北京の胡同から

第15回

誰が精神病院へ送られたか・前編

 書くべきでありながら、書くことを怖れていた話題について、今回は敢えて書こうと思う。

 正直なところ、私は速報性が要となる政治・社会関連の時事ネタを扱うのは得意ではない。一瞬にしてある事件の「意味」や重要性が見抜けるほど博識ではないし、どこの国でもそうだと思うが、特に中国にいると、報道されていること、巷で語られていることと、事実との間のギャップがかなり大きいであろうことが、よりはっきりと予測されてしまう。

 しかし、自分で調べられることには限りがある、というのも、人間にとって普遍的な、そして中国では特に顕著な問題だ。だから、ある程度時間が経ち、情報も増えて「何かが見えてきた」ときにしか時事ネタに触れる勇気は出ない。

 だが、今回に限っては自分のすぐ身近で起きたことなので、不得手ゆえのばつの悪さを覚悟でご紹介したい。

 事件の発端は、著名な週刊誌『中国新聞週刊』の3月23日号の特集「誰が精神病院へ送られたか」の中で紹介された、孫東東教授のインタビュー記事だ。孫東東教授は北京大学司法鑑定室主任で、主に精神病学方面の司法鑑定に従事し、しばしばメディアにも登場する名の知れた専門家である。

 そもそも同誌の特集は、本人の同意や裁判を経ないまま無辜の人間を拘束できる「精神病院送り」という処置の在り方に疑問を投げかけたもの。導入部では、家族内の利害関係から、利益の独占を狙う母と兄の策略で強制的に精神病院に入れられたと思しき女性、鄒宜均について取り上げられている。

 その特集の後半で同誌は、鄒宜均のケースや、一部の陳情者が根拠の無いまま精神病患者扱いをされ、精神病院で拘束されているという最近の報道を踏まえつつ、前出の孫教授に以下のような質問を行った。その内容と孫教授の答えをここに引用したい。

 中国新聞週刊:(鄒宜均のような人々や、一部の陳情者も含めて)彼らは精神病のようには見えず、思考も明晰です。こういった人々を強制的に精神病院に送り込むのは、適切といえるでしょうか。

 孫東東:それは、皆さんが精神病について誤解しているからです。皆さんは、狂ったように暴れ騒ぎ、髪はぼさぼさで顔は垢だらけの人間だけが精神病だと思っているかもしれませんが、実際はかなり多くの精神病患者が、精神病の症状と無縁の時、他の点はみな正常なのです。ああいった長期に渡って頻繁に陳情を繰り返している人々について、私は責任を持ってこう断言できます。100%とは言わないが、少なくとも99%は精神的に問題があると――そのすべてが偏執性精神障害なのです。

 中国新聞週刊:その一部の人は強制的な処置が必要だということですか?

 孫東東:偏執性精神障害は、強制的な処置が必要なタイプの障害です。なぜなら、それは社会の秩序を乱すからです。ある自分の観点にこだわり、その観点には精神病による妄想が症状として表れます。その妄想される状態を実現させるため、家も仕事も捨て、すべての代価を惜しまず、陳情をするのです。彼ら偏執的に陳情を繰り返す人を調査してみればいい。彼らが申し立てている問題は、実際はすべて解決しているか、そもそも根っから存在していなかったものなのです。だが彼らはいつまでも騒ぎたて、どのように説明しても意味がない……(以下略)」

 根拠が極めて薄く、とても北京大教授とは思えない発言だが、中でも一番問題となったのは、「責任を持って」陳情を繰り返す者の「少なくとも99%は精神的に問題」があり、それらはすべて「偏執性精神障害」なのだという部分だ。

 しかもインタビューの最後で教授は、「彼らを病院送り」にして、治療と健康の回復をさせるのは、「彼らの人権を保障する」ことだ、とさえのたまっている。

 この発言に北京の陳情者たちが黙っているはずはない。日を追って、陳情仲間を誘って北京大へと抗議につめかけるようになり、4月7日火曜には、西門前での大規模なデモへと発展した。具体的な規模については様々な報道があるが、筆者が参加者から聞いた数は1000人、その翌日の水曜午前中にも、200人ほどが集まったという。その大半が公安に連行され、その数は累計600人に上るという噂もある。

 実は、規模こそ異なれ、中国では最近、こういった抗議デモがあちこちで発生している。ではなぜこの事件だけが、私にとってそこまで「身近」なのか。それは、仕事の貴重なパートナーとして本コラムにも多くの写真を提供してくれている我が中国人の相棒も、ある事情があって、この「長期に渡って頻繁に陳情を繰り返している人間」の一人だからだ。

 ネットで記事を見ながら「とすれば、僕も偏執性精神障害なのかな」と苦笑いする相棒。そんな彼に私は「あなたが正常に見えるから、二人そろって患者なのかも」と冗談で返すしかなかった。

 つまり今回は、同じデモでも内輪のデモに近かったといえる。だから、その呼びかけなども、相棒の知人から直接耳に入ってきた。半信半疑で様子を見に行った相棒は、時間がずれていたためにデモこそ逃したものの、警察が大勢押しかけ、デモ参加者を大量に「護送」するためのバスが何台か停まっているのを目にしたという。もちろん、間に合っていたら捕まっていたかもしれず、その場合はこんな文章を書くことも憚られたかもしれない。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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