北京の胡同から

第42回

消えゆく名将軍の庭

知られざる遺跡たち

 北京には、存在を指摘されなければ知らないまま過ごしてしまう、いくつもの神秘的で貴重な文化財がある。明清時代に建てられた建築物であっても、政府や軍の関係者によって占められていれば、非公開どころか、文化財関連の一般書籍からも抹殺されてしまうからだ。
 解放軍が北京入りした時に、質のよい四合院や洋館を「優先的に」占拠したことはよく知られている。その後、国の財政が潤ってくると、その多くがこれまた「優先的に」改築された。歴史ある建物や庭園などが、遠慮なく取り壊され、近代的なマンションやビルに生まれ変わった例も枚挙にいとまがない。
 だがこれらには例外もある。高官にあてがわれる屋敷となったり、学校や病院など、その中庭を有効活用できる施設になったりした場合だ。
 だが、そんな幸運に恵まれた屋敷でさえ、時として、都市空間の再編にともなう開発の波に、あっという間にさらわれてしまう。その最近の例が、金融街のど真ん中に取り残された、三人の名将軍の故居だ。

突然現れたタイムポケット

 北京の西城区、阜成門の南東に、旧城壁内の地区でありながら、金融や保険関係のオフィスが集まる一帯がある。もともとは胡同が広がる庶民的なエリアだったが、21世紀に入ってから金融街として大規模な再開発が進み、古い建物どころか多数の胡同までもが取り壊された。高層ビルが何の遠慮もなく林立する様子は、そこが以前と同じ場所だとはまるで思えないほど。その街並みのあまりの「記憶喪失ぶり」に、私の足も自ずと遠ざかっていた。

旧「武定侯胡同」。拡幅後、「胡同」を、より広い道を表す「街」へと改名。

▲旧「武定侯胡同」。拡幅後、「胡同」を、より広い道を表す「街」へと改名。

 だが、古い街の記憶はそう一気に「リセット」できるものでもないのだろう。昨年の夏、胡同通の知人の紹介でその一角を訪れると、何とコンクリートジャングルの谷間に、ぽっかりタイムポケットが開いたかのように、明清期の建物が残っていた。
 その場所の旧来の名は武定侯胡同。北側の23番地に朱元璋とともに明王朝の礎を築いた開国の功臣、武定侯郭英の屋敷があったことから命名された。もっとも、武定侯胡同の屋敷に郭英自身が住んだことはなく、その死後に子孫が代々住んだようだ。

明代の将軍、武定侯郭英の屋敷跡。周囲はすでに一面の摩天楼。

▲明代の将軍、武定侯郭英の屋敷跡。周囲はすでに一面の摩天楼。

タブー本を復刻

 郭英とは、朱元璋が王朝を築く前からその下で仕え、北京に都が定められると、ともに北京入りした将軍。武定侯として崇められ、明の建国後、功臣がつぎつぎと粛清されていった中でも、何とか命を保った。その子孫も権勢をほしいままにしたとされる。
 6代目の郭勲の代になると、文化的な面でも活躍し、各種の書籍を編集、刊行。その中には、『三国志演義』や『水滸伝』などの通俗文学や戯曲なども含まれる。中でも貴重なのは、郭勲がその権力と財力を頼みに復刻し、現在も「郭武定本」として広く知られている『水滸伝』だ。当時、『水滸伝』は禁書であったため、その復刻にはたいへんな勇気が必要であったに違いない。
 明代以来の配置や建築物を今も残すその屋敷は、大きく東西に分かれる。もと主一家が住んだ西半分と、東の庭園の西北部分は、軍人用の敷地となっていて、入ることができない。だが、住民の了解を得て、東側にあった一部を参観することができた。あずまやは、壁を付け足して「住居化」されていたものの、構造は古くからのもの。築山も明代のものだという。

郭英の屋敷跡。かつて主と僕の生活空間を仕切っていた垂花門。

▲郭英の屋敷跡。かつて主と僕の生活空間を仕切っていた垂花門。

郭英の屋敷跡に残る明代の庭園。壁を足し、あずまやを住居に。

▲郭英の屋敷跡に残る明代の庭園。壁を足し、あずまやを住居に。

同上。築山は明代のもの。

▲同上。築山は明代のもの。

次々と消える大将軍の庭

 それにしても、明代の庭園の建物越しに、金融街のピカピカの高層ビルを眺めるのは、なかなかシュールな光景だった。いわば、日本橋のオフィス街のど真ん中に、突然ぽっかりと室町時代の庭園が残っているようなものだ。
 だが、住民の話では、この古く類まれな歴史をもつ屋敷も、年末には取り壊されてしまうという。党幹部を家族にもつという別の住民も、「すでに孤立した建物で、風水もずたずたに破壊されてしまっているから、残しておいても意味はない」と語った。確かに、周囲の環境とのあまりの落差から、私もこの屋敷を残すのはかなり難しいだろうと思わずにいられなかった。かりに建物や庭を生かして超高級レストランを開いたとしても、一帯の地価からして、金の延べ棒をステーキにでもしない限り、採算はとれそうにない。
 そこで今年の正月、心配になって訪ねてみると、まだ屋敷はかろうじて残っており、ほっと胸をなでおろした。
 だが楽観はできない。実は武定侯胡同のすぐ北隣にあり、やはり風前の灯となっている大乗胡同には、馮玉祥や蒋介石の下で戦った将軍、宋哲元が住んでいたという屋敷がある。先回訪れたときはまだ残っていたその寓居跡に、この時はすでに取り壊しのメスが入っており、武定侯の屋敷跡の余生もそう長くはないものと思われる。
 ちなみに、この宋哲元とは、抗日に身を捧げる勇気をもち、赫々たる戦果も上げたものの、盧溝橋事件後は、両軍を一時的な停戦に持ち込むほど日中の和平のために尽力したといわれている将軍。結果的には、自軍の兵士の抗日意識の強さや日本軍の好戦的態度から、戦争は再開。宋も蒋介石の説得に応じ、抗日戦を戦ったが、敗戦を重ねたため、国内の批判にさらされ、不遇の晩年を過ごした。その生涯はふたたび日中の間できな臭い匂いがただよう今、哀愁を帯び、どこか暗示的だ。

『炎黄春秋』の蕭克にもゆかり

 武人は武人を尊び、文人は文人を慕うもの。ここ一帯が解放後も軍の関係者の家で占められ、それゆえこれまで奇跡的に残ってきた、という事実に気付くと、私は改めてその思いを強くする。
 実は大乗胡同沿いには、2008年にその生涯を終えるまで、武定侯郭英と同じく、やはり「開国の功臣」である蕭克将軍が住んでいた。解放後は国防部副部長などの要職につき、軍人教育の責任者として活躍した蕭克だが、大躍進や文化大革命の時期には、不当な批判にさらされ、辛酸をなめたといわれている。そんな経験もあってか、蕭克は晩年、改革派、護憲派の雑誌『炎黄春秋』を強力にバックアップ。中国の現代史において不当に罪を着せられた者たちの名誉回復に力を尽くした。蕭克はまた、戦後の中国が犯した政策上の誤りを公の場で果敢に指摘した人でもあり、まさに学識のある将軍を表す「儒将」という名にふさわしい。
 ちなみに、今年初頭、広州の週刊新聞『南方週末』の無断改ざんへの抗議が巻き起こした一連の反動的処置の中で、護憲を主張に掲げる『炎黄春秋』もそのサイトが閲覧不可に。だが時の主席、習近平の父親である亡き習仲勲が『炎黄春秋』を良い雑誌だと称え、揮毫していたことが注目されると、サイトは再開された。私はその瞬間、この勢いで、蕭克の故居一帯も保護されれば、と願ってやまなかった。

老宅は消え去るのみ

 思えば、郭英将軍も、開国直後の王朝につきものの、すさまじい地位争いと粛清の波を切り抜けて余生を全うし、その子孫は、不当な禁書扱いを被っていた名著『水滸伝』の名誉を回復させ、その命脈をつなげた。そんな郭英と蕭克将軍の屋敷が隣り合っていることには、運命の不思議な偶然を感ぜざるを得ない。日本との停戦交渉に挑んだ宋哲元も、国のために身を削り、タブーも厭わなかったという点では、決して二人に劣らない。
 だが、私の深い関心をよそに、名将たちの屋敷の門は、固く冷たく閉ざされたまま。二度目の訪問の際は、人影さえ見当たらなかった。
 数百年の時を乗り超えて形を留めながらも、戦災も天災もない時代に、何の注目も集めぬまま、ひっそりと消えてゆく明代の屋敷たち。タイムポケットはやがて固く閉じられ、次に訪れる時は、その位置さえ確認しがたくなっているのかもしれない。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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