アジアから見る日中

第11回

日本人に見る諦観

香港人は占いが好き

▲香港人は占いが好き

 今年で阪神淡路大震災からちょうど20年が経った。当時香港に駐在していた筆者はたまたま一時帰国で実家のあった栃木にいたのだが、朝からテレビで煙が上がる風景だけが映し出されており、一体何が起こったのか、皆目見当もつかない状況だった。香港の勤務先では実家が関西にある人を中心に電話を掛け続けたが、海外からは丸一日、全く通じなかったと後で聞いた。大災害というのは、すぐには状況が掴めない、すぐに事態が分からない時ほど、被害が大きいことをこの時初めて体験した。

 香港に戻ると香港の友人たちからお悔やみの言葉を沢山もらった。と同時に顔を覗き込むようにして「日本人は何故これほどの大災害があったのに、まだその地に住み続けようとするのか? どうしてこれだけの経済大国の国民が海外へ脱出しようとしないのか?」と問われたのには正直驚いたし、それに対する明確な回答を持ち合わせておらず、狼狽えた。

地震のほぼ無い香港 摩天楼は聳える

◀地震のほぼ無い香港 摩天楼は聳える

 当時香港は中国への返還直前で、空前の移住ラッシュ。勤務先の支店でも何人かの部下たちがカナダへ旅立っていったのをよく覚えている。まるで今日の香港のあり様を予想したかのように、ものすごい数の移住希望者がいたので、我々に移住を問うことも至極自然な状況であったとは言える。ただ「お前はどうして揺れるかもしれない地面に頭を付けて寝られるのか?」と親しい友人に真顔で聞かれた時には、「慣れているから」というあまりにも陳腐な答えが空しかった。アジアを放浪している今では当人が思う。「東京で寝ていると週に何度かは揺れを感じるのに、皆さん怖くはないのだろうか?」と。

 この質問を大学関係者、企業関係者、親戚など、様々な人々にぶつけてみたが、なかなかこれは、という答えは見出せなかった。そして数年が過ぎたある日、読んでいた本にあった「諦観」という言葉に行きつく。辞書によれば「悟りあきらめること。超然とした態度をとること」となっており、島国に住む日本人には「逃げる場所などなく、悟り、そして超然としているしかないのだ」という理解で概ね納得し、その後はこの質問が出ると「日本には諦観という言葉がある」と説明するようになっていた。

タイの高僧に話を聞く

▲タイの高僧に話を聞く

 そして今から10年ほど前、インドに20年住んでインド哲学などを深く学んだという同窓生に出会った。インドや仏教について、様々な話をする中で、この「諦観」という言葉を持ち出すと、彼はゆっくりと「もう一度辞書をよく見たらどうですか?」と言ってくれた。そして今回仏教系の大谷大学の先生が以下のように述べていることを発見した。

 今日本語で「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般だ。しかし「諦観(たい(てい)かん)」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語の satya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。そうであれば、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、という思考のプロセスをそこに見出せる。単に「あきらめる」だけであれば、悔い、怨み、愚痴が残る。ものごとの道理が明らかになった上でのことならば、納得しての「諦らめ」となる。(引用元

 そう、古来日本人の自然災害に対する諦観とは、「諦めて超然としている」のではなく、「自分の願望が達成されない理由を明らかにし、納得して断念する思考のプロセス」を持っているようである。日本人個々人は既に宗教心を失っている人が多い中、DNAに刻み込まれているものがあるのだろうか。実は筆者個人としてはやや意訳ながらも「絶望の中に新たな光を見出す」という意味も持っているのではないか、それが日本人の自然災害と向き合う原動力ではないか、と勝手に思っている。

インド聖地バラナシ ガンジスの夜明け

▲インド聖地バラナシ ガンジスの夜明け

 最近日本では自然災害が頻発している。これを何とか科学的に解明しよう、地震を予知しようという試みは続けられているが、最終的には「自然には勝てない」ということを皆知っているのではないか。かなり前にタイのプーケットなどで大津波があり、かなりの被害が出た時、友人のタイ人の奥さんが「それは仏罰だ。鳥インフルエンザという名目で生きた鶏を100万羽も生き埋めにすれば当然罰が下る」と何のためらいもなく言い放った。ミャンマーでも死者20万人と言われた大型サイクロンが来襲した際に、ミャンマー人はすかさず、「デモをしたお坊さんを300人も殺したら、こうなるのは当然」とメールしてきた。この2つの事例ともに直接的な因果関係は何ら見出せない。だが宗教の世界では当然のこと、と思われており、被害者が悪い訳ではない、天からの警告である、人間は警告を重く受け止めるべきだ、というように解釈していた。

 タイのお坊さんに言われた。「災害が起こったことは誠に不幸なことだが、それによって受けた被害を誰かのせいにして、「これまでと同様の生活をする」ことを主張しても、それは難しい。失ったものの内、物質的な物の一部は取り戻せるかもしれないが、精神的な物は戻らない、ということは分かっていることだから。「新たな光を見出す」こと、気持ちを立て直すことこそ、立ち上がり立ち直るきっかけではないか」と。そして「日本人にはその強さがあるのではないのか」と言われたが、いまだ半信半疑だ。

タイ チェンマイの寺 ゆるキャラ?

◀タイ チェンマイの寺 ゆるキャラ?

 そしてうちの死んだおばあちゃんなら「お天道様は何でもお見通しだ! 悪いことをしたら罰が当たるんだ」と言うに違いない。科学的根拠など何もないのだが、それが真理のような気がしてならない。

コラムニスト
須賀努
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。金融機関在職中に、上海語学留学1年、台湾地場金融機関への出向2年。香港駐在合計9年、北京駐在合計5年では合弁会社日本側代表。合計17年の駐在経験を有し、日経BP社主催『中国ビジネス基礎講座』でトータルコーディネーター兼講師を務める他、進出企業向けアドバイスを行う。日本及びアジア各地で『アジア最新情勢』に関する講演活動も行っている。 現在はアジア各地をほっつき歩いて見聞を広めるほか、亜細亜大学嘱託研究員、香港大学名誉導師にも任ぜられ、日本国内及びアジア各地の大学で学生向け講演活動も行っている。 時事通信社「金融財政ビジネス」、NHK「テレビで中国語テキストコラム」など中国を中心に東南アジアを広くカバーした独自の執筆活動にも取り組む。尚お茶をキーワードにした旅、「茶旅」を敢行し、その国、地域の経済・社会・文化・歴史などを独特の視点で読み解き、ビジネスへのヒントとしている。
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