネスへのヒントとしている。
関連記事