北京の胡同から

第36回

人形たちの祭典~四川省で国際人形劇フェスティバル開催

 まず、まったく個人的な事情から、長い間コラムをお休みしてしまったことをお詫び申し上げます。心新たに、再開させていただきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。【多田麻美】

パペットたちが海を越えて結集

 人形劇には、どうしても子供向け、というイメージが伴いがちだ。だが川本喜八郎やヤン・シュワンクマイケルの例を出すまでもなく、実際のところは、決してそうとは限らない。その理由の一つが、人形劇が扱うドラマの中には人間や社会への批判や風刺を伴うものが少なからずあること。むしろ妙に生々しすぎる人間のドラマより人形劇の方が、多種多様な人間のさまざまな生き様や物語を隠喩を込めつつも簡潔に表現していて、はっとさせられることがある。また、人形やその演技が極めて芸術的なものも少なくない。とりわけ欧米の人形劇の中には、視覚的要素やパフォーマンスの内容に現代美術や現代舞踊などの影響がみられ、手法の面で極めて斬新かつ野心的であるため、「人形劇」という枠では単純にくくり切れないものも多いようだ。

 実は今年の五月末、そんな人形劇の豊かさを改めて確認できる機会に恵まれた。成都で開催されたユネスコのNGO、国際人形劇連盟(UNIMA)による国際人形劇フェスティバル「UNIMA2012」に足を運ぶことができたからだ。オリンピックのように4年に1度、世界のどこかの都市で開催されるこのイベント。今回は21回目で、中国では初の開催となる。

名作のもつ力

 今回のフェスティバルでは成都市郊外にある国際非物質文化遺産博覧園がメイン会場となり、成都市内および南充市の数多くの劇場や学校も会場として利用された。パンフレットを見る限り、それらの空間で繰り広げられた世界46カ国の劇団による合計で100を越える演目には、芸術的意匠を凝らし、非常に魅力的に見えるものばかり。個人ではとても網羅できないのが極めて残念だったが、幸い筆者が拝見できた範囲にもすばらしい作品はいくつもあった。その一つが、泉州市木偶劇団による『欽差大臣』だ。

 まず印象的だったのは、選ばれた演目そのものだった。ストーリーは以下の通りだ。「自然災害の罹災者を救助するための資金を着服するなど、知県銭三の汚職が問題になっている地方に、庶民の姿に身をやつした欽差大臣が派遣されるとの知らせが入った。地元の役人やそれを取り囲む有力者たちは大慌て。ちょうどそこへ、遊蕩に明け暮れた挙句、一文なしになった金持ちのぼんぼん賈四が現れる。その体型から賈を欽差大臣だと勘違いした人々は、わいろを贈っては、あの手この手で賈を喜ばせようとする。最初は戸惑った賈四も、やがてこれ幸いと欽差大臣になりすまし、がっつり金儲け。しまいには銭三の娘との結婚まで手配されてしまうが、婚礼の日、本物の欽差大臣が登場。驚く銭三らを残し、偽物の賈四はどろんと姿をくらます……」

 時代こそ清朝に設定されているが、実はこの作品はゴーゴリの名作「検察官」を中国風に翻案したものだ。1920、30年代に中国の演劇界で人気を博し、人形劇としても最も著名な類に入るレパートリーになったとされている。ちなみにゴーゴリは、この作品を発表後、自国の政治家らに作品を酷評され、批判に耐えきれず出国したという。

 少なくても10以上、多い時では36もの糸を操るとされる泉州の人形劇。その細やかな演技のすばらしさ、生き生きとした人形たちの魅力もさることながら、やはりこの風刺劇に迫力を賦与していたのは、大震災の記憶がまだ生々しい成都という土地でこの演目が演じられたことだった。震災後の成都では、復興をめぐる汚職の問題はかなりセンシティブな話題であるはずだからだ。

 しかも、恐らくは演じ手たち自身も思いがけなかったことに、今年の5月中旬、つまりフェスティバル開幕の直前、成都からそう離れていない綿竹市富新鎮で大震災のインフラ建設資金や寄付金をめぐる巨額の横領があったことが暴露され、地元幹部3人が逮捕された。情報は錯綜しており、市政府の反論もあって、真相はまだ謎につつまれているが、どうも幹部に着服行為があった疑いは強いらしい。ちなみに綿竹市富新鎮は、校舎の手抜き工事により、震災時、大勢の児童が死亡したことでも知られている土地だ。

 ゴーゴリもあの世で驚くであろうこの偶然の巡り合わせを前に、筆者は古典的名作のもつ不思議な力、その時代を越える普遍性を感じ、身ぶるいに近いものを覚えた。

特殊な文脈の中で

 今回、やはり作品が中国で演じられることを意識した団体は多かったのだろう。上記の作品の他にも、現代中国という文脈の中に置くと格別の深みと味わいを増す内容の作品がいくつもあった。その一つが、オーストラリアのフォリー・ベルジェール劇団の独り劇「椅子」。女中と彼女が掃除をする椅子が突然入れ替わるなど、カフカ的な不条理を表現に取り入れた作品だが、やはり印象的だったのは、作中で表現されていた、主人にこき使われる女中の複雑な心理状態。地方出身者を家政婦として多数雇う中国の都市部では、強いリアリティを持たざるを得ない内容だが、かつてプロレタリア文学をあれほど尊んだお国柄だとは信じられないほど、現在の中国では取り上げられることが少ない。例外は今年公開された映画『桃姐』だが、これも上映時はテーマの新しさがかなり話題になった。
 そういった、ありふれていながら無視されてきた家政婦の境遇や心理を、海外のアーティストが、今現在の中国で、階級闘争の紋切り型の切り口ではなく、リアリティある演技とシュールな象徴性を交錯させる形で表現していたのが新鮮だった。しかも驚かされたのは、全編を通じてセリフが生の中国語で語られたこと。筆者の知る限り、海外の団体の作品では唯一だ。

 また同じオーストラリアのゲアリー・フリードマン・プロダクションが即興的に演じた演目は、夫そのものより夫の金銭を愛してきた妻が、夫の死を前に本性を剥き出しにする様を表現。伴奏には中国の古箏のシンプルな生演奏を取り入れ、物語を観客へと引き寄せていた。この他、幼き日のモーツァルトが置かれた特殊な教育環境を描いたイスラエルのアガディット劇団による「リトル・アマデウス」も、子供の教育に熱心でありながら、まだまだ詰め込み型に偏りがちな中国社会の傾向を合わせて考えると、興味深い内容だったといえる。

 これらがいずれも世界をまたにかけたアーティストによる普遍性をもった作品であることは疑いを入れない。だがそもそも児童を相手にすることが多い人形劇には、倫理・啓蒙的要素を抜きにして語れないものは多い。従って、これらの作品を、社会格差や金銭崇拝が著しく、その一方で新しい世代のために教育に創造性を取り入れようと努力を重ねている今現在の中国で観賞できたことは、もともと貴重な体験をより切実で印象的なものにしたのだった。

 一方、中国の新作人形劇で、唐の覇王別姫の物語と日中戦争中、および戦後の日中の戦争体験者の交流を一つの線でつなげる形で描いた陝西省民間芸術劇院による「中国からの三つの伝説」も、舞台の構成などに工夫を凝らした野心的な作品だった。作中の主人公の一人である老人は元日本兵で、戦時中、一人の少年を殺さざるを得なくなる。だが結局はぎりぎりのところで少年を逃がし、しかも戦後は謝罪の心を胸に中国を訪れ、その少年との友情を育てる。ある意味で典型的な日中友好美談だが、反日感情が比較的強いと聞いていた成都での上演だったこともあり、現地の人が「求めている」、あるいは「求められている」日本人観が表れているようで、興味深かった。

 その他の演目については詳しく書くときりがないが、筆者の観た範囲で横綱級を挙げると、やはりイタリアの劇団が演じた現代版「ピノキオ」、チェコの劇団による「ジャックと豆の木」はさすがと言える水準だった。いずれも世界に名だたる人形劇文化をもつ国の劇団で、その実力は本物だと思わずにはいられない。このほかにも、モンゴルやイスラム諸国などの個性的な人形劇を観賞することができ、まさに雲に乗って世界旅行をするような時間を過ごすことができた。

普及の難しさ

 実は中国ではさまざまな地方に特色ある人形劇が伝えられているが、北京オリンピックの開幕式を飾った泉州の操り人形をかろうじて例外としては、知名度はいずれも高いとはいえない。四川にも人形の巨大さで知られる「川北大木偶」と呼ばれている人形劇があるが、一般的な知名度はいまいちで、会場では成都の地元の人でさえ「えっ、四川にも人形劇があったの?」という反応を示しているのを目にした。

 もっともそれは理由のないことではない。各地の劇団の多くは定期的に公演を行う場をもたず、団体の予約を受けた貸切公演にのみ応じている。この場合、部外者がチケットを買うチャンスは乏しく、自分で十分な人数を集め、会場を用意して劇団を「呼ぶ」しかない。しかも多くの時間を地元以外での舞台に費やしている劇団も少なくなく、地元での普及に困難が伴うことは容易に想像されるのだ。京劇の公演のように観光客向けのショーと化し、客受けの良い演目の一幕やダイジェストを延々と繰り返すのも弊害は多いだろうが、個人の人形劇ファンが期待を胸に現地に向かっても、必ずしも観賞できるとは限らないのは、大変残念なことと言わざるを得ない。

 そういった現状があるからこそ、今回内陸の地方都市でここまでの国際的ビッグ・イベントが開けたことの意義はとても大きいといえる。そもそも世界に中国の人形劇の魅力を広く発信することは関係者らの長年の願いであったはず。実際、「最大のチャンス」を手にした中国の関係者の気合の入れようは明らかで、このたび中国内地や台湾から集まった人形劇団の数は36に上り、その中には福建省の泉州、漳州、晋江、広東省の潮安、湛江、江蘇省の揚州、貴州省石阡県の人形劇など、舞台を観賞できること自体が貴重な劇団も多数含まれていた。

献身的なボランティア

 実は四川入りする前、筆者はかなりの不安を抱いていた。国のメンツをかけた2008年の北京オリンピックの時でさえ、チケットでの販売にはかなりの混乱を伴っていたことから、地方都市で行われる国際イベントがどのようなオーガナイズで行われるかに、不信感が募ったからだ。その不安は的中し、会場が無数に分かれるなか、各国の劇団が繰り広げる人形劇を実際に希望通りに観賞しようとすると、かなりの困難に直面させられた。困難があったからこそ、順調に観劇できた時の感慨は深かったともいえるが、イベントのオーガナイズの面で、まだまだ課題が多いことはやはり特記しておきたい。

 ただ、これも北京オリンピックの時と同じく、大学生ボランティアの活躍には感心せざるを得なかった。数年前の大震災を思い出せば感慨はさらにひとしおだ。成都の市街地では地震の影響は少なかったといわれているが、大きな行政単位としての成都市の中には、被害の大きかった地域も含まれている。熱心な大学生ボランティアの中には、かの大震災で被害に遭ったり、ショックを受けたりした子もいるはず、などと考えると、観劇に到るまでのもろもろの苦労は忘れ、地元の文化振興に身を捧げる彼らに応援の声さえかけたくなった。実際、彼らの融通のきいた対応に助けられたことも少なくはない。

 ただ、唯一気の毒でならなかったのは、市街地の会場については、ボランティアの多くが一つの会場につきっきりとなったため、他の会場の舞台を見られなかったこと。学生たちにとって世界への目がより大きく開かれる貴重なチャンスだっただけに、何とも残念だ。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
関連記事