北京の胡同から

第51回

歴史を変えた名妓、賽金花と小鳳仙

 政治と文化の街である北京に関しては、どうしてもお堅くかしこまったイメージが先行しがちだ。だがもちろん、多種多様な人々のあくなき欲望に支えられてきた一面もあり、多くの大都市の例にもれず、その繁栄と爛熟の裏側に、さまざまな闇をも抱えてきた。
 前門を代表する繁華街、大柵欄をずっと西に行くと、道端の店はどんどんと庶民的だがどこかひなびた、猥雑な味を増していく。時代を若干遡るようにして、観音街を過ぎ、安旅館が目立つ一帯に出ると、そこはかつての北京最大の色町、「八大胡同」の一角だ。

老北京最大の遊郭街

 その名の「八大」を具体的に八本の胡同にあてはめ、八大胡同の範囲を確定しようとする人は多い。だが、むしろ八は代表的ないくつかの胡同を包括した概数で、ただ縁起とゴロが良いので八としているだけ、という解釈もある。数字が苦手な筆者も、どちらかといえばそちらに賛成だ。
 この八大胡同の一帯を全部歩き通そうとすれば、範囲はあいまいで、けっこう時間も体力も必要。だが、もし一カ所を選ぶとしたら、やはり欠かせないのは、伝説の妓女、賽金花や小鳳仙とゆかりの深い陝西巷だろう。ここはまた、高級妓楼が集まっていた場所でもあった。

現在の陝西巷

◀現在の陝西巷

 そもそもインテリの相手をすることも多かった妓女には、詩や音楽、書画などに長けた者も少なくなく、特に清の中期までに関しては、その文化的素養は一定のレベルに保たれていた。だが、やはり妓女は妓女。中国の長い歴史を通じ、日陰の存在であり続けてきたことは否めない。特に清の後期から民国期にかけては、きちんとした教養を具えた妓女が減ったこともあって、その全体的な地位はますます低くなっていった
 だがそんな中にあって、今も北京の人々の心の中に、誰もが否定できない圧倒的な存在感とある種の畏敬の念を残し続けている二人の妓女がいる。それが賽金花と小鳳仙だ。

知性派の妓女、賽金花

 いかにも伝説の妓女らしく、生年や生地に諸説ある賽金花だが、1864年から1872年までの間に生まれ、蘇州で育ったというのが定説だ。1872年生まれ説に従えば、13歳の頃、半玉、「清倌」として遊船の上で働いていたところを、34歳年上のエリート外交官、洪鈞に見染められ、その妾となった。洪鈞がロシア、ドイツ、オーストリア、オランダの4カ国の全権大使になると、賽金花は洪鈞夫人の名目で洪鈞に付き添い、ヨーロッパを歴遊。才知に富んだ女性として、ファースト・レディ並みの社交性を発揮したといわれる。そもそも洪鈞も、科挙を首席で合格した才子だったが、賽金花もそれに負けじとばかり、ベルリンに滞在した4年間の間にドイツ語をマスター。帰国後、洪鈞とは死別するが、1900年の義和団事件の際、ドイツ公使、ケットレルが殺されると、賽金花は驚きの外交手腕を発揮する。当時、ケットレル夫人は、夫の死に憤慨し、皇帝や皇后の謝罪まで要求していたが、それは到底無理な話だった。そこで、賽金花は流暢なドイツ語で夫人をなだめ、ケットレルの記念碑が建てることを提案。その内容はやがて条約に組み込まれた。また、偶然のいきさつで8ヵ国連合軍の司令官だったドイツ人、ワルデルゼーとも近づきになり、連合軍が北京市民に危害を加えるのを防いだとされる。こういった功績により、賽金花は北京市民の暗黙の支持を得ることになった。

名妓、舞台に復活

 賽金花のこのようなドラマチックで数奇な人生については、戯曲作家、夏衍の作品や清末の曾樸の傑作小説「孽海花」などを媒介にして、人々の間に広まった。救国の女傑としてのイメージが広がったらしい。もっとも賽金花の生前にブームとなった「孽海花」は、かなり脚色の多い小説だとされている。例えば作中では、欧州時代の賽金花を、浮名を流した社交界の花として描いているが、そもそも賽金花は纏足をしており、社交界に不可欠のダンスさえろくに踊れなかった。
 もっともその晩年、賽金花の人生はふたたび脚光を浴びた。詩人で北京大学教授でもあった劉半農とその学生が、彼女に取材して、「賽金花本事」を書いたことがきっかけだった。この作品で賽金花は、西太后と「一朝一野」の形で並列されている。その実際の政治力はともかく、賽金花が人々の心の中に残した印象は確かに西太后に負けぬほど男勝りのものだったのかもしれない。
 そして賽金花をめぐる伝説は今もさまざまな形で受け継がれている。2012年に至っては、賽金花の人生を描いた舞台劇「風華絶代」の全国公演も実施。奇しくも、主演はかつて西太后を演じた名優、劉暁慶だった。

ハラハラの脱出劇

 一方、義和団事件の年に生まれた、賽金花より1、2世代下の小鳳仙は、まさに人情を重んじた勇敢な献身によって、歴史を変えた女性だった。その来歴には諸説あり、真実を探るのは難しいが、出身が浙江省銭塘で、文化的素養が高く、歌や詩や絵画に長けた、多芸な女性であったことは確からしい。小鳳仙と蔡鍔の物語は、賽金花たちと比べ、より典型的なロマンスだといえる。30歳そこそこの蔡鍔がまだ十代だった小鳳仙に一目ぼれし、小鳳仙もまた、革命の大業に身を捧げる蔡鍔に惹かれ、彼を命がけで助けたからだ。
 中華民国の成立後間もなく、雲南都督に任命された軍人蔡鍔は、清廉さで信望を集めていた。本来は袁世凱派だった蔡鍔だが、袁世凱が帝政の復活を試みはじめると、共和制をめざす梁啓超らと関係が近かったがために、袁の警戒の的に。やがて袁世凱は蔡鍔を北京に呼び、実質上の軟禁状態にする。まだ30歳だった蔡鍔は、この時小鳳仙と出会い、深い仲となったのだった。

陝西巷に残る雲吉班跡。小鳳仙と蔡鍔が出会った場所とされる

◀陝西巷に残る雲吉班跡。小鳳仙と蔡鍔が出会った場所とされる

 だが時代は二人に何とも残酷だった。袁世凱の魔の手を逃れるため、蔡鍔は日本への亡命を余儀なくされる。亡命の前夜、蔡鍔は雲吉班の小鳳仙の元へ向かって助けを求めた。愛する蔡のため、小鳳仙は命がけの一策を講じる。ちょうどその日は、別の妓女の誕生日だったため、小鳳仙は、祝いの宴会を装い、わざと窓を開け放つと、蔡鍔の服や帽子を目立つように掛けた。蔡鍔が派手な酒色の宴に耽っている風を装うためだ。そして、宴会の賑わいに紛れて蔡鍔を外に連れ出すと、見張りの目をごまかしつつ、北京駅へと送り届けたのだった。だが、この脱出劇には次のようなバージョンもある。その日は、雪が降っていた。そこで、小鳳仙は蔡鍔を連れて意気揚々と門を出ると、「雪の中で咲く梅」を観賞するために、郊外へ出かけると言い放つ。馬車で八大胡同を駆け抜けた二人は、郊外へ向かう風を装った。だが実際は、北京駅を過ぎる辺りで二人は馬車から跳び下り、天津行きの列車に飛び乗った…。(肖復興『八大胡同捌章』より)。
 いずれもあまりにドラマチックなので、若干の脚色はあるかもしれない。だが、少なくとも以下のことは確かなようだ。一つは、当時の蔡鍔が陥っていた境地を思うと、彼は確かに小鳳仙の助けなしには北京を脱出できなかったであろうこと。そして、二人が陝西巷、あるいは天津行きの列車の中で、相手の今後を心配し、断腸の思いで別れを惜しんだに違いないことだ。
 日本に渡った蔡鍔は、その後さらに雲南へと戻り、護国軍を組織して、ついに袁世凱の討伐を果たした。もっとも、その後体調を崩し、日本の福岡での治療中に、満33歳の若さで亡くなっている。昔の女性は早熟であることを強いられたとはいえ、当時、小鳳仙は若干16歳。まだ多感だったであろう彼女の心に、蔡鍔の死の知らせはいかに重く響いたことか。
 一人のうら若い妓女が、袁世凱の帝政復活の夢に大きな打撃を与え、歴史を塗り替えたのだった。その事実を知った人々は、小鳳仙を英雄として称えた。小鳳仙の生涯は、その生前からさまざまな映画やドラマで取り上げられ、その数は戦前戦後、香港、大陸を合わせれば20本近くに上る。若い二人の清純で美しい悲恋物語は、その一つ一つを通じて、今もなお、人々の心に深く刻まれていっているようだ。

かろうじて残る妓楼跡

 新たな脚色を経て、脱皮し、伝説となっていく名妓たち。だが、彼女たちが拠点とした陝西巷の一帯を歩いても、色町だった時代の艶っぽい繁栄ぶりは、なかなか想像できない。あくまで、細くこじんまりとした通りに、商店や床屋、住居、食堂などが集まるのみ。もっとも、下町の味わいはたっぷりで。前門などの開発が進み、物価も高くなっているなか、安心こそあまりできないが、安価で手軽な食べ物や商品を売る店が並ぶ、色あせて、いかにも所帯じみた街となっている。
 それでももう少し何かあるはずだ、と資料を睨みながら、陝西巷の途中から、横町というより狭い通路に近い楡樹巷に入ると、願いは報われた。賽金花が開いた悦香院の跡を見つけたからだ。瀟洒な造りの、周囲と比べると、際立って凝った造りの建物で、ボロボロではあったが、何かオーラのようなものを放っていた。心痛んだのは、民家と化している現在、政府がこれを保護している痕跡はほとんどなく、壊れたパーツが壊れた順に撤去されている状態だったこと。それでも、残っていた装飾などからは、ドイツ帰りの賽金花が、この建物に巧みに、かつこだわりを持って西欧の要素をとり入れていたことが伝わって来た。

悦香院跡の一部。美しいアーチつきドアに、かつての華やかさの名残が。

◀悦香院跡の一部。美しいアーチつきドアに、かつての華やかさの名残が。

 賽金花や女郎たちが歩いたに違いない回廊へと上がり、柱の装飾を見つけ、それらが残すある種の「香り」に、100%意識を集中させる。すると、昔の華やかな面影が脳裏にうっすらと像を結んだ。だが、実際に行き来している住民のほとんどはかなりの高齢者ばかり。あるおばあさんに質問をしてみたが、いくら声を張り上げても、耳が聞こえない様子だった。さらに高齢の男性と階段ですれ違った時は、二人分の体重で、すでにボロボロの状態となっている床板が抜けないか、心配でならなかった。

媚薬を売った店

 ふたたび陝西巷に戻ると、今度は蔡鍔が袁世凱によって軟禁状態にあった頃、小鳳仙と初めて出会ったといわれる建物へ。資料によると、小鳳仙が属していた雲吉班のあった場所であり、やはり花園を含むいくつもの中庭があって、とても奥の深い建物であるらしい。だが残念ながら、現在、その門は固く閉ざされている。やがて、近くに、「上林仙館」の名が彫られた建物を見つけた。「上林仙館」も、雲吉班の入っていた建物のはずだ。幸い、そこは、欄干なども美しく修復され、ホテルの形で人々を受け入れていた。もっとも、宿泊客でないただの散歩人である私は、奥へは立ち入り禁止。入口から眺めるしかなく、やや悔しい思いをすることに。

今はホテルと化したかつての妓楼「上林春(又の名を上林仙館)」跡

▲今はホテルと化したかつての妓楼「上林春(又の名を上林仙館)」跡

 もっとも、そこまで悔しがる必要はないのかもしれなかった。胡同の商業利用が進むなかで、いろいろと「似非遺跡」が登場している北京。油断がならないのは、かなり信憑性のある文化財の専門書でさえここを高級妓楼の「上林仙館」跡だとしているのにもかかわらず、この上林仙館跡を、「妓楼でも何でもなかった」と指摘する住民がいることだ。
 その住民によれば、現在、上林仙館跡とされている場所は、以前は薬局だったとのこと。その売りは「二薬一紙」。二薬とは、媚薬と麝香だ。媚薬の用途は言うまでもないが、麝香は堕胎に使われた薬らしい。一紙は、「冥紙」と呼ばれたもので、妓女たちが客と別れた後、自らを慰めるために焼いた紙のこと。
 それはある意味で、きれいに改修されたまゆつば物の上林仙館跡以上に、妓女たちの生きざまをぐっと身近に感じさせる証言だった。

コラムニスト
多田 麻美
フリーのライター、翻訳者。1973年静岡県出身。京都大学で中国文学を専攻後、北京外国語大学のロシア語学科に留学。16年半の北京生活を経て、2018年よりロシアのイルクーツクへ。中国やロシアの文化・芸術関係の記事やラジオでのレポートなどを手がける。著書に『老北京の胡同』(晶文社)、『映画と歩む、新世紀の中国』(晶文社)、『中国 古鎮をめぐり、老街をあるく』(亜紀書房)、訳著に王軍著『北京再造』(集広舎)、劉一達著、『乾隆帝の幻玉』(中央公論新社刊)など。共著には『北京探訪』(愛育社)、『北京を知るための52章』(明石書店)など。
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