梅蘭芳故居に掲げられた題額。揮毫は故鄧小平氏による とはいえ、話題作『梅蘭芳』は、公開後、大きな反響を呼び、テレビや新聞などのマスメディアでも大々的に報道された。新聞『新京報』は15ページに渡る特集を組み、『梅蘭芳』を昨年の中国映画における最優秀作品と評した。
 面白いのは、これらの高い関心度が生んだ副産物だ。映画では、梅蘭芳の住居として、庭付きの邸宅が登場する。そのセットの美しさもあって、では、この邸宅はどこにあったのかという話題に、メディアの関心が集った。
 因みに現在、梅蘭芳故居として保存・開放されているのは、晩年の梅蘭芳が住んだ邸宅。護国寺街9号にあり、梅蘭芳は1951年から1961年までの10年間をここで過ごした。この屋敷はもと、慶王府の敷地の一部であったもので、建物の歴史は清末の光緒年間に遡る。1986年より敷地の一部が梅蘭芳紀念館として開放され、2001年には先述のような抗日芸術家としての梅蘭芳の位置づけからか、西城区の愛国主義教育基地にも指定された。
 1000平米余りの面積をもつこの故居には、梅蘭芳の一生を解説するパネル、生前の梅蘭芳の舞台衣装などが展示されている。だが、そのパネルを注意深く観察すると分かるのは、梅蘭芳が活発な京劇の改革運動を繰り広げ、数千名に及ぶ海外からの客を接待し、その芸術的生涯の中で最も重要な12年間を送ったとされる住居の様子が、現在の梅蘭芳故居のそれと大分違っていることだ。そこに映っているのは、かつて無量大人胡同にあったといわれる、梅蘭芳のもう一つの故居だからである。
 12月22日付および12月26日付の『新京報』は、それまで無量大人胡同24号にあるとされていたこの故居が、実は無量大人胡同5号(後の紅星胡同11号)にあったこと、及びそれが2000年の「金宝街」整備プロジェクトで取り壊されたことを報道した。外交部の宿舎となっていたこの屋敷は、取り壊される直前まで、梅蘭芳が住んでいた当時の面影を留めていた。だが80年代には文化財のリストに登録されたこの屋敷も、「金宝街」整備プロジェクトが始まると、周囲の同じく保存状態の良い数々の四合院とともに、再開発の渦中へ投げ込まれる。当時開かれた公聴会ですべての文化財専門家が反対票を投じたにもかかわらず、期日が来ると、工事は予定通り開始されたのだった。
 同月27日、同紙は社説を発表し、「1920年代に梅蘭芳が住んでいた旧宅についてだが、取り壊されてから10年も経たないうちに、その位置をめぐって諸説入り乱れるようになった。文化の消失はあまりに早く唐突であると嘆かざるを得ない」と述べた。そして、デヴェロッパーが開発にあたり、専門家らの意見を全く無視したこと、および取り壊しの対象となる建物の歴史的性質を記録し、保存するという、最も基本的な義務さえ果たさなかったことを批判した。
 この記事を目にした筆者が、「よくぞ言ってくれた」と手を叩いたのはいうまでもない。開発プロジェクトにはもちろん政府も絡んでいる。すでに遅すぎるとはいえ、こういう意見が新聞で堂々と発表できるようになったことの意義は大きい。
 同じく舞台となった建物が関心を集めた例に、大ヒットドラマ『喬家大院』があるが、こちらは喬家の屋敷がその後一大観光地と化した。こういった経済効果を睨んでの「保護」でも構わない。「一度壊されれば同じ物は二度と建てられない」。大規模な取り壊しが行われた前門地区で、住民たちから何度も耳にしたこの言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。

 最後に、お正月ということで、嬉しい話題を一つ。前回のコラムで扱った可園の取り壊しプロジェクトに関して、昨年末、新しい消息が入った。12月前半の時点では、まだ入手できなかった情報であるため、前回の内容に反映できなかったことをお詫びしたい。
 北京の文化財保護に携わるNPO団体の最新の会報によると、11月25日、可園の所有主である外交部のスポークスマン、秦剛氏が記者会見の席で記者の質問に答えた。そのさい、北京市の重要文化財である可園に必要な修繕を加え、段階的に一般公開していくことを明言したという。文化財に関心をもつ様々な人々の呼びかけが功を奏したものと見られる。あとは、この措置が的確に実行され、修繕がきちんとした「復元」となることを祈るばかりだ。
「秘密の花園」がそのヴェールを捨て去る日が、心から待ち遠しい。