以前、北京の都市計画の研究に携わっていた友人が、北京のミニチュア模型を見下ろしながら、いろいろと説明してくれたことがある。
「これらの高すぎるビルの上層階を削って、この一帯に伝統的な景観を取り戻せば…」
 あくまで計画段階のもので、計画自体も、無法な乱開発ではなく、伝統的景観の保護のためのものだったが、ミニチュアの上で身ぶり手ぶり、都市をどう改造していくべきかを説明する様子に、私はつい「神の手」という言葉を思い浮かべた。
 確かに、そうなのだ。財政状況や戦乱なども影響するとはいえ、国の独裁制が強固であればあるほど、いわゆる為政者らの定める都市計画は忠実に計画通りに実現されやすい。つまり、独裁者の意向は神の手となって、都市の様相を変えていく。もちろん、弱者の権利を守り、民衆に本当の意味での利益をもたらす都市計画が採用されるとは限らないものの。
 そして慈禧太后、つまり世界中にその名を轟かせた西太后は、絶大な権力を握った最後の独裁者であると同時に、他者との協議を経ずに、自在に都市の改造を実施し得た、帝政期の中国における最後の実力者だった。帝王の気質を表す北京の「竜脈」が断ち切られることへの彼女の恐れが、清末期の鉄道の敷設計画に大きな影響を与えたことは広く知られている。

西洋化の実験場

 中国の近代化を阻害した、頑固な保守派。日中を問わず、西太后にはどうしても、そんなイメージがつきまとう。だが、八カ国連合軍の北京への侵入に驚かされて命からがら西安に逃げる、という経験には、さすがに彼女も学ぶものがあったのだろう。国内で日々募る不満を解消するためにも、留学帰りの女官などを通じて西洋文化の知識を仕入れ、一連の「新政」と呼ばれる政策を打ち出したといわれる。つまり、彼女は独裁者として、北京の都市の近代化の端緒を切り開いた人物でもあった。
 新政の内容には、各省での学校の設立、科挙試験の廃止、商工業の発展の奨励、道路の拡張を含むインフラの整備などの措置が含まれた。その北京での最初の対象地域は前門より南の南城地区。中でも当時、香廠とよばれた一帯に重点が置かれた。
 この香廠という地名は、その昔、お香やろうそくなどの工房があったことに由来するという説がある。もっとも、その名に反して清末当時、香廠路はとても臭い場所だったらしい。昔の北京には、南の城郭に囲まれたエリアについて、「空き地にはため池を作っておく」という風習があり、くぼ地であったこの一帯にもため池や水路があった。その水は革のなめし工や染物屋などによって共同で使用され、池の周りは皮革の干場に利用された。夏になると、どうもそれらの革が耐え難い悪臭を放ったものらしい。

北京のブロードウェイ?

 西太后の晩年の試みは、その死後も引き継がれ、宣統三年(1911年)には、政府の警察部門、公益部門、商業部門が協力して会社を設立、香廠の再開発を行った。その結果、道が作られ、水路や池が埋められ、店舗が建設された。その計画は、辛亥革命を経て成立した民国政府にとっても好ましいものだったのだろう。民国期もそのまま引き継がれ、大々的に実施されたようだ。

香廠路にある仁和医院跡とされる建物

▲香廠路にある仁和医院跡とされる建物

 その成果の一つが、香廠路と万明路の交差点に、上海大世界をまねて建てられた四階建ての「新世界商場」。竣工は1919年で、劇場、映画館、講談や弾き語りの会場、雑技館といった娯楽施設から、買い物や食事のできるエリアまで擁する、いわば総合娯楽ショッピングセンター。当時はかなり先進的だったエレベーターや屋上ガーデンがあり、扇風機やストーブも備えられていた。(参考文献:張復合編著『図説北京近代建築史』清華大学出版社)
 もっとも激動の時代、娯楽場といえども、政治的要素からは逃れられなかったようだ。山東半島の中国返還を認めないパリ講和条約への反感から起こった「五四運動」の際、有名な革命家でジャーナリストでもあった陳独秀はここで「外は国権を争い、内は国賊を懲らしめよう」と訴えた「北京市民宣言」を撒き、逮捕された。また戦中日本の憲兵はこの地下に水牢を設けたという。だが、新中国が成立すると、学校、病院、役所などへと次々と「変身」した後、1980年代に取り壊された。

1918年竣工。元の名は平康里。妓楼となる予定だったが、間もなく住宅地になり、名も華康里に変更

▲1918年竣工。元の名は平康里。妓楼となる予定だったが、間もなく住宅地になり、名も華康里に変更。

 当時の果敢なチャレンジの痕跡は、目に見える形でも残っている。1918年に古刹万明寺の跡に建てられた東方飯店は、北京初の近代風民営ホテルとして、多くの有名人と縁を結んだ。北京大の学長だった蔡元培がソ連の代表団を接待したのもここなら、文人魯迅が著名な「劉和珍君を記念する」などの文章を記したのもここ。ちなみにここは、中国で初めて、各部屋に電話を設置したホテルでもあった。大規模な増改築を経て、4つ星ホテルとして活躍中の今も、1918年当時の建物については、構造やベランダの手すり、階段など、当時のままのものが残っている。
 また、「泰安里」と命名された住宅区に一歩入ると、道の両側に西洋風のマンションが聳え、上海の旧日本人租界の集合住宅に似た空間が広がっている。民国期の香廠は、電気と水道といった近代的なインフラが整備された、高級住宅地でもあった。

北京では珍しい上海里弄式建築、泰安里の一角。昨年から住民の立ち退きが進行

▲北京では珍しい上海里弄式建築、泰安里の一角。昨年から住民の立ち退きが進行。

中国人自身による西洋化

 実は、こんな香廠の歴史を知った時、私は、深い感慨を覚えた。
 北京には、清末から民国期にかけて建てられた民用の西洋建築がいくつもある。だが私はそれまで、そのほとんどが、欧米諸国や日本が中国を侵略した時期に、押しつけられるようにして建てられたものだと思っていた。もちろん、それらには病院や学校、教会など、いわば「公益」のための施設も少なくない。だが動機こそ公益のためではあれ、それらはいずれも、海外から来た人々の意向で建てられたもの、当時の一般の中国人にとっての建物の西洋化とは、せいぜい個人の住居や商店のファサードを欧風にする程度だったのではないか、と思っていたのだ。
 だが実際には、中国にも中国人自身が計画と開発を手掛けた、近代的な商業、居住エリアが存在したのだった。陳独秀がここでビラをまいた理由は、決してここが人の集まる繁華な地区だったからだけではないだろう。陳独秀は満州族の建てた清王朝の文化に反感を覚えていた。当時の香廠は、旧社会の香りが薄く、自力で近代化の道を歩もうとしていた当時の中国にとっては、シンボル的な場所だったに違いない。
 歴史に「もしも」は許されない。だが香廠の繁栄に思いを馳せる時、つい、「もし当時の中国が、外国の侵略を免れ、そのまま順調に近代化、民主化の道を歩んでいたらどうなっていたか」と思わずにはいられない。そしてそれは昨今、多くの中国の知識人たちが口にする問題でもある。