アメリカ人ボランティアに英語を習う

◀アメリカ人ボランティアに英語を習う

 インドのチベット、ラダックの尼僧院での話を続けたい。この尼僧院は1996年にパルモ師が中心となり、結成されたラダック尼僧協会(LNA)により建てられたもので、現在は40名の尼僧、尼僧見習いが共同生活を送っている。パルモ師によれば、「ラダックはチベット仏教が盛んな地域ではあるが、女性の地位が非常に低く、尼僧となった女性も在宅で、まるで奴婢のような扱いを受けていた。尼僧の地位向上、そして彼女らの生活の場所、修行の場所を提供することを目的に尼僧院を作った」という。現在ここを含めて全ラダックに28もの尼僧院を作ったパルモ師の力は相当のものだ。

 ここに居住しているのは下は6歳から20歳ぐらいまでの少女が中心。何らかの家庭の事情で、ここへやってきた子たちも多いが、自ら希望して尼僧になるため来る子も増えている。ここへ来れば食事が提供され、学校へも通わせてくれる。彼女らは一様にここの生活に満足しているように見える。更にもし希望して能力が伴えば、高校卒業後、ダラムサラなどでチベット伝承医学を学ぶために支援も受けられるという。実はパルモ師は仏教の布教活動のほか、日々体の悪い患者を伝承医学で治療する、医師としても活躍しているのである。

洪水で崩れた建物を皆で修復

▲洪水で崩れた建物を皆で修復

作業の後はご褒美のパンとチャイ

▲作業の後はご褒美のパンとチャイ

 パルモ師に言われたことがある。「日本では僧侶は人が死んだ後、葬儀を行うと聞くが、我々チベット仏教では生者と如何に向き合うか、心身の苦痛を如何に和らげるかに重点を置いている。そしていよいよ最後の時が来たと聞けば速やかに枕元に出向き、より良い死後の世界、来世への旅立ちのために祈るのである」。一人の日本人として思う、このようなお坊さんが居れば、是非ともお付き合いを願いたいと。

郊外の修復現場を眺める尼僧

◀郊外の修復現場を眺める尼僧

 因みにパルモ師が日本へ行って一番驚いたことは「京都から新幹線に乗ったら、立派な袈裟を纏った日本人僧侶が、車内でビールを飲んでいた」ことだそうだ。筆者は常々アジアを歩いていて「日本の僧侶は何故飲酒を許されているのか、なぜ結婚しているのか」と聞かれ、答えに窮することが多い。最近は「日本のお寺はファミリービジネスだから」と答えて急場を凌いでいるが、本当にそれでよいのだろうか。

 この尼僧院ではボランティアを受けて入れており、筆者の滞在時にはアメリカ人女性が英語を教えていた。程度の差こそあれ、尼僧の誰とでも英語でコミュニケーションできるのがまた楽しい。特に10歳以下の少女たちは異国から来たおじさんに積極的に話しかけて来てれた。洗濯機の使い方が分からず困っていると6歳と8歳の子がやって来て丁寧に教えてくれる。

洗濯機の使い方を教えてくれた少女

◀洗濯機の使い方を教えてくれた少女

 因みにここにあった洗濯機はサムソン製の二層式。日本では全自動が主流であるが、ここインドでは停電も頻発しており、また「どこからどこまでを機械にやらせるかを各人が考えて使う」ため、二層式が今でも主流だとか。確かに日本では流行のドラム式では停電の際、洗濯物取り出すことすらできないだろう。尚洗濯機を使っているのは幼い子のみで、お姉さんたちは手で洗っている。冬はさぞ寒いだろうと、と考えてしまう。

 その時8歳の子が「ツナミはどうだったの?日本は落ち着いたの?」と聞いてきて驚いた。日本から遠く離れたこの地で8歳の子から「ツナミ」という単語が出来ること自体想定外だった、パルモ師などから日本の状況を聞いており、日本人に単純に質問したのだと思っていたが、彼女は続けて、「実はこのラダックでも昨年大洪水があり、1,000戸以上の家が流されたの。それはそれは凄い雨で怖かった」という。

 「その洪水が世界のどこかで誰かが行っている環境破壊のせいだということを私たちは知っている。そしてその報いが私たちの街にやってきたことを残念に思う」と言い、その上で「でもね、私たちはその状況を『Positive(積極的)』に受け止め、与えられた『Opportunity(機会)』と捉え、『Improve(向上)』していかなければならないと思うの」と少しはにかみながら、しかし全くよどみなく言ってのけた。

 これには本当に驚いた。勿論彼女の言葉は年長者からの受け売りに違いない。それであっても、未知の外国人に向かってしっかりと話し相手を見据えて堂々と述べる姿勢、その澄んだ瞳、そして何よりもその内容は、震災後の日本人が忘れてしまっていた何かを的確に表現しているように思えた。

どんな時も笑顔の少女たち

▲どんな時も笑顔の少女たち

 実際ラダックの郊外には昨年の集中豪雨で家を失った人々が1年経ってもテント生活を強いられていた。勿論程度の差こそあれ、日本で被災した人々と同様か、それ以上に過酷な自然環境の中、政府の支援も十分ではなく、それでも何かを信じて、日々を送っていた。

 この尼僧院も1階はほぼ浸水し、2階も屋根が壊されるなど、一部建物は倒壊していた。しかし資金が乏しいため、修復はままならず、また冬季は作業も出来ないため、翌夏にようやく工事が行われていた。このひと冬、8歳の少女はどんな体験をしたのか、それを思えば、先ほどの言葉の重みが倍加する。

 修復作業は専門の大工がやって来て行っているが、尼僧達も時間があれば重い建材を運ぶなど、自らの復興を自らの手で行っている姿勢にも共鳴した。特にリーダーで一番の年長者であるパルモ師自身が率先して重労働を担う姿は、聖職者というより、一人の人間として、素晴らしいと感じる。作業が終わるとご褒美としてパンが配られ、皆が楽しそうにおしゃべりしながら食べている。何も作業をしなかった筆者の所にもあの8歳の子はパンを差し出した。本当に、本当に、恥ずかしい思いで、そのパンを少しずつ、少しずつかじった。