北京に798芸術区という場所があるのをご存知だろうか。2002年頃から、国営の軍需電子部品工場の跡地が芸術家や画廊が集まる前衛的なアート・スポットとして成長を始めたもので、その後、次第に商業的色合いを濃くし、現在は現代アートの鑑賞スポットとしてだけでなく、おしゃれや流行に敏感な若者のショッピングやデートの場、また映画やドラマのロケ地としても大人気だ。現在ヒット中の春節映画「非誠勿擾」でも、798芸術区内のカフェが男女のお見合い場所として登場する。

 ところが昨年秋からの金融危機の影響を受け、この798でも新たなテナントを募集する張り紙が増え、大手画廊のいくつかが撤退を予定しているとの噂がささやかれるようになった。

 だがそんな不景気の中、心励まされる風景も無いわけではない。798に入った最初の画廊として知られる北京東京芸術工程(BTAP)とその隣の喜喜画廊において、現在、日本人作家3人の作品がスペースを賑わわせているのだ。

 その内、今回はデザイナーの小阪淳さんと共に二人展『エントロピー』を開催したアーティスト、秋元珠江さんをご紹介したい。

 今回秋元さんの発表作品は、はっと眼を惹く巨大でカラフルな写真作品が中心。まずは様々な色の円形のゼリーが、化学物質の働きにより、時の経過につれて、同じ色へと変わっていく様子を写したもの。そこには、様々な個性を持った人々の群れが、次第に同じ色に染まっていく様子が重ねられている。

 また、自宅の前でシャボンの泡を撮影し、その泡に映り込む周囲の風景を写真にした「1ミクロン」シリーズもある。実は泡が七色になるのは、泡の膜が1ミクロンになった一瞬だけ。それより厚くても薄くても色は出ない。その一瞬をレンズは見事に捉えている。

「泡の発色と同じで、人にも絶妙なタイミングではっとし、はっきり物が見える時がある」と秋元さん。泡は小さいが、そこに風景が入り込む。泡を通じて、周りのものがいろんな角度から見えるのだ。「まるで人の見方と同じ。人の思い入れの強さには個人差があるが、泡の上でも、映るものは大小が違う。それは人の価値観の違いのよう」

 泡の写真は家の通路で撮った。だから、泡に映り込んでいるのも家の隣の身近な風景のはず。だが、泡の表面を見ると、どこが映っているのか分からないことも。「私たちは、近い世界のことでも、意外に分かっていないんです」(秋元さん)。

秋元珠江さん 一見、おしゃれに敏感な普通の日本人女性。だが、秋元さんは背景にディープな中国体験を持っている。2006年から2007年までの1年間、ポーラ美術振興財団の在外研究員として北京に滞在。その際、中国各地の民芸品を現代アートへと結びつけることに興味を抱いた。そこで、陝西省や雲南省、浙江省などの農村を次々と訪れ、各地の民間工芸の作家に多数の布人形を作ってもらうという実験的プロジェクトを展開。その経緯を秋元さんはこう語る。

「あの頃農村へ行ったのは、『実感』がほしかったから。中国の農村の世界は日本と全てが違う。思った通りにいったことは全然なく、思った通りだったことは、『思った通りじゃなかったこと』くらい」。

 言葉がほとんどしゃべれなかったため、まるで自分を「赤ちゃんのよう」だと感じた。「でも赤ちゃんは、シンプルに物を見ようとする。自分も一つのことを言うのにすごく苦労しているうち、かえって大事なことがクリアになった。それが、今の作品のテーマのクリアさにもつながっている」。

 実はゼリーを使った作品は、留学以前から手がけていたもの。「でも前は空理空論を語っているような気がしていた。中国での経験があったお陰で、自分の伝えたかったことにリアリティが出てきて、確信が持てるようになった。今後も確信のあるものを作りたい」(秋元さん)。

 五輪後も強気と予測されていた中国現代アート市場に、現在大きな翳りがさしていることは否めない。だが、ここ数年、国内外の資産家は中国の現代アートにかなりの投資を行った。自立して活動を行う若手芸術家が急増し、玉石混交とはいえ、その手からかなりの数の作品が誕生した。そのエネルギーは、日本の現代アート市場をも牽引し、かつ一部の日本人作家に新しい刺激と活力、そして活躍の場を与えたようだ。

 金融は危機でも、文化的、精神的な蓄えは、そう簡単に負に転じるものではないだろう。そして今、日中の芸術交流は、金銭の力を借りずに、その蓄えを増やしていくべき時期に入ったのかもしれない。