北京の胡同から

第45回

清らかな流れと巨大な臼──復活した製紙の里

 毎日大量に使われ、大量に破棄されている紙。だが言うまでもなく、その製造技術は長い歴史と人々の多大な努力を経て発達してきた。電子書籍も流行し始めてはいるけれども、まだまだ私たちが紙から得ている情報は多い。
 ごく小さな村だが、中国にもそんな紙作りの伝統を長閑な農村風景を味わいながら参観できる場所がある。貴州省貴陽の郊外にある、香紙溝という一帯だ。

自然豊かなユートピア

 ここずっと北京の大気汚染をめぐる話題が大きく取りざたされている。北京の空気は汚いが、でもそれは北京が首都の大都市だから。地方都市ならまだましで、ましてや緑の山々に覆われた貴州省なら、ずっとましだろう、と多くの方は思われるかもしれない。だが、昨年秋に訪れた時の貴陽の大気の状態は、同じ時期の北京以上に悪いように感じられた。盆地なので、京都のように、空気が入れ換わりにくい傾向にある上、山が多く、鉄道の開通が難しいため、人の移動は基本的にバスや自動車に頼らざるを得ない。その証拠に、貴陽のバスターミナルは、私がこれまで目にしたものの中では、もっとも行き先が細分化された、究極のハブ・ターミナルだった。
 だが、さすがは貴州だ。貴陽から東北へ35キロほど走っただけで、そこはもう別世界。古い製紙の里、香紙溝に至ると、「山清水秀(山は緑豊かで水は清らか)」という表現にぴったりの、絵に描いたような田園風景が広がっていた。村の農婦たちによると、香紙溝ではプイ族と漢族の集落が入り混じっており、すぐ向かいに見える集落でも、文化や言葉を異にしているという。
 ちなみに、公共交通機関の本数が限られているため、村に入るには、途中からバイクタクシーなどに頼らねばならない。宿はないため、ゆっくりと流れる村の時間を満喫するには、朝、早めに出発する必要があった。

紙作りの工房の様子、下は水車になっている

▲紙作りの工房の様子、下は水車になっている

技術を伝えて600年

 いざ、村人の運転するオートバイの後ろに乗り、製紙工房が集まる白水河の一帯へ。入口付近では、紙を漉く日本でもおなじみの作業が、壁のない、簡素な建物の下で行われていた。パルプは黄土色。この地で豊富に産出される竹を原材料に使っているためだ。40世帯余りが住むというこの村では、中国で最古のタイプの製紙技術をそのまま伝えているのだった。

紙を漉く職人たち

▲紙を漉く職人たち

 中国で最初に製紙技術を完成させた人物としては、蔡倫が知られている。蔡倫は西暦105年、後漢の和帝に樹皮や麻や布などを漉いて作った紙を献上した。この白水河、そして同じく香紙溝風景区内にある湘子溝、上下隴脚、葫蘆衝といった村では、今でもその時代と変わらない製紙技術を600年余りにわたって受け継いでいるという。
 するとここで疑問が生じる。蔡倫が製紙技術を完成させたのは紀元2世紀だ。では、なぜ村の製紙の歴史は600年なのか?
 そもそも蔡倫は現在の湖南省にあたる湘地方の人間だった。だが明の朱元璋が越の汪公の部隊を、湖南を経由して貴州に駐屯させると、大量の湖南人たちがここに移り住むことになったという。彼らはこの地が製紙に向いていることに気づくと、故郷で蔡倫の時代から伝えられていた製紙技術をこの地で生かし始めた。それはまずは、戦死した者たちを弔う祭祀に使う紙製品を作るためであり、また新たな地で生計を立てるためでもあった。この地で生まれる紙は仄かな芳香を放っていたことから、その紙は「香紙」と呼ばれるようになった。村人たちの故郷に因んで、今でも製紙を行う村の一つは湘子(紙)溝と呼ばれている。恐らくはこれがなまって、音の近い香紙溝という地名が生まれたのだろう。

さじ加減も経験が頼り

 この地の紙作りの大きな特徴は、自然の恵みを大きく受けながら作られることだろう。その恵みに応えるように、原材料も環境への負荷が少ない竹に頼っている。製造の過程でも、日光に晒し、雨水で湿らすなど、自然の力に大きく依存。しかも材料の計量化などはされず、作業のいっさいを人の経験に頼っているという。

パルプを作るための臼。下には水車がある。

▲パルプを作るための臼。下には水車がある。

 少し歩くと、水に浸けておいた竹を砕く、巨大な臼がグルグルと回っていた。動力は、川の水を引き込んでめぐる水車だ。傍では職人が絶えず臼の中身を調整している。簡単に見えるが、根気が必要な作業だろう。臼も水車も、それ自体が貴重な文化財だった。さらに奥に進むと、別の工房でも紙作りが行われていた。

パルプを水に溶かし、漉く準備をしている職人

▲パルプを水に溶かし、漉く準備をしている職人

 因みにこれだけ大々的に公開されてはいても、核心の技術は秘伝の技として保護されているため、門外不出。写真撮影が禁じられている場所もあった。女性は家を出て外に嫁いでいく、という意識が今以上に強かった昔は、秘伝の技は男性にしか継承が許されなかったという。驚くべきは、一見、太古から続いているような営みだが、実際には近年までの100年ほど、ほとんど途絶えた経緯があるということ。その間どのように技を伝えたのかは不明だが、100年間放置されていた設備をふたたび稼働させるだけでも、並々ならぬ努力が注がれたことだろう。
 もう少し先へと進むと、「6人の子どもを育てた」という75歳の老婦人が漉き終わった紙の山の処理をしていた。圧力をかけて平らにし、四方を切った後、数枚ごとにまとめて乾かす。1953年に建てられたという古い農家の一部が干場となっていた。

紙を干している風景

▲紙を干している風景

紙を切るための巨大な刃

▲紙を切るための巨大な刃

 完成された紙をみると、古風で素朴な趣こそあるが、結構肌理が粗い。現在でもおもに伝統的な祭祀で紙銭などを作るのに使われている、というのはうなずけた。

畑の真ん中に水洗トイレ

 白水河は全体的にいえば、中国の多くの農村と同じで、老人と赤ん坊と女性が目立つ閑散とした村。製紙に携わっている男性数人も、中年以上ばかりだった。だが、古い山村の文化からか、あるいは聖なる紙の製造に携わっているからか、村民たちは驚くほど素朴で人が良い。方言の壁が厚く、残念ながらほとんど言葉は通じなかったが、カメラマンも私もあちこちで村民たちに歓待され、「ご飯でも食べていけ」と強く勧められた。道を尋ねただけなのに、「お茶でも飲んでいけ」と強く勧めてくれた老人もいた。

村人たちは農業や畜産を兼業

▲写真7 村人たちは農業や畜産を兼業

 一方で、観光地としての整備もかなり進んでいて、公共のごみ箱などもあちこちに設置されていた。一番驚いたのは、畑と山に囲まれた、人よりアヒルの姿の方が目立つ場所に、きれいな公共の水洗トイレがあったこと。日本では驚くほどではないが、中国の農村ではトイレはまだ汲み取り式が主流。地方政府のテコ入れで、町を挙げての観光開発をした歴史都市であっても、トイレは極めて原始的ということは多い。原始的でもきれいにしてあればいいが、それさえおぼつかないこともある。
 さらによく観察すると、民家の集まる場所には、汚水を処理する設備まであった。紙の里なのだから川の水の質にこだわるのは当然だが、同時に、澄み渡った水は貴重な観光資源にもなる。実際、筆者自身も村を流れる川の水の清らかさにはかなり癒された。村をつなぐ道はハイキングコースとして整備されていて、近くには、滝が流れる景勝地や再建された寺などもあるということだった。

観光と保護のバランス

 訪れたのが11月中旬の平日だったので、観光シーズンにどれくらい賑わうのかは分からず、しかも筆者が回ったのは広い香紙溝の一部だけに過ぎない。またネット上では、現在村に残る紙の製造文化を「実際は清代からのものだ」とし、蔡倫の残した伝統と結びつけることは観光開発のための「でっちあげ」だと批判する文章も目にした。香紙溝の製紙文化は、継承が断絶した時期もあるため、確かに歴史的な面はさらなる考証が必要なのかもしれない。だが、古びた臼や水車の存在からも、一帯に古くから伝わる製紙文化があったことは確かだろう。そして少なくとも筆者の目には、香紙溝は無形と有形の文化遺産の保護と適度な展示、そして自然豊かなハイキング・スポットが無理なく観光開発に組み込まれている場所であるように映った。バイクタクシーが若干高かった以外、村人たちからの強引な販売行為などは皆無。村人たちの大半はまったく観光すれしていなかったばかりか、そもそも観光業にはまるで依存していないようだった。
 自然環境や村の気風など、守るべきものは守り、でも伝えるべき文化と歴史は復元し、公開していく。今後どうなっていくかは未知数だが、無形文化遺産の保護をめぐる、理想的なバランスを見た思いだった。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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